今回は、前回の投稿で予告していました伊那市高遠町に鎮座する“物部守屋神社”の紹介です。
物部守屋神社は、国道152号線沿いにありますが鳥居が木々に隠れているので夏場だと素通りしてしまいがちです。我々が訪れた際も結局この前を素通りしてしまい気づけば杖突峠でした。
物部守屋神社鳥居 均整の取れた石製明神鳥居です。
扁額には「従六位物部連比良麿謹書」とあります。
阿吽の狛犬(クリックして拡大)
ここから神域となります。鳥居をくぐると空気がガラッと変わるのを実感できます。
左右に一対の石灯籠
灯籠の脇には「社宮司」の文字 反対側の灯籠には「山王」の文字 明治四十五年に合祀された際に建立されたようです。
昼なお暗き参道を進みます。
石段を登りきると拝殿があります。
拝殿の内部には、中央に祭壇 神輿蔵がありました。
更に裏手から石段を登ります。
切妻の茅葺き屋根が趣のあるこちらの建物が本殿になります。
石段から振り返ったところ
茅葺きの建物は覆屋で、内部に本殿のお社があります。
ちなみにこちらは、前回訪れた時撮影した同じ御本殿のお社です。チラッと見えている御札には「◯遷宮 守屋」と読めます。再訪時には鳥居や扉などがきれいに修復されていました。
実は、このお社の直下には興味深いものがあります。
それは…。
こちらは前回同じ場所を撮影したものですがこの時は、ただの石かと思っていました。
ですが…。
なんでしょう…!?
なに?これ?ん~~~~!?
石室のような石組みの囲いの中になんだか怪しい「石」が置いてありました。再訪時は朝から雨模様だったので石の表面が濡れ奇妙な紋様が浮かびあがっていました。御本殿のある直下なのでやはり曰くありげです。
以前投稿した鎮大神社の社宮司社には御神体として彫刻が施された石棒が祀られていましたが、東日本で多く見られる社宮司社には、やはり石棒や男根石、立石状の自然石を祀るところが多いと聞きます。
もともとの土着神でもあったミシャグチを奉る物部守屋神社(かつて、ここは「守矢社」と、呼ばれていたようです。)は、合祀される以前は前回の投稿で紹介した「立石」を御神体として祭り崇めていたのではないかと思っています。
大きな石碑には「御岳山」とあります。
本殿裏手は幾多もの祠や石塔などが立ち並んでいました。
更に守屋山へと続く山麓には石製のお社が数箇所確認できました。(写真中央)位置的に旧社地であったものと思われます。
ちなみに守屋山頂上には、奥宮が鎮座しています。
物部守屋神社奥宮 (撮影:2002-07)
祭祀:物部守屋大連大神
(撮影日:2004-11・2014-08)
【マップ】
【考察】
諏訪には、以前から気になっていた伝承があります。 諏訪に入ろうとするタケミナカタ神に、先住の洩(守)矢神は「カナワ(金輪)」を武器に対抗したが敗れた。侵入神タケミナカタの得物は、なぜか「藤枝」であったという伝承です。
この話の双方が手にした得物の内「カナワ」は金属製であったと推定できるし、守矢氏の 神宝とされるサナギの鈴もその場にあったのではと脳裏を掠めます。
得物が「金輪」と「藤枝」とでは、圧倒的に金属製と思われる「金輪」が有利と思われるのですが、なぜか洩(守)矢神側が破れてしまいます。現在もこの伝承については、識者がいろいろな説を唱えていますが確証までには至っていない様です。
諏訪地方は物部守屋大連の所領だったと宝治元年(1247)の『大祝信重解状』にあるそうです。これは、諏訪地方において物部守屋は守屋山に物部守屋神社を建て奉るほどの重要人物だったということになります。
タケミナカタの神は出雲から物部氏(大和朝廷)に警護されて、諏訪入りし諏訪の守屋氏と戦い大勝を果たしました。
タケミナカタの神は、この地で軍神としての地位を得て諏訪の地に鎮まることを大和朝廷が了承します。
このときに、間に立ち諏訪の地元神であった「洩(守)矢の神」と守屋氏が諏訪地方においてそして大和朝廷の中での地位なども有利に導いたのが、物部守屋だったのではないかと推測しています。
諏訪の神(守屋氏)は、完膚なきまでにタケミナカタ神に打ち破られたところを、物部守屋により助命されそしてタケミナカタへの恭順の証に、毎年人身御供として一番 大事な宝、守屋氏の血を引く大祝をさしだす事となったのでは無いでしょうか。
もちろん、その代償は大きく守屋氏は諏訪においての神長官の地位を不動のものとし、 又、大和朝廷においてもその地位を確立していったのだと思うのです。
コメントありがとうございます。
写真の掲載は、問題ありませんがリンク先がgooのトップページになっている様ですので、出来ればこの記事のURLにリンクを貼っていただけると助かります。
守屋(洩矢)神は、いろいろな識者が研究されておられますが、今もなお他では類を見ない独特の祭祀形態があったりと、興味は尽きません。