テレビ100年の特集番組の中でも過去のニュース報道を検証した番組は見応えがあった。テレビ自身がテレビの危うさをよく語っていた。
例えば、浅間山荘事件。現場の実況中継の様子は小学校の教室内のテレビで見たが、救出された人質の方が入院してる病院にテレビが詰めかけ、無断で病室に入り、無理やりインタビューをとり、その中の「うどんが食べたい」だけを切り取って流し、それに対して「人が一人亡くなっているのにうどんが食べたいとはなにごとか」と社会が炎上し、凶器が送りつけられる事態となったなんて初めて聞いた。テレビ局の乱暴な取材と「切り取り報道」は今も昔も変わらないということである。
それから松本サリン事件。このときは私も大人になっていたから、マスコミのひどさについてリアルタイムで憤っていた。つまり、事件現場近くの第一通報者を犯人視する警察の話を鵜呑みにし、その人を犯人と決めつけた報道をずーっと垂れ流した。もちろん、真犯人である教団が圧倒的に悪いが、テレビ等のマスコミも二つの悪さをしている。一つは無実の人を犯人扱いしたこと。もう一つはそれによって真犯人の特定を遅らせたことである。すなわち、個人と社会の両方に対して悪事を働いたということである。特番では、テレビ報道の「早さと真実性」のせめぎ合いだと言っていたが、早さを求めれば結果的に誤報が生じるのはある程度やむを得ないだろう。だが、間違えたのならはっきり「間違えました」と言うべきである。しかも、誤報と同じくらい目立つ方法で。例えば、トップで(新聞なら第1面で)報道した内容が間違っていたのならトップ(一面)で訂正すべきである。これをやらないでしらばっくれるもんだから、テレビや新聞は「オールドメディア」と揶揄されてその信用性が地に墜ちているのである。
だが、たとえ切り取りがあったとしても「うどんが食べたい」で炎上する方もどうかしている。ずっと命の危険にさらされていた人質が解放されて「うどんが食べたい」と言って何が悪いのか?警察への感謝の念を述べないのがけしからん、ということか(実際、被害者はインタビューの冒頭で感謝の念を述べているのに切り取られて放送されなかったのだが)。当時のことを振り返った関係者が、視聴者みんなが警察になったかのようだった、と述懐していた。なるほど、コロナ禍のときも、自粛警察が蔓延したっけ。そんなに警察になりたいのなら警察官になればいい。そう言えば、昔、なんかの用で警察署に行ったら入口に警察官募集のポスターが貼ってあって、眺めてたら警察官が寄ってきて「あなたもどうですか?」と声をかけられたことがあったっけ。
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