気の向くまま足の向くまま

できうるかぎり人のためになることを発信していきたいと思っています。

臨死体験しながら臨死体験の番組を聞く

2014-09-16 00:50:38 | 日記
 数日前、立花隆の臨死体験についての番組を見ようと思っていたのだが、食事の後急に眠くなり半分眠ったような状態になりながら(つまり臨死状態になりながら)臨死体験の番組の音だけを聞いていた。
 立花隆はたしか癌になっていて、彼自身死という問題がすでに差し迫った、払いのけることのできない問題なのだろう。

 理性で生きている人は、理性以外のものを無条件に否定する思考が無意識のうちにできあがっているので、理性の外にありながら同時に必ず経験しなければならない、そこに存在するもの、つまり「死」という人生最大の「矛盾」を目の前にして、困惑するのだろうし、わからないだけに恐怖も感じるのだろう。
 なにより、理性で考えれば死は存在しなくなることを意味するので、生物としてこれ以上の恐怖はないのかもしれない。

 この点だけを考えれば僕はラッキーだったなと思う。
死後の存在を否定するにはあまりにも不思議な体験をしてしまったからだ(笑)
 それらの体験から、論理的にどう考えても死後の存在を否定できない、否定することのほうが非理性的、非論理的だというところまで来てしまった。

 自分でもこれは本当に予期しないことだった。
30代まではUFOらしきものを見た以外は、不思議な体験というものを一度もしたこともなかった。
死後の存在があるかないかと言われれば、あるかもしれないし、ないかもしれない、と答えただろう。

 ただ、僕がたぶんまわりの人と違っていたのは、理性で理解できないからと言って頭から否定するということはしない気質だったことだろうか。
とりあえず「わからない、それは確かに理解しにくい、でも、だからといってないということにもならない、僕らの理解の範囲を超えている、ということだ」という考え方が小さいころからあったと思う。

 普通の人は、「理解できない、だから、あるはずない、まずありえない、あってもらってはこまる」という風に考えるのではないか。
たぶん、自分に理解できないことが存在するということを認めることは、なにか自分の存在そのものが崩壊していくような恐怖と不安定感を覚えるのではないかと思う。

 そのような人にとって、死ぬということはどう映るのだろう。
それに対して無限大の恐怖を感じるのではないか。ちょうど、自分がまったいらの海を航海している船で、しかもあるところまで行くと崖のようになっていてそこから奈落の底に落ちていくような。

 僕は臆病な人間なので自分がもしそのような立場だったら、本当に怖くて仕方がないと思う。
くり返すがその点だけは僕はラッキーだった。

 実をいうと、僕は死ぬということが楽しみでもある。
その先にどんな世界があるのか見てみたい、体験してみたいという気持ちがある。まるで子供が今まで行ったことのないテーマパークに行くような気分だ。
何人かのいわゆる超自然的な能力を持った者によれば、そこは無限大の愛にあふれていて、いちどいけば二度とこの世には戻って来たくないと思うそうだ。

 もちろん僕もそれを100%信じているわけではない。
人間というのは『自分の目で見たものしか』本当には信じることができないという。
それは本当だと思う。

 ただ、僕が何度も言うようにラッキーだったのは、それを頭ごなしに否定してしまうにはあまりにも理性では説明のつかない経験をしてきたことと、それらを経験する前から、うまれつき理性の範囲外にあることでも「とりあえずは否定しない気質」であったことがよかった。
 そのおかげで、否定するどころか逆に、理性的に考えるからこそ肯定するほかはないような経験をすることができたのだろう。

 そのため100%は信じることができなくても、70~90%はありうると思うことができる。
これは普通の人よりは大幅に死に対する恐怖が少なくなるということになる。

 それと霊的な世界のことを学んでいくと、生きていく「意味」が違ってくる。
おそらく大部分の人は、自分の欲望、感情の赴くままに(無論、他者や社会との関係があるからそれらの制約は受けるにしても)生きているのではないかと想像する。
だが、それではこの世に生まれてきた霊的な意味を成就することにはならない。

 それどころか、また新たなカルマを作ってしまい、解決するべきものとして来世に持ち込まなければならない。
いいかえれば、宿題を終わらせるために生まれてきたのに、今までの宿題にくわえてまた新しい宿題を作って次の長期休暇に持ち込まなければならなくなる。
こんなご苦労なことをしなければならないのだ!

 霊的な世界のことを学んでいくと、同じことで苦しんでいてもその意味が違ってくる。
だから、上述したように、死後に体験することにわくわくしている部分もあるが、だからといってすぐにでも死にたいわけではない。
なぜなら、今生きているということはそこになんらかの意味があるからだ。

 善悪、モラルの問題に敏感になればなるほど、それが浮かび上がって見えてくる。
このことはつまり、この世の中はともかく、この世を包含しているそれよりもはるかにはるかに広大な世界をつらぬく根本原理というか、根本法則というか、そういうものが善悪、モラルの概念であるということの間接的な証左でもある。

 ミシェル・モンテーニュという僕が大尊敬する思想家が中世フランスにいたが、彼の思想をつらぬく一生のテーマと言って大げさならば、「懸念」は、死んだあと自分はどうなるか、だった。
それだけ怖かったのだろうと思う、彼も。彼の著作を読んでいると憐れみを感じるほど、恐れているのが感じ取れる。
 頭のいい人だけに、立花氏と同じように、『理性的に』それを軽減しようと躍起になっているのがわかる。

 ただやはり、現在のわれわれの理性ではそれを証明することはできない。
いずれはできるようになるらしい、それはエドガー・ケイシーも、僕の信仰している宗教の教祖もそういっていたらしい。
だが、残念ながら今の科学レベルではまだそれはできないらしい。

 いまはただ、体験するほかはない、ぼくのように。
そして、そこから演繹的に考えてやはりあるのだ、そうでなければ説明がつかない、ということに思い至る。
「とりあえずは否定しないでおく」
ということ、その「広がり」をもてるものにしかその幸運は与えられないのかもしれない。

 これは特に僕ら日本人には難しいのかもしれない。
気質が本質的に保守的なため、思考の「広がり」を持ちにくいからだ。
 これが日本人はすでにある技術の模倣をしてそこから発展させることはうまいが、全くゼロのところから新しい原理的なものを生み出すのが苦手といわれるゆえんではないかとおもう。

 これは特に現代では、ソフトウェアの開発の現場において、圧倒的に欧米(特にアメリカ)の独壇場であることを見ても分かる。
なぜ、ソニーがアップルに負けたか、なぜ日本の携帯の技術が世界一であったにもかかわらず、最後にはソフトウェアを中心に据えたアイフォン、アイパッドに負けてしまったか、ということの答えもこのあたりにあるような気がする。

 『枠』を越えた思考が苦手なのだと思う、我々日本人は民族的な気質として。
枠を超えることに言い知れない不安を感じるのだろうと思う。
 だから、外国と違って圧倒的に無宗教の人が多いのもそうだし(つまり理性を超越したものを受け入れにくい)、それゆえに、「死」に対する恐怖も日本人は外国の人よりも大きいのではないかと思う。
 これはとても興味深いことだと思う。

 
 
  
 
 

 

 
コメント
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