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リコの游サロン

文化、芸術、手芸など人生を豊かにする情報発信ブログを始めました。より良いブログに育てるためにコメントなどお寄せください。

ブログ開設3周年

2021-04-23 | 奇貨譚

2021年4月23日で「リコの文芸サロン」を開設して3年経ちました。

その間に書いたブログが379本に成ります。
その中から是非、皆様に今一度読んでいただきたい記事を再掲します。

今後とも「リコの文芸サロン」をよろしくお願いいたします。

★★2018年12月19日★★

今年のリコのブログのお気に入りランキング第3位は「何の為に生きているのか」とのタイトルでアップした私の随想「力の限り」です。11月15日の松井一恵さんの随想(絶筆)「身体」に応えて書いた私の随想です。

2018年12月19日

松井一恵さん(たっちゃん)が死の20日前に書いた随想「身体」(11月14日ブログに再アップ)に「結局、治らない、何の為に治療を続け、辛い思いしてまで生きなくてはいけないでしょうか?」と重い問いかけが在ります。何とか彼女を励ましたいと思い、リコは一恵さんに下記のラインを送りました。

図らずもその日付は9月11日彼女の死の2週間前でした。一恵さんの闘病の日々を書いてみました。

力の限り     涼風

松井一恵さんが平成30年9月26日に逝去されました。55歳という早すぎる旅立ちでした。昨年の6月に腹膜癌が判り治療を続けておられましたが受け入れ難い事になりました。一恵さんの様に賢くて冷静な女性に会ったのは私の人生で初めてでした。

〇ブラインド上げておいてね看護婦さん我が家へ続く道見たいから


病室での詠草は内容が限られていますが、自分の想いを表現する短歌を充分に活用された
入院の日々だったと思います。

〇光り満つる春の街へと出かけたし水色リネンのスカーフ纏ひ 

 若々しく、センスの良い歌を詠まれる一恵さんの詠草は段々と透明になり歌がすっと立って来るように感じました。

〇憂鬱が押し寄せる日はいつもより紅きシャネルのルージュをひこう  

 彼女はフランス語、英語が得意なのでお洒落な言葉を巧みに使う伸び伸びとした感性があり、伝統的な詠み手の多い
 短歌結社の中で一恵さんの新しい歌風の成熟を私は楽しみに注目していました。

 再入院の今年の7月上旬に病が重くなっても写真や家族、花々、フランス語の詩文のトークがラインに届き、いつも通り一恵さんは冷静そのものでした。
7月中旬には病院のベッドの上でスマホに何回も原稿の下書きをし、随想「忘れじと思ふ」を短歌誌に投稿されました。(8月号掲載)熱が出るようになっても病室にパソコンを持ち込んで2つ目の随想「匂い」(9月号掲載)を、3つ目の「懐かしの授業参観」(10月号掲載)を書きあげられました。驚くべき精神力です。
8月10日には「このところずっと怠くてしんどいので、もうダメかもしれないです。がんばりましたが」とラインが届きましたが、9月10日には4編目の随想「身体」を書かれました。(11月号掲載)この随想の中に「なんの為に生きているの」と重い問いかけが在ります。私は早速、一恵さんにラインで返信を送りました。

【ただ見ればなんの苦も無き水鳥の足に忙しき我が思いかな‥・水戸光圀。人は何気無く生きて居るように見えても何かしらの想いや悩みを背負い生きて居ます。あなたの随想「身体」を拝読しました。
「何のために生きているのか」は重い問いかけです。貴女は明日をも知れぬ病状で4編もの随想を書けた。重症の人が何を考え、どんな病に苦しんでいるのかを書けた。だれもがそれを書ける訳ではない。貴女に出来ない事を考えると何の為に生きているのかと成りますが、出来る事を考えたら、貴女は誰にでも出来ない日々を強い精神力で生きて居る。私は姉を1ヵ月間病院に泊まって看病しましたが、姉はいつもウトウトしていて、会話も無く、56歳で姉は亡くなりました。】

 〇年ごとに一歩の幅の狭くなる父を支ふる靴の小ささ

〇「いつまでもいついつまでも頑張れ」と父の言葉に枕を濡らす

 〇帰り行く子の手を握り「またね」と返すその瞬間が来るのが辛し

私は最愛の若き友人を亡くしました。寂しい限りです。

 〇賢くて愛しきひとよ貴女との四百日を力の限り   涼風

※一恵さんの木目込み手芸作品「春の宴」です。
彼女は卯年(うさぎ)で、リコのブログのマスコットは偶然にうさぎの花瓶です。一恵さんとのご縁を感じます。

リコのブログのマスコットです。玉すだれ、ヒオウギの花を浄瑠璃寺の参道で見つけた、うさぎが丸窓に坐る花瓶。

    

 

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死してなほ武士道

2021-04-23 | 奇貨譚
昨年の11月に京都市山科の岩屋寺を訪問しその時の感動を詠みました。
山科の岩屋寺に大石内蔵助は討ち入りまでの1年間を住みました。

 死してなほ武士道   涼風

〇これがあの大石内蔵助の隠れ里岩屋寺の門をしばし見あぐる

〇改易と殿切腹の七日後に京都に土地を捜しき大石

〇内蔵助は仇討ちまでの一年を何を思ひてここに住みしか

〇山科に大石殿の遺髪塚三百年の時は流れぬ

〇戒名に「刀と剣」の文字の有り四十七士の武士道みたり

〇座禅組みその手に己の首を置き泉岳寺にて埋葬されき

〇享年は十六歳の肖像の大石力の童顔いたまし

〇岩屋寺に展示の衣桁衝立も銭函までも黒光りする




内蔵助の遺髪塚









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忠臣蔵:大石内蔵助②

2021-04-23 | 奇貨譚
内蔵助は主君、浅野内匠頭(享年33)の切腹を聞いた3日後に手紙を京都の岩清水八幡宮の親戚に出して大津、山科、伏見、八幡の何処かに土地を探すよう依頼したそうです。
最終的に山科の岩屋寺の住職が親戚だったので山科に決めたそうです。

義士堂には東郷平八郎元帥、揮毫の「赤穂義士」の扁額。花押は軍艦マークが特徴です。


内蔵助愛用の小刀の銘文は、
万山重からず君恩は重し、一髪軽からず我命は軽し
(萬の山よりも主君の恩は重く、その前では自分の命は1本の髪の毛よりも軽い)
左右の札の意味です。




浅野内匠頭の弟によって御家復活を望んでいたが、不可能になり、内蔵助は仇討ちを決意したようです。
遊び呆けたふりをしながら、周到に整えられた討ち入り準備と共に、身命を賭して君恩に報いねばとの内蔵助の強い覚悟が窺えます。

明治天皇の「忠義の士と認める」のお言葉(勅語)の額です。


内蔵助、享年43(右)と力の肖像画。
力は16歳で亡くなっているのでまだ、少年の面影ですね。



正面に内蔵助、その左に力の像です。


左右の義士達の像は槍、木槌をもち戦の出で立ちで並びます。





大石邸前の紅葉です。

カラスウリの開花を写真に撮ってくれて、実から種子を出して見せてくれたキキさんです。






大石内蔵助の遺髪塚です。




正面の四角い石の下に遺髪が埋葬してあります。

紅葉を見ながら山道を下ると、大石神社です。







文化講座の楽みゅう先生と大石神社の花ちゃん17歳の馬です。




京都テレビで12月6日、21時からこのお寺の特集が放映されます。
BS11でも12月21日の20時から放映されます。
近付いたら番組表でご確認下さい。


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忠臣蔵:大石内蔵助

2021-04-23 | 奇貨譚
「時は元禄15年」と12月になると必ず「忠臣蔵」がドラマになります。
1703年12月14日に主君、浅野内匠頭の仇討ちに吉良上野介の屋敷に討ち入った。

大石内蔵助が江戸に仇討ちに立つまでの約1年を住んだ京都市山科の住居跡を訪ねました。



写真を自由に撮らせて頂きましたので一覧で紹介します。



この階段を子猿が駆け上りました。今でもお猿さんが姿を見せるなら、内蔵助が住んでいた300年前はもっと鄙びた山里だったでしょう。

本堂の右横に内蔵助始め、47士の位牌が祀ってある。戒名は全員上と下に同じ字が使ってある。
「刃〇〇〇剱」



浅野内匠頭の肖像画と
「かぜさそふ はなよりもなを われはまた はるのなごりを いかにとかせむ」の辞世が展示されていた。





300年以上前に内蔵助が使っていた机が残っているなんて不思議な感じがします。


いわゆる、金庫です。



衣桁(いこう・・・衣を掛ける家具)
低い方は衝立(障子が張ってあったそうです。)



赤穂の家の瓦です。赤穂を出るとき持って来た家紋入りの瓦です。

「お知らせ」・・今日、お寺で聞きました。
★12月6日の夜21 時から京都テレビでこの寺の中継があります。

★12月21日の夜20時にBS11でも放映されます。

続く②へ







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