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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

ショパンのトロンボーンと「ガチョーン」の谷啓

2025-01-31 17:06:34 | 音楽

オーケストラの楽譜では、トロンボーンはだいたいアルト、テナー、バスの三本がセットになっている。そのせいだろうか、トロンボーン奏者は日頃から三人組で行動し、例えば、合わせなしで一発勝負で大曲を演奏しましょう!って会を私が主催したことがあるのだが、そのときもトロンボーンの三人が事前に集まって練習をし、しっかり和音を作ってくるのが常であった。

と思っていたのだが、そう言えば、モツレク(モーツァルトのレクイエム)の「妙なるラッパ」(最後の審判の際に鳴り響くラッパ)はトロンボーン一本で吹く。

あら、珍しい、一人ではさぞ寂しかろう、と思ったが、モツレクでトロンボーンが一本なのはこの章だけで、トロンボーンの出番のある他の章ではいつものように3本セットである。

何回か前の記事にも書いたとおり、トロンボーンは元々は教会の楽器で、だからレクイエムでは大えばりで使われるわけだが、その後、「娑婆」にも進出を始め、モーツァルトの「魔笛」で登場し、ベートーヴェンが交響曲第5番で使ってからは交響曲の常連となった。

だが、ブラームスなどは、さすがにバッハの研究をするような人だけあって、例えば交響曲第1番の終楽章のトロンボーンは美しい和音を奏でていて、

元教会楽器の面目躍如である。だが、トロンボーンは、その気になれば、「3本で他のすべての楽器を吹っ飛ばす」(高校時代の吹奏楽の指導者の弁)。例えばチャイコフスキーの「悲愴」の第3楽章のエンディングなどはその最たる例である。

この下降音階をバリバリ鳴らして他のすべての楽器を吹っ飛ばすのである。こうなると和声もへったくれもない。世俗の極みである。古楽だけを聴く人がこの箇所を聴いたら失神するかもしれない。そうならないためには観念してここだけは世俗にまみれることである。私はそうしている。すると、だんだんどや顔でバリバリ吹くトロンボーン奏者を眺めるのが楽しくなる。なのに、あるときテレビカメラがこの箇所でヴァイオリンを撮っていた。ヴァイオリンの画面とバリバリの音声の不似合いなことったらなかった。

かように、トロンボーンはオケでは三人組が当たり前なのだが、そんな中でショパンのピアノ協奏曲は、第1番も第2番もモツレクのようにソロを吹くわけでもないのにバス・トロンボーンが一本だけで、まるで谷啓である。これをとらまいて人は「ショパンはオーケストレーションが下手」と言う。私などは、ショパンは偉い人だと思っていて、「偉い人」=「下手」の方程式にどうもなじめない。一本にした意味が何かしらあるのではないか、とも思うのだが、なにせ「死人に口なし」である。

え?谷啓って誰だって?ガチョーンの谷啓だよ。え?ガチョーンって何だって?クレージーキャッツのギャグだよ。え?クレージーキャッツって何だって?えっと、お笑いグループのようだけど、元々ジャズバンドなんだよな。てな具合にジャズではトロンボーンは一本でよいのです。

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コラールの成り立ちVol.10ヨハネ受難曲の第3曲と第17曲

2025-01-21 16:49:07 | 音楽

コラールの成り立ちシリーズに新たな題材が加わった。麹味噌合唱団(仮名)のヨハネ受難曲(バッハ)に参加することにしたので、ヨハネ受難曲のコラールについても成り立ちをお勉強しようと思い立ったのである。既に、第5曲(Vol.5)と、第11曲(Vol.3)と、終曲(Vol.1)については掲載済なので、それ以外の曲が対象である。

ヨハネ受難曲の最初のコラールは第3曲。

この第3曲と同じメロディーなのが第17曲(調は全音上がっている。2番省略)。

すなわち、これら二つのコラールの元曲の賛美歌は同一であり、それは、ヨハン・ヘールマン(注1)の「Herzliebster Jesu, was hast du verbrochen」である(次の楽譜はヨハネ受難曲の第3曲(二つ前の楽譜)の音符に当該賛美歌の第1節の歌詞を当てたものである)。

誰々の賛美歌と言った場合、大抵「誰々」は詩人である通り、ヨハン・ヘールマンは作詞者であり、まず1630年にヘールマンの詩が公表され、その10年後にメロディーが付けられた。メロディーを付けたのは、ヨハン・クリューガー(注2)である。ヨハン・クリューガーは、本シリーズにもたびたび登場したこの時代の大立て者である。

この賛美歌は15の節から成り、ヨハネ受難曲の第3曲はその第7節であり、第17曲は第8節と第9節(二つ上の楽譜では省略)である。

この賛美歌はクリューガーのメロディーともどもなかなかの人気曲となり、バッハは、マタイ受難曲にもこの賛美歌を使用し、第3曲には第1節を、第46曲には第4節を当てている(だから、この賛美歌のタイトル(第1節の冒頭)である「Herzliebster Jesu」の歌詞はマタイ受難曲において聴くことができる)。また、そのメロディーを、オルガン用コラール(BWV1093)にも使用した。

バッハ以外の作曲家も、例えば、ブラームスやマックス・レーガー(注3)がそのメロディーをオルガン曲に利用している。また、クリスチャン・フュルヒテゴット・ゲレルト(注4)は同じメロディーを彼の受難詩「Herr, stärke mich, dein Leiden zu bedenken」に使っている。面白いところでは、現代作曲家のマウリシオ・カーゲル(注5)が、バッハの生誕300年を記念して作曲したオラトリオ「Sankt-Bach-Passion」の第19曲に、この賛美歌をもじったコラール「Herzliebster Johann」を置いている。

今回のまとめ図は次のとおりである。

これで、ヨハネ受難曲の二つのコラールの成り立ちを一度にやっつけた。なかなか、経済的である(もっとも、マタイ受難曲においては、「血潮したたる」だけで片付く曲は2曲どころの話ではない)。

出典:ウィキペディアのドイツ語版、英語版
注1:Johann Heermann(1585.10.11~1647.2.17)。BWV94の記事で当ブログに一度登場した。
注2:Johann Crüger(1598.4.9~1662.2.23)
注3:Max Reger(1873.3.19~1916.5.11)
注4:Christian Fürchtegott Gellert(1715.7.4~1769.12.13)
注5:Mauricio Kagel(1931.12.24~2008.9.18)

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室内合唱団と第九

2025-01-11 10:02:03 | 音楽

ジョルディ・サバール&コンセール・デ・ナシオンのピリオド演奏によるベートーヴェンの視聴、次は第九。演奏は相変わらずのキレッキレぶり。注目は歌である。

ソリスト達はバロックを得意とする若手で、美声で、レガートで、まるでバッハやヘンデルのアリアを歌っているような繊細な歌唱。エンディング近くの四重唱の最後の和音(これが合うのはまれ)も当たり前のようにきれいにハモっておりました。バリトン独唱にバロックのような装飾音がつくのを聴いたのは多分初めて(とちって違う風に歌う人はいたけど)。

第九の合唱と言えば、音が高いこともあって、「ギャーっ」と歌いがち(吠えがち)。だが合唱を担当した「VOX BONA ボン十字架教会室内合唱団」(と訳すのかなー)(注1)は古楽を中心に歌う合唱団らしく、絶叫とは無縁で、ノンビブラートの透明な響きでまるでマタイ受難曲を歌うように歌っていた。なんとも新鮮で、きれいッシモな合唱であった。

ボンには、「ボン室内合唱団」(注2)という団体もあって、こちらも「室内合唱団」と名乗っている通り古楽がレパートリーで(「室内合唱団」は古楽を歌う小規模の合唱団が名乗りがちな名称である)、団員数も40~45名で混同しそうになったが、VOX BONAが1987年設立であるのに対しボン室内合唱団は1973年設立の別団体であった。同じ地域に同様の古楽合唱団が複数あるあたり、ドイツもなかなか古楽がさかんなようである

室内合唱団と第九と言えば想い出がある。私が学生の頃所属していた古楽専門の合唱団がまさに「○○室内合唱団」(○○は二文字というわけではない)であったのだが、当時、隔年で学校のサークルが大同団結して第九を演奏する、というイベントがあった。だが、私が下級生のときにやって来た参加の機会は、上級生が「第九はウチらには合わない」と言って参加を辞退したため逃してしまった。上級生の言い分は「第九は音が高くてギャーっと吠えるものである。私達にとってそういう世界は(スターウォーズ風に言えば)音楽のダークサイドである」というものであった。私は古楽合唱団にいながら隠れベートーヴェン・ファンだったから残念だった。上級生になってようやく参加できたのだが、それがこれまでの私の人生における唯一の第九体験となった。

VOX BONAを聴いて、古楽合唱団でも立派に第九を歌えるということを確信した。それは、古楽合唱団でも巷の咆哮合唱団の真似ができる、ということではなく、古楽の様式のまま第九を歌える、ということである。だが、そっちの方が遥かに難しい気がするけれども。

注1:VOX BONA Chamber choir of Kreuzkirche Bonn
注2:Bonner Kammerchor

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コラールの成り立ちVol.9カンタータ第101番(ヨハネ第5曲とは叔父叔母と甥姪の関係)

2025-01-10 10:54:39 | 音楽

カンタータを歌う会の次回のお題は第101番(BWV101)。前回のBWV94と同じく、終曲のみならず全体が元曲である賛美歌(コラール)又はその変奏から成っているコラール・カンタータであるから、本シリーズで取り上げ甲斐があるというものである。しかも、後述のように、以前本シリーズでとりあげた別曲と途中で合流する点も見所である。

因みに、前回のBWV94は、バッハがライプチヒのトーマス教会のカントル(音楽監督)に就任して2年目の年の三位一体の主日後の第9主日(主日=日曜日。2025年は8月17日)用に書かれたものであり、次回のBWV101は第10主日用(2025年は8月24日)であるから、お題曲を年代順とするカンタータの会として正しい順番である。かように、バッハは、この頃は毎週のように教会の礼拝用のカンタータを書いていたのである。

因みに、三位一体の主日とは、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日(復活の主日)から40日後の木曜日(主の昇天の木曜日)から10日後の日曜日(聖霊降臨の主日)から1週間後の日曜日のことである。なお、私はキリスト教徒ではない。タモリさんも、ご幼少のみぎり、教徒ではないのに教会に通ってらしたそうである(その経験がタモリさんの芸「インチキ牧師」に生きているのであろう)。

では、源流探しの旅に入ろう。BWV101の元曲である賛美歌は、モラー(注1)が作詞した「Nimm von uns, Herr, du treuer Gott」であり、こういう曲である(歌詞は第1節。末尾に拙訳を載せた)。

この賛美歌は7節から成り、その歌詞すべてがBWV101においてそのまま、又はアレンジして使われる。メロディーは、第2曲以外は賛美歌のメロディーがそのまま、又はアレンジして使われる。その構成は次のとおりである。
第1曲は合唱が第1節を賛美歌のメロディーで歌う。下三声がフーガ風に歌う上でソプラノが長く伸ばした定旋律を歌う。
第2曲はテナーのアリアで、第2節をアレンジした歌詞を歌う。当初、フルートのヴィルトゥオーゾがオブリガートで付されていたが、後にヴァイオリン・ソロに置き換えられた。初演当時は(前週に引き続き)フルートの名人がいたが、後にいなくなったのだろう。
第3曲はソプラノが一人二役でコラール(第3節)とレチタティーヴォを歌う。コラール部分のメロディーは、賛美歌のメロディーを3拍子にアレンジしたものである。
第4曲はバスのアリアで、第4節をアレンジした歌詞を歌う。ヴィヴァーチェの中、ときたま賛美歌のメロディーが歌又はオーケストラにアンダンテで現れる。
第5曲はテナーが一人二役でコラール(第5節)とレチタティーヴォを歌う。コラール部分のメロディーは賛美歌のメロディーのアレンジである。
第6曲はソプラノとアルトの二重唱で、詩は第5節のアレンジであり、メロディーも賛美歌のメロディーのアレンジである。
そして、終曲(第7曲)でコラールは全容を現し、合唱が第7節の歌詞を賛美歌のメロディーで歌う。

さて、その賛美歌のメロディーのことである。どこかで聴いたことがあると思ったら、当シリーズのVol.5で、「かあさんの歌」に似てると言ってとりあげたバッハのヨハネ受難曲の第5曲と同じである。すなわち、賛美歌「Nimm von uns」のメロディーは、ルターの賛美歌「Vater unser im Himmelreich(天にまします我らの父よ)」からとられたのである。そのルターの「Vater unser」はこうであった。

このメロディーがドーリア調と言われるのは、ニ短調ぽいのに第5音と第6音の間(ラとシの間)が全音だからである。先の「Nimm von uns」は調号に♭が一つ付いているが、結局そのほとんどが臨時記号で排されていて同じことになっている。この「Vater unser」はメロディーの一大供給元であり、あっちにもこっちにもOEM供給をしているのだが、その一つがモラーが作詞した「Nimm von uns」であり、さらにこれがBWV101の元になったわけである。だから、BWV101のヴォーカルスコアには、ところどころにメロディーが「Nimm von uns」ではなく「Vater unser im Himmelreich」に拠る旨の注釈があるのである。

すると、メロディーのさらなる源流については、Vol.5で述べたことがここでもあてはまる。すなわち、ルターは、Der Mönch von Salzburg(14世紀に活躍したミンネゼンガー(吟遊詩人))が作ったメロディーに基づいて、「Vater unser」のメロディーを作ったのである。

以上の源流から下流に至る流れを図にしたのが下図である(「Vater unser」のメロディーのOEM供給先についてはVol.5よりも情報を増やした)。

ヨハネ受難曲の第5曲は「Vater unser」と直接つながっているのに対し、BWV101は間に「Nimm von uns」が入っている。ということは、ヨハネ第5曲とBWV101の関係は、叔父叔母と甥姪の関係(三親等の傍系血族)の関係である。BWV101のほかにも、BWV90、BWV102が「Vater unser」との間に別の賛美歌を挟んでいる。「Vater unser」のメロディーは現代においても用いられていて、マスランカ(注2)の吹奏楽「Give Us This Day」がその例である。

参考(になるかならないか分からないが)モラーの「Nimm von uns」の第1節の拙訳(逐語訳)を載せる。私は、歌を歌う者としては逐語訳派である。
「私達から取り除いて下さい、主よ、あなた、誠実な神よ、厳しい罰と大いなる苦悩を、それらは私達が無数の罪によって常に受けているものであるけれども。戦争から、困難な時代から、疫病から、業火から、そして大いなる苦しみから守って下さい」

注1:Martin Moller(1547.11.10~1606.3.2)
注2:David Maslanka(1943.8.30~2017.8.7)
出典:
・ウィキペディアドイツ語版の「BWV101」
・モラーの「Nimm von uns」の歌詞については、http://www.kantate.info/choral-title.htm#Nimm%20von%20uns,%20Herr,%20du%20treuer%20Gott
・ウィキペディアドイツ語版の「Der Mönch von Salzburg」。なお、「Der Mönch von Salzburg」は仇名であり本名は不明である。
・ウィキペディアドイツ語版の「Vater unser im Himmelreich」

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ジョルディ・サバールのベートーヴェン交響曲第7番

2025-01-08 09:13:05 | 音楽

ジョルディ・サバールが指揮したコンセール・デ・ナシオンのベートーヴェン交響曲第7番を動画で視聴。この団体はもともと古楽を演奏する団体だったが、古楽の演奏家のあるあるで、古典派にまで食指を伸ばしてきたものである。

古楽の演奏家のベートーヴェン演奏はピリオド演奏、すなわち、ベートーヴェン当時の楽器、編成、奏法に即したものである。一番の特徴は弦楽器の弾き方だろうか。ロマン派以降のビブラートを付けた「ジャーン」というテヌートは、たたき切るような「ザッ」に置き換えられる。その他、テンポは速めで思わせぶりなフェルマータは排除。あと、ピッチも低めである。

こうした演奏は、フルトヴェングラーのベートーヴェンを至上のものとして拝んできた人々にとっては異端である。カラヤンの悪口を書いて蔵が建ったんじゃないかと思われる某音楽評論家(故人)も、こうした「新人類」に比べればカラヤンは「旧人類」だったと言って郷愁の念を表していたことは前に書いた。

このように評論家の言うことを公平な真実だとして鵜呑みにしてはいけない。彼らは自分の嗜好と相容れないものを「悪」として切り捨てるのである。例えば、かの有名なハンスリックはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を「悪臭のする音楽」と評したし(これを意訳して「鼻持ちならない音楽」と表すのが相当かどうかは知らない)、ビートルズがアメリカに上陸した際の新聞の批評は「メロディもリズムもダメ」であった(メロディもリズムもダメだったら音楽として成り立たないと思うのだが、人々が熱狂したのはなぜだろうか。当時、ジュリアード音楽院に通っていて普段はクラシックしか聞かない学生もビートルズは好きと言ってチケット争奪の列に並ぶ映像を観た)。

たしかに、ピリオド演奏は、ときとして、学究的で、客観性が過ぎて、感動とは縁遠いことがある。では、ジョルディ・サバール&コンセール・デ・ナシオンの演奏がどうだったかというと、めっちゃ感動的な大名演であった。なにより、プレイヤーが実に楽しそうでのりのりある。どのくらいのりのりだったかというと、ジョン・ウィリアムズの指揮でスターウォーズの帝国のマーチ(ダースベイダーのマーチ)を演奏するウィーン・フィルやベルリン・フィルのブラス・セクションほどにのりのりだった。「古楽=しかめっつら」という方程式が常に成り立つわけではないのである。そりゃそうだ、昔の人だって喜ぶときは喜んで生殖にもはげんでいたのだから。

あと、第二ヴァイオリンがガシガシ刻む音が鮮明に聞こえたことが印象的だった。昔風に第二ヴァイオリンを舞台の上手の客席側に配置したことや、管楽器を増強せずにスコア通りの数に抑えたこと等が功を奏したのだろう。

因みに、古楽団体が古典派に食指を伸ばすのを「あるある」と言ったが、走りはアーノンクールあたりだろうか。ある日、CDショップの店内にとんでもなく新鮮で刺激的なベートーヴェンの2番がかかっていて、店員に聴いたらアーノンクールだという。すぐさま交響曲全曲セットを買いこんだものである(当時のことであるから、「ポチった」ではない)。

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