goo blog サービス終了のお知らせ 

ちょこぷりん??

はじのブログです。
ぷららBroach(ブログサービス)より引っ越しました。
宜しくお願いいたします。

消防団の方へ

2016-10-23 07:02:12 | 中越地震の記憶

今日10月23日は新潟県中越地震のメモリアルデーとなってます。
様々なイベントとともに、当時の状況が思い起こされ語られるでしょう。
しかし、末端に置かれた消防団に起きたトラブルなんかはあまり表に出ることはありません。中には意図的にそうしてる部分もあったりします。
なんでひとつふたつ、自分の備忘録も兼ねて載せたいと思います。文章は大雑把で曖昧に。まあ、大したことじゃないのですけどね。

今回はそんな内のひとつを。

町内消防団の詰め所にて。一人の男性が駆け込んできました。
なんでも、その男性の弟が他所でバイクに乗っていたところ、徒歩以外通行止めの箇所に差し掛かり、そこで警備についてる消防団に止められたそう。バイクを置いて徒歩なら通行可との指示に渋々従ったが、面白くなかったのでしょう。その弟さんの話を聞いた男性がなぜかウチらの元へクレーム入れに来たのです。
始めはこちらもやんわりとした感じでやりとりが始まりました。徒歩以外は通すなと指示があれば、2次災害防止のためにも、当然うちらは従うしかないわけです。などと、説明をするのですが聞く耳持たず。
あげく、
「お前らにそんな権利があるんか!!」
とくれば
「当たり前だ!!状況考えろや!!」
てな具合。
誰かさんはとうとうキレちゃいました。
終いには、
「警察行って聞いてくるぞ」
「おう、警察でもどこでも行きやがれ!!」
となり、バカ野郎が本当に行きやがりました(^_^;)

さて、そうなると一気に話は大きくなります。
警察でそのバカがどんな話をしたかは知りませんが、警察は消防団にそんな権利はない、と表明したそうです。
そうなると黙ってられないのは消防団上層部。活動内容の根元を揺るがしかねない。今度は彼らが警察に駆け込み抗議することに。

結果は変わらなかったと聞いています。
しかし、私たち消防関係者は警察がどうこう言おうが、東京消防庁があーだこーだ言おうが(それはまた別のお話)、現場において、人命を守る、2次災害を防ぐために活動しなければなりません。
バイクを置いてかせた消防団員の行動を今でも支持してますし、同じ局面に遭遇したら自分もそうするつもりです。また、この話を聞いた多くの消防団員からも賛同を頂いております。
後始末なんて幹部(今じゃオイラも含めて?)がやればいいんです。消防団員の皆さんは、自信を持って任務にのぞみましょう。

昨年某おまつりで、ケチつけたいだけのクレーマーじじぃのお相手を延々と…キレなかったぜp(^-^)q


あれから3年

2007-10-23 18:59:16 | 中越地震の記憶
ありきたりのタイトルだけれど。
 
夕闇迫る空。
報道のヘリが行ったり来たりしている。
あれ以来、空を見上げることが多くなった。
ブルーな気持ちとかそんなんじゃなく、恐怖を根元にしたトラウマだと思う。
『地震の前触れは空に現れる』
案の定、この7月にも異常な空を目撃し、次の日大騒ぎしていたらほんとに大地震(中越沖)。

さて、この日にあわせてネタを公開する準備はしてきましたが、内容的にあえて日をずらそうかなと思います。
中には、ちょっと公表していいものなのか、悩んでいるものもありますし。
会社ネタなんて言いやすいんですけど、『うわ、ひっでぇ~』と常人なら思う内容なので、こんな日はやっぱり避けた方がいいんでしょうね。

妙見開通

2007-03-24 23:12:34 | 中越地震の記憶
中越地震で大きく崩れ、その象徴ともなっている妙見の県道が今日開通いたしました。
3人の親子が飲み込まれ、奇跡的に男の子が救出された現場です。

『中越地震の記憶』で語ろうと思っていたのですが、なかなかそちらのアップが迷いもあり進みませんので、今回当時のエピソードの一つを。

地震発生後、わが町内は、公会堂脇の広場をキャンプ地(大げさ?)にして、避難される方を受け入れていました。
で翌日頃でしょうか?夜火をたき(時間的感覚が麻痺しているので、何時頃かさっぱりわからない。)みなで興奮さめやらぬところへ、リュックを背負った二人の男性が訪れました。
なんでも、小出から歩いて来たんだとか。
男性の妻と子供が、長岡からもどるはずだったが、まだ連絡が取れないとのこと。
皆事故などの不安はよぎったが、妙見の惨事など知るよしもない。
きっと子供もいる事だし、車は通れないのでどこかの避難所に避難しているのではないかといい、町場の大きな避難所に行ってみてはどうかという話になった。
後々にテレビで放送された『中越地震の記録』という番組では、たしか体育館の避難所のシーンだかでこのお母さんが呼び出されていたので、二人がこの後向かったのは確かと思われる。
だから、妙見のことを知ると「あ、あの時の父ちゃんとじいちゃんの…!?」と正直ショックでした。
あの方達にとって、あの数日間は我々以上に長く感じたかも知れませんね。

さて、災害ネタ(?)のついでと言っては軽率かも知れませんが、今夜町場の通り沿いで建物火災がありました。
見た目ほぼ全焼にもかかわらず、幸いにも周囲の建物への類焼はそれほど無いように見受けられました。暗くて良くはわかりませんでしたが。
何はともあれ、皆様、火の用心はおこたりなきようお願いいたします…。



消防団活動開始

2006-10-22 13:32:01 | 中越地震の記憶
メモリアル・デーが明日って事で、『中越地震の記憶』を久々にアップしておきます。

地震発生後、しばらくすると、器具舎のある公会堂に人が集まりはじめた。
一応町内の避難所に指定されているのだ。
村を見渡す限り、あたりに火の気が無く安心していたが、山の向こうが明るい。
赤い光は、明らかに火事による物と思えた。
近所で、当日、まさにその火事現場の目の前にいたと言うのがいる。
怖かったそうだ。あげく帰っては来れないし…

公会堂裏の運動広場に、ブルーシート等を使って巨大なテントを作ることになった。
その道のプロが大勢いるので、作業はどんどん進んでいく。

それに伴って、消防の方でも担当区域の被害状況を確かめつつ、ここに避難所を作っていることを広報すべく、積載を走らせることになった。
そして、そこで地震後初めて、携帯の着信音がなる。
茨城の友人からだった。茂木へ仕事で行っていたが、サーキットでもかなり揺れたとのこと。
今だから思うのは、レース中じゃなくて良かったと言うこと。
そこで初めて震度を聞いた。改めて愕然となると共に、携帯が通じたうれしさがこみ上げてくる。
思わず一人だけ安否確認の電話をかける。
ほっとしたところでいよいよ出動が待っていた…

陥没箇所をチェックしながら、町内を回る。
すでに、あちらこちらで、人は集団を作り家から避難していた。
そこで車を止め、避難所を作っていることを伝え、また怪我人の有無を聞いた。
夕食準備どきだったため、油をかぶったという人が数人いた。
後ほど、積載などで病院へ運んだりしたそうだ。

国道では、行き場が無く、未だ右往左往し、さまよう車が何台かいた。
そういうのをつかまえては、先の状況を聞く。
国道17号線の温泉前の道路では、地面の亀裂から湯気が上がっていた。
その近くに県警が到着。仮の道路を造りながら進んでいるようで、一所懸命段差を乗り越えようとしていた。
でもそこは…
「あの、ちょっともどると側道が生きてますので、そちらまわられた方が早いと思いますよ」
面白くなかったのか、早く言えよと思ったのか知りませんが、だいぶムス~っとしてました(^^;)
でもあれ?トンネルは通れるの??
疑問に思いましたが、危険回避のため一般車両は止めていたのかも知れません。

人々が集まっているところでは、こちらの赤色灯を見るや、さながらゾンビ映画のようにぞろぞろと集まってきて、逆に他の状況を聞かれた。
残念ながら、自分たちも全く状況を知らないと、心苦しく答えその場を去る。
おそらくこの光景も忘れられないと思う。

この広報で、村からでる唯一のルートが1本生きているのがわかった。
国道17号の段差をなんとか越え、先ほど言った側道から津山町を通り、山寺方面へ向かうのだ。
下の村へ行くには、そのルートを通って東の町を迂回しなければならなかった。

この間どれほどの時間が経過していたのか、すでに定かではありません。
他の出来事も後ほど書き足していきますが、それが何回目の巡回の時なのか、何日目の事なのか、記憶が薄れる以上に、当時の記憶の混乱が大きく影響していると思います。
ちびりちびりと、小出しにして行ければと思ってはいます…

ルート探索(10/25?)

2006-05-09 21:17:08 | 中越地震の記憶
地震発生から2度目の朝を迎えた(頃かな?)。
この日、ウチらの消防団にも本署への招集がかけられた。
いや、地元もままならないのに、わざわざあそこまで来いってどゆこと??
なんでも、浦柄が河川の氾濫で孤立しているため、歩いて救助に向かうんだそうだ。
「え?自衛隊だかのヘリが行くんじゃないの??」
「ウチらが歩いて行くのはムリだろ!?」
とりあえず本署に集められるだけの人数が集められた。
整列し、毅然とするが、一同みな『?』
「本部の連中がアピールしたいだけだ」
そんな声も聞こえる。
案の定、集まっただけで、ヘリが向かったとの情報が伝えられ解散。
何人かの待機組を残して皆村へもどる。

もどったところで、本部に残った人から連絡が入る。
『川口との境、通行止めの箇所を緊急車両が迂回するルートを車が通れるか調べてきてくれ』
仕方なく、お袋の後輪の空気が少ないへろへろ原チャで、一人向かうことに。
この時点でこの行動が本来危険であることには気づいていない。
自分が向かうのが、震源付近だなんて、全く理解もしていなかった…

山道は壊れているが、普通の車両なら何とか通れそうだ。
途中たどり着いた集落は、つぶれた建物あり、墓石は土下の道路まで転がっている。
道を尋ねた人に、「早くあそこの道を回復させてくれ、そうすればかみ(ここらでいう上流、南)の方へ行き来が出来る」といわれた。
しかし、川口の地名や、そもそも自分の今いるところがどこかすらわからないのだから、ただ頷いて、あとで本部に伝えておくとしか言えない。
しかも、携帯がずっと圏外なのだ。
それは、国道へもどってからもだった。通行止めの箇所まで行って、警察の人と少し話したのち帰路につく。

(画像サイズ222kb) 

もちろん迷って東山方面へ向かったなんて、ココには書かない(^^;)
途中でわかったけど、どこまで行けるのかって思ってね。
大きな段差を、砂利だかで斜面を作ってやっとこ車がおりてきている所まで行った。
ここまでだなと、ひきかえした。
村へもどってようやく本部と連絡が付く。
途中で言われたことも一応伝えた。
この探索が果たして役に立ったのか…謎である(-_-)

もどった足で、会社にも行ってみた。
やっぱり誰もいなかった。
途中通過した街の光景は、テレビ等でさんざん伝えられているが、それは視覚だけ。
全く普段と、空気の臭いからが違っていた…

器具舎へ (10/23)

2006-05-01 23:13:51 | 中越地震の記憶
外に出ると、近所の人達も、ぞろぞろと集まりだしてきた。
姿の見えない人のウチへは、一応大声で呼びかけてみる。
斜め前の、年寄りだけのウチは、無事が確認できた。
道を挟んだ、一人暮らしの家は応答がない。どうやら、兄弟の家に向かったらしいとの情報が。
ウチはと言えば、弟との連絡が付かない。
そんな中でも、原に響くズッガーンという爆音。おもわず腰を落とす。
状況がほぼ把握できず、皆不安感を募らせる。

一段落し、近所の消防団OBはやめた方がいいと言ったが、万が一に備えて積載車をいつでも出せるようにしておかなくては。
とりあえず一人器具舎へ。当然誰も来ていない。いや、来れないだろうと何となく理解できていた。
それでもやらねば…
ところが!
ここもシャッターが壊れて開かない。
出せないじゃん。どうしよ~(@△@)
しょうがないので、応援が来るまで家の前にもどることに。

親と、なんにしてもこのまま外にはいられないから、車を出そうと言う話になった。
しかし!
車という車が、全て車庫の中で移動し、シャッターを押しているために、中へはいることすら出来ない。
シャッターとしばらくの格闘の後、ようやくムリヤリ軽ワゴンを出すことに成功。
なんとか夜は越せそうだ。

少しして、ヨッチさんが来た。
一緒に器具舎へ行くと、さらに2人来ていて、シャッターをめくりあげているところだった。
で、どたばたとやって、なんとか積載車を外に出すことに成功。
あとは火のでないことを祈るだけでした…

平成16年10月23日午後5時56分

2006-05-01 21:49:24 | 中越地震の記憶
この日は仕事が休みで、1日体調が優れず部屋でごろごろしていました。
先日からの風邪が原因です。
無性に、先日鈴鹿へ一緒に行った人が持っていたキャンプ道具が欲しくなり、買いに行こうとしたのですが、頭も重く外出する気になれず。
ネットや友人とメールをやりとりしたりして、過ごしていました。
その相手も、神戸の方だけに、このような自体に大変驚かれたことと思います。
この後、突然返事が途絶えたわけですしね。

夕方、晩ご飯を食べに1階へ下りる。
ちょうど、親父は無性にぷりんが外へ出たがったため、連れて出ていた。
動物は野生の本能で、すでに危険を察知していたのかも知れない。
おふくろはまだ夕食の準備中で、オラは茶の間におかず等を運んでいる最中でした。テーブルに焼き魚をおいて、台所へ向かったその時…
ゴオオオオォォォォ 
思わず響いてくる音に床を見つめた次の瞬間。
ズッゴオオンン
爆音を思わせるような音とともに、縦揺れが来ました。正直その瞬間は、北朝鮮でも攻めてきたのかと思ったくらいです。
で、次に横揺れ。
グォワングォワン、グォワングォワン…
とっさに柱にしがみつく。
家の中のものがどんどん崩れ吹っ飛ぶ。

1発目の揺れが収まり、しばし呆然とする。
 
地震??
我に返り台所のおふくろを呼ぶ。
「だいじょぶか?」
何とか大丈夫そうだが、いっこうに出てくる気配はない。
前の道路では、怖がるぷりんを抱ききょとんとしている親父が見える。
台所へ入ろうと手を伸ばした瞬間、2発目が来た。
ゴーン
ドッガンドッガン、ドッガンドッガン…
先ほど同様柱にしがみつき、台所のドアの上を見ると、柱と壁に隙間が見えるほど、激しく踊っている。
『やばい!』
揺れが収まると同時に、おふくろに「また来るぞ!中はやばい!」と叫ぶ。
すると「うごかんねぇ~」とか細い声が。
脳裏によぎるのは食器棚や冷蔵庫の下敷きになった姿。
あわてて台所の戸を開け、中へ駆け込むと、意外にも棚類は斜めだったり移動はしていたりするが、とりあえず突っ立っている。当然中身は散乱しているが、じゃあおふくろは…呆然とだが水盤にしがみつき、ちゃんと立っている。
「早来いや!」と言うと、「行かんねぇ~」と泣きそうな声。
どうやら腰を抜かしたのか、足がすくんでいるのか、どちらにしても怪我は無いようである。
仕方なくおふくろの所まで道をあけながらたどり着き、手を引いて外へ逃げる。

外で見ていた親父の談では、そこらの家という家が踊っていたとのこと。また、あのまま家の中にいたらガレキの下敷きになっていただろうと、ぷりんに感謝している。

幸いかな、ガスも元がすぐ落ち、火はでなかった。村を見渡しても、火の気が上がっている様子はない。
これが大地震であることが認識できてから、すぐに思い浮かんだのは、阪神のあの火災の光景でした。そして、これほど出火が無くて済んだのも、阪神の教訓があったおかげです。

そして外は暗さを増していった…

平成16年10月21日 (プロローグ?)

2006-05-01 19:05:38 | 中越地震の記憶
10月21日、台風23号の影響による大雨で、信濃川が増水。
消防団に出動要請がかかりました。
とは言っても、オイラが呼ばれたのは夕方ちかくになってから。町内の河川ではなく、隣の部の管轄である旭橋付近の警戒のためだという。

実際被害を受けている町内の信濃川沿いの田園地域より、近くに人家のある町場優先なのでありました。
ここから先に水が来たら、土嚢積むからと、波打ち際とにらめっこ。

すごいと思ったのは、最大水位が計算され、十日町が何時にむかえたから小千谷は何時と予想されており、実際ほぼその通りだったこと。

次第に水は引き、はれてお役後免に。
しかし、夕方陽も暮れる頃にはずいぶんと冷え込み、数日前からの風邪にこの出動が追い打ちに
まさかこれが、後日の伏線になろうとは…

結局これによる被害を受けたのは、ウチらの町内の田畑等、お役人には関心の薄い部分のみとなったようです。
事実、この週の小千谷新聞には、当市の被害は『無し』とありました。
これを見た親父は怒った怒った。
「植えたばかりの野菜、みんな流されたんだぞ!」
他にも、用水路は砂で埋まり、よその田んぼなんてあぜを破壊され水の通り道になっていたり、流木等のゴミがのこったりと、その洪水の傷跡は明らかでした。
まあ、この新聞にそんな期待しちゃダメだってヾ(^^;)と、とりあえずなだめてみたり。

中越地震の記憶

2006-04-28 00:08:10 | 中越地震の記憶
ホームページの方の中越地震の記憶の更新を、こちらでとりあえず進めていこうかと思っています。
あくまでも記憶ですので、曖昧な部分、若干の記憶違い等あるかも知れませんが、大目に見てください。
何せ、当時の誰もがそうであったように、時間的感覚からがおかしくなっていました。
また、こちらで使用する写真は、トップに記載してある『携帯写真』ではありません。
さらにお断りとして、現場はマスコミ等で語られている美談だけではないので、不快に思われる内容もあるかも知れません。
前述の通り、時間的感覚の麻痺により、話も前後すると思われます。
そこら辺はご了承下さい。