ユーカリスティア記念協会のブログ

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研究会が待ちきれない

2013年05月30日 23時31分03秒 | 研究会
次回研究会開催前にもかかわらず、発題者の個人的な準備の場に飛び込む形になります。すみません。でも研究会まで待ちきれません。それほどわくわくなのです。ここに私も徒然と、発題に対して思うことを述べてみたいと思います。

まずは質問からです。
発題者さまは、ホワイトヘッド研究家としてカブのプロセス神学をどのように評価されているでしょうか。言い換えるとこれは、カブが「ホワイトヘッドの宗教哲学的・宇宙論的な形而上学を媒介として」プロセス神学への道を開いた、という命題に対して、その命題をホワイトへディアンとして受け入れられるのか、という問題です。

この問題意識はおそらく、哲学者である発題者が、哲学にとって野呂神学が「魅力的であると同時に脅威」と表現していることとも関連があると思います。それは後に言及するとして、さらにいえば、プロセス論のみならず宗教哲学と神学の間には深い溝があるわけですが、その溝を埋めようと試みるのは大概、これまで神学の側からであったといえます。もちろんこのようなやり方には神学者側の主張もあるのですが、しかしこのような神学者の態度は、多くの哲学者の疳に触るものであった(ある)に違いありません。つまり、神学という、最終的には「信仰告白とならざるを得ないもの」(とどこかで野呂も書いていましたが)の理論構築の道具として哲学を利用するのはけしからん、というような神学の傲慢に対する否、この否について、ホワイトへディアンとしてプロセス神学に対してどうお考えになるのか、その評価についてお聞きしたいところです。

この質問は、言うまでもなく、野呂によるカブのプロセス神学への批判とも異なっています。野呂の場合はプロセス神学の役割を評価することでその存在が是認されているという前提がありますが、私の質問はある意味、その神学の存在自体の是非を問うているともいえます。

なぜこのような質問が出てくるのかというと、野呂の場合は実存論的神学ですがそれも含めて、これまで哲学者にとって神学は、発題者がありがたいことにもおっしゃってくださるように「魅力的」でもなければ、ましてや「脅威」になどなり得ない対象であった、といえるからです。このように言っても決して自虐的ではないでしょう。

つまり、哲学者にとって神学とは、主観を正当化するために他の学域まで踏み込んでそれを利用して理論構築しているに過ぎず、それは検証するに値しないという批判以前の批判がなされ、一方神学者からすると、宗教哲学は形而上学的な机上の遊びに過ぎない、という批判がこれまでなされてきました。その両者の態度が、哲学と神学の間の溝となって現れているのだと思います。

しかし今回、発題者は次のようにおっしゃいます。

「……媒介概念では漏れてしまうような、しかし「キリスト教の核」と野呂が呼ぶような何かに強く結びついた、ある要素。それをいかに語るかという問題こそ、論理では汲み尽くせないものがそれでもリアルにある、ということをいかに論理的に語るかという、20世紀の哲学が直面した課題の深化発展だと私には見えます。こんなことは、現代の神学者には当たり前のことなのかもしれませんが、哲学者にとっては非常に興味深い議論です。カブがホワイトヘッド哲学を「媒介概念」として用いていることに対する野呂の批判は、論理においては語り得ないものが信仰と実存の核にあるということから展開された、哲学から神学への発展的な回帰の道程だといえます。つまり、カブから野呂へと批判的に継承発展していく線において、前世紀を通じてさまざまに変奏されながらくり返されてきた哲学的主題、語り得ないものについての哲学的思索の限界と、その限界をそれでも突破しうる人間の在り方への洞察が、こうした哲学的議論がそもそも由来したはずの本来の倫理的・神学的な地盤に立ち返って展開されていくように思われるのです。」

これまでの哲学-神学関係を振り返りますと、この発題者の姿勢は発想のコペルニクス的転換ではないでしょうか。発題者がホワイトへディアンであるからこそ、このような発想の転換が可能になるのでしょうか。

思うままに、ひとまず現在の質問などを書き散らしてみました。もちろん、この場で回答がほしいということでは全くなく、参加者のひとりがこんなことを考えているということを、皆さまが頭の片隅に置いてくだされば嬉しいです。(林昌子)