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ユーカリスティア記念協会のブログ

できるところまで、できることから始めちゃうのだ。
歩みは遅いけど、自由です。

新年のご挨拶に代えまして、神学と哲学との交わりを求む

2014年01月02日 20時30分12秒 | 有志委員はこんな風に考えた
昨年の年末あたりから、哲学系の学会やワークショップに参加する機会をもつことができました。そこで出会った方々は、皆いい人たちばかりだったし、内容的にも色々と刺激をいただいたことはまず申し上げなければなりません。ありがとうございました。

今アカデミズムとは無関係な、一般社会の中で自らの知識や技を切り売りするような数々の仕事の現場に身を置いている私が出会うのは、「お勉強がキライ」な方々がほとんどだったりします。勉強はキライだ、あるいはキライだったけれども、今の○○ができないところを、何とかできるところまでもっていきたいというニーズに応えるお仕事は、刺激的でもありいろいろと学ばせていただいています。ちなみにこのようなニーズに応えるお仕事を、世間では講師職と呼んでいますが。

一方、学会に出てこられる方々のほとんどは、それらの方々とは対照的です。彼らは大概「お勉強が好き」な方々です。一般社会の人たちからすれば、変人の集団かもしれません。何しろ普通は嫌われているお勉強を、好きだという人たちですからね。

そのような愛すべき変人の方々との交わりの中で――といっても、せいぜい狭い分野の哲学系の世界を垣間見たに過ぎませんが――最近切に思ったこと。それは、ますますの、神学と哲学との、嘆かわしい乖離です。

神学、とくに組織神学や神学思想系の分野は、哲学はじめ他の学域との対話なしには成り立たないはずです。自分が神学専攻だからそう思うのですが、おそらく哲学側の方々にしても事情は似ていて、神学研究の現状を知ることなしに、ある分野の哲学上の議論は成立しにくいのではないでしょうか。それなのに、両者がお互いのことを知ろうとしていない。この両者のますますの乖離という現状は、お互いの怠慢の結果と言わざるを得ません。

もっと端的にいえば、哲学系の人々は意図的に、あるいはそれさえなしに、神学上の問題意識を無視しているし、神学側の人々は、多様性にみちた現代社会に追いつくことができなくて、せいぜい身の回りの人々にしか説得力をもたないような世界に籠ってしまっている……厳しい物言いではありますが、私の正直な実感です。

確かに、とくに人文科学研究を取り巻く環境は今、最悪です。いちいち言及はしませんが、そうなった理由は様々だと考えられます。上に挙げた、私たちの側の怠慢も原因のひとつでしょう。いずれにせよ人文系アカデミズムに対する社会の無関心さには、絶望的な気分にもなります。

しかしだからこそ、私たちは自由に研究ができるとも考えられないでしょうか。日本の社会が、これほどまでに人文系研究に冷淡であるのならば、いっそのこと、その筋の専門家たちは自由に好きなことをすればよいのです!

もうとっくにそうしている、そんなことは昔からそうであって今に始まったことではないとおっしゃる方々もいらっしゃると思います。実際、ここ1ヶ月間で私が実感したのは、アカデミックに勤勉な方々もまだまだ日本には健在だということでした。

今年は、このような思いに共感してくださる方々と仕事をすることによって、個人的には神様へのご奉仕により多くの時間が割けるようになればよいなと願っています。(林 昌子)

『イエスの足跡に従う―アナバプテストの伝統』

2013年10月13日 16時22分29秒 | 有志委員はこんな風に考えた
祝ご出版。献本いただきありがとうございます。
キリスト教会ユーカリスティア時代から親しくさせていただいている方が翻訳された新著をいただきました。著者はアナバプテスト(再洗礼派)や宗教改革時代を専門とする北米の研究者です。

本書では、アナバプテストの霊性とは何かを説明することを軸に、その歴史がコンパクトにまとめられており、とても読みやすいです。

個人的にも、北米に滞在していた頃にはペンシルベニア州のアーミッシュ、ノースカロライナ州などのモラビア派の村を折々訪ねていたこともあって親しみが湧きます。先日も資料の整理作業中に、当時集めたメノー派やアーミッシュの資料が出てきて懐かしんでいたところでした。

私と交流のある(あった)アメリカ人クリスチャンでは、リベラルなメソジストが割合多いことは確かですが、それ以外では、比較的マイナーな信仰的出自の方々が多いことに今気づきました。ワルドー派の伝統を背負っている“叔父さん”とか、クェイカー教団のおもしろいおじさんとか。

目下の関心のひとつには、アメリカのピューリタン信仰と習合していったメソジズムと、イギリスやアイルランドはじめ欧州のメソジズム、両者がどう共通していて、どういう点が異なってしまっているのか、があります。そのことを検証するときにも、アナバプテストに対する理解は決して欠かすことができないのです。(林 昌子)

プチ・ミーティング@スカラ座

2013年08月09日 23時21分07秒 | 有志委員はこんな風に考えた
もう1週間近く前になってしまいましたが、新宿にある老舗の喫茶店「スカラ座」で新たな賛同者の方とお話しの機会を持ちました。スカラ座、私が初めてそこに行った高校生の頃には歌舞伎町にあって、蔦が絡まり一見したところでは何だか分からないという、ちょっと怪しげな建物でした。個人的に、思い出深い店です。高校生の頃は父との待ち合わせ、大人になってからはデートにと。中に入るとクラシック音楽が流れるとても居心地のよい喫茶店だったのですが、今の小田急に移転してからはかつての個性は失われてしまった気がします。

そのお会いした新しい委員の方、私にとって実は2校分の先輩です。しかし通っている時期に重なりはないので、完全に「野呂芳男つながり」によるご縁です。岩田委員のコーディネートで会合実現でした。

思えばこの活動を始めてから、すでに、さまざまな出会いが重ねられています。ほとんどの賛同者の方々は、実は「久しぶりに会うひと」です。数年ぶりであったり、中には卒業以来ほとんどお会いする機会のなかった方もいらっしゃいます。また、ずっと長い間、ネット上で他愛のない議論を呑気に続けていて、たぶん5年以上面識がなかったにもかかわらず、この活動を通して「一応、はじめまして」となったのが村田委員です。

今の段階ですでに、出会いの不思議にお腹いっぱいです。どの方々も、悪意はもちろん他意がなく気さくかつ率直なので、居心地よいです。これから組織が大きくなっていったとしても、今の柔らかな雰囲気が続けばいいなと思います。(林昌子)

あるに越したことはない

2013年06月11日 19時19分05秒 | 有志委員はこんな風に考えた
活動の場所についてもそろそろ具体的なことを考えないと、と漠然と思ったりしています。

とはいえ、たとえば教会活動ひとつにしても、教会活動や祈りには集会のできる礼拝所が絶対に必要かといえば、そうということでもありません。「祈るときは、奥まって自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈」ることの方が、本来聖書に忠実なのです。

とはいえとはいえ、建物や空間は何でもよいので集会での祈りができるような場所があれば、あるに越したことはありません。

これが実に難しいなあと思います。
祈って福音を伝えるための場所を、自分の馴染みの町(つまり都内外)で探すということが、何だかとても難しいことのような気がします。まだ具体的な試みは何一つしていない、という可能性のみが今のところの希望となっています。

いや、何一つしていないというわけではないです。自分の脳内では、いろいろな可能性を探っているつもりですが、いかんせん林が考えることですからしょーもないこと(以下省略)。

「礼拝所として使用できるところがどこかにないか、何か手はないか、う~ん」と考えた結果、ポッと浮かんだのが「チャペル型結婚式場」。都内でオサレといわれる地域にオサレな式場があったりしますね。しかも内装だけはすごく立派で本格的なのが。いや、実際は知りません。行ったことはありませんので。結婚情報誌系のホームページをググってみたりしただけですが、そういうところって何というか、すごいですね。

礼拝の集まりをもつために、こういった式場を定期的に、たとえば月1で借りたりしたらすごくお金がかかるのだろうなあ……ていうか無理です。活動を維持できないです。

それにしても都内にいくつかある立派なチャペル的空間が結婚式のみにしか使われないとは、何だかもったいない気がします。

母校のチャペルは結婚式の予約が取り難いというのは同窓生の間で有名です。予約が取れても式は2年くらい先になってしまうと聞いたことがあります。ですので、予約してから結婚式当日までの間に離婚してしまうケースなど笑えない話もあるとか。それはともかく、こちらは元来、学内の礼拝施設であるチャペルを卒業生の結婚式にも「開放」しているわけですが、しかし世間ではその逆があってもよいのではないでしょうか。

つまり元来は商業施設であるとしても、礼拝を行うチャペルとしてたまに開放していただく、ということがあってもいいのになと思ったりします。……ないですね。ああ、しょーもない発想力。(林昌子)