ユーカリスティア記念協会のブログ

できるところまで、できることから始めちゃうのだ。
歩みは遅いけど、自由です。

神学の門外漢である哲学徒が野呂神学を学ぶということ 1

2013年05月16日 01時24分44秒 | 研究会
近々、野呂芳男研究会を開きます。

そこで発表することになってる私が、このブログを研究発表のための私的な準備作業の場として使わせていただくというのが、この記事です。


解釈とは冒険なんだと野呂芳男は言っています。「解釈は一つの冒険なのである。ウェスレー神学を、実存論的傾向を持った体験の神学であると解釈することによって、私は一つの冒険をしたのである。」(『ジョン・ウェスレー』4ページ)私は、神学の門外漢であり、キリスト者としてもまともに教会に行ってもいないいい加減な信徒ですが、そんな私でも野呂神学には不思議にも強く惹かれます。

それはきっと、野呂芳男の著作を読むこともまた、一つの冒険をすることだからでしょう。読むこと、解釈することが冒険だ、というのは、ホワイトヘッドの「観念の冒険」という考えに通じるものがあります。そして、私は、野呂とともに、いや、それ以上に、このイギリス生れでアメリカに渡って活躍した20世紀の哲学者A.N.ホワイトヘッドという、日本では極めてマイナーな哲学者・数学者・論理学者の哲学に心底のめりこんでいるのです。

そこで、野呂とホワイトヘッドが共鳴し合うところ、解釈や対話や出会いは一つの冒険なんだ、という言葉を励みにして、両者を読み合わせるという思索の冒険、観念の冒険に船出しようと思います。

神学の門外漢である一哲学徒にとっての、それもホワイトヘディアンという超マイナーな分野の研究者にとっての、野呂神学の冒険的な魅力とは、何でしょうか。

「あるホワイトヘディアンの見た野呂神学~その魅力と驚異、あるいは脅威」といった感じのきわめて個人的なテーマで、これから駄文を連ねてみたいと思います。

なお、今度の研究会では『キリスト教神学と開けゆく宇宙』をテキストとして取り上げることになっていますが、今回このブログで参照するテキストは、主に、『キリスト教と民衆宗教―十字架と蓮華』です。

私にとって、野呂の実存論的神学の最大の魅力は、まず、のびのびとゆるやかに開けた信仰理解と、それとは表裏一体をなす頑固といってもいいほどのゆるぎのない信仰そのものにあります。言い換えると、野呂神学の魅力は、個人信仰の多様性への強く深い共感(それは制度的な大宗教である「キリスト教」への共感をはるかに凌駕しているように見える)、あるいはこの共感から生れる宗教間対話のかなり徹底した展開、そして、この対話の内的な展開と深化にもかかわらずどうしても譲れない信仰の核があるという確信にあります。

この3つのポイント、すなわち、民衆の個人信仰への共感と、そこからの対話的思索の展開、そして多様性と寛容の立場へと展開していきながらも論理や教義や制度では汲み尽くせない信仰の核がある、という3点は、『十字架と蓮華』における実存論的神学の特徴ですが、哲学研究にいそしむ者にとってこれは、大きな魅力となっており、また、ある種の脅威にもなっています。論理では汲み尽くせないものが私たちの生命と実存の核にあるのだ、というゆるぎない確信は、それを語ること自体がすでに哲学徒にとっては大問題です。一番大事なことがらを私たちは哲学の言葉では語れないのでしょうか。そんなふうに考えさせる野呂神学は、そんなふうに考えさせるという点だけでも、哲学徒にとってかぎりなく魅力的で、かつ脅威的だといえるでしょう。

次に、きわめて個人的なことですが、私にとっては、この野呂神学の魅力の3つのポイントのいずれもが、ホワイトヘッドの哲学と、そこから派生したプロセス神学にからんでいる、ということが重要な意味をもちます。

たとえば、プロセス神学の泰斗、ジョン・B・カブJr.が提唱する「キリスト教と仏教の対話」(『対話を超えて』)に対して、野呂は、この2大宗教の対話に第三極として「個人信仰の多様性や民衆宗教」を加えた「三角形の対話」を提唱するという、かなりラディカルな展開を試みています。

「これ迄は仏教とキリスト教というような二つの大宗教を両極に据えた、客観的な教理上の対話が学問の世界を賑わしてきたのであるが、個人信仰の多様性や民衆宗教をもう一つの極とする三角形の対話を展開する必要があるのではないか。そうすると、これまでの二極間の対話ではあまり光をあてられてこなかった局面が明らかにされるのではないか。」(『キリスト教と民衆仏教―十字架と蓮華』(以下、『十字架と蓮華』と略記)47ページ)

ここに、個人信仰の多様性への深い共感と、そして、2つの大宗教の間の対話を超えて、制度化されていない民衆宗教をも対話の極に加える対話の多様化と深化という、野呂神学の上記の3つの魅力のうちの2つまでが見事に描き出されています。そして、3つ目のポイントもすでにこの引用文の通奏低音として響いています。大宗教の集団的な信仰の形式や制度には回収されないような個人信仰の譲れない核がある、という強い思いです。

この引用文の文脈は、実は、民衆の個人信仰を語りながらホワイトヘッドへの共感を表明するところから始まります。

「ホワイトヘッドが宗教について語った次の有名な文章は、こういう個人体験を優先する民衆宗教の在り方との関係でも再考される必要があるのかもしれない。

 宗教とは、個人がその孤独でもって何をなすか、である。……従って宗教は孤独である。そして、もしもあなたが決して孤独をもたない人物であるなら、あなたは決して宗教的ではない。宗教的な熱狂、復興集会、組織体、教会、典礼、聖書、行動規範などは宗教の飾り物であり、その束の間の形態である。それらは役に立つかもしれないが、害をなすかもしれない。それらは権威によって定められているかもしれないし、単に一時の方便であるのかもしれない。いずれにしろ、宗教の目的は、こういうすべてのものを超越している。

 宗教は全くこの通りのものでなければならないと私も思うが、特に大宗教のような集団のもつ悪魔的な、個人の主体性を抑圧して信仰の規格品を作ろうとする傾向には、われわれは反抗して行かねばならないであろう。それに、近・現代に生きるわれわれにとってはこういう主体的・個人的な宗教性こそふさわしい。」(『十字架と蓮華』46-47ページ。なお、ホワイトヘッドからの引用箇所(青字部分)はA.N.Whitehead, Religion in the Making, New York/Macmillan, 1926, pp.16-17)

個人信仰への強い共感は、宗教とは個人がその孤独においてなすことだとするホワイトヘッドの宗教哲学とも通じ合うところ大です。しかし、この孤独性は、実存論神学においても、ホワイトヘッド哲学においても、個人の孤立や独我論には向かいません。むしろ、実存における孤独性は、野呂においてもホワイトヘッドの哲学に依拠してプロセス神学を展開したカブの線においても、孤立ではなく対話へと向かう契機となります。

孤独性こそ人が真に宗教的になる場、信仰の場だということです。そして、その場は、「宗教的な熱狂、復興集会、組織体、教会、典礼、聖書、行動規範」といった「信仰の規格品」へと向かうときにはそれらの影に隠れてしまいます。世俗化のなかで「信仰の規格品」それ自体が社会的な力を失っていくなかで、現代人はただ孤独なだけの、孤立した存在になってしまっているでしょうか。ホワイトヘッド哲学と野呂神学は、そういう現代社会の傾向を横目に見つつ、正面には、もう一つの傾向を見ているように思います。

それが、孤独性からこそ出発する対話、という可能性です。

対話は孤独からこそ生まれ、言葉は沈黙の中でこそ生まれるというのはブーバーの対話の哲学にも見られる洞察ですが、ホワイトヘッドの哲学からプロセス神学を展開したカブは、さらに、対話を通じて、やがては対話的な両者の立場を超え出ていくような変容が起こると言います。

キリスト教と仏教の間での対話が進むと、そこに、両者のそれぞれが互いに変容しあうという出来事が起こる。それこそが、対話の目指すべきものであり、それぞれの立場からの対話という枠を超え出るものである、とカブは言うのです。

では、この「超・対話主義」とも言うべきカブの神学に対して、野呂神学はどのような議論を展開するのでしょうか……



いつの日か、「2」に続きます。(村田康常)