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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

クラシックオタクを見てユダヤ人の歴史を想う

2025-01-06 11:05:43 | 音楽

年末年始はレギュラー放送が休止となり特別番組が幅をきかせる昨今だが、NHKFMの早朝に放送している「古楽の楽しみ」は年末年始などお構いなし。大晦日も元日もいつもとまったく変わりなく放送。「おめでとうございます」の「お」の字も言わないのは一般人から見れば奇っ怪に映るやもしれぬ。もともとクラシック・ファンは、一般人からは奇っ怪に見られるもの。高校時代、休み時間になるとクラシックマニア(私を含む)が集まってオタクネタを語り合うのをクラスメイトが胡散臭そうな顔で見ていたものである。

そんなクラシック・ファンの中でも古楽ファンは更に特殊である。学生時代に古楽専門の合唱団に所属していたのであるが、そこには心底古楽を愛するオタク中のオタクと、異性目当てに入ってくる輩の二種類がいて、前者は練習日以外でもアジト(一人の下宿)に集まって絆を強めていた。私(前者に所属していなかった)は、いったい彼らがそこでどんな様子なのか覗いてみたくて一度彼らのアジトを急襲したことがあるが、まったくもって秘密宗教の儀式のようであった。

逆もある。社会人になってからやはり古楽をよくやる合唱団に所属していたときのこと、私のほかに、もう一人(古楽を歌う一方で)オペラの大好きな団員がいて、アフター会でこの二人が端っこでオペラの話に花を咲かせていると、他の団員から「まーたオペラの話をしている」と非難されたものである。

と書いていて思い当たったことがある。ユダヤ人がなぜ世界中に散りばった先で迫害されたか、の理由である。シェインドリン著の「ユダヤ人の歴史」は、その理由として、ユダヤ人の「不思議な習慣」「奇妙な宗教儀式」が一般大衆の目に「黒魔術を操る異様な集団」「悪魔の手先」と映っていたことを挙げる。それは、年末年始にもレギュラー放送を聴くクラシックファンの「不思議な習慣」やアジトにこもって密かに行う古楽ファンの「奇妙な宗教儀式」が一般人又は一般のクラシックファンから奇っ怪に見られるのと共通である。

ユダヤ人の中には、迫害を逃れるために表面上ユダヤ教から他の宗教に改宗した人々がいたという。クラシックファンの中にもそうした改宗者が多くいる。例えば、ある政治家などは、プロフィールに「趣味がカラオケ」と載せても、合唱団でメサイアを歌ったことなどは決して載せようとしない。

人間は、洋の東西を問わず、自分と異なる者を排除しようとする性質を有するようである。残念な感もするが、仕方の無いことなのかもしれない。人間は社会的動物である。すなわち、群れることで天敵から身を守り生き残ってきた動物である。であるから、共同作業の妨げになる「異質」は歓迎されないのだと思う。

それでもクラシックファンが安泰なのは、場をこころえてるからだろう。例えば、メサイアは、メサイアを歌いたい人々とメサイアを聴きたい人々のみが集う会場で歌われる。仮に、そこら辺の飲み屋で♪ハーレルヤ!とか歌ってみたまえ。必ず、酔っ払いに、べらぼうめー(NHKの回しものではない)、そんなわけのわからねーヤツをこんな所で歌うんじゃねー、とからまれることは必定である。


鉄腕アトムは全音階(アニメ主題歌のイントロの話)

2024-12-17 16:30:44 | 音楽

鉄腕アトム(アニメ第1作)の主題歌のイントロは摩訶不思議である(以下の楽譜は耳コピで作ったものを主部がハ長調になるように移調したもの)。

高いド(原音はシ♭)で伸ばす辺りまでは何調だか子供の頃はさっぱり分からなかった。その後普通に「ソラシ」ときて「空を超えて」という主題歌が始まって初めてハ長調(原調は変ロ長調)だと分かったものである。よし、あのイントロの謎を今解明してやろう。多少(実際はうーんと)歳をとって少しは利口になっている。というわけでアタマの中で鳴らしてみた。ドレミの次のファが♯。ん?教会旋法のリディア旋法?だが、その後のソにも♯がつく。その後のラにも。これって全音階(半音を入れずにすべて全音のみから成る音階)ではないか!ググってみると、鉄腕アトムの主題歌は、日本における全音階の代表例だそうだ。半世紀以上知らなかった自分が口惜しい。他方、棺桶に入る前に知ったことがうれしい。

この際である。イントロでフェイントをくらったアニメ主題歌をあと二つ紹介しよう。いずれも60年代(昭和60年代ではない。1960年代である)の作品である。「狼少年ケン」のイントロは、分からないではなく、だまされたという意味でまさにフェイントである。こんな感じである(これも、耳コピであり主部がハ長調になるように移調してある)。

何がフェイントかって、10小節太鼓の音が続いてようやく出てきた歌が「わーおわーおわおー」。このメロディーを聴いたらト長調(原調はヘ長調)だと思う。だが、その直後に、「かの有名な」ボバンババンボンが始まり、これで、え?ハ長調(原調は変ロ長調)?と気付くのである。なお、「かの有名な」と書いたのは、今になってCMでボバンババンボンをよく聴くから。CM制作者は私と同年代だろうか?それとも若人が昔の音源から発掘したのだろうか?この歌詞を中国語で表すと「戊番場番盆分母番場馬場戊番場番盆分馬盆」となる(かどうかは知らない)。

もう一つは「エイトマン」。こうである(これも前二者と同様耳コピを主部がハ長調になるように移調した。実際は四度高い)。

これはもう奇妙きてれつというほかはない。始めの3小節のトランペットの咆哮からハ長調(原調はヘ長調)をどうやって想像できよう。それだけ印象的だったからいまだによく覚えているのである。なにかの法則に則ってるのだろうか。この謎については、墓場までもっていく公算が大である。


ロマンチストの豚の運命

2024-12-10 10:22:51 | 音楽

声楽のコンサートを聴きに行ってきた。ソプラノ二人とピアノの組合せ。サロン風のホールで歌手との距離が近く、歌手さんのお話も楽しくてよいコンサートだった。

プログラムの中に、やなせたかし作詞、木下牧子作曲の「ロマンチストの豚」という曲があった。直前に歌手さんが「楽しい曲。歌詞を聴いていろいろ思い浮かべてほしい」と言うから言われたとおりいろいろ思い浮かべた。ロマンチストの豚に白い翼が生えて空にとびたって以来何の便りもない、と聴いて、あー、お肉になっちゃったんだなー、と思った。私には、楽しい曲というよりも悲しい曲に聞こえた。

こういう体験をすると、その後しばらく豚肉が食べられなくなって私のたんぱく質摂取に悪影響が出るのだが、最近は、物価高のせいで豚肉から鶏肉にシフトしているせいで悪影響からは免れそうである。

実際、牧羊犬ならぬ牧羊豚を主人公にした「ベイブ」を見た後は、それまで豚肉ばかり食べていたのを封印した。だが封印は1か月で解けた。永久に封印しようと思っていた自分の意志薄弱が恨めしかった。

「ベイブ2」は期待外れだった。しかも、ベイブが迷い込んだ食肉工場内に豚肉がぶら下がっていて、悪趣味な映画だと思った。

豚と言えば、こないだ、スーパーで、三元豚のなんちゃらという惣菜を売っていて、三元豚って豚のブランド?と思ったら全然そうではなくて、食用の三種の豚を掛け合わせて作った豚で、今普通に売られている豚肉は大概コレらしい。雑種の方が丈夫だかららしい。元の三種があればよいので、三元豚は一代きりでその子孫は存在しないということだ(「三元豚」ネタをいつか出そうと温めていたが、まさかコンサートの話で出せるとは思ってもいなかった)。

やなせたかしさんは、「あんぱんまん」が有名で詩人でもあるという。私は、「あんぱんまん」の世代ではないし、「手のひらに太陽を」がやなせさんの作詞だと今知ってびっくりしているが、そのお名前はよーく存じ上げている。多分、「大人漫画」を読んでいたのだと思う。


ハイドンのおじいさん(おもちゃの交響曲)

2024-12-09 15:35:18 | 音楽

「おもちゃの交響曲」は、私が小学校低学年の頃はハイドンの作とされていて、日本語の歌詞付きで音楽の教科書に載っていた。記憶と理性で再現すると、次のとおりである。

理性で記憶を修正したのは「おじさん」の部分である。すなわち、小学校低学年用なら16分音符は使わなかったろう、と思ったのである。記憶通りに記せば次のとおりである(その記憶は、その後この曲を実際に聴いたことにより上書きされたものだと思われる)。

このように、「じ」を二つの音符に乗せるため、ハイドンに対する悪気がなくても「おじさん」は「おじいさん」にならざるを得ない。ハイドンは、人を年寄り扱いしやがって、と怒るかもしれない。

根源的な問題として、日本語の歌詞を付けた人は、「ハイドン」=「おじさん」のつもりだったと思われるが、「ハイドンのおじさん」と言っちゃうと、日本語的には、ハイドンの父又は母の兄弟姉妹を指すのが自然である。

今日的な問題としては、どこかの偉い人が女性の大臣を「おばさん」と言ったのが問題視されたが、「おばさん」がダメなら「おじさん」もダメなはずである。

なお、ハイドンのお父上は大工さんだった。二世議員を問題視する立憲民主党の現代表は「よし!」と思うだろう。そのほか、シュッツもヴェルディも実家は宿屋だから代表は本望だろう。それに対し、代表が眉をひそめそうな例の代表はJ.S.バッハである。一族郎党音楽家だらけである。あと、モーツァルトのお父上のレオポルドや、ベートーヴェンの父と祖父も音楽家であった。

ところで、件の「おもちゃの交響曲」の作曲者については、その後、ハイドンではないという話になり、「レオポルド・モーツァルト(上記のモーツァルトのお父さん)が作曲したものをハイドンの弟のミヒャエル・ハイドンが編曲したもの」という説が最終結論だとずっと思っていた。ところが、現在では、エドムント・アンゲラーって人の作ということで落ち着いているらしい。いずれにせよ、レオポルド・モーツァルト作曲説は既に1951年に現れていたのに、1960年代の教科書にまだ「ハイドン作」と載せていて、いたいけな子供に♪ドー、ハイドン……と歌わせていた事実はいかがなものか?と今思うワタクシである。

因みに、ハイドン作として出版されたときのタイトルは「Kinder-Symphonie」(子供の交響曲)である。「おもちゃの交響曲」は英語圏で広まった「Toy Symphony」から来たものである。

前述の「おじさん」又は「おじいさん」の箇所のことだが、かりに私が裁判所に証人として出廷し、「おじさん」又は「おじいさん」のどっちだったかと聞かれて「おじさん」だったと証言した場合、偽証罪について主観説(記憶に反したことを言えば偽証罪になるという説)に立てば偽証罪が成立するが、客観説(客観的真実に反したことを言えば偽証罪になるという説)に立ち、かつ、実際に「おじさん」だった場合、偽証罪は成立しないこととなる。


コラールの成り立ちVol.7モテット第1番

2024-12-03 12:12:52 | 音楽

バッハのモテット第3番の話をしたのなら、第1番の話を是非したい、だが、第1番の終わりは4声フーガでコラールじゃないしなぁ……ん?まてよ、ダブルコーラスの第2曲の第2コーラスが歌ってるのは、

第1コーラスのひらひら舞いにしょっちゅう中断されるから忘れていたが、これはコラールであった。よし、このコラールをネタにしよう……と軽いノリでのりかかった船が謎の迷路に迷い込む様を読者はこれから見るわけである。

モテット第1番「Singet dem Herrn ein neues Lied, BWV 225(主に向かって新しい歌を歌え)」の第2曲の第2コーラスによって歌われるコラールの源流は、詩篇103を基にヨハン・グラマン(Johann Gramann(1487~1541))が作詞した賛美歌「Nun lob, mein Seel, den Herren(わが魂よ、主を賛美せよ)」である。作曲者はハンス・クーゲルマン(Hans Kugelmann(~1542))であり、民謡を基にしたと推測されている(注1)。これより遡る源流はない。バッハは、この賛美歌の第3節「Wie sich ein Vater」を、メロディーもろとも自作のモテット第1番に使用したのである。

バッハは、この賛美歌のメロディーを他にもいくつかの曲に使用した。カンタータの第29番や第51番にも使用例が見られるが、対位法的に使用したのがカンタータ第28番の第2曲である(注1)。

「Nun lob」の歌詞で分かる通り、使用したのは賛美歌の第1節である。

このカンタータ第28番第2曲をアレンジしたのがモテット第7番「Sei Lob und Preis mit Ehren(栄光とともにほめたたえよ)」である。アレンジに際して歌詞が件の賛美歌の第5節(Sei Lob)に差し替えられている。

BWV番号は、以前はモテット第6番(BWV230)の次ということでBWV231とされていたが、現在では、BWV28の第2曲のアレンジということでBWV28/2aとされている(注2,3,4)。

ところがでござる。「Sei Lob」でググると、他にも「Jauchzet dem Herrn alle Welt BWVanh.160(全世界よ、主に向かって歓呼せよ)」という曲がヒットする(その後、番号が付け替えられ(付け替えないでよ)、現在はBWV App. A 4.である)。これが曲者である(曲だから曲者なのは当然であるが)。三曲からなるバッハのモテットとされていたのだが、その後、第1,3曲がテレマンの作であることがバレた(明らかになった、と言いなさい)。そして、バッハの曲として踏みとどまった第2曲が上記のモテット第7番と同曲なのである。言い方を変えると、BWV anh.160の第2曲が独立したものがモテット第7番である、とも言えるのである(注2,3,4)。もともと独立した楽曲だったのか、それとも独立させたのかは不明である(注3)。

ということで、私のコラール話は一段落した。振り返るとこんな旅をしていた。

Vol.1ヨハネ受難曲の終曲
Vol.2「血潮したたる」(マタイ受難曲)
Vol.3「イザークからバッハへ」(マタイ、ヨハネ他)
Vol.4モテット第2番
Vol.5ヨハネ受難曲が「かあさんの歌」に聞こえる件
Vol.6「イエス、わが喜び」(モテット第3番)
Vol.7(今回)モテット第1番

これで気が晴れた。コラールの成り立ちの第1シリーズはこれで完としよう(各内容を図にした総集編を出すかもしれないが)。われながら、一文の得にもならない調査をよくやったものである。まあ、そんなことを言ったら、台地シリーズも、川シリーズも、それからこの後スタートするであろう山シリーズも同じであるが。少なくとも、いずれのシリーズも、備忘録として私の役には立っている。

注1:ウィキペディアドイツ語版の「Nun lob, mein Seel, den Herren」
注2:ウィキペディア英語版の「Sei Lob und Preis mit Ehren」
注3:ウィキペディア英語版の「List of motets by Johann Sebastian Bach」
注4:ウィキペディア英語版の「Jauchzet dem Herrn alle Welt」