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Cafe Ruby@South Australia

http://www.geocities.co.jp/ruby1422jp/
海の外で暮らしてみたら・・・

環境が変わるということは

2006-03-05 | 日本:海外
朝、寒くて、ごみ捨てに行かれない毎日が
続いています
2003年はカナダに続いて、2004、2005年は沖縄。そして、今、都会に近いところにいます。場所を転々としていると考えること、それは、前の場所と比べてしまうことです。
日本からカナダに行った時に学んだことは、自己防衛、もちろん助けて欲しい時には助けてくれますが、基本的には自分のことは自分で。これで私はかなり鍛えられた(はず)。なんか聞いても聞いた以外のことは決して教えてくれないし、初めはなんて冷たいって思ったこともありました。日本人はそんはそんなことない!親切に教えてくれるぞ!って叫んだこともありました。
そして、今度は沖縄に行くと、20キロくらいでのんびり走る車の後について走るのができなくて、文句ばかりいってた、東京はこんな運転している人いないぞって
でも考えてみると比べる物があるから比べているけど、他を知らなければそれが当たり前なんですよね。そう思うと腹も立たなくなりました。こうしてその土地に慣れていくんだなあとも思いました。
沖縄には本当にたくさんの友達ができて、しかもその友達はみんな心をオープンにすると嬉しいくらいに気持ちを受け入れてくれて
私にとっての心のふるさとは第一が両親の田舎がある岡山県で、第二が沖縄、第三がカナダ バンクーバーです。たくさんのふるさとがあるので、帰りたいところもどんどん増えてきています。
知らない土地になじむことはたいへんですが、なじむと今度はその場所がよかったり。まだまだ旅が続きそうです

都会の雑踏

2006-03-04 | 日本:海外
皮肉なもので内地に帰ってからは
お天気が続いていますが、寒い!私には雪が降る前夜くらいに感じる寒さです。東京ってこんなに寒かったんだと改めて感じたり、目の前に立ちはだかる建物。
やっぱり沖縄がいい!早く戻りたいと思います。東京にいるときは、子供もあんなに行きたがっていたディズニーランドですが、最近はそんなことも言わなくなりました。人ごみがいやだそうです。
さて、今日は用事があったので、都心まででたのですが、はあ~都会です。やっぱり。土曜とあって人人人。久しぶりの都心だからって結構楽しみにしていたのですが、用事だけを済ませるとさっさと帰ってきました。あ~疲れた

昨日寝たのは

2006-03-03 | 日本:海外
引越し準備で疲れがたまって寝不足状態!
いつもは8時間は寝ないと持たない私なのですが。昨日は帰宅が夜中だったし、今宵は早く寝るぞと、10時には布団に入りました。でもだめ、夜中に何度も目が覚め、今、まだ沖縄にいるんだよなあなんて、すっかり夢の中。沖縄にいるっていう夢から覚めなきゃいいのにと思いながらうとうとするともう朝。
早く寝ても、何度も目が覚めるようじゃだめなんだよね~。
沖縄の海が懐かしい~!すでにホームシックになっています。

時差ボケ???

2006-03-02 | 日本:海外
夜中に東京に到着した私たち、
時差なんてないはずですが、引越し疲れでボッ~とお休みモードです。
大きいは広げたまま、部屋のほとんどの面積を占有しているし、ゆっくりとすわって何かをすることすらできません。
私は私で、東京の寒さで喉が痛い!!どうも風邪をひいたようです。
沖縄22度、東京7度、この差は私の体にこたえます。早くも沖縄へのホームシック!!

一時帰宅

2006-03-01 | 日本:海外
いよいよ今日、夜のフライトで一時、仮住まいのある
関東へ戻ります。なんだか私たちが沖縄と離れるのが悲しい気持ちを察してか、朝から雨に強風。せっかく最後の朝を残波岬で気持ちよくと思っていましたが、残念ながら諦めました。朝、まだ日が出ていないうちに、愛車で借りていた本を図書館へ返して、ガソリンを満タンにして、またホテルへ帰ります。
目の前には海が広がる読谷の一番隅にある残波のホテル。今まで民宿を使っていたので、豪華に思えます。朝ごはんは13階のレストランでバイキング。
最後かと思えば思うほど、なぜか食欲がでてしまい、隣に座る子供の視線に汗汗;;
1年半自由気ままな私たちに付き合ってくれた車ともお別れが近づいてきました。引き取ってくれる友人が朝、車を取りに来てくれました。なんだかとてもうれしそうに引き取ってくれたので、私もとてもうれしいです。
食事が中断していたので、また13Fへ戻るとちょうど、私ものだった車の走りさる姿が見え、なんだか子供を見送るようななんともいえない切ない気持ちになりました。
お昼前にはホテルをでて、荷物を空港で預けてから、国際通りへ買い物へと行きました。今日1日観光客気分です。
空港へ戻ると親友がお別れに見送りにきてくれました。友人と話している最中にも他の沖縄の友達からの電話が。みんなが待っていてくれるこの沖縄と思うと、感慨無量です。一時はなんで、こんなにも踏み込んでくるのかしらって疑問と喜びと入り混じった複雑な心境の時もありましたが、今ではそれもことです。1年半生活して、少し沖縄に慣れたのかなと思います。そして、近いうちにたくさん友人のいる沖縄へ戻ってこようと心に誓ったのでした

子供たちにいったい何が?

2005-12-08 | 日本:海外
子供が小学生になった時、
テレビで塾に通学している小学生高学年の子供に何で塾に通っているかという質問の風景が放映されていた。もう少しでわが息子もこのようになるのかと見ていると、塾に行くのはいい大学に行くためで、大学には両親が行きなさいと行っているから今、そのために塾に来ていますととてもはきはきと答えていた。100%完璧な答えには子供らしさが見えなかった。子供にいったい何が起きたのだろう。私は考えてしまった。少なくとも私はいい大学が何を基準にしていっているのか、大学に行くと何があるのか、わからないからだ。それこそ物の価値観の違いだけど、私には子供にいい大学に入って欲しいとは思っていない。それよりも自分がそれまでに何かを見つけ、その何かを勉強するために大学が必要ならば行くことに意味があると思っているからだ。
インターナショナルスクールには私が考えていることがあるように思った。個性のある子供たちを個性のあるままに教育してくれる、幼稚園、小学校では特に必要だと思ったから。
みんなと同じにできる子供は、少なくとも私が受けてきた学校過程の中では、とても楽に過ごしているように見えた。私はとても窮屈だった。みんなに合わせている自分がとても悲しかった。もっと自由が欲しかった。自分の言葉で話して、自分の足で歩いて、自分で考えてみたかった。親である私はその窮屈さの中で子育てをするのがまた窮屈に思えていた。

大使のご自宅

2005-12-07 | 日本:海外
子供も学校に
ようやくなれた頃、誕生日で同級生の家に呼ばれた。玄関は4.5畳ほどある大きさ、三輪車や自転車が無造作に置かれていた。そして、リビングは30畳はあるような大豪宅、部屋の壁沿いに椅子が20客くらいおいてあっただろうか。
トイレを借りようと化粧室と思われる扉をたたいて開けると、そこはなんとお手伝いさんの部屋だった。たぶん私は生きてきた中で始めての大豪宅訪問だった。
子供は広い家なんて気づくはずもなく、友達と走り回って(家の中を)遊んでいる。お料理もいろいろ出ていたが、私にはその家の大きさの方がびっくりで食べているところではなかった。後で聞くと大金持ちの国の大使のご自宅だったとのこと。お坊ちゃんだったのだ。
インターナショナルスクールに入園して初めてのお呼ばれ。私は自分の子供がたいへんな世界に飛び込んだことをここで改めて気づくのだった。
そして、帰宅、我が家がいかに狭いかこれもまた、改めて気づかされた。

ハローウィン

2005-12-04 | 日本:海外
インターの幼稚園に入って1週間は慣れなかった。
仕方がない、今までは他の子供以上にママにべったりだったのが、突然集団生活になり、そして、回りは知らない言葉が飛び交っている、大人の私でさえパニックになるだろう。
朝、送っていくと別れ間際に私の後ろに隠れる。先生が迎えに来ると体は教室に行くが、目がまだこちらに向いている。
学校が始まって少しするとハローウィンのパレードが幼稚園隣接の公園であるとのこと。子供も一生懸命このパレードに向けて歌の練習を始めた。初めての子供の舞台にどの親も一生懸命である。子供たちが幼稚園の扉の中から出てきたと共に親もそれにくっついて歩く。公園にたどりつき、さあいよいよ息子の番と思ったら、トイレに行きたいという。結局、息子は自分のクラスの歌のお披露目の時間5分ほどトイレから出てこなかった。本人はトイレが終わらなかったと言っていたが、極度の緊張で出てこられなかったのだろう。はあ、いつになったら慣れるのだろう。

運命の分かれ道

2005-12-03 | 日本:海外
まだ私が会社員だった頃、
先輩に「もし子供ができたら、日本以外の教育を受けさせたい」といっていた私。それが本当になっていた。特に英語を勉強させたいとかそんなに深い意味はなかったけれど、まあはっきり言いたいことがあったら言わせてくれる、そんなことを学校でやらせて欲しかった、という単純な理由。
それから、十年後、子供には日本人の親であるなら当然の義務教育を放棄させ、英語も話せない子供を4歳の時に英語で教育する幼稚園に放り込んだ。今、子供の気持ちを思うとなんともかわいそうな事をしたものだと思う。
当時、イギリス人の先生にトイレに行きたいのに、英語でいうことができず、ジェスチャーでズボンを指したら、場所が悪く、先生にはベルトを自慢しているように理解されてしまった、今では、笑い話のようなことがその当時、子供にはたいへんな苦労であったに違いない。
ただ、面接当日、今まで親のそばを離れたことのない息子が、校長先生に英語で話しかけられ、先生にくっついて私たちとは別の部屋へ連れて行かれた。校長先生にはやはり子供には魅力的な何かがあったのかもしれない。
私の直感で、この校長先生なら大丈夫と思ったことが運命の分かれ道になっていった。