目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

10-02-06#1 Magnitude of Holiness

2010-02-09 09:54:45 | Chapter 16
February 6th, 2010 ©NWFFACIM

原文テキスト
http://www.nwffacim.org/tgp/forums/thread-view.asp?tid=28901&mid=140537#M140537

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ページ位置の確認。

Sparkly Book, page 381, the last paragraph.
Second Edition, page 333, paragraph five.
First Edition, page 310, the first full paragraph.
JCIM, page 160, the sixth full paragraph.
CIMS edition, page 321, paragraph fifteen.


少し瞑想しましょう。


今晩は。ようこそ。  

貴方達全員、今現在私の言葉を聞いている貴方達全員が(例えどれだけ貴方が若かったにしろ)貴方の生涯の何処かの時点で、奇跡を可能にした(奇跡をもたらした)事があるのです(それを貴方が覚えていなかったにしろ)。

その時貴方は、自分のマインドの中に無垢が入る事を許して、その結果変化の使者に成ったのです。  貴方はそれをしっかり行い、誰か他の人が貴方によってハッキリと祝福されたのです。

自分の生涯の中で最低一回はその様な事があったと解っている人もいるでしょう。
「貴方が計画し得なかった事」が起こったのです、誰かから大きな(身体的あるいは感情的あるいは精神的な)苦しみを取り除いたのです。 (なにか特定出来ないものが)内的に照らし出されたとしか貴方には言い様のない体験です。

その時貴方は無限の広がりを感じたかもしれません。 あるいは、貴方をとても慈しむ光に抱擁される体験だったかもしれません。

その時、貴方の身体の一部分から香りが漂っていたかもしれません(香水やアフター・シェーブなど貴方が自分で付けたもの、説明の付くものではなく)。
これらの体験は、他者が急に拘束から解放された時に、貴方が体験したかもしれないものです。

これは貴方が自分の思考やエネルギーを他者に向けたりした結果として起こった事ではありません。

しかしその時(奇跡が起こった時点で)貴方と他者の間には「関係」が起こっていました。

貴方達の殆どは、その様な事は一回しか起こらなかったと言うでしょう。 少なくとも頻繁には起こっていないと。 そして、その様な体験を全く覚えていない人達は、その記憶をブロックしているのです。 何故でしょうか?

理由は、それが起こった時貴方に注目が集まったからです。 貴方に感謝が与えられたから、そして貴方は恥ずかしくなってしまった。 起こった素晴らしいこと故に注目の的に成った事を、貴方は恥ずかしいと思ったのです。
それは貴方の自意識を刺激しました。 だから貴方の取った「最善の策」は、退いて「起こった事を」記憶から押し出す事でした。

貴方がこの様な経験を覚えていなかったとしても、貴方によって祝福された人々は今でもそれを忘れてはいません。 彼らは貴方が祝福の一部だったと知っています。


さて、私は何故この様な事を言っているのでしょうか? その理由は、貴方達の大半は自分が奇跡に参加しているとは考えていないからです。

貴方の考え方(孤児としての貴方の考え方)、自身を神の聖なる子供として認識していない「考え/マインド」は奇跡など神のリアリティを示すものに対しては居心地が悪いからです。

「んん。 その様な事はヒーラーにでも任せて置け。 牧師達にでも任せて置け。自分? いいや。」

貴方が奇跡に対して居心地悪く感じているなら、貴方が他者の人生の重要な人に成る事に躊躇しているなら、貴方は「自分が誰か」否定しています。 その時貴方は、自分が神の子である事を否定しています。 その時貴方は、(出来ればスピリチュアルな学習や理解を元に、安楽にスムーズに残りの人生を生きようとしている)ただの人間である事で満足しています。 これに関しては先週も話しました。
つまり貴方は基本的に神聖と関わり合うのを避けているのです。 これを理解する事が重要です。

神聖の意味を自身に与える事が難しいと考えている限り、貴方は孤児的な考えに固執しているのです。  より詳しく言うなら、その時貴方は自分の父/母、つまり自分の神に対して無知な者として留まろうとしているのです。


ではここから本を読み始めましょう。

“How can faith in Reality be Yours while You are bent on making it unreal?”

〔貴方がリアリティ(現実)をリアルではないものにしようとしている時、リアリティに対する信心が貴方のものに成りえるでしょうか?〕


私が今さっき言った事を聞いていなかったなら、貴方は「えー、私がリアリティをリアルでないものにしようとしている、とはどんな意味ですか?」と言うかもしれません。  そうですね。 こうして貴方はリアリティ(現実)をリアルでないものにしようとしているのです。

神聖の意味(「貴方は神の子供です」それがリアリティです)を自分と関わり合いないものにしようとしている時、貴方はそのリアリティをリアルでないものにしています。

「私の神聖を物置にでも隠して、見えなくしてしまえれば丁度いいのに。」
しかしエゴの神聖でない子供は死んでしまいます。 神聖でないエゴの子供は病気になります。 エゴ(プライベートで自己中心的で独善的なマインド)の神聖でない子供は罪/病/死/不遇/欠乏/ストレス/恐れ/憎しみ/差別に悩まされます。

そう、自分の神聖を無視するのはたやすい事です。 私はそれを理解しています。 貴方は自分が苦しんでいるリアリティの中で良くやりくり出来ています。 しかし我々は目覚める事に関して話しているのです。 それが全ての要点なのです。

リアリティ(現実)がリアル(現実)だと発見する事が一番大事なのです。 そしてリアルなリアリティは、貴方が考えてきた事とは違うのです。 だから目覚めるには貴方のマインドの様相が、貴方の様子が、貴方の態度が、かなり変化しなければならないのです。

貴方はどれだけ頻繁に好奇心を持っていますか? 貴方はどれだけ頻繁に、朝起きた時に好奇心を持って「今日どんな奇跡が見れるだろう? 私が自分の一日に対するコントロールと権限を放棄する事で、どの様な奇跡が体験出来るだろう?」と言っているでしょうか。

「精霊の視点を訊ねた結果、私はどれだけ奇跡を体験するだろう? 私の『正しいマインドでしかないもの』の視点を得ることで。」

しかしこれが起こるべき事なのです。 これが貴方のマインドの中に置かれるべき思考/アイディアなのです。  一日中何回も注意ランプが灯り「見よ、見よ」と貴方に知らせているべきなのです。  現時点で「貴方が見ているもの」に対する貴方の概念を超えているものを見なさい(探しなさい)。 そこで神が成っているものを見て探しなさい。 「なにか物質的な事が起こっている」と貴方が考えている、すぐそこで。

貴方は自分の一日が新しい正しい真の視点で満たされるのを望んでいるのです。 それが(真の視点で貴方が満たされる事が)そこに現れているリアリティの直接体験、つまり神の現れなのです。

貴方がスピリチュアルな視点を得ている、年取っていく人間として存在しているなら。
まず初めに貴方は大きく成長します。 これはとても興味深い体験で、貴方はそれを楽しく求め続けます。

しかし一旦年取ったなら、貴方は「新しさ」を見つけようとしなくなります。 何故なら、貴方は年取る事を新しさが色あせて行く事と結び付けてしまうから。 貴方はこのように考えて毎日を過ごしています。

この様な自己感覚を懐いている貴方が「A Course in Miracles」の本を取り上げて読み、生きるエネルギーを得ています。 歳をとり続ける中で、平和の体験を得ています。

この様な事は止めるべきです。 私は貴方にこれを止めて欲しいのです。 何故なら、神について学ぶ理由は、(神の子供という)貴方の真のアイデェンティティについて学ぶ理由は、貴方が歳をとらなくなる事だからです。 そして罪/病/死が消滅する事です。

そうして貴方を苛み動けなくしている、憎しみ/苦しみ/妬みが貴方のマインドから去り、その様な気付き(意識)が起こらなくなる様に。

真理とは(貴方が)「苦しい生涯の中で安楽を得る方法」ではありません。

精霊(貴方の正気でしかないもの)は、貴方が抱いている「独創的に分離した卑小な自己感覚」を「貴方」の全体に統合し直そうとしているのです。
それは知覚のシフト(知覚の変容)が起これば完了します。 知覚のシフトだけでこれが出来るのです。
すると貴方は「知覚のシフトとは何ですか? それを教えてください。 それを喜んで抱擁しましょう。」と言うでしょう。

それは貴方が自分で個人的に(プライベートに)持っていると考えている全ての権利感覚(責任感)を放棄した時に起こる知覚の変容です。 それは貴方が謙虚に成った瞬間に起こる知覚の変容です。 つまり貴方の(個人的体験から生まれる)自信/傲慢が無い時にそれが起こるのです。

不死身(Invulnerable)とは、「体験から生まれた自信」の対極に当たる神聖なものです。
 不死身とは貴方が謙遜の状態にある事です。 貴方が自分を神から(父から、貴方の源から)隔てていない時の事です。
そして「聖なる瞬間」が「神の法がなされている場所」です。 聖なる瞬間の静けさの中で、(それを妨げている)自己意志が存在しないので、知覚のシフトが起こるのです。

謙虚とは貴方が静寂と呼んでいるものです。 人間的意志が静められている事です。

これが意味する事は、 この世界のいまここで、貴方が日常生活をしている所で、貴方は不死身を体験できるのです。 高速道路の中で(例え交通事故の真っ只中でも)、あるいは台所で鋭い包丁を使っていたり、沸騰したお湯を抱えている時でさえも。

貴方がそれらの行動を謙虚に行なったなら、貴方は不死身に成れるのです。

不死身 – 全ての瞬間において貴方は、ダメージを受けたり、傷付いたり、貴方の神聖なるオリジナリティ(父が貴方に成っているもの)から離れる事が出来ないと言う事です。

これはとても意味深いことです。 これは「意味深い」という言葉より「意味深い」事です。 これは熱望に値する事です。 これは「二つのステップ」をするに値する事です。