カトリック豊島教会(St. Patrick’s Church)の教会新聞4月号で、3月10日東京慰霊堂での平和の祈り活動報告に、「女性のプロテスタントの牧師さんも参加」と紹介されています。それ、私のことです。ご紹介に感謝します。
そもそも、どのように私がその新聞を手に入れたかですが、昨日、その時のメンバーが改めて集まって、お食事会があったのでした。もちろん、祈りの会の中心であったI神父も同席です。実は、カトリック教会の神父、信徒の方々とのお食事はもちろん、お話しする機会さえこれまで私にはあまりなかったのです。(それでもちなみに、『黎明』6号〈未刊〉では、カトリック神学者〈聖書学〉の方との対談が掲載予定でした。その対談記録のテープは保存されてあるはずです。破損がなければよいのですが未確認です。)
というわけですので、私もその集まりを楽しみにしていたのですが、私が待ち合わせ場所に本当に現れたことが先方様方には驚きだったご様子です。それにはさらに私も驚いてしまいました。
もっとも学生時代を含め、林や、そして野呂芳男がどれだけそのような集まり(要するに飲み会のような集まり)に消極的であったかはおそらく、知る人ぞ知るだと思います。実は今なお、私はその手の会合が苦手だったりします。そのようなところがやはり「メソジスト」のように見えるのでしょう(実際そうですが)。それはとにかく、立場の違いを越えて(※)いろいろ「腹を割った」お話しがたくさんできて、とても有意義でした。
(※)さてここでちょっとクイズ。その会では「単細胞」/「屁理屈ヤロー」とお互いの立場を揶揄した表現が出現しました。さてどちらがどちらだったでしょう?(答えは、想像にお任せします。)
私はお酒が入ってもあまり普段と変わらない方だと思います。ですから、殊更昨日に限って本音を吐いてしまったということはないのでした。先方様、とくに神父様などは、これこそエキュメニズムだとご満悦の様子、私もその通りだと思います。そして次の2点について、個人的には今後の課題について再認識ができたと喜んでいます。
まず、私たちのこの活動が冠する名「ユーカリスティア」に大きく関わる、というかそのものなのですが、聖餐式、礼典に対する理解や神学上の問題点を、今までよりもさらに突き詰めて考えてゆく必要があると思っています。このことも、いつか研究会で取り挙げられればいいなと思います。
次に、これは私たちEMAの将来の事業のうちでも大切なひとつですが、「異種」が交流する「場」の提供が必要とされている、それに応えてゆくことを可能にする団体でありたい、という課題です。たとえばエキュメニズムに関して、ローマンカトリック教会の司祭たちの間で、その理念に反対する者はまずいないだろう、とのお話しがありました。ではプロテスタントはどうかといえば、カトリック司祭の方々ほどには統一されていないとは思いますが、やはりその理念に共感する方々が多いのではないかと思います。少なくとも、すでにEMAの活動に賛同して下さっている方々は皆、エキュメニカルな対話について共感しているはずです。(いや、陳腐な臭いを発するようにさえなってきた「エキュメニズム」にではなくて、違う立場の者たちがお互いに腹を割って話合うという本来の意味でのそれに、ですが。)
しかしその「場」が今、不足している、実は、同じ方向に向かう思いはあっても交流ができていないという局面がたくさんあるのだと思います。それはカトリックの方々と、だけの問題ではありません。平和、教育、貧困、福祉、祈り……縦割りになりがちなそれらに関する活動のさまざまな局面で、横のつながりを作れるような存在になれればいいなあと思います。もっとも本当に小さな存在として、で構わないし、むしろそうありたいとさえ願います。(林昌子)
そもそも、どのように私がその新聞を手に入れたかですが、昨日、その時のメンバーが改めて集まって、お食事会があったのでした。もちろん、祈りの会の中心であったI神父も同席です。実は、カトリック教会の神父、信徒の方々とのお食事はもちろん、お話しする機会さえこれまで私にはあまりなかったのです。(それでもちなみに、『黎明』6号〈未刊〉では、カトリック神学者〈聖書学〉の方との対談が掲載予定でした。その対談記録のテープは保存されてあるはずです。破損がなければよいのですが未確認です。)
というわけですので、私もその集まりを楽しみにしていたのですが、私が待ち合わせ場所に本当に現れたことが先方様方には驚きだったご様子です。それにはさらに私も驚いてしまいました。
もっとも学生時代を含め、林や、そして野呂芳男がどれだけそのような集まり(要するに飲み会のような集まり)に消極的であったかはおそらく、知る人ぞ知るだと思います。実は今なお、私はその手の会合が苦手だったりします。そのようなところがやはり「メソジスト」のように見えるのでしょう(実際そうですが)。それはとにかく、立場の違いを越えて(※)いろいろ「腹を割った」お話しがたくさんできて、とても有意義でした。
(※)さてここでちょっとクイズ。その会では「単細胞」/「屁理屈ヤロー」とお互いの立場を揶揄した表現が出現しました。さてどちらがどちらだったでしょう?(答えは、想像にお任せします。)
私はお酒が入ってもあまり普段と変わらない方だと思います。ですから、殊更昨日に限って本音を吐いてしまったということはないのでした。先方様、とくに神父様などは、これこそエキュメニズムだとご満悦の様子、私もその通りだと思います。そして次の2点について、個人的には今後の課題について再認識ができたと喜んでいます。
まず、私たちのこの活動が冠する名「ユーカリスティア」に大きく関わる、というかそのものなのですが、聖餐式、礼典に対する理解や神学上の問題点を、今までよりもさらに突き詰めて考えてゆく必要があると思っています。このことも、いつか研究会で取り挙げられればいいなと思います。
次に、これは私たちEMAの将来の事業のうちでも大切なひとつですが、「異種」が交流する「場」の提供が必要とされている、それに応えてゆくことを可能にする団体でありたい、という課題です。たとえばエキュメニズムに関して、ローマンカトリック教会の司祭たちの間で、その理念に反対する者はまずいないだろう、とのお話しがありました。ではプロテスタントはどうかといえば、カトリック司祭の方々ほどには統一されていないとは思いますが、やはりその理念に共感する方々が多いのではないかと思います。少なくとも、すでにEMAの活動に賛同して下さっている方々は皆、エキュメニカルな対話について共感しているはずです。(いや、陳腐な臭いを発するようにさえなってきた「エキュメニズム」にではなくて、違う立場の者たちがお互いに腹を割って話合うという本来の意味でのそれに、ですが。)
しかしその「場」が今、不足している、実は、同じ方向に向かう思いはあっても交流ができていないという局面がたくさんあるのだと思います。それはカトリックの方々と、だけの問題ではありません。平和、教育、貧困、福祉、祈り……縦割りになりがちなそれらに関する活動のさまざまな局面で、横のつながりを作れるような存在になれればいいなあと思います。もっとも本当に小さな存在として、で構わないし、むしろそうありたいとさえ願います。(林昌子)