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黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

半音下げる仕掛け(ボエーム)

2024-11-20 18:52:50 | オペラ

プッチーニのオペラ「ボエーム」については、ずっとカラヤンが指揮しロドルフォをパヴァロッティが歌いミミをフレーニが歌うレコードが名盤とされていた。その後、ビデオが出回るようになってから、なかなかこの組合せによる映像が現れなかったが、ようやく、サンフランシスコ・オペラの公演を収めたレーザーディスクでその組合せが実現したので、大喜びでゲット。ところがでござる。

パヴァロッティの別名は「キング・オブ・ハイC」(ハイC=たかーいド。そう言えば「ハイシー」というジュースがあったが今でもあるのだろうか)。そして、「ボエーム」のアリア「冷たい手」の最大の聴かせどころが高いドだから、このアリアはパヴァロッティのためにあると言っても過言ではなかった。ところが、件のレーザーディスクの演奏では、なんと、天下のパヴァロッティが「冷たい手」を半音下げて歌ってる。そりゃあ、高い音だから、半音下げて歌う歌手は少なくない。しかし、パヴァロッティはハイCの人である。そのパヴァロッティが半音下げて、どうだって感じで伸ばした音が「シ」だったら「キング・オブ・ハイC」の名が泣く、というものである。

因みに、このアリアを半音下げて歌う場合、全体を下げなければならない(一番高い所だけ下げたらそこだけ短調になってしまう)。だが、このアリアは、その前からずっとつながってるから、アリアの所だけ下げたら不自然である。バレないようにそっと下げるためにこういう仕掛けを用いる。次の楽譜はアリアの直前の部分であり、オリジナルと、半音下げる場合とを比較したものである。

赤でくくった部分の始まる箇所が仕掛けどころである。このように、アリアの前から半音下げておくわけである。

因みに、件のレーザーディスクでは、このアリアに続くフレーニの「私の名はミミ」は、ちゃんと下げずに歌っていた。しかし、それはそれで大変である。二つのアリアは続けて歌われるし、しかも、前奏はヴァイオリンが2拍音を伸ばすだけだから、半音低い「冷たい手」の後に歌う「私の名はミミ」も半音下がりそうなところである。だが、パヴァロッティが盛大な拍手をもらうからそこでいったん中断する。その後、ヴァイオリンの2拍を良く聴いて入れば「元に戻る」というわけである。

ところで、二つのアリアの後は二重唱になり、その最後は、楽譜ではミミがハイCでロドルフォが真ん中のミでハモるのだが、往々にしてロドルフォが声自慢だとミミと同じメロディーを歌いたがる。すると、ロドルフォもハイCを歌わなければならなくなる。果たしてこの日のパヴァロッティはどうするのか?フレーニにお願いしてここも下げてもらうのか、それともミを歌ってハモるのか?答は下巻で……って「川の成り立ち」シリーズではない。ここで答を言う。下げずにミミと同じ音を出したのである。すなわち、ハイCを出したのである。見事であった。なーんだ、出るじゃん、じゃ、なんで「冷たい手」では下げたんだろ、と思ったが、まあ、リスクは一回だけにした、というところかもしれない。

この公演には、ニコライ・ギャウロフも出ている。言わずと知れたフレーニの(2番目の)夫である。フレーニのバーター……などと言ってはいけない。ギャウロフだって大歌手である。逆に、妻のフレーニが出るので自分も出てやった、ということだろう。サンフランシスコの歌劇場は、メトロポリタン歌劇場に比べると一枚落ちる印象だったが、いやいやなんの、これだけのキャストを集めるんだから立派である。

このレーザーディスクには出演歌手のインタビューもついていて、ギャウロフが「歳をとってから青春を歌うのもいいもの」と言っていた。知人のアマチュアのカウンター・テナー氏が「美しい水車屋の娘」(若い粉屋見習が失恋する歌曲集)を歌うのも同じ心境だろうか?ま、歌だけなら相手はいらないからね、好きにやればよろしいでしょう。


さぼって、さがって、うなる凱旋の場(アイーダ)

2024-11-15 09:24:40 | オペラ

レーザーディスクでオペラを観ていて、いよいよ1981年のヴェローナ野外劇場での「アイーダ」(ヴェルディ)の番となった。私が最初に買ったオペラのレーザーディスクである。超懐かしい。そうそう、これこれ、コッソットが下がってキアーラがさぼるヤツである。こういうことである。

アイーダの第2幕は有名な凱旋の場。サッカーの試合で観客がムキになって歌う「♪ラ、ラーー、ララララ、ラ、ラ、ララララーララー」をトランペットが吹く場面である。その幕切れはこれぞ圧巻。舞台を埋め尽くすソリストと合唱が声を限りに咆哮する。その中のツートップは、ヒロインのアイーダ(ソプラノ)とエジプトの王女アムネリス(メゾ・ソプラノ)。この二人がそろって高いシ♭(音楽をやった人はこれ見よがしに「ベー」という(あっかんべー))を出す。

さあ、件のヴェローナの公演では、ここで何が起きたか。アムネリスを歌うのは、フィオレンツァ・コッソット。強烈な声の持ち主である。メゾ・ソプラノだが、オペラの公演では「番をはる」スターである。番だけなく声も張って張って張りまくるのだが、残念ながらほんのすこーし音がぶら下がって(低くなって)しまった。対するアイーダを歌うのはマリア・キアーラ。この人の素晴らしさについては別の機会に書くこととするが、このとき、なよなよと体をよじって芝居をしている風。ここは芝居をする場面ではない。二本足でどっしと踏ん張って高音を張るべきところである(コッソットをそうしている)。だが、キアーラは声を出してない。すなわち、さぼっている。私は理解した。これは、コッソットがいたからである。コッソットのぶら下がった音に正しいピッチで重ねれば音が濁ってしまう。それに、コッソットが一人でがんばってるんだったら音を重ねてもあまり意味はない。だったら休んだってバチは当たらない。長丁場だ。休めるときに休むことは大事である。江川だって、力を温存して9回に150キロの球を放ったものである。

これと対照的だったのが(ここからはレーザーディスクの話から逸れるが)、第1回NHKイタリア歌劇公演の凱旋の場。私が生まれる前の公演の様子をNHKが再放送してくれて観たのだが、このときのアイーダがアントニエッタ・ステッラで、アムネリスがジュリエッタ・シミオナート!!!!! シミオナートはメゾ・ソプラノだが神様の域である。だからベー(シ♭)などお茶の子さいさいである。対するステッラも大プリマ。さぼるなんてあり得ない。当然、二人してあらん限りの声でベーを競うこととなる。東西の横綱ががっぷり四つに組んだ格好である。その結果どうなったか。音がウワンウワンうなりまくった。マイクの性能を超えてしまったのである。シ♭が出てくるたんびにウワンとなる。ものすごいことになった凱旋の場であった。

ものすごい凱旋の場と言えば、マリア・カラスがアイーダを歌った1951年のメキシコ公演の話もしなくてはなるまい。このとき、アムネリスが誰であったかはどうだっていい。カラスが全部持って行った話である。すなわち、凱旋の場の最後の最後は、アイーダ(とアムネリス)がベーを伸ばした後、五度下のミ♭に下りる(冒頭楽譜参照)。で、後奏があって幕である。ところが、カラスは最後のミ♭を1オクターブ上げて伸ばしたのである。そりゃあ、コロラトゥーラがミ♭を出しても驚くに値しない。だが、カラスはドラマチック・ソプラノである。それが高いミ♭をばしーっと出してうーんと伸ばした。まるで浮上する宇宙戦艦ヤマトである。カラスが全部持って行ったというのはこのことである。この頃のカラスはダイエット前で、声が湯水のように出たという(ダイエットした後は、ルックスはよくなったが声を失ってしまった)。ところで、こういうスタンド・プレーは好きにやっていいというものではない。ちゃんと他の歌手の了解をとらなければならない。このとき、カラスが気を遣ったのは、ラダメス役のマリオ・デル・モナコ(大スター)である。で、デル・モナコに「いい?」と聞くと、デル・モナコは「いいよ。その代わり、第3幕の幕切れは僕が延々と延ばすからね」ということで取引成立。この公演はCD化されている。おかげで、今私たちはとてつもないアイーダを聴けるのである。


吟遊詩人は琵琶法師?/アリアが二重唱だった件

2024-10-23 12:42:56 | オペラ

ヴェルディのオペラ「イル・トロヴァトーレ」の「トロヴァトーレ」は吟遊詩人の意味であり、中世ヨーロッパで、弾き語りをして各地を遍歴した人々。すると、琵琶を弾きながら平家物語を語り歩いた琵琶法師に近いのだろうか。ところで、彼らはどこで演奏したのだろうか。屋根のない辻でべんべんやってる姿を思い浮かべたが、それだと辻音楽師(今で言うところのストリート・ミュージシャン)。吟遊詩人や琵琶法師の演奏の場は寺社や貴族の館で、一応屋根のある場所だったろうと思い直した(吟遊詩人として有名なヴァルター・フォン・デル・フォーゲルヴァイデは貴族だもんね)。

そのヴェルディの「トロヴァトーレ」をレーザーディスクで視聴してびっくりしたことがある。第1幕のレオノーラのアリア「静かな夜」は、これまで文字通りアリアなんだからレオノーラが一人で歌うものだと思ってきた(実際、そういう演奏しか聴いてこなかった)。ところが、今回聴いた演奏は、侍女と二重唱を歌っていて、大詰め、侍女が一人で歌い、それをレオノーラが引き継いだように聞こえた。空耳か?楽譜を見た。空耳ではなかった。件の箇所をピックアップしたのが次の楽譜である。二声の上がレオノーラで下が侍女である。すなわち、二重唱になっている。

最高に盛り上がる二小節目からなんと同じメロディーを歌っていて、途中から、(田端の先で山手線と京浜東北線が分岐するように)二つの声部が分かれる。普通、こういう場面では、プリマであるレオノーラを引き立てるために侍女は舞台裏に引っ込んでレオノーラだけが歌う。だが、私が聴いた演奏は、珍しく楽譜に忠実に侍女も歌に参加し、かつ、同じメロディーのところをレオノーラがさぼって(力を温存するために)分岐するところ(二段目)から引き継いで歌っていたのである。いくつになっても発見はあるものである。

このオペラについては、登場人物の心理がよく分からないところがある。それを言うために簡単に筋を紹介するとこうである(話が複雑で「簡単」というわけにはいかないのだが)。先代の伯爵が魔女を火刑に処した。魔女の娘アズチェーナは、仕返しに先代伯爵の二人の息子のうち弟を誘拐し火に投じたつもりだったが、実は間違って自分の息子を投じてしまった(間違えるか)。その後、先代伯爵の二人の息子のうち兄が父を継いでルナ伯爵になり、アズチェーナは火に投じ損なった弟を自分の子マンリーコとして育て、マンリーコは吟遊詩人になった。ルナ伯爵とマンリーコは互いに実の兄弟であることを知らずに敵対した。恋のライバルでもあった。そして、いよいよルナ伯爵はマンリーコを捕らえ処刑しようとすると、アズチェーナが「待ってくれ、話を聞いてくれ」と言うが(お前が処刑しようとしているのは実の弟なのだ、とばらそうとしたのだろう)、ルナ伯爵は聞き入れずマンリーコを処刑する。すると、アズチェーナが「仇を討ったよ、お母さん」と叫んで幕となる。解せないのは、ルナ伯爵に事情を打ち明けてマンリーコを救おうとしながら、マンリーコが処刑されると喜びの声を挙げるアズチェーナの心情である。自分の息子として長年育てて培った愛情と、母の仇の実の息子だからこれを殺して仇を討ちたいという二律背反の思いを抱えていた、ということなのだろうか。こちとら、難しいことを考えるのは苦手なのだから、あまり複雑な心理描写をオペラに持ち込まないでほしいのである。


マクベスの不思議

2024-10-22 14:53:59 | オペラ

ヴェルディのオペラ「マクベス」を久々にレーザーディスクで見て、改めて不思議に思ったことその1。マクベスは魔女から「女から生まれた者からは殺されない」という予言を受けたが、マクダフは「私は生まれていない、母の胎内から無理やり出されたのだ」と言ってマクベスを殺す。「胎内から無理やり出す」は帝王切開のことを言っているのだろうが、自然分娩だろうが帝王切開だろうが「女から生まれた」には変わりはないのではないか?それとも、イタリア語の歌詞に特別の意味があるのか?例えば「産道を通って来た者からは殺されない」とか?と思って歌詞を見ると「nato di donna」。普通に「born from woman」(女から生まれた)である。この謎は迷宮入りである。

その2。マクベスの綴りは「Macbeth」。イタリア語では「マクベトゥ」でオペラではそう発音されている。なのになぜ日本では「マクベス」で通っているのだ?え?原作のシェークスピアが「マクベス」だから?じゃあ、なぜ「Falstaff」を「フォールスタッフ」と呼ばないで「ファルスタッフ」と呼ぶのだ。ダブルスタンダードではないか。え?政治の世界ではダブルスタンダードは普通?オペラと政治は違う(どこが、と言われたら困るが)。この謎も迷宮入りである。

その3。マクベスは、超恐妻のマクベス夫人にそそのかされて王を殺して王位を簒奪した。マクベス夫人がオペラの最初の方で歌うアリアなど、恐ろくて縮み上がるほどである。なのに、途中から弱々しくなって、最後は心労で死んでしまう。なぜこれほどに性格が変わったのだろうか。ただ、これについては説明がつかないこともない。すなわち、ホントはさして気丈夫ではなかったのだが無理をしていた、その無理がきかなくなって弱気が出たという説明である。

次は疑問ではなく、私の無知をさらけだすものである。「侍女」という言葉がある。私はそれを表す英語が「lady-in-waiting」であることを初めて知り、おお!「待つ」と「wait」、同じじゃん、そうか、奥方様の命令を控え室で待っているから「待つ」「wait」なのだな、と勝手にガテンがいったのである。

レーザーディスクのプレーヤーの中古を購入してから押入の肥やしになっていたディスクを随分聴いた。ヴェルディのオペラでは「マクベス」以外に「ナブッコ」「第一十字軍のロンバルディア」「エルナーニ」「二人のフォスカリ」「ジョヴァンナ・ダルコ」「ルイザ・ミラー」と言った初期作品の数々。若い頃のヴェルディは活気に満ちていて、聞いてて元気になる。それにしても、レーザーディスクのソフトを売る会社はよくこんなマイナーな作品群のディスクを商品化してくれたものである。感謝感激雨あられである。