今回の動画です。
徳川家康は上杉征伐の途中、石田三成ら西軍の挙兵を知り、打倒三成に向け東軍を結成した。
しかし東軍のほとんどは、三成を嫌う加藤清正や福島正則ら豊臣家臣だった。家康はこの自分の直臣ではない、豊臣家臣をどのように従わせて戦わせたのか…今回の動画では、関ヶ原の決戦に向けた家康の支配力を紹介する。
またなぜ決戦の舞台が関ヶ原になったのかも地図を交えながら、家康や三成の動きを紹介。
今回の動画です。
徳川家康は上杉征伐の途中、石田三成ら西軍の挙兵を知り、打倒三成に向け東軍を結成した。
しかし東軍のほとんどは、三成を嫌う加藤清正や福島正則ら豊臣家臣だった。家康はこの自分の直臣ではない、豊臣家臣をどのように従わせて戦わせたのか…今回の動画では、関ヶ原の決戦に向けた家康の支配力を紹介する。
またなぜ決戦の舞台が関ヶ原になったのかも地図を交えながら、家康や三成の動きを紹介。
今回動画です。
<span style="font-weight:bold;">伏見城の戦い 玉砕した鳥居元忠の覚悟と細川ガラシャの死</span>
徳川家康が上杉征伐へ行っている間に、石田三成は西軍を結集させ家康の拠点の一つ伏見城を攻めた。そこを僅かな兵で守っていたのが、鳥居元忠だった。わずかな期間で落ちるだろうといわれていた伏見城だったが、二週間以上粘り、三成率いる西軍の進軍を許さなかった。また三成は、家康側についた豊臣の武将たちの妻子を人質に取った。ところが、その中の一人細川忠興の妻・細川ガラシャは、自ら命を絶ってしまったのである。これらの出来事で、東軍の士気は上がり、打倒三成へと動いていった。
今回の動画です。
徳川家康が反三成の豊臣家臣を引き連れ、上杉征伐へ行っていた頃、家康を討とうと考えていた石田三成、大谷吉継らは、家康を追い詰めるための書状「内府違いの条々」を全国の大名たちに出した。こうして打倒と徳川家康に向け、毛利輝元を総大将に西軍が結成された。
今回は三成の盟友といわれている大谷吉継について紹介するとともに、そのように西軍が結成されていき、関ヶ原の戦いへと進んでいったのかを紹介する。
今回の動画です。
豊臣秀吉の死後、跡取りの秀頼を支えるためにつくった五大老五奉行制が崩壊し、徳川家康が次の天下人として台頭してきた。石田三成は豊臣家が徳川家康に乗っ取られるのではないかと危機を感じていた。そんなとき上杉景勝が徳川家康に背き、謀反を起こすような動きをした。そして景勝の家臣・直江兼続が家康に一通の書状を送ったのである。その書状こそが、関ヶ原の戦いの引き金となった「直江状」である。これは徳川を討つための三成と景勝の功名な罠だったのか…。今回の動画では、そんな直江状を解説!