ユーカリスティア記念協会のブログ

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『実存論的神学』第一章より、ほんの少し引用

2014年06月08日 17時55分28秒 | 野呂芳男研究
「ボンフェッファーの言葉をもって表現すれば、近代人であるわれわれは‐‐中略‐‐「成人した世界」、「非宗教的世界」に生きている。すなわち、われわれは、世界を宗教的に理解することを止めた時代に生きている。‐‐中略‐‐人間は世界に対立するものとして立っていて、神はその世界に所属していない。人間の創作的管理に委託された世界という本来のキリスト教使信と、現代人の世界とは適合する点をもっている。だから、このような近代科学により逃避することによって、または、それを黙殺することによって、キリスト教をその現代での頽廃から救おうとするような試みは、愚の骨頂である。むしろ、われわれは近代性を突き抜けて行かなければならない。このことは、単にキリスト教の文化史との折衡に関係するばかりでなく、宣教の場での弁明にも関係してくる。」


ここの、「だから」以降における野呂の主張だが、実はここに至るまでに、われわれの時代におけるキリスト教の可能性について、言い換えると、現代における“護教論”が丁寧に論証されている。それだけに、この部分だけを引用することで余計な誤解を招くかもしれない危険があるかもしれないが、それでもなお、引用への衝動が勝る部分だ。

そして以下もまた、その先を読まないと具体的に何がつまずきとなるのかが分からないと思う。けれどもここ、うまいことおっしゃる、という部分なのでやはり引用しておく。

「躓いて貰いたくないような、キリスト教福音の周辺的な躓きで躓いてしまう人々が多い。ところが、キリスト教の福音には、どうせ躓くのなら、あそこまで行ってほしい、あそこで躓くなら仕方がない、諦めようというような場がある。」(以上、『実存論的神学』72‐73ページ)


あ、それから、先日発掘されたルターのクリスマスブック (The Martin Luther Christmas Book)について、本書第一章、注で取り上げられているよ!実は、わざわざこの『クリスマスブック』から引用しなくても、という箇所ではあるだけに、エドウィン・ルイスから贈られたこの本、本当に嬉しかったのだろうと分かる。(発掘の甲斐があったなあ、ふう。)「職業について発言している、ルターの美しいクリスマスの説教を忘れることができない」(76ページ)ですって。この本もすぐに確認したいのに、埼玉の倉庫にあるのでなかなか閲覧できないのが残念 (;ω;) --(林昌子)