ユーカリスティア記念協会のブログ

できるところまで、できることから始めちゃうのだ。
歩みは遅いけど、自由です。

学会発表

2015年03月21日 19時45分20秒 | 研究会
3月20日に開催された日本基督教学会関東支部会で研究発表しました。
以下はA4一枚にまとめた要約です。電報のような簡潔さです。発表原稿は約10枚で、←こちらでさえ、「いろいろとはしょっちゃたなあ」と冷や汗かきながら簡潔にまとめてありますから。というわけで、ほとんど「何言ってるのか分からない」でしょうが、一応アップしておきます。(林昌子)

*****
「メソジスト宗教箇条から提起される課題―削除された条項からみえるもの」

1. 「25箇条」の成立概略
 1784年、英国国教会司祭でありメソジスト運動の創始者ジョン・ウェスレーは、すでにアメリカに渡りメソジスト運動を展開していた3人の説教師たちに、新たな「メソジスト監督教会」の設立を許可した。その際に彼は、『祈祷書』とともに、メソジストが守るべき「宗教箇条」を書き送った。その24条(後に1条追加された)からなる宗教箇条は、自らの属する英国国教会の宗教箇条39箇条の変更や削除を施したものであった。
 確かに変更箇所の多くは「読みにくい部分をより分かり易くしただけ」ともいえるが、削除された条項についてはいずれも、それだけでは到底片付けることはできない。それらは「困惑を誘う」「疑問を抱かせる」とユリゴイェンが言うとおりであり、神学上重要な論点が潜んでいることを示唆する。研究者はそれを看過してはならない。

2. 第8条「3信教について」の削除
 削除された条項は15ある。それぞれが神学上の論点として重要であり、さまざまな問題提起がなされ得るが、今回は第8条の削除を取り上げる。すなわち、「3信教、すなわちニケヤ信経、アタナシオ信経、およびいわゆる信徒信経は、全面的に受け入れられ、また信ぜられるべきものである。(後略)」であるが、ここを敢えて削除したウェスレーの意図はどこにあるのかについて検証する。

3. メソジスト宗教箇条の、これまでの扱いについて
 200年あまりの間、「メソジスト宗教箇条25条」は、ウェスレーによる『新約聖書注解』および『標準説教』と合わせてメソジスト教義の礎とされてきた。この間、それらの教義を保持する重要性については幾度となく強調されてきた。25箇条は、アメリカの合同メソジスト教会(UMC)の教義であるだけではない。日本を含めアメリカ以外の国々・地域でもメソジストの最重要教義と定められてきた。メソジストの教義ついては、最近30年間ほどはとりわけ、上記(あるいはそれ以外の要素)のうち「どれを教義とすべきか」という、メソジストとしての正統性を定義することに議論が集中している感がある。しかし、むしろ求められているのは、神学はもちろん、広く学際的な見地から、ウェスレーが削除した条項の意味することは何かについての神学的、解釈学的議論であると私は考える。

『ホワイトヘッドと実存論』

2013年08月01日 23時42分32秒 | 研究会
このご本は、2005年の第六回国際ホワイトヘッド学会開催を前にして、「実存論とプロセス」という主題で日本を中心とした若きホワイトヘッド研究者たちが寄稿した論文を、村田康常さんが編集なさっている本です。(Whitehead and Existentialism, ed. Murata, Yasuto: Kyoto, 2008.)

編者の村田さんからの頂き物で、少しずつ読んでいるこの本。この前の研究会の議論と合わせて読んでみると、あの時村田さんが言いたかったのはこういうことだったのかと、あの時より深く理解できるところもあったりします。その後考えたことなどを、さわりだけ書きとめておきます。

・宇宙に関して
ホワイトヘッドのいう「宇宙」ですが、宇宙は単なる無機的な物質の存在を指すわけではないようです。むしろ重要なのは関係性であり、それが有機的な「今、ここ」を形成するのだと。

野呂神学に与する私のような立場の者からすると、このような哲学者の表現の仕方は、「意志」や「人格」という言葉を使ったとたんに踏み込んでしまいかねない、神学の領域を避けているかのようにもみえます。そしてこの点は、まさに先の研究会で、20世紀以降の哲学(者)の問題点として村田さんが指摘なさっていたところだと思います。

この点、ホワイトヘディアンの宇宙の捉え方は野呂と対照的だといえます。この違いは、言葉遣いの違いのみならず、やはり両者の世界観が異なっているのではないかと思います。

『キリスト教と開け行く宇宙』の野呂の立場では、この先人類がどれほど遠くの宇宙まで到達できたとしても、宇宙それ自体は物質世界であり続けるのを認めることが前提です。ただ、それによって私たちのキリスト教の信仰は全く影響を受けない、という主張の方に重点が置かれているのではありますが。

・神に関して
「永遠の偏在と時の移行は、どちらも「世界の神聖な要素」という価値によって生じる。この要素は伝統的に神と呼ばれており、『神概念は、ありえないものであるにもかかわらずあるという、この驚くべき事実を私たちが理解する方法である』(『過程と現実』)がゆえに、ホワイトヘッドはこの伝統に従うのである。」(村田さんの論文の一部を拙訳。ホントニツタナクテすみません)

この論説は結論に差し掛かったあたりに出てくるもので、それまでにはホワイトヘッドと実存主義的哲学やポストモダニズムとの対話がちゃんとあることは、まず断っておかなければなりません。

そして上の箇所にきて、ちょっと脱力。え、ここ100年以上、神なんかいらねえ、と神を避けてツッパッてきた哲学の立場とはいったい……。そして次の瞬間、私の素直な反応をひとことでいうと、「みんなで野呂神学を、実存論的神学やろうよ、きっと楽しいことがあるよ。」

このご本の冒頭にも登場するジョン・カブ先生。カブ神学と実存論的神学との対話は、すでに野呂『神と希望』でとくに詳しく展開されています。村田さんが、先の研究会で指摘なさっていた野呂神学への批判は、おそらくカブ神学にもあてはまるのではないでしょうか。

これだけでは何を言いたいのかよく分からない、まるで電報文ですが、備忘録としてお許し下さい。これからの議論の発展が、益々楽しみになってきました!(林昌子)

神学の門外漢である哲学徒が野呂神学を学ぶということ 3

2013年06月14日 09時39分38秒 | 研究会
林さんからご質問をいただいていたのですが、レスがすっかり遅くなってしまいました。時間はたっぷりあるのだから、と思っているうちに、もう来週が研究会。なぜ、世間ではこんなに速く時間が流れ去るのでしょう。

さて、ホワイトヘッドを専門とする哲学徒として、プロセス神学をどう考えるか、というご質問ですね。もう少し正確に言うと、カブがホワイトヘッド哲学を媒介にしてプロセス神学をつくったということをどう評価するか、といった線でしょうか。神学に使われる哲学というのをどう見るか。

まず、私は個人的にカブ先生にたいへんお世話になっており、その点では、今でも適切な距離をとった批判ができないように思います。また、ホワイトヘッド自身に、神学や社会学、あるいは教育学など他の分野への応用(適用)をもともと念頭に入れて形而上学体系をつくろうとした、という意図があり、プロセス神学はその意図を受けて展開された試みの一つというふうにも理解できます。そうすると、ホワイトヘディアンとしてはそういう試み自体は大歓迎でじゃんじゃんやってほしいのですが、こういう場合に難しいのは、その適用・発展が、ホワイトヘッド哲学のどこをどう受け継いでいるのか、どう解釈しているのか、という問題です。ちょうどヘーゲル哲学をフォイエルバッハやマルクスが受け継いでいったときに、どこをどう受け継いで、どこを捨て去ったかが問題になるのと類比的です。

プロセス神学が独自の方向を切り開いた神学の潮流であり、しかも現代アメリカにおいてかなり成功している思想潮流だということは、きちんと評価されるべきでしょう。しかし、私にとってもっと重要なのは、プロセス神学が、現代世界においてほとんど唯一、ホワイトヘッドの後期形而上学を本格的に継承し正面から取り扱っている学問領域だという点です。言い換えると、哲学では、ホワイトヘッド哲学に関する研究やそこから発展した研究は、プロセス神学に匹敵するメジャーな立場を獲得していません。ホワイトヘッド哲学は、神学において継承されているのです。

哲学が神学をはじめ他の何かの学の道具になること自体は、哲学の立場から見ても、それ自体は歓迎すべきことなのです。哲学徒としては、たとえばホワイトヘッド哲学を神学や教育学、経営哲学の分野への適用・継承に任せるばかりでなく、自分たちの哲学研究においてもしっかりと主題化して取り組めばいい。問題は、他の学の道具になるときに、その分野の研究者によって大きな省略や誤解や我田引水を受けて、哲学が何だか貧相なツールになってしまい、お道具的でお利口さん的な便利な引用ネタになり果ててしまうということがあまりにも多い点です。しかし、少なくともこの問題に関しては、ハーツホーンやカブをはじめとするプロセス神学者たちは大丈夫です。がっちりとホワイトヘッド哲学を受け止めて、哲学プロパーとして見ても非常に高い水準でホワイトヘッドを読みこんでいますし、その精緻な読解にもとづいて、たいへん意欲的で創造的な展開を行っています。

彼らがみっちりしっかりとホワイトヘッドを読み込んで自分たちの組織的体系的な神学を構築するための基礎にしたからこそ、私たちはこの間の事情について大雑把に「ホワイトヘッド哲学はプロセス神学を生んだ」と言うことができるわけです。

野呂の批判は、この大成功ともいえる継承・発展に向けられています。ホワイトヘッド哲学を媒介にすることでこそ、プロセス神学は成功を収めたのだが、その最大の欠点も、精緻なホワイトヘッド哲学体系を媒介にしてキリスト教や仏教を(それのみならず、要するに経験のほぼすべてを)学的に理解した上で成立したという点にある、と野呂は指摘するのです。その神理解や信仰理解は、あまりに精緻すぎる、整合的・論理的に過ぎる、要するにプロセス神学の神は巨大なコンピューターのごときものだ、という批判です。

この批判に対して、私は、もう少し違う見方でホワイトヘッド哲学を捉えています。野呂による批判は、プロセス神学に内在する問題を指摘してはいますが、ホワイトヘッドの哲学のある側面までは届いていないように思います。逆に、ホワイトヘッドとプロセス神学について野呂がこういう問題を指摘してくれたおかげで、実はホワイトヘッド哲学には、野呂による批判の届かない側面があるということに改めて気づかされもします。それは、精緻な巨大コンピューターのごとき神という解釈とは異質な、もっと、実存論的といっていい部分です。もっともその実存論的な部分というのは、あの形而上学体系のなかでは見えにくいかたちで埋もれているのですけれども。そして、実はそこでこそ、実存論的神学とホワイトヘッド哲学とのより深い対話もできるのではないかと私は思っています。

さらに言えば、多くのプロセス神学者のなかでも、カブは実はそういったホワイトヘッド哲学の実存論的な部分についての共感と理解がかなり深いのではないかとも思っています。その共感や理解が、カブのプロセス神学の体系のなかにどのように論理化されているか、という点は難しいですけれども。個人的な話になりますが、私に、国際ホワイトヘッド学会で「ホワイトヘッドと実存主義」というテーマでのセッションのチェアを依頼してくれたのがカブですし、同名の本の編集を励まして、序論を執筆してくださったのもカブです(Murata, Yasuto, ed. Whitehead and Existentialism)。その序論では、カブ自身がホワイトヘッドおよびプロセス哲学と実存主義との関連について語っています。

野呂自身も、エドウィン・ルイスやラングドン・ギルキーなどのプロセス神学が、ホワイトヘッドの宇宙論的形而上学を実存論的な視座から捉えていると評価しています。「プロセス神学」といっても多様な分枝があって、カブやルイス、ギルキーをはじめ、ハーツホーン、フェレ、オグデン、ピッテンガー、フォード、グリフィンなどなど、それぞれかなり独自の展開をしたオリジナリティあふれる神学者たちによってゆるやかに、しかし親密な相互交流のなかで構成されているのがプロセス神学という潮流です。

日本では、プロセス神学よりもホワイトヘッド哲学の研究の方が盛んなように思いますが、たとえば野呂芳男の実存論的神学をホワイトヘッド哲学を媒介にしつつ展開するという方向で、日本的プロセス神学が形成されうると私は思っています。もちろん、その際、あらかじめ野呂によって、哲学体系を媒介にしたキリスト教理解や人間理解・世界理解は、信仰の核・実存の核ともいうべきものを取り逃がしてしまっている、という批判がなされているわけですが。

神学が哲学を使うのはいい。使うなら、きちんと使えばいい。プロセス神学は、現時点ではほぼ最高水準のクリティークによって哲学を使いこなしながら成立した神学だ。そこは評価する。だけど、どれだけきちんと使われたとしても、哲学では、信仰の核になっているものは語れないのだよ。神学の核になっているものは語れないのだよ。

野呂芳男はそう言っているように思えます。そして私は、どこまでもその「核」を取り逃がし続ける精緻な論理体系を構築する努力によって、逆に、その「核」が論理体系の外にある、ということが照射されるのではないかと思うのです。少しややこしい言い方になりますが、論理体系全体が、その外にあるその「核」を論理では語れないことを体系内の論理によって明らかにする。そのことによって論理体系は、その「核」が論理体系の外に「ありうる」ということを指し示し、さらにそれがリアルに「ある」ということを指し示すということです。論理体系が全体として体系外の実在を指し示すメタファーとなるということ。そして、論証し得ないリアリティを体系内に「くりこみ」してはじめて、体系が十全なものになるということ。そういう方向でホワイトヘッド(やプロセス神学)を読むというのが、私自身の研究テーマです。これを一言でいえば、哲学的論理では語り得ないリアリティをいかに語るかという主題こそ、ホワイトヘッドがその形而上学的宇宙論において神を、その文明論において平和を、全体系の総仕上げとして語り出そうとしたときに直面していた問題だったということです。そしてこの問題は、先ほど述べたように、野呂による批判を通して先鋭化するのです。精緻に語ろうとすればするほど、ホワイトヘッドの神は巨大なコンピューターのごときものになり、彼の平和は宇宙の楽観的な大調和になるが、しかし、彼の本意はそこにはなかったということ、むしろ批判する野呂にとても近いところにいたのではないかということ、そういう視点から私はホワイトヘッドを読もうとしています。

では、野呂神学においては、この核はいかに語られているのでしょうか。たとえば、ホワイトヘッド哲学のように、近代科学や論理学・数学の知見まで取り込んで成立した宇宙論的な哲学体系に対して、上記のような評価と批判をしながら、野呂神学はいかにしてこの、哲学では語り得ない「核」を語るのでしょう。

ホワイトヘッド哲学やプロセス神学ではなく、テイヤールの進化論的な宇宙論に立つ神学を評価・批判する文脈の中で、野呂は次のように言っています。

「人間は宇宙の中心にはいないし、弱肉強食の生物たちと血筋が同じであり、宇宙の他のところにも同じような、または、われわれ以上に知的な生物が存在していて一向に差し支えないのである。われわれは自分が客観的に優れた存在であることを実証したり、感じたりすることによって神に愛されているのではない。『信仰による義認』という宗教改革者ルターが発見してくれた真理に生きるプロテスタントであるわれわれは、ありふれた自分、自分の中に愛してもらえるようなものを何も持たない存在者たる自分、自分に価値があるとはどうしても思えない自分が、それにもかかわらず神に愛されていることを信じるのである。われわれの価値は、われわれの側の客観的状況に依存せずに、神が愛して下さるという、目に見えない、実証できない事実に依存している。地球上の、あるいは他の星に住む生物と、われわれが自分を比較して作り出すエリート意識は投げ捨てねばならない。そうすれば他の生物との、否、全宇宙との好ましい一体感が生まれてきて、われわれと血筋の通じている弱肉強食の生物が、弱肉強食しなければ生存し得ない事情に、生存のためのわれわれ自身の悲しみを通わせることができるようになる。」(『キリスト教神学と開けゆく宇宙』30-31)

私たちが、他の生命を食らいつつ生きることしかできない生存の悲しみのなかにあって、何ら愛される自己をもたない、罪を負った存在であっても、「それにもかかわらず神に愛されていること」。たとえば野呂神学では、このような表現で、私たちの実存の「核」、信仰の「核」は示されているのだと思います。もっと適切な表現を得ている箇所があるかもしれませんが・・・

哲学はこの「核」を十全には語り得ない、せいぜい「それにもかかわらず」という逆説としてしか、愛の真理を語れないということ。むしろ、民衆宗教のうちに、あるいは文学作品のうちに、そして世俗化の進展するこの世界に生きる一人一人の生活の悲しみから絞り出されたさまざまな表現のうちにこそ、論理では語り得ないその「核」が現れているのではないか。これは、優れて哲学的な課題であり、かつ、まさに神学において主題となる課題だと思います。哲学が限界を露呈するところからはじまる神学的な営みだと思います。そして、それをも何とか哲学の課題として思索しようとするところに、新しい哲学もはじまるのだと思います。

長くなってしまいました。しかも、林さんのご質問に、ちゃんとお答えできたようには思えない。

続きは、21日の研究会で、お話しできたらいいですね。(村田康常)

研究会が待ちきれない

2013年05月30日 23時31分03秒 | 研究会
次回研究会開催前にもかかわらず、発題者の個人的な準備の場に飛び込む形になります。すみません。でも研究会まで待ちきれません。それほどわくわくなのです。ここに私も徒然と、発題に対して思うことを述べてみたいと思います。

まずは質問からです。
発題者さまは、ホワイトヘッド研究家としてカブのプロセス神学をどのように評価されているでしょうか。言い換えるとこれは、カブが「ホワイトヘッドの宗教哲学的・宇宙論的な形而上学を媒介として」プロセス神学への道を開いた、という命題に対して、その命題をホワイトへディアンとして受け入れられるのか、という問題です。

この問題意識はおそらく、哲学者である発題者が、哲学にとって野呂神学が「魅力的であると同時に脅威」と表現していることとも関連があると思います。それは後に言及するとして、さらにいえば、プロセス論のみならず宗教哲学と神学の間には深い溝があるわけですが、その溝を埋めようと試みるのは大概、これまで神学の側からであったといえます。もちろんこのようなやり方には神学者側の主張もあるのですが、しかしこのような神学者の態度は、多くの哲学者の疳に触るものであった(ある)に違いありません。つまり、神学という、最終的には「信仰告白とならざるを得ないもの」(とどこかで野呂も書いていましたが)の理論構築の道具として哲学を利用するのはけしからん、というような神学の傲慢に対する否、この否について、ホワイトへディアンとしてプロセス神学に対してどうお考えになるのか、その評価についてお聞きしたいところです。

この質問は、言うまでもなく、野呂によるカブのプロセス神学への批判とも異なっています。野呂の場合はプロセス神学の役割を評価することでその存在が是認されているという前提がありますが、私の質問はある意味、その神学の存在自体の是非を問うているともいえます。

なぜこのような質問が出てくるのかというと、野呂の場合は実存論的神学ですがそれも含めて、これまで哲学者にとって神学は、発題者がありがたいことにもおっしゃってくださるように「魅力的」でもなければ、ましてや「脅威」になどなり得ない対象であった、といえるからです。このように言っても決して自虐的ではないでしょう。

つまり、哲学者にとって神学とは、主観を正当化するために他の学域まで踏み込んでそれを利用して理論構築しているに過ぎず、それは検証するに値しないという批判以前の批判がなされ、一方神学者からすると、宗教哲学は形而上学的な机上の遊びに過ぎない、という批判がこれまでなされてきました。その両者の態度が、哲学と神学の間の溝となって現れているのだと思います。

しかし今回、発題者は次のようにおっしゃいます。

「……媒介概念では漏れてしまうような、しかし「キリスト教の核」と野呂が呼ぶような何かに強く結びついた、ある要素。それをいかに語るかという問題こそ、論理では汲み尽くせないものがそれでもリアルにある、ということをいかに論理的に語るかという、20世紀の哲学が直面した課題の深化発展だと私には見えます。こんなことは、現代の神学者には当たり前のことなのかもしれませんが、哲学者にとっては非常に興味深い議論です。カブがホワイトヘッド哲学を「媒介概念」として用いていることに対する野呂の批判は、論理においては語り得ないものが信仰と実存の核にあるということから展開された、哲学から神学への発展的な回帰の道程だといえます。つまり、カブから野呂へと批判的に継承発展していく線において、前世紀を通じてさまざまに変奏されながらくり返されてきた哲学的主題、語り得ないものについての哲学的思索の限界と、その限界をそれでも突破しうる人間の在り方への洞察が、こうした哲学的議論がそもそも由来したはずの本来の倫理的・神学的な地盤に立ち返って展開されていくように思われるのです。」

これまでの哲学-神学関係を振り返りますと、この発題者の姿勢は発想のコペルニクス的転換ではないでしょうか。発題者がホワイトへディアンであるからこそ、このような発想の転換が可能になるのでしょうか。

思うままに、ひとまず現在の質問などを書き散らしてみました。もちろん、この場で回答がほしいということでは全くなく、参加者のひとりがこんなことを考えているということを、皆さまが頭の片隅に置いてくだされば嬉しいです。(林昌子)

神学の門外漢である哲学徒が野呂神学を学ぶということ 2

2013年05月28日 22時42分31秒 | 研究会
プロセス哲学の徒である私が野呂神学の魅力と脅威について語るためには、どうしてもプロセス神学とホワイトヘッド哲学に触れないわけにいきません。

少々回りくどいですが、野呂神学がプロセス神学をどのように評価していたのかをざっと見てみましょう。

プロセス神学者として知られ、またウェスレー研究者でもあるジョン・B.カブは、『対話を越えて―キリスト教と仏教の相互変革の展望』(延原時行訳、行路社)において、キリスト教と仏教の宗教間対話を試みつつ、両宗教の対話とはいかなるものか、また、どこへ向かうのかを論じています。カブのこの著作は、それ自体たいへん読み応えのある、深い思索と寛容の精神に満ちた優れた神学書・哲学書ですが、ここではその内容には踏み込みません。ただ、神戸生れで日本にも知己の多いカブが、大乗仏教、特に浄土教との対話を行う際、メソジストのキリスト者であり神学者である彼にとって仏教はただ書物を通じて理解されただけのものでなく、むしろ多くの仏教者との実地の対話のなかで出会われたものだということが大事だと思います。

カブは、キリスト教と仏教の対話を通じて仏教理解を深めるとともに、対話のうちで相手の視座から自らを見ることを通じてキリスト教への理解をも深めています。彼は、両者が互いに重なり合うところを深く認識し、それぞれに欠けているところを補い合い、そうして互いの意義を認めつつ自らの信仰において欠けているところを補完しつつ、それぞれの信仰が深まりつつ変容していくプロセスを論じるのです。つまり、対話とは、相互理解を通じて相互変革(mutual transformation)していくプロセスなのです。

そして、この対話における相手への理解の深まりと、相手の視座から見た自己理解の深まりによって相互理解と変革の地平が開けるのですが、この地平を開くための媒介となるのが、ホワイトヘッドの宗教哲学的・宇宙論的な形而上学なのです。

カブのこうした議論を、野呂は次のように説明しています。カブの長い思索と対話の道を、非常に簡潔に、しかも的確にまとめた文章です。

「宗教体験には必ず核になるものがあって、それに適合するもののみを取り入れ、それ自体を豊かにして行く。キリスト教の場合には、ユダヤ教の天地の創造神、及び、ナザレのイエスの十字架上の死と復活とが核を作り、他の諸要素が有機的に核を豊かにする仕方で結合してきた。しかし、混淆していると非難される民衆宗教にしても、自分の信仰を理論的に理解することが苦手である庶民の信仰にしても、事情は同じなのではないか。一人の人間が、同時に核が二つも三つもある信仰生活など送れる訳がない。深層心理に隠れていて、本人にとっても自覚に登ってこないような核もあるのである。
混淆宗教をこのようなものと考えてくると、カブが『対話を超えて』の中で結論として出しているものも、仏教とキリスト教との両方に対して相手と混淆せよ、ということに外ならない。勿論両者はそれぞれの核をもち、それに反するものを受け入れるようにとは勧められていない。しかしながら、キリスト教はその神の理解にあたって仏教の空(真如、無)の思想を受け入れ、神観を深めるべきであるとされ、大乗仏教、特に浄土教は、その阿彌陀如来の本願に見られる慈悲の教えに、ナザレのイエスの歴史性を受け入れることにより、慈悲の歴史的具現化たるキリストに帰依して、その本質を深めるべきである、と主張されている。」(『十字架と蓮華』48ページ)


およそカブの議論の要点はここに尽くされているといっていいでしょう。しかも、ここには、カブに対する野呂の深い理解だけでなく、カブへの批判も暗に含まれています。カブの対話論は、相互理解に至るプロセスとしての対話を超えた、相互変容のプロセスとしての対話という地平を開いています。野呂の批判は、それを否定するのではありません。むしろ、カブの議論を踏まえつつ、それをさらに超えて独自の対話論を展開する方向へと向かうのです。

対話を通じて、キリスト教と仏教がそれぞれに相手の在り方を理解しつつ、自己の在り方を振り返り、相手に照らして自己理解を深め、その過程で自己変革していく、というのがカブの対話論の骨子です。要するに、カブは、他者理解と自己理解、そしてそれらを通じての自己相対化のプロセスを示して、キリスト教と仏教の相互理解が深まりつつ、創造的に自己を変革して、より深化した信仰の在り方を実現するべきだと説くのです。野呂が批判するのは、その変革のための相互理解や自己理解、そして自己相対化が、向き合う相手との対話だけでなく、ホワイトヘッド哲学という形而上学的論理体系を媒介にしている点です。

カブ自身も、「わたしは永く、ホワイトヘッドの概念性がキリスト教神学の定式化にとっても、仏教思想の解釈にとっても、効果的であることを、信じてきた」(『対話を超えて』254ページ)と言っています。

対話における相互理解と自己理解とを可能にする媒介として、ホワイトヘッド哲学はとても優れた道具です。しかし、この道具を持ち込んで相互理解を進めて自己を形成すると、混淆的に形成された新たな自己は、それぞれの宗教に固有の「宗教体験の核になるもの」をむしろ覆い隠してしまうのではないか。優れた道具であればあるほど、宗教体験の核となるものを論理的体系性や明晰判明性によって理解の外においやってしまうのではないか。これが、野呂による批判だったのだと思います。

「八木誠一氏の「統合の原理」にしろカブのホワイトヘッド哲学にしろ、それを媒介にして仏教とキリスト教との重なりあっている要素をわれわれに照明して見せてくれた点は有効であった。二人から私が教えられた事柄は実に多い。しかし、キリスト教を統合の原理やホワイトヘッド哲学に依存して理解しようとしても、私にはそういう媒介概念では漏れてしまう要素がキリスト教にはあると思える。それらの要素がまた、キリスト教の核と強く結合したものであると思えるのである」(『十字架と蓮華』53ページ)

カブの対話は、ホワイトヘッド哲学を媒介にして両宗教の重なり合うところを明らかにしました。このことを野呂は評価した上で、カブが、まさにホワイトヘッド哲学を「媒介概念」としてキリスト教(や仏教)を理解している点を批判しています。ホワイトヘッドのような哲学的原理や哲学的論理体系は、異なる宗教間での対話や相互理解の枠組みを提供する「媒介概念」として有効だと評価されますが、そのように論理体系に媒介されることによってクリアに理解されたキリスト教(や仏教)は、「キリスト教の核と強く結合した」要素を漏らしてしまう、というのが野呂の批判です。ここで媒介された理解のうちから漏れてしまう要素こそ、実存論的な意味での信仰のリアリティに他なりません。

この批判のなかには、実存論的神学の、まさに実存論的な立場があらわれていると思います。哲学的論理体系の媒介によって、異質で共約不可能に見えた諸宗教間に対話のための共通の地盤がもたらされ、私たちは相互理解と自己相対化を深めつつ他者と一致する新しい自己理解を得ることができます。カブは、このことを通じて創造的な自己変容にまで進むことができるとします。野呂の批判は、このときの自己、あるいは他者は、媒介概念によって抽象され一般化された自己像であり、今、ここで生きて対話しているこの自己の信仰のリアリティではなく、その論理的表現でしかない、というところにあるといえます。あるいは、媒介する論理体系によって照明された宗教とは、あくまで論理的・概念的な枠組みにそって解明された宗教であって、そこには血が通っていない、といってもいいかもしれません。

要するに、対話を通じての相互理解や自己理解、自己変容といっても、それは整合的で論理的な理解に立つもので、下世話な言い方をすれば、それでは話が清潔すぎるのです。対話とか相互理解、自己理解、自己変容というものには、もっとぐじゃぐじゃしたものがあって、論理では見通せず汲み尽くせない不透明さと、そう簡単に変容などとはいかない譲れない頑固さがあるものだ、そしてそのような論理では汲み尽くせない頑固なぐじゃぐじゃのうちにこそ、信仰の核があるのだということが、野呂の批判のなかにあるのだと思います。いや、すみません、野呂は頑固だとかぐじゃぐじゃだなんて言っていませんけれども。

媒介概念としてのホワイトヘッド哲学とプロセス神学。そこで語られる神は、「宗教体験の核となるもの」ではない、私たちの希望の神ではない、という批判、つまり「巨大なコンピュータの如きプロセス神学の神」(『神と希望』58ページ)という神学的批判も、ホワイトヘッド哲学やプロセス神学の潔癖すぎるほどに調和した論理的で整合的な宇宙論体系への批判から出てくる当然の帰結だと思います。もっとも私は、ホワイトヘッドはそんなに潔癖な調和的宇宙を描いてはいないと思うのですが。

媒介概念では漏れてしまうような、しかし「宗教体験の核」「キリスト教の核」と野呂が呼ぶような何かに強く結びついた、ある要素。それをいかに語るかという神学的問題こそ、論理では汲み尽くせないものがそれでもリアルにある、ということをいかに論理的に語るかという、20世紀の哲学が直面した課題の深化発展だと私には見えます。こんなことは、現代の神学者には当たり前のことなのかもしれませんが、哲学者にとっては非常に興味深い議論です。カブがホワイトヘッド哲学を「媒介概念」として用いていることに対する野呂の批判は、論理においては語り得ないものが信仰と実存の核にあるということから展開された、哲学から神学への発展的な回帰の道程だといえます。つまり、カブから野呂へと批判的に継承発展していく神学の営みにおいて、前世紀を通じてさまざまに変奏されながらくり返されてきた哲学的主題が前奏を奏でているのです。語り得ないものについての哲学的思索の限界と、その限界をそれでも突破しうる人間の在り方。これを問い続けた現代哲学の議論は、野呂の神学においては、倫理的・神学的な地盤に立ち返るための前奏となっているように思われるのです。

カブが理解のための媒介とした哲学が、野呂においては議論の地平を開くための前奏になっている。端的に言って、その議論は哲学的思索の限界の向こうでなされ、そこでは語り得ないものとの語り合いが起こるのです。とはいえ、この議論の地平は超―形而上学とでも呼ばれるような高尚な境地ではなく、実に、民衆宗教や私たちのニヒリズム的な実存のただなかに見出されるのです。

どうでしょう。哲学徒にとっての、野呂神学の魅力と脅威の一端が、少しは見えてきたでしょうか。


その3に続くかもしれません。 (村田康常)


神学の門外漢である哲学徒が野呂神学を学ぶということ 1

2013年05月16日 01時24分44秒 | 研究会
近々、野呂芳男研究会を開きます。

そこで発表することになってる私が、このブログを研究発表のための私的な準備作業の場として使わせていただくというのが、この記事です。


解釈とは冒険なんだと野呂芳男は言っています。「解釈は一つの冒険なのである。ウェスレー神学を、実存論的傾向を持った体験の神学であると解釈することによって、私は一つの冒険をしたのである。」(『ジョン・ウェスレー』4ページ)私は、神学の門外漢であり、キリスト者としてもまともに教会に行ってもいないいい加減な信徒ですが、そんな私でも野呂神学には不思議にも強く惹かれます。

それはきっと、野呂芳男の著作を読むこともまた、一つの冒険をすることだからでしょう。読むこと、解釈することが冒険だ、というのは、ホワイトヘッドの「観念の冒険」という考えに通じるものがあります。そして、私は、野呂とともに、いや、それ以上に、このイギリス生れでアメリカに渡って活躍した20世紀の哲学者A.N.ホワイトヘッドという、日本では極めてマイナーな哲学者・数学者・論理学者の哲学に心底のめりこんでいるのです。

そこで、野呂とホワイトヘッドが共鳴し合うところ、解釈や対話や出会いは一つの冒険なんだ、という言葉を励みにして、両者を読み合わせるという思索の冒険、観念の冒険に船出しようと思います。

神学の門外漢である一哲学徒にとっての、それもホワイトヘディアンという超マイナーな分野の研究者にとっての、野呂神学の冒険的な魅力とは、何でしょうか。

「あるホワイトヘディアンの見た野呂神学~その魅力と驚異、あるいは脅威」といった感じのきわめて個人的なテーマで、これから駄文を連ねてみたいと思います。

なお、今度の研究会では『キリスト教神学と開けゆく宇宙』をテキストとして取り上げることになっていますが、今回このブログで参照するテキストは、主に、『キリスト教と民衆宗教―十字架と蓮華』です。

私にとって、野呂の実存論的神学の最大の魅力は、まず、のびのびとゆるやかに開けた信仰理解と、それとは表裏一体をなす頑固といってもいいほどのゆるぎのない信仰そのものにあります。言い換えると、野呂神学の魅力は、個人信仰の多様性への強く深い共感(それは制度的な大宗教である「キリスト教」への共感をはるかに凌駕しているように見える)、あるいはこの共感から生れる宗教間対話のかなり徹底した展開、そして、この対話の内的な展開と深化にもかかわらずどうしても譲れない信仰の核があるという確信にあります。

この3つのポイント、すなわち、民衆の個人信仰への共感と、そこからの対話的思索の展開、そして多様性と寛容の立場へと展開していきながらも論理や教義や制度では汲み尽くせない信仰の核がある、という3点は、『十字架と蓮華』における実存論的神学の特徴ですが、哲学研究にいそしむ者にとってこれは、大きな魅力となっており、また、ある種の脅威にもなっています。論理では汲み尽くせないものが私たちの生命と実存の核にあるのだ、というゆるぎない確信は、それを語ること自体がすでに哲学徒にとっては大問題です。一番大事なことがらを私たちは哲学の言葉では語れないのでしょうか。そんなふうに考えさせる野呂神学は、そんなふうに考えさせるという点だけでも、哲学徒にとってかぎりなく魅力的で、かつ脅威的だといえるでしょう。

次に、きわめて個人的なことですが、私にとっては、この野呂神学の魅力の3つのポイントのいずれもが、ホワイトヘッドの哲学と、そこから派生したプロセス神学にからんでいる、ということが重要な意味をもちます。

たとえば、プロセス神学の泰斗、ジョン・B・カブJr.が提唱する「キリスト教と仏教の対話」(『対話を超えて』)に対して、野呂は、この2大宗教の対話に第三極として「個人信仰の多様性や民衆宗教」を加えた「三角形の対話」を提唱するという、かなりラディカルな展開を試みています。

「これ迄は仏教とキリスト教というような二つの大宗教を両極に据えた、客観的な教理上の対話が学問の世界を賑わしてきたのであるが、個人信仰の多様性や民衆宗教をもう一つの極とする三角形の対話を展開する必要があるのではないか。そうすると、これまでの二極間の対話ではあまり光をあてられてこなかった局面が明らかにされるのではないか。」(『キリスト教と民衆仏教―十字架と蓮華』(以下、『十字架と蓮華』と略記)47ページ)

ここに、個人信仰の多様性への深い共感と、そして、2つの大宗教の間の対話を超えて、制度化されていない民衆宗教をも対話の極に加える対話の多様化と深化という、野呂神学の上記の3つの魅力のうちの2つまでが見事に描き出されています。そして、3つ目のポイントもすでにこの引用文の通奏低音として響いています。大宗教の集団的な信仰の形式や制度には回収されないような個人信仰の譲れない核がある、という強い思いです。

この引用文の文脈は、実は、民衆の個人信仰を語りながらホワイトヘッドへの共感を表明するところから始まります。

「ホワイトヘッドが宗教について語った次の有名な文章は、こういう個人体験を優先する民衆宗教の在り方との関係でも再考される必要があるのかもしれない。

 宗教とは、個人がその孤独でもって何をなすか、である。……従って宗教は孤独である。そして、もしもあなたが決して孤独をもたない人物であるなら、あなたは決して宗教的ではない。宗教的な熱狂、復興集会、組織体、教会、典礼、聖書、行動規範などは宗教の飾り物であり、その束の間の形態である。それらは役に立つかもしれないが、害をなすかもしれない。それらは権威によって定められているかもしれないし、単に一時の方便であるのかもしれない。いずれにしろ、宗教の目的は、こういうすべてのものを超越している。

 宗教は全くこの通りのものでなければならないと私も思うが、特に大宗教のような集団のもつ悪魔的な、個人の主体性を抑圧して信仰の規格品を作ろうとする傾向には、われわれは反抗して行かねばならないであろう。それに、近・現代に生きるわれわれにとってはこういう主体的・個人的な宗教性こそふさわしい。」(『十字架と蓮華』46-47ページ。なお、ホワイトヘッドからの引用箇所(青字部分)はA.N.Whitehead, Religion in the Making, New York/Macmillan, 1926, pp.16-17)

個人信仰への強い共感は、宗教とは個人がその孤独においてなすことだとするホワイトヘッドの宗教哲学とも通じ合うところ大です。しかし、この孤独性は、実存論神学においても、ホワイトヘッド哲学においても、個人の孤立や独我論には向かいません。むしろ、実存における孤独性は、野呂においてもホワイトヘッドの哲学に依拠してプロセス神学を展開したカブの線においても、孤立ではなく対話へと向かう契機となります。

孤独性こそ人が真に宗教的になる場、信仰の場だということです。そして、その場は、「宗教的な熱狂、復興集会、組織体、教会、典礼、聖書、行動規範」といった「信仰の規格品」へと向かうときにはそれらの影に隠れてしまいます。世俗化のなかで「信仰の規格品」それ自体が社会的な力を失っていくなかで、現代人はただ孤独なだけの、孤立した存在になってしまっているでしょうか。ホワイトヘッド哲学と野呂神学は、そういう現代社会の傾向を横目に見つつ、正面には、もう一つの傾向を見ているように思います。

それが、孤独性からこそ出発する対話、という可能性です。

対話は孤独からこそ生まれ、言葉は沈黙の中でこそ生まれるというのはブーバーの対話の哲学にも見られる洞察ですが、ホワイトヘッドの哲学からプロセス神学を展開したカブは、さらに、対話を通じて、やがては対話的な両者の立場を超え出ていくような変容が起こると言います。

キリスト教と仏教の間での対話が進むと、そこに、両者のそれぞれが互いに変容しあうという出来事が起こる。それこそが、対話の目指すべきものであり、それぞれの立場からの対話という枠を超え出るものである、とカブは言うのです。

では、この「超・対話主義」とも言うべきカブの神学に対して、野呂神学はどのような議論を展開するのでしょうか……



いつの日か、「2」に続きます。(村田康常)