ユーカリスティア記念協会のブログ

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神学の門外漢である哲学徒が野呂神学を学ぶということ 2

2013年05月28日 22時42分31秒 | 研究会
プロセス哲学の徒である私が野呂神学の魅力と脅威について語るためには、どうしてもプロセス神学とホワイトヘッド哲学に触れないわけにいきません。

少々回りくどいですが、野呂神学がプロセス神学をどのように評価していたのかをざっと見てみましょう。

プロセス神学者として知られ、またウェスレー研究者でもあるジョン・B.カブは、『対話を越えて―キリスト教と仏教の相互変革の展望』(延原時行訳、行路社)において、キリスト教と仏教の宗教間対話を試みつつ、両宗教の対話とはいかなるものか、また、どこへ向かうのかを論じています。カブのこの著作は、それ自体たいへん読み応えのある、深い思索と寛容の精神に満ちた優れた神学書・哲学書ですが、ここではその内容には踏み込みません。ただ、神戸生れで日本にも知己の多いカブが、大乗仏教、特に浄土教との対話を行う際、メソジストのキリスト者であり神学者である彼にとって仏教はただ書物を通じて理解されただけのものでなく、むしろ多くの仏教者との実地の対話のなかで出会われたものだということが大事だと思います。

カブは、キリスト教と仏教の対話を通じて仏教理解を深めるとともに、対話のうちで相手の視座から自らを見ることを通じてキリスト教への理解をも深めています。彼は、両者が互いに重なり合うところを深く認識し、それぞれに欠けているところを補い合い、そうして互いの意義を認めつつ自らの信仰において欠けているところを補完しつつ、それぞれの信仰が深まりつつ変容していくプロセスを論じるのです。つまり、対話とは、相互理解を通じて相互変革(mutual transformation)していくプロセスなのです。

そして、この対話における相手への理解の深まりと、相手の視座から見た自己理解の深まりによって相互理解と変革の地平が開けるのですが、この地平を開くための媒介となるのが、ホワイトヘッドの宗教哲学的・宇宙論的な形而上学なのです。

カブのこうした議論を、野呂は次のように説明しています。カブの長い思索と対話の道を、非常に簡潔に、しかも的確にまとめた文章です。

「宗教体験には必ず核になるものがあって、それに適合するもののみを取り入れ、それ自体を豊かにして行く。キリスト教の場合には、ユダヤ教の天地の創造神、及び、ナザレのイエスの十字架上の死と復活とが核を作り、他の諸要素が有機的に核を豊かにする仕方で結合してきた。しかし、混淆していると非難される民衆宗教にしても、自分の信仰を理論的に理解することが苦手である庶民の信仰にしても、事情は同じなのではないか。一人の人間が、同時に核が二つも三つもある信仰生活など送れる訳がない。深層心理に隠れていて、本人にとっても自覚に登ってこないような核もあるのである。
混淆宗教をこのようなものと考えてくると、カブが『対話を超えて』の中で結論として出しているものも、仏教とキリスト教との両方に対して相手と混淆せよ、ということに外ならない。勿論両者はそれぞれの核をもち、それに反するものを受け入れるようにとは勧められていない。しかしながら、キリスト教はその神の理解にあたって仏教の空(真如、無)の思想を受け入れ、神観を深めるべきであるとされ、大乗仏教、特に浄土教は、その阿彌陀如来の本願に見られる慈悲の教えに、ナザレのイエスの歴史性を受け入れることにより、慈悲の歴史的具現化たるキリストに帰依して、その本質を深めるべきである、と主張されている。」(『十字架と蓮華』48ページ)


およそカブの議論の要点はここに尽くされているといっていいでしょう。しかも、ここには、カブに対する野呂の深い理解だけでなく、カブへの批判も暗に含まれています。カブの対話論は、相互理解に至るプロセスとしての対話を超えた、相互変容のプロセスとしての対話という地平を開いています。野呂の批判は、それを否定するのではありません。むしろ、カブの議論を踏まえつつ、それをさらに超えて独自の対話論を展開する方向へと向かうのです。

対話を通じて、キリスト教と仏教がそれぞれに相手の在り方を理解しつつ、自己の在り方を振り返り、相手に照らして自己理解を深め、その過程で自己変革していく、というのがカブの対話論の骨子です。要するに、カブは、他者理解と自己理解、そしてそれらを通じての自己相対化のプロセスを示して、キリスト教と仏教の相互理解が深まりつつ、創造的に自己を変革して、より深化した信仰の在り方を実現するべきだと説くのです。野呂が批判するのは、その変革のための相互理解や自己理解、そして自己相対化が、向き合う相手との対話だけでなく、ホワイトヘッド哲学という形而上学的論理体系を媒介にしている点です。

カブ自身も、「わたしは永く、ホワイトヘッドの概念性がキリスト教神学の定式化にとっても、仏教思想の解釈にとっても、効果的であることを、信じてきた」(『対話を超えて』254ページ)と言っています。

対話における相互理解と自己理解とを可能にする媒介として、ホワイトヘッド哲学はとても優れた道具です。しかし、この道具を持ち込んで相互理解を進めて自己を形成すると、混淆的に形成された新たな自己は、それぞれの宗教に固有の「宗教体験の核になるもの」をむしろ覆い隠してしまうのではないか。優れた道具であればあるほど、宗教体験の核となるものを論理的体系性や明晰判明性によって理解の外においやってしまうのではないか。これが、野呂による批判だったのだと思います。

「八木誠一氏の「統合の原理」にしろカブのホワイトヘッド哲学にしろ、それを媒介にして仏教とキリスト教との重なりあっている要素をわれわれに照明して見せてくれた点は有効であった。二人から私が教えられた事柄は実に多い。しかし、キリスト教を統合の原理やホワイトヘッド哲学に依存して理解しようとしても、私にはそういう媒介概念では漏れてしまう要素がキリスト教にはあると思える。それらの要素がまた、キリスト教の核と強く結合したものであると思えるのである」(『十字架と蓮華』53ページ)

カブの対話は、ホワイトヘッド哲学を媒介にして両宗教の重なり合うところを明らかにしました。このことを野呂は評価した上で、カブが、まさにホワイトヘッド哲学を「媒介概念」としてキリスト教(や仏教)を理解している点を批判しています。ホワイトヘッドのような哲学的原理や哲学的論理体系は、異なる宗教間での対話や相互理解の枠組みを提供する「媒介概念」として有効だと評価されますが、そのように論理体系に媒介されることによってクリアに理解されたキリスト教(や仏教)は、「キリスト教の核と強く結合した」要素を漏らしてしまう、というのが野呂の批判です。ここで媒介された理解のうちから漏れてしまう要素こそ、実存論的な意味での信仰のリアリティに他なりません。

この批判のなかには、実存論的神学の、まさに実存論的な立場があらわれていると思います。哲学的論理体系の媒介によって、異質で共約不可能に見えた諸宗教間に対話のための共通の地盤がもたらされ、私たちは相互理解と自己相対化を深めつつ他者と一致する新しい自己理解を得ることができます。カブは、このことを通じて創造的な自己変容にまで進むことができるとします。野呂の批判は、このときの自己、あるいは他者は、媒介概念によって抽象され一般化された自己像であり、今、ここで生きて対話しているこの自己の信仰のリアリティではなく、その論理的表現でしかない、というところにあるといえます。あるいは、媒介する論理体系によって照明された宗教とは、あくまで論理的・概念的な枠組みにそって解明された宗教であって、そこには血が通っていない、といってもいいかもしれません。

要するに、対話を通じての相互理解や自己理解、自己変容といっても、それは整合的で論理的な理解に立つもので、下世話な言い方をすれば、それでは話が清潔すぎるのです。対話とか相互理解、自己理解、自己変容というものには、もっとぐじゃぐじゃしたものがあって、論理では見通せず汲み尽くせない不透明さと、そう簡単に変容などとはいかない譲れない頑固さがあるものだ、そしてそのような論理では汲み尽くせない頑固なぐじゃぐじゃのうちにこそ、信仰の核があるのだということが、野呂の批判のなかにあるのだと思います。いや、すみません、野呂は頑固だとかぐじゃぐじゃだなんて言っていませんけれども。

媒介概念としてのホワイトヘッド哲学とプロセス神学。そこで語られる神は、「宗教体験の核となるもの」ではない、私たちの希望の神ではない、という批判、つまり「巨大なコンピュータの如きプロセス神学の神」(『神と希望』58ページ)という神学的批判も、ホワイトヘッド哲学やプロセス神学の潔癖すぎるほどに調和した論理的で整合的な宇宙論体系への批判から出てくる当然の帰結だと思います。もっとも私は、ホワイトヘッドはそんなに潔癖な調和的宇宙を描いてはいないと思うのですが。

媒介概念では漏れてしまうような、しかし「宗教体験の核」「キリスト教の核」と野呂が呼ぶような何かに強く結びついた、ある要素。それをいかに語るかという神学的問題こそ、論理では汲み尽くせないものがそれでもリアルにある、ということをいかに論理的に語るかという、20世紀の哲学が直面した課題の深化発展だと私には見えます。こんなことは、現代の神学者には当たり前のことなのかもしれませんが、哲学者にとっては非常に興味深い議論です。カブがホワイトヘッド哲学を「媒介概念」として用いていることに対する野呂の批判は、論理においては語り得ないものが信仰と実存の核にあるということから展開された、哲学から神学への発展的な回帰の道程だといえます。つまり、カブから野呂へと批判的に継承発展していく神学の営みにおいて、前世紀を通じてさまざまに変奏されながらくり返されてきた哲学的主題が前奏を奏でているのです。語り得ないものについての哲学的思索の限界と、その限界をそれでも突破しうる人間の在り方。これを問い続けた現代哲学の議論は、野呂の神学においては、倫理的・神学的な地盤に立ち返るための前奏となっているように思われるのです。

カブが理解のための媒介とした哲学が、野呂においては議論の地平を開くための前奏になっている。端的に言って、その議論は哲学的思索の限界の向こうでなされ、そこでは語り得ないものとの語り合いが起こるのです。とはいえ、この議論の地平は超―形而上学とでも呼ばれるような高尚な境地ではなく、実に、民衆宗教や私たちのニヒリズム的な実存のただなかに見出されるのです。

どうでしょう。哲学徒にとっての、野呂神学の魅力と脅威の一端が、少しは見えてきたでしょうか。


その3に続くかもしれません。 (村田康常)