「四時五十二分。――あと八分で逃げられなくなるところだったな、危ない危ない」
紫村の索敵範囲からやや外れた、とある歩道に現れた三人。その三人に囲まれるようにして落ちていた腕時計を拾い上げ、針が指す時刻を確認した三人の内の一人である求道は、にやついた口調でそう呟いた。残る二人は、まるでベッドの上にいるかのように力無く横になっている。
求道の鬼道。それは求道本人から『非常口』と呼ばれ、その内容は、『過去一時間以内に触れた物の場所へ、同じくそれに触れた者を伴なって移動する事ができる』というものである。
それは黄芽の『呼び寄せ』と真逆のような鬼道であるがしかし、穂村姉が発生させていた炎の壁に阻まれてそれを見ていない求道には与り知らぬ事であり、更に言うならば、知っていたところで何の価値も無い情報ではあるのだろう。
「本当に……すいませんでした、求道さん」
「謝る必要は無いと言っただろう、冷香くん。道路の上で悪いが、動けるようになるまでそのまま休んでいてくれ」
求道は拾った腕時計を右腕にはめつつ、横たわったまま顔だけを持ち上げて再度謝罪する穂村姉に、それまでのにやけを殺して諭すようにそう言った。
「はい……」
求道のそんな言葉を聞いて静かに顔を下ろす穂村姉の目からは、涙がじわりと溢れ始めていた。
それは立っている求道から窺える角度ではなかったが、
「……………」
いつの間にか気を取り戻していた穂村弟の薄く開いた目には、それがはっきりと映っていた。しかしだからと言ってどうするでもなく、穂村弟は横になったままであった。恐らくは求道も穂村姉も、彼が目を覚ました事に気付いていないだろう。
穂村弟は、ついに一度も完全に開く事無く、その目を閉じた。
「俺はまた威勢だけだったってのかよ」
そして発した誰の耳にも届かないその愚痴には、隣の姉に負けないほど落胆的な苛立ちが湛えられていた。
「本日はお疲れ様、だ。二人とも」
「自転車、大丈夫みたい」
「それは何より。僕の鬼道では直せませんからねえ」
「あー、どんくらいぶりだろうな白井に怪我ぁ治してもらったの」
緑川が横倒しになった籠の無い自転車を立たせ、白井は黄芽の肩に手を置き、黄芽は携帯を耳に当てながら、身体の表面上の擦り傷、そして表面上ではない皮膚下や内臓のダメージを全て白井に取り去ってもらう。これで、戦闘によって傷付いたり血や汗が染みこんだ黄芽と白井の衣服以外、全てが戦闘前の状態に戻った、という事になる。
「あ、紫村さん? 俺」
白井の手が黄芽の肩から離れると、一、二回のコールを経た黄芽の携帯が相手と繋がった。紫村への、報告である。
「――いや、逃げられちまいました。――ええ。ありゃ鬼道ですね、間違い無く。――ああ、俺も白井も千秋もぴんぴんしてますよ。白井がいるから当たり前っちゃ当たり前ですが。――ええ、お疲れ様」
内容の割にあまり悲壮感も無く、また、そんなに長くない報告は一分掛かるか掛からないかの僅かな時間で終了。黄芽は、携帯をぱたんと音を立てて二つに折り、ジーンズのポケットに押し込んだ。
「仕事の失敗なんて、黄芽さんが怪我した事以上に久しぶりですねえ」
「まさに骨折り損のくたびれ儲けってやつだな。明日っから休みだし、まだいいけどよ」
「それにしても、僕の相手はどえらいキレっぷりでしたよ。千切れた僕の腕見て爆笑するんですよ? まあ、その隙のおかげで勝てたんですけど」
「んだそりゃ? 間違った意味で怖えな、最近のガキは。……こっちはなあ、あのクソ暑いのとついでに寝不足さえ無けりゃ、もうちょい楽だったんだろうけどよお」
まるで仕事上がりの他愛無い会話(まあ、間違ってはいないのだが)のように今回の失敗と戦闘を振り返る白井と黄芽。先程までの緊迫との対比に、緑川はつい笑ってしまいそうになった。
――だけど、笑うよりも前に言う事があるよね。
「あの、ありがとうございました。千尋さん、修治くん」
「……おぅおぅ、嬉しそうにしちゃってまあ」
「今、千秋くんが女の子だったらなって、不覚にも思ってしまいましたよ」
「ほえ?」
緑川は、緑川だけは、気付かなかった。笑いを抑えようとして抑え切れておらず、それが絶妙に絶妙を重ねたと言えるほどの魅力的な微笑を作り上げていた事に。
――そして、言うまでも無くそれは女性としての魅力である。
「お礼を言う必要は無いですよ千秋くん。これが僕等の仕事ですから。今は取り敢えず、家に帰ってゆっくり休んでください。見ていただけとは言え疲れたでしょう?」
白井は眼鏡の位置を意味も無く直した後、骨抜きにされそうな微笑みから呆けた顔に移行した緑川に、それまでのにやけを殺して優しくそう言った。
「うん!」
白井のそんな言葉を聞いて元気良く顔を頷かせる緑川の目からは、その気遣いへの感謝と嬉しさの感情がありありと溢れていた。
それはもちろん黄芽からも窺えるものであったが、
「……………」
黄芽はそれを正視しようとせず不自然に横を向き、しかしその横目にははっきりとそれが映っていた。しかしだからと言ってどうするでもなく、黄芽は横を向いたままであった。恐らくは緑川も白井も、彼女が目だけを向けていた事に気付いていないだろう。
黄芽は、ついに一度も完全に向き直る事無く、その顔を緑川から背けた。
「んじゃ、赤と青も心配してるだろうしな。俺先に帰るわ」
しかし背けたその顔には、先程の緑川に負けないほど魅力的な微笑みが湛えられていた。
「お疲れ様でした、黄芽さん」
「また明日、千尋さん」
背を向けたままだったので、その微笑みは誰にも見られる事はなかったが。
「じゃ。僕も帰ります。誰にも見られないとは言え、こんなパンクな服装で外を出歩くのは恥ずかしいですから」
「あはは、そうだね。肩ビリビリだし。――じゃあ、最後に。修治くん?」
「はい?」
帰路に着こうと踵を返す途中に声を掛けられた白井は、半端な向きで方向の修正を停止させた。顔だけはしっかりと緑川へ向けられていたが。
「ボク、女の子じゃないから」
いつもの台詞ほどには、怒った様子ではなかった。もちろん、全く怒っていないという訳でもなかったが。
「それは実に残念ですねえ。ではまた明日、いつもの工場で」
「うん。ばいばい」
――明日は日曜日。しかも、千尋さんと修治くんは明日から非番。そうだなあ……みかん、持って行こう。余ってたら。もし千尋さんが「もっとよこせ」って言い出したら、ボクの分をあげよう。遠慮なんかしないで、「あげます」って言った途端に奪い去られちゃうんだろうなあ。そして修治くんがそれに呆れて、赤ちゃん青くんが笑って。
明日はいっぱい楽しもう。
今日、こんな事があった分。
二つの方向へ遠ざかる二つの背中を暫らく眺め、緑川は籠の無い自転車に跨った。そしてその二つのどちらとも違う、三つ目の方向へ進み始めた。
今はいったん別れる。今回の出来事を思い出して、一人で恐怖する事もあるのだろう。だがそれも明日の朝には、再び重なった二つの道と、その一つと共にある小さな二つの道によって、あっさり払拭されるだろう。
「中々やるようだな、『鬼――いや、きみの友人二人は』」
そういう意図があってそう言ったのではないのであろうが、そして彼を、その言葉だけでも思い出すのは心に寒風が吹き抜ける心地であったが、実にその言葉の通り。
「千尋さんも修治くんも鬼だけど、その前に友達だもんね。もちろん赤ちゃんと青くんも」
どこまでもどこまでも頼りになる友人達の存在に、今現在の緑川は、威張って見えるほど胸を張っていた。
――みかん、一人二個分くらい……は、ちょっと持ち切れないかな? いや、そもそもそんなに残ってないかも? うーん、あったらいいなあ。あの人、あればあるだけ喜ぶだろうし。
不幸な少年、緑川千秋。彼は圧倒的に、もしくは僅かに、人より多く事件に遭遇してゆく。それは小さな小さな取るに足らないものから、今回のような大きな大きなものまで。だがそれらは終わってから振り返ってみればいつも竜頭蛇尾で、どんなに小さな事件でもその最中には竜頭であり、どんなに大きな事件でも終わってみれば蛇尾である。
常に竜頭であれば息切れしてしまう。常に蛇尾であれば飽きてしまう。世間はそうして太くなり細くなり、日々を渡ってゆく。
今回もまた一つの事件が蛇の尾となり、となればいずれは別の、竜の頭がやって来るのだろう。だが――
――何もない日があったって、ばちは当たらないよね。なんたって明日は日曜日だし、あの二人は非番だし、めいっぱいのんびりしよう。みんなで。
そんな蛇の尾すら途切れたような余暇をも含め、緑川の世間は先へ先へと渡ってゆく。これまでがそうであったように、これからも。
紫村の索敵範囲からやや外れた、とある歩道に現れた三人。その三人に囲まれるようにして落ちていた腕時計を拾い上げ、針が指す時刻を確認した三人の内の一人である求道は、にやついた口調でそう呟いた。残る二人は、まるでベッドの上にいるかのように力無く横になっている。
求道の鬼道。それは求道本人から『非常口』と呼ばれ、その内容は、『過去一時間以内に触れた物の場所へ、同じくそれに触れた者を伴なって移動する事ができる』というものである。
それは黄芽の『呼び寄せ』と真逆のような鬼道であるがしかし、穂村姉が発生させていた炎の壁に阻まれてそれを見ていない求道には与り知らぬ事であり、更に言うならば、知っていたところで何の価値も無い情報ではあるのだろう。
「本当に……すいませんでした、求道さん」
「謝る必要は無いと言っただろう、冷香くん。道路の上で悪いが、動けるようになるまでそのまま休んでいてくれ」
求道は拾った腕時計を右腕にはめつつ、横たわったまま顔だけを持ち上げて再度謝罪する穂村姉に、それまでのにやけを殺して諭すようにそう言った。
「はい……」
求道のそんな言葉を聞いて静かに顔を下ろす穂村姉の目からは、涙がじわりと溢れ始めていた。
それは立っている求道から窺える角度ではなかったが、
「……………」
いつの間にか気を取り戻していた穂村弟の薄く開いた目には、それがはっきりと映っていた。しかしだからと言ってどうするでもなく、穂村弟は横になったままであった。恐らくは求道も穂村姉も、彼が目を覚ました事に気付いていないだろう。
穂村弟は、ついに一度も完全に開く事無く、その目を閉じた。
「俺はまた威勢だけだったってのかよ」
そして発した誰の耳にも届かないその愚痴には、隣の姉に負けないほど落胆的な苛立ちが湛えられていた。
「本日はお疲れ様、だ。二人とも」
「自転車、大丈夫みたい」
「それは何より。僕の鬼道では直せませんからねえ」
「あー、どんくらいぶりだろうな白井に怪我ぁ治してもらったの」
緑川が横倒しになった籠の無い自転車を立たせ、白井は黄芽の肩に手を置き、黄芽は携帯を耳に当てながら、身体の表面上の擦り傷、そして表面上ではない皮膚下や内臓のダメージを全て白井に取り去ってもらう。これで、戦闘によって傷付いたり血や汗が染みこんだ黄芽と白井の衣服以外、全てが戦闘前の状態に戻った、という事になる。
「あ、紫村さん? 俺」
白井の手が黄芽の肩から離れると、一、二回のコールを経た黄芽の携帯が相手と繋がった。紫村への、報告である。
「――いや、逃げられちまいました。――ええ。ありゃ鬼道ですね、間違い無く。――ああ、俺も白井も千秋もぴんぴんしてますよ。白井がいるから当たり前っちゃ当たり前ですが。――ええ、お疲れ様」
内容の割にあまり悲壮感も無く、また、そんなに長くない報告は一分掛かるか掛からないかの僅かな時間で終了。黄芽は、携帯をぱたんと音を立てて二つに折り、ジーンズのポケットに押し込んだ。
「仕事の失敗なんて、黄芽さんが怪我した事以上に久しぶりですねえ」
「まさに骨折り損のくたびれ儲けってやつだな。明日っから休みだし、まだいいけどよ」
「それにしても、僕の相手はどえらいキレっぷりでしたよ。千切れた僕の腕見て爆笑するんですよ? まあ、その隙のおかげで勝てたんですけど」
「んだそりゃ? 間違った意味で怖えな、最近のガキは。……こっちはなあ、あのクソ暑いのとついでに寝不足さえ無けりゃ、もうちょい楽だったんだろうけどよお」
まるで仕事上がりの他愛無い会話(まあ、間違ってはいないのだが)のように今回の失敗と戦闘を振り返る白井と黄芽。先程までの緊迫との対比に、緑川はつい笑ってしまいそうになった。
――だけど、笑うよりも前に言う事があるよね。
「あの、ありがとうございました。千尋さん、修治くん」
「……おぅおぅ、嬉しそうにしちゃってまあ」
「今、千秋くんが女の子だったらなって、不覚にも思ってしまいましたよ」
「ほえ?」
緑川は、緑川だけは、気付かなかった。笑いを抑えようとして抑え切れておらず、それが絶妙に絶妙を重ねたと言えるほどの魅力的な微笑を作り上げていた事に。
――そして、言うまでも無くそれは女性としての魅力である。
「お礼を言う必要は無いですよ千秋くん。これが僕等の仕事ですから。今は取り敢えず、家に帰ってゆっくり休んでください。見ていただけとは言え疲れたでしょう?」
白井は眼鏡の位置を意味も無く直した後、骨抜きにされそうな微笑みから呆けた顔に移行した緑川に、それまでのにやけを殺して優しくそう言った。
「うん!」
白井のそんな言葉を聞いて元気良く顔を頷かせる緑川の目からは、その気遣いへの感謝と嬉しさの感情がありありと溢れていた。
それはもちろん黄芽からも窺えるものであったが、
「……………」
黄芽はそれを正視しようとせず不自然に横を向き、しかしその横目にははっきりとそれが映っていた。しかしだからと言ってどうするでもなく、黄芽は横を向いたままであった。恐らくは緑川も白井も、彼女が目だけを向けていた事に気付いていないだろう。
黄芽は、ついに一度も完全に向き直る事無く、その顔を緑川から背けた。
「んじゃ、赤と青も心配してるだろうしな。俺先に帰るわ」
しかし背けたその顔には、先程の緑川に負けないほど魅力的な微笑みが湛えられていた。
「お疲れ様でした、黄芽さん」
「また明日、千尋さん」
背を向けたままだったので、その微笑みは誰にも見られる事はなかったが。
「じゃ。僕も帰ります。誰にも見られないとは言え、こんなパンクな服装で外を出歩くのは恥ずかしいですから」
「あはは、そうだね。肩ビリビリだし。――じゃあ、最後に。修治くん?」
「はい?」
帰路に着こうと踵を返す途中に声を掛けられた白井は、半端な向きで方向の修正を停止させた。顔だけはしっかりと緑川へ向けられていたが。
「ボク、女の子じゃないから」
いつもの台詞ほどには、怒った様子ではなかった。もちろん、全く怒っていないという訳でもなかったが。
「それは実に残念ですねえ。ではまた明日、いつもの工場で」
「うん。ばいばい」
――明日は日曜日。しかも、千尋さんと修治くんは明日から非番。そうだなあ……みかん、持って行こう。余ってたら。もし千尋さんが「もっとよこせ」って言い出したら、ボクの分をあげよう。遠慮なんかしないで、「あげます」って言った途端に奪い去られちゃうんだろうなあ。そして修治くんがそれに呆れて、赤ちゃん青くんが笑って。
明日はいっぱい楽しもう。
今日、こんな事があった分。
二つの方向へ遠ざかる二つの背中を暫らく眺め、緑川は籠の無い自転車に跨った。そしてその二つのどちらとも違う、三つ目の方向へ進み始めた。
今はいったん別れる。今回の出来事を思い出して、一人で恐怖する事もあるのだろう。だがそれも明日の朝には、再び重なった二つの道と、その一つと共にある小さな二つの道によって、あっさり払拭されるだろう。
「中々やるようだな、『鬼――いや、きみの友人二人は』」
そういう意図があってそう言ったのではないのであろうが、そして彼を、その言葉だけでも思い出すのは心に寒風が吹き抜ける心地であったが、実にその言葉の通り。
「千尋さんも修治くんも鬼だけど、その前に友達だもんね。もちろん赤ちゃんと青くんも」
どこまでもどこまでも頼りになる友人達の存在に、今現在の緑川は、威張って見えるほど胸を張っていた。
――みかん、一人二個分くらい……は、ちょっと持ち切れないかな? いや、そもそもそんなに残ってないかも? うーん、あったらいいなあ。あの人、あればあるだけ喜ぶだろうし。
不幸な少年、緑川千秋。彼は圧倒的に、もしくは僅かに、人より多く事件に遭遇してゆく。それは小さな小さな取るに足らないものから、今回のような大きな大きなものまで。だがそれらは終わってから振り返ってみればいつも竜頭蛇尾で、どんなに小さな事件でもその最中には竜頭であり、どんなに大きな事件でも終わってみれば蛇尾である。
常に竜頭であれば息切れしてしまう。常に蛇尾であれば飽きてしまう。世間はそうして太くなり細くなり、日々を渡ってゆく。
今回もまた一つの事件が蛇の尾となり、となればいずれは別の、竜の頭がやって来るのだろう。だが――
――何もない日があったって、ばちは当たらないよね。なんたって明日は日曜日だし、あの二人は非番だし、めいっぱいのんびりしよう。みんなで。
そんな蛇の尾すら途切れたような余暇をも含め、緑川の世間は先へ先へと渡ってゆく。これまでがそうであったように、これからも。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます