11月24日、やっと礼拝を再開することができました。
場所は、市井の貸会場です。そこに、ポータブル聖餐式用具を持ち込んでの礼拝です。
とはいえ今回は初めての試みですので、参加者は内輪のみで行いました。「ヘブライ人への手紙」6章の聖書の箇所より、キリスト者の完全の教理について若干のお話をさせていただき、本当に感謝です。
いわゆる一般的なキリスト教会からとても遠いところ、街中の、雑踏の中の空間にある礼拝集会。既存の教会では聖餐の恵みにあずかれないとされる立場の友人たちとともに、信仰とは何か、プロテスタントの救いは難しいのか、祈りの自由と、そして形式と、これらについてざっくばらんにお話し合う集会となりました。
聖餐式を礼拝の第一に据える点では保守的な礼拝スタイルですが、出席者各自が万人司祭として参加するというのは再洗礼派プロテスタント的でもあり、中でも出席者各自が自由に発言し合うというスタイルは、ちょっとクェーカーの集会にも通じるのではないかなあと勝手に思いました。これからも私たちらしい、ユーカリスティアらしい集会、救いを求めるのであれば誰もが 神様の恵みに感謝し、キリストを味わうことのできる礼拝集会を開いて行きたいです。(林昌子)
場所は、市井の貸会場です。そこに、ポータブル聖餐式用具を持ち込んでの礼拝です。
とはいえ今回は初めての試みですので、参加者は内輪のみで行いました。「ヘブライ人への手紙」6章の聖書の箇所より、キリスト者の完全の教理について若干のお話をさせていただき、本当に感謝です。
いわゆる一般的なキリスト教会からとても遠いところ、街中の、雑踏の中の空間にある礼拝集会。既存の教会では聖餐の恵みにあずかれないとされる立場の友人たちとともに、信仰とは何か、プロテスタントの救いは難しいのか、祈りの自由と、そして形式と、これらについてざっくばらんにお話し合う集会となりました。
聖餐式を礼拝の第一に据える点では保守的な礼拝スタイルですが、出席者各自が万人司祭として参加するというのは再洗礼派プロテスタント的でもあり、中でも出席者各自が自由に発言し合うというスタイルは、ちょっとクェーカーの集会にも通じるのではないかなあと勝手に思いました。これからも私たちらしい、ユーカリスティアらしい集会、救いを求めるのであれば誰もが 神様の恵みに感謝し、キリストを味わうことのできる礼拝集会を開いて行きたいです。(林昌子)