原文
http://www.nwffacim.org/default.aspx
2009年8月 29 日 ©NWFFACIM
ページ位置の確認。
Second Edition(Foundation for Inner Peace) 319ページ 第9文節
Chapter 15 – Section – THE HOLY INSTANT AND COMMUNICATION
1Bible: Php 2:5-11, 2Exodus 203
Sparkly Book – p.366, 1st Full Par. / JCIM – p.153, 7th Full Par. / CIMS – p. 308, Par. 73
Chapter 15 – Section – THE NEEDLESS SACRIFICE
First Edition – p. 296, Last Par. / Second Edition – p. 319, Par. 9
4Manual for Teachers – p.71 – Section – AS FOR THE REST…
今晩は、ようこそ。
少し瞑想しましょう。
我々は、「時間の目的」と題された章の「聖なる瞬間とコミュニケーション」のセクションを読んでいます。
時間の目的は、貴方に時間を放棄する機会を与えることです。 時間から外れて「永遠」に戻ることです。 貴方の故郷に、貴方の初めの場所に、貴方の永遠に存在し続ける場所に。 そして、貴方の未来と見える所に戻ることです。 貴方が自分の源から独立しようという試みを放棄した時、貴方は「自分の未来と見えている事」も体験します。
ここでは次のように言いましょう。 変容が起こるのです(起こるべきなのです)。
貴方が神から分離した自分を体験しているので、独立した自治的存在として分離する事を貴方が意図したので、 故郷に帰り父と再度繋がろうとするなら、貴方はコミュニケーションを通してそれを行う必要があるのです。 何故なら貴方の分離感覚はとても確実なものだから。
{何故なら貴方が、とても確実に自分は分離したと考え、その様に感じているので。}
だから、ここに居る貴方があそこ(貴方の居るところとは別の所)に居る父とコミュニケートする形式をとることになります。
貴方が聖なる瞬間にコミュニケーションを再確立したなら、そして貴方がコミュニケーション(二方向の対話と見えるもの)が起こる事を許したなら、これが変容の始まりです。
しかし、貴方はコミュニケーション(双方向対話)の状態に永遠に留まる訳ではありません。
何故なら貴方が精霊(あるいはガイド)を通してコミュニケートして行くに従い、シフトが起こりコミュニケーションがコミュニオン(不可分で同期化された一つの存在、Oneness)へと変化します。 コミュニオン(Communion)とは、聖書が “Let that mind be in you which was also in me.”1 「私の中にも存在しているマインドを、貴方の中にも受け入れなさい」と言っている状態に、貴方がシフトする事です。
コミュニケーションはコミュニオン(霊的交流)へと移行していきます。 コミュニオンとは、分離されていない意識体験、統合された意識体験です。
先週は「主の祈り」の初めの部分を読むことから始めました。 今夜は、十戒の初めの部分を読んで始めたいと思います。
“Thou shalt have no other gods before me.”2
一番初めの戒律は「貴方は、私より前に他の神を置いてはいけません。」です。
我々が学んできた事と照らし合わせれば、この文は “Thou shalt not listen to any other voice than Mine.” 「私以外の声を聞くのは止めなさい。」「貴方は、私の声以外のものを聞いてはいけません。」と言う意味になります。
これの意味する事は、貴方は一番初めに、貴方の母親の声、父親の声、姉妹の声、兄弟の声、息子の声、娘の声、貴方のグルの声を聞いてはいけないのです。 貴方はそれらの声を初めには聞かないのです。
“Thou shalt not listen to any other voice than Mine.”
「貴方は、私の声以外のものを聞いてはいけません。」
この決断を遂行する事が、「聖なる瞬間の正しい使い方」と私が言ってきた事です。 この選択が「いつでも一つであったもの」(しかし現在の貴方には二つに見えているもの)を再統合する「聖なる瞬間」の目的を可能にします。
ここで使っている「コミュニケーション」と言う言葉について、もう一度定義しておく必要があります。
ここで言う、コミュニケーションとは救済と同等のものです。 これは貴方が兄弟/姉妹/父母/息子娘/上役/親戚/グルと単に話している事ではありません。
これは体を使ったコミュニケーションを超えている事です。 ここで言うコミュニケーションとは、口で話したり、手で書いたり、体でボディー・ランゲージを使う事とは別なものです。
貴方が今までしてきた、これらのコミュニケーションは救済には続いていません。 それは貴方にも解っていることでしょう。 何故なら貴方はまだ目覚めていないから。 貴方は罪、病、死から、完全に自由になっていないから。 貴方はまだ、途切れることなく完全に幸福ではなく、自分が故郷に帰ってきているとは感じていないから。
神は神聖なるマインドです。 だから第一の戒律は「貴方は、私以外のマインドを持ってはいけません。」と言う意味です。 そう神がそう言っているのです。 貴方が神のマインドを、「永遠に癒された自分のマインドとして」体験することが(コミュニケーションがコミュニオンへ移行する)聖なる瞬間の結果なのです。
ここでの鍵は、救済をもたらすコミュニケーションは貴方と父との(継続する)意識の繋がりだという事です。 その途切れの無い繋がりの中で、貴方はいつでも(貴方がその時どの様な体験をしていたとしても)父の視点を尋ね、父の視点を求め、一番初めに父の視点を体験したいと願うのです。
こうして、貴方が目の前で行われている事に関わる時、それは貴方と神の意識的繋がり、貴方と神の意識的コミュニケーションから、貴方と神の意識的コミュニオンから(物事と)関わることになるのです。
これが救済をもたらすものです。 これが貴方のゴールです。
つまり我々が言っている事は、「癒しと、幻像の修正」がコミュニオンからもたらされると言う事です。 そしてコミュニオンは、まず初めに聖なる瞬間の中のコミュニケーションから立ち上ってくるのです。
貴方はこれが起こるよう願うことが出来ます。 貴方はそれを願うべきなのです。
貴方は、自分がクリアな精神的空気で満たされる様、クリアな精神的環境に居られる様、癒しをもたらす真理で貴方が満ち溢れる様に、父か精霊か私(イエス)に頼むべきなのです。
しかし、それは魔法の様にひとりでに起こるのではありません。 これは貴方の関与なくしては起こりません。
重要: それは貴方の関与なくしては起こりません。 癒しは無理やり貴方の上になされるものではありません。
前回最後に読んだ文章、余り穏やかではない表現の、この文章から読み始めましょう。
“Suffering and sacrifice are the gifts with which the ego would "bless" all unions.”3 ″
〔エゴは全ての結びつきを祝福するギフトとして、苦しみと犠牲を与えます。〕
もし貴方が目覚めていないなら、貴方はいつでも恐れており、自分が危険に晒されていると感じ、不安で、安定を求め続けます。
そして、それを解決する為に貴方ができる唯一の方法は罪をコミュニケートする(罪を知らせる)ことだけです。{だと貴方は考えています}
貴方は「兄弟から自分に得になる事(物)を引き出さなければならない」と考えるのです。
それをするのは、貴方が狂気の中に居て不安だからです。 貴方は自分を孤独で独立した存在と考えています。
貴方は、自分が神から授かった「自分の為に自分一人で判断をする権利」を持っている、その権利を使って「自分一人だけで成功することが出来る」と考えています。 しかしそれは正しくありません。 その状況を受け入れ、その状況を生きるはじめると、恐れが生まれます。 それは貴方に罪悪感をもたらします。 何故なら、自分がしようとしている事が不可能だと貴方も本当は気付いているからです。 それを達成したとしたら、それは創造に対する嘘になり、父(貴方の源)を完全に否定する事になり、それは心地良くはあり得ない、と貴方も気付いているのです。
だから卑小な孤児としての貴方達は、お互いを出し抜いて安定(安楽)を得ようと忙しいのです。 しかしこれは、上手くは行きません。 でも、上手く行く「あり方」もあるのです。 それは貴方が「自分達に与えられているのは体だけだ」と言うアイディアを放棄する事です。 貴方が「体がコミュニケーションをとり、コミュニケーションの最終目標は自分の安定/安全に繋がる行動を他者から引き出す事」と言うアイディアを放棄する事です。
これらのアイディアは、最初から最後まで不親切なものです。 これらは心優しくない行動をもたらします。
何故私はこう言うのでしょうか? 理由は、遅かれ早かれ貴方が「何か違う事」をしなければならなくなる地点まで到達するからです。 その「何か違う事」が我々が今読んでいる事なのです。 それは、聖なる瞬間と関わり、聖なる瞬間を活用する事なのです。
(病、怪我、薬や酒への依存、その他の)幻想が正されるのを見たいなら、貴方は神のマインド以外のマインドを体験したいと思ってはいけません。 貴方は神をおいて、他の神{他のアイディア}を求めないように成らなければいけません。
ここで貴方に知らせておきましょう。 これを貴方がするとき、これはとても孤独な、とても孤立した行動に感じられるでしょう。
しかしこれは、貴方が脱出しようとしている環境の中で、そう感じられるだけなのです。
今の季節は、雛鳥が雛であることを卒業している時期ですが、多くの雛鳥はいまだに親鳥に餌を求め続けてしまうものです。
自分が餌の上に居ても、いまだにお母さん鳥の口しか見えていなかったりします。
何故でしょう。 それは、覚えている限り、それが餌を食べられる唯一の方法だったからです。 雛鳥はそうやって生きてきたからです。
だから、餌が目の前に落ちていてもそれが見えず、親鳥の嘴だけを見つめて、餌を催促して泣き続けるのです。 親鳥は餌をゆっくりと、今までよりもっとゆっくりと与えるでしょう。
それを見れば、いずれ雛鳥も親鳥がしている事に気付き、下を見て餌を発見し、親鳥に主権(とここでは言って置きましょうか)を渡さずに、自分でそれを食べる時期がやがて来ると解るでしょう。
それは(雛鳥が自分で餌を得るのは)あたかも、全ての意味ある事を放棄する事に似ています。 それは両親を放棄し両親に対する全ての感情を放棄するようにも感じられるでしょう。
自分で餌を食べるのは、母鳥を見捨てる様にも感じられるでしょう。 これは容易いことではなく、貴方は自分が自立しようとしている様に感じられるでしょう。
これは自分をとても孤独にする行為にも思えるでしょう。 自分で餌を食べれるなら、親鳥はいらないから。 しかし、親なしで自分をどうやって成り立たせたら良いか、合点がいかないと思うかもしれません。
貴方が聖なる瞬間を持った時、貴方が{反応を}踏みとどまり、「二つのステップ」をして「父よ、ここの真理はなんですか?」と訊いた時、貴方は何をしているのでしょうか?
その時貴方は幾つかの事をしています。 その時貴方は、友達/グル/母親/教師など貴方に人生を教えた人に了解(承認)を求める事を止めています。
その時貴方は、目に見える人達(貴方の周りの体)との関係以外の情報源から答えを聞いているのです。 これは独立行動の様に感じられます。 貴方は自分を孤立させる様な事をしているように感じられるでしょう。
しかし覚えておきなさい、その時貴方がしているのは、貴方が今までコミュニケーションして来なかった(もちろんコミュニオン体験もして来なかった)存在と意識的に繋がる体験なのです。
http://www.nwffacim.org/default.aspx
2009年8月 29 日 ©NWFFACIM
ページ位置の確認。
Second Edition(Foundation for Inner Peace) 319ページ 第9文節
Chapter 15 – Section – THE HOLY INSTANT AND COMMUNICATION
1Bible: Php 2:5-11, 2Exodus 203
Sparkly Book – p.366, 1st Full Par. / JCIM – p.153, 7th Full Par. / CIMS – p. 308, Par. 73
Chapter 15 – Section – THE NEEDLESS SACRIFICE
First Edition – p. 296, Last Par. / Second Edition – p. 319, Par. 9
4Manual for Teachers – p.71 – Section – AS FOR THE REST…
今晩は、ようこそ。
少し瞑想しましょう。
我々は、「時間の目的」と題された章の「聖なる瞬間とコミュニケーション」のセクションを読んでいます。
時間の目的は、貴方に時間を放棄する機会を与えることです。 時間から外れて「永遠」に戻ることです。 貴方の故郷に、貴方の初めの場所に、貴方の永遠に存在し続ける場所に。 そして、貴方の未来と見える所に戻ることです。 貴方が自分の源から独立しようという試みを放棄した時、貴方は「自分の未来と見えている事」も体験します。
ここでは次のように言いましょう。 変容が起こるのです(起こるべきなのです)。
貴方が神から分離した自分を体験しているので、独立した自治的存在として分離する事を貴方が意図したので、 故郷に帰り父と再度繋がろうとするなら、貴方はコミュニケーションを通してそれを行う必要があるのです。 何故なら貴方の分離感覚はとても確実なものだから。
{何故なら貴方が、とても確実に自分は分離したと考え、その様に感じているので。}
だから、ここに居る貴方があそこ(貴方の居るところとは別の所)に居る父とコミュニケートする形式をとることになります。
貴方が聖なる瞬間にコミュニケーションを再確立したなら、そして貴方がコミュニケーション(二方向の対話と見えるもの)が起こる事を許したなら、これが変容の始まりです。
しかし、貴方はコミュニケーション(双方向対話)の状態に永遠に留まる訳ではありません。
何故なら貴方が精霊(あるいはガイド)を通してコミュニケートして行くに従い、シフトが起こりコミュニケーションがコミュニオン(不可分で同期化された一つの存在、Oneness)へと変化します。 コミュニオン(Communion)とは、聖書が “Let that mind be in you which was also in me.”1 「私の中にも存在しているマインドを、貴方の中にも受け入れなさい」と言っている状態に、貴方がシフトする事です。
コミュニケーションはコミュニオン(霊的交流)へと移行していきます。 コミュニオンとは、分離されていない意識体験、統合された意識体験です。
先週は「主の祈り」の初めの部分を読むことから始めました。 今夜は、十戒の初めの部分を読んで始めたいと思います。
“Thou shalt have no other gods before me.”2
一番初めの戒律は「貴方は、私より前に他の神を置いてはいけません。」です。
我々が学んできた事と照らし合わせれば、この文は “Thou shalt not listen to any other voice than Mine.” 「私以外の声を聞くのは止めなさい。」「貴方は、私の声以外のものを聞いてはいけません。」と言う意味になります。
これの意味する事は、貴方は一番初めに、貴方の母親の声、父親の声、姉妹の声、兄弟の声、息子の声、娘の声、貴方のグルの声を聞いてはいけないのです。 貴方はそれらの声を初めには聞かないのです。
“Thou shalt not listen to any other voice than Mine.”
「貴方は、私の声以外のものを聞いてはいけません。」
この決断を遂行する事が、「聖なる瞬間の正しい使い方」と私が言ってきた事です。 この選択が「いつでも一つであったもの」(しかし現在の貴方には二つに見えているもの)を再統合する「聖なる瞬間」の目的を可能にします。
ここで使っている「コミュニケーション」と言う言葉について、もう一度定義しておく必要があります。
ここで言う、コミュニケーションとは救済と同等のものです。 これは貴方が兄弟/姉妹/父母/息子娘/上役/親戚/グルと単に話している事ではありません。
これは体を使ったコミュニケーションを超えている事です。 ここで言うコミュニケーションとは、口で話したり、手で書いたり、体でボディー・ランゲージを使う事とは別なものです。
貴方が今までしてきた、これらのコミュニケーションは救済には続いていません。 それは貴方にも解っていることでしょう。 何故なら貴方はまだ目覚めていないから。 貴方は罪、病、死から、完全に自由になっていないから。 貴方はまだ、途切れることなく完全に幸福ではなく、自分が故郷に帰ってきているとは感じていないから。
神は神聖なるマインドです。 だから第一の戒律は「貴方は、私以外のマインドを持ってはいけません。」と言う意味です。 そう神がそう言っているのです。 貴方が神のマインドを、「永遠に癒された自分のマインドとして」体験することが(コミュニケーションがコミュニオンへ移行する)聖なる瞬間の結果なのです。
ここでの鍵は、救済をもたらすコミュニケーションは貴方と父との(継続する)意識の繋がりだという事です。 その途切れの無い繋がりの中で、貴方はいつでも(貴方がその時どの様な体験をしていたとしても)父の視点を尋ね、父の視点を求め、一番初めに父の視点を体験したいと願うのです。
こうして、貴方が目の前で行われている事に関わる時、それは貴方と神の意識的繋がり、貴方と神の意識的コミュニケーションから、貴方と神の意識的コミュニオンから(物事と)関わることになるのです。
これが救済をもたらすものです。 これが貴方のゴールです。
つまり我々が言っている事は、「癒しと、幻像の修正」がコミュニオンからもたらされると言う事です。 そしてコミュニオンは、まず初めに聖なる瞬間の中のコミュニケーションから立ち上ってくるのです。
貴方はこれが起こるよう願うことが出来ます。 貴方はそれを願うべきなのです。
貴方は、自分がクリアな精神的空気で満たされる様、クリアな精神的環境に居られる様、癒しをもたらす真理で貴方が満ち溢れる様に、父か精霊か私(イエス)に頼むべきなのです。
しかし、それは魔法の様にひとりでに起こるのではありません。 これは貴方の関与なくしては起こりません。
重要: それは貴方の関与なくしては起こりません。 癒しは無理やり貴方の上になされるものではありません。
前回最後に読んだ文章、余り穏やかではない表現の、この文章から読み始めましょう。
“Suffering and sacrifice are the gifts with which the ego would "bless" all unions.”3 ″
〔エゴは全ての結びつきを祝福するギフトとして、苦しみと犠牲を与えます。〕
もし貴方が目覚めていないなら、貴方はいつでも恐れており、自分が危険に晒されていると感じ、不安で、安定を求め続けます。
そして、それを解決する為に貴方ができる唯一の方法は罪をコミュニケートする(罪を知らせる)ことだけです。{だと貴方は考えています}
貴方は「兄弟から自分に得になる事(物)を引き出さなければならない」と考えるのです。
それをするのは、貴方が狂気の中に居て不安だからです。 貴方は自分を孤独で独立した存在と考えています。
貴方は、自分が神から授かった「自分の為に自分一人で判断をする権利」を持っている、その権利を使って「自分一人だけで成功することが出来る」と考えています。 しかしそれは正しくありません。 その状況を受け入れ、その状況を生きるはじめると、恐れが生まれます。 それは貴方に罪悪感をもたらします。 何故なら、自分がしようとしている事が不可能だと貴方も本当は気付いているからです。 それを達成したとしたら、それは創造に対する嘘になり、父(貴方の源)を完全に否定する事になり、それは心地良くはあり得ない、と貴方も気付いているのです。
だから卑小な孤児としての貴方達は、お互いを出し抜いて安定(安楽)を得ようと忙しいのです。 しかしこれは、上手くは行きません。 でも、上手く行く「あり方」もあるのです。 それは貴方が「自分達に与えられているのは体だけだ」と言うアイディアを放棄する事です。 貴方が「体がコミュニケーションをとり、コミュニケーションの最終目標は自分の安定/安全に繋がる行動を他者から引き出す事」と言うアイディアを放棄する事です。
これらのアイディアは、最初から最後まで不親切なものです。 これらは心優しくない行動をもたらします。
何故私はこう言うのでしょうか? 理由は、遅かれ早かれ貴方が「何か違う事」をしなければならなくなる地点まで到達するからです。 その「何か違う事」が我々が今読んでいる事なのです。 それは、聖なる瞬間と関わり、聖なる瞬間を活用する事なのです。
(病、怪我、薬や酒への依存、その他の)幻想が正されるのを見たいなら、貴方は神のマインド以外のマインドを体験したいと思ってはいけません。 貴方は神をおいて、他の神{他のアイディア}を求めないように成らなければいけません。
ここで貴方に知らせておきましょう。 これを貴方がするとき、これはとても孤独な、とても孤立した行動に感じられるでしょう。
しかしこれは、貴方が脱出しようとしている環境の中で、そう感じられるだけなのです。
今の季節は、雛鳥が雛であることを卒業している時期ですが、多くの雛鳥はいまだに親鳥に餌を求め続けてしまうものです。
自分が餌の上に居ても、いまだにお母さん鳥の口しか見えていなかったりします。
何故でしょう。 それは、覚えている限り、それが餌を食べられる唯一の方法だったからです。 雛鳥はそうやって生きてきたからです。
だから、餌が目の前に落ちていてもそれが見えず、親鳥の嘴だけを見つめて、餌を催促して泣き続けるのです。 親鳥は餌をゆっくりと、今までよりもっとゆっくりと与えるでしょう。
それを見れば、いずれ雛鳥も親鳥がしている事に気付き、下を見て餌を発見し、親鳥に主権(とここでは言って置きましょうか)を渡さずに、自分でそれを食べる時期がやがて来ると解るでしょう。
それは(雛鳥が自分で餌を得るのは)あたかも、全ての意味ある事を放棄する事に似ています。 それは両親を放棄し両親に対する全ての感情を放棄するようにも感じられるでしょう。
自分で餌を食べるのは、母鳥を見捨てる様にも感じられるでしょう。 これは容易いことではなく、貴方は自分が自立しようとしている様に感じられるでしょう。
これは自分をとても孤独にする行為にも思えるでしょう。 自分で餌を食べれるなら、親鳥はいらないから。 しかし、親なしで自分をどうやって成り立たせたら良いか、合点がいかないと思うかもしれません。
貴方が聖なる瞬間を持った時、貴方が{反応を}踏みとどまり、「二つのステップ」をして「父よ、ここの真理はなんですか?」と訊いた時、貴方は何をしているのでしょうか?
その時貴方は幾つかの事をしています。 その時貴方は、友達/グル/母親/教師など貴方に人生を教えた人に了解(承認)を求める事を止めています。
その時貴方は、目に見える人達(貴方の周りの体)との関係以外の情報源から答えを聞いているのです。 これは独立行動の様に感じられます。 貴方は自分を孤立させる様な事をしているように感じられるでしょう。
しかし覚えておきなさい、その時貴方がしているのは、貴方が今までコミュニケーションして来なかった(もちろんコミュニオン体験もして来なかった)存在と意識的に繋がる体験なのです。