2009年 4月12日 ©NWFFACIM
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Sparkley 版 35?ページ第?文節(録音不明瞭)
Second Edition 311ページ第9文節
First Edition 289ページ最終文節
JCIM(Jesus’Course in Miracles)150ページ第六文節
CIMS 版 301ページ第43文節
オケー。少し一緒に瞑想しましょう。
沈黙
今晩は。ようこそ。
今現在の時点で、ほとんどの人は復活祭の日(イースター)を終えていますね。
復活とは、これは一人の人間が、貴方の、貴方の、貴方の、全ての人の生命の真実を具体的に実例したものです。
4週間ぐらいかけて、聖なる瞬間について話してきましたが。これは、貴方がYes(ハイ)と言う瞬間のことです。何に対してハイと言うのでしょう? プライベートな思考を放棄することに対してです。「父よ、今行われていることの真実は、どの様なものですか?」と尋ね、その真実を明白に体験し、その体験を通して、瞬間的に(自動的に)行動を通して、貴方の兄弟や世界に関する真実を受け入れ、体現する事です。
聖なる瞬間が貴方の復活なのです。これは、貴方が自身の神性を行動に移したと言う事です。これは、神々しく振舞うのではなく、貴方が神の存在を自分の中に自身として感じることで自分の神性を揺るぎ無いものとして体験することです。 自分の中に神以外の存在を容認しない事により、神の存在を自分の中に感じるのです。貴方は、貴方と呼ばれている存在を捏造して、あたかもそれが実在しているかのように振舞うことを止めるのです。
もし、貴方達一人ひとりの為に役立たないなら、磔なぞ、復活なぞ、アセンションなぞ何になるのでしょう。今この時でも、何時でも、どんな状況でも、彼方が決意した時点が、聖なる瞬間になるのです。それは、彼方が自我を(神に)譲った時です。
聖なる瞬間とは、貴方が「(父よ)貴方の意思が成されますように」と言った時です。
「天におられる我らが父よ、貴方の名前が敬われますように、貴方の王国が打ち立てられ、貴方の意思がなされますように。」
「貴方の意思が成されますように」、よく言われる台詞ですが、これは大抵、「貴方の意思が私の上に成されますように」と解釈されています。本当は「貴方の意思が私を通して成されますように」という意味なのです。 私は自分個人の理由から独自に行動する意思を放棄しました。その様な事より、貴方の(神の)意思が知りたいのです。貴方の意思を、私にも分けて下さい。貴方の意思の真実が明瞭になり、神から分離した視点を持つ権利を私が捨て去れるように。
貴方が「貴方の意思が成されますように」と言うのは、 今現在の余りに人間的な状況の中で、父の意思を貴方の中に確立させる事こそ、貴方の権利であり、一番の任務だからです。
つまり、「貴方の意思が成されますように」という文は, 今現在の状況の中から、父の意思が明白に現れた真実の知識と、動いている父の存在によって貴方が満たされることを父に対して求める呼びかけなのです。 その体験は余りに明瞭なので、貴方が父の視点以外のものに価値を置く事はありえません。
つまり、聖なる瞬間とは貴方が決意した瞬間のことです。聖なる瞬間とは、貴方がハイと言った瞬間です。だから貴方はいつでも復活する可能性を秘めているのです。
言葉を変えて言えば、貴方はいつでも救済を経験することが出来るのです。貴方が日常と呼んでいる今ここで実際に経験し、その日常を変換することが可能です。
しかし、それが起こるのは、今ここです、貴方がその経験を求めるのは、今ここの中でです.
貴方は、今ここの中に自分を譲り、知覚の変容(Sudden Shift of Perception)つまり奇跡を体験します。 復活とは、聖者の為のものではありません。復活は聖者では無い人の為にあります。
復活は、少しの間、非神性に在ることを怠った非聖者が経験するものです。 私は、「怠る」という言葉を頻繁につかいます。
貴方には、(非神性、神からの分離を)怠るという行動が必要なのです。
私は、貴方に怠ること(放棄すること)をお勧めします。 それは簡単なことです。努力も要りません。
でも、貴方は大切だと思い込んできたものを放棄しなければいけません。 なぜなら、独自性(神からの分離)と思考を放棄すれば、その隙間に父の意思が訪るからです。
そして、平和の経験が貴方にもたらされます。動き(それを貴方はフィーリングと呼ぶでしょう)、それが聖なる愛です。それが貴方を包むのではなく、それが自身を照らし出して、貴方は自分を知ることに成るのです。
これだけでも、思考や独立性を放棄する十分な理由に値します。
静かにしている意思とは、一旦埋葬所に入る決意と似ています。その何処でない空白の中で真理が照らし出され変容が起こるのです。
静けさに浸る事は、正気に戻る為の、気づきの子宮、変容の子宮に入るようなものです。
先週の続きを読みましょう。〔聖なる瞬間の為に必要な条件とは、不純な思考が全て無くなる事では無く、貴方が思考を保持しないという事です。〕
〔私が子供のころには子供っぽい行動を取っていましたが、大人になったときには玩具は片付けました〕(聖書、13章、1st Corinthians)
子供はおもちゃ箱を持っていますね。そこには、大切なおもちゃと飽きられたおもちゃが入っています。飽きられたおもちゃも、捨てられずにそこにありますが、それで遊ぶ事はもうありません。それにはもう興味がわかないのです。
つまり、どんな玩具が(思考が)そこにあってもいいのですが。それに囚われてはいけません。
貴方が持っている玩具(思考)を大切なものと考えてはいけません。それは、ただそこに在るだけです。執着も無く、かといって一生懸命無視することもなく。もう、玩具箱から卒業する時です。
もし、兄弟が玩具を取ったとしても、争いは起こらないでしょう。もう玩具は重要なものではないのです。
〔聖なる瞬間の為に必要な条件とは、不純な思考が全て無くなる事ではありません、〕
自分を完全な聖者に磨き上げる必要はないのです。〔必要なのは、どの様な思考にも囚われない事です(どの様な思考も保持(Keep)しないことです)。〕
(思考が起こるにまかせ、それを自分のものとして受け取り保たないことです。)
つまり、聖なる瞬間に少しの間、全ての思考を放棄(無視)するのです。
思考を放棄するには、貴方の注意をそれらに向けない事です。自分の注意(意識)を静かさに向け、思考を放棄します。つまり瞑想ですね。そして、静けさの中から精霊か父か私へ呼びかけるのです。
それだけです。これをすれば、他の事は怠ったことになります。
〔無垢とは貴方が作り出したものではありません。無垢こそが貴方なのですが、貴方はそれをつくりませんでした。いくら貴方がそれを無視しても、それを否定したとしても、それを変化させる事は出来ません。〕
〔無垢とは貴方が作ったものではありません。〕 貴方に受け取る意思があれば、それは何時でも貴方に与えられます。そして本当のところ貴方には既にそれが与えられています。貴方がそれを経験していないだけです。貴方が受け取る決意をした途端、それを経験することになります。無垢の経験を拒まなくなった途端、無垢は貴方に示されます。
どうすれば無垢が体験できるのでしょう? 罪悪感(Guilt)の使用を止めることです。四六時中自分が有罪だと責め、問題が貴方のせいで起きていると自分に言い聞かせるのを止めることです。
こういう失敗をしたから、こういう罪を犯したから自分が罰せられなければいけないと考えることを止めましょう。
貴方が無垢で満たされ、それによって知覚の変容(Suden shift of perception)つまり癒しを経験する為には、罪(罪悪感)の使用を怠る必要があります。
〔それは、貴方がそれを受け入れた途端に与えられます。〕 しかし、贖罪が必要でない場合には贖罪は起こりません。貴方が頑なに自分があれこれの罪を犯していると思い込んでいないなら、貴方の無垢(無罪)を示すために贖罪が起こる事はありません。その場合、聖なる瞬間は必要ではありません。なぜなら自分自身が完全なるもの、神のホストだと知っている者は救済以外の経験はしていないからです。
神のホストには、それが解っています。
〔貴方が完全なコミュニケーションを貴方自身から隠そうとしている間は、完全なコミュニケーションを受け入れる事は、貴方には出来ません。〕 この完全はコミュニケーションとは、貴方と貴方の兄弟がお互いに対して躊躇無く、自己防御なく居るときに起こることです。
これは、貴方と貴方の兄弟が完全にお互いを分かち合っていると言うことです。
その行為を示す言葉は「平和」です。それは安全であり安定であり無敵であり、遍在(Omnipotence)と呼ばれるものです。
〔, 貴方は完全なコミュニケーションを受けれる事はできません、〕
完全なコミュニケーションとは「無防備な分かち合い」の結果です。
〔それを貴方が自分自身から隠している間は。なぜなら、貴方が隠そうと思った事柄は、あなた自身からも隠されてしまうからです。〕
貴方の兄弟に対する全ての防御行為は、貴方と兄弟の同一性を隠してしまいます。
貴方には、自分とそして兄弟の神性が解らなくなってしまいます。
その神性とは貴方が兄弟と分かち合っているものです。なぜなら、貴方達は同じ父の子供(神のホスト)だからです。 貴方は兄弟に対して防御することで、自分たちが神のホストだと言うことを隠してしまいます。
貴方が兄弟から自分を守るつもりでしている事が、お互いの理解を妨げます。
しかし、自分たちがどういう存在か分かち合う経験の中に完璧な安全が既にあるので、本当は防御は必要ないのです。
〔その行為においては〕、どの行為でしょう? 聖なる瞬間の行為です。
〔その行為においては、ただ欺瞞が起こらない様にして、秘密の考えを自分の中に保持するのは止めましょう。〕
欺瞞が起こらないようにするには、どうしたらいいのでしょう?
答えは、欺瞞行為が何かということに隠されています。欺瞞行為とは思考のことです。個人的な、一人っきりの思考のこと、自分だけで考えることですが欺瞞行為なのです。
〔その行為においては、ただ欺瞞が起こらない様にして、〕欺瞞とは自分一人っきりで考える行為です。
〔秘密の考えを自分の中に保持するのは止めましょう。〕自分ひとりで抱え込むのを止めるのです。
一人で考えて、一人で自分の内に仕舞い込んでいる秘密の考えをです。
〔精霊の純粋さで、それらを洗い流してもらいなさい。そして、貴方の全ての意識を差し出して、彼が捧げる純粋さを受け取りなさい。〕 この過激なことを行いなさい。自分だけの為に思考することを怠るのです。
それを止めて、静かになりなさい。耳を澄ませて、真実を知りたいと願いなさい。
私の視点から全てを見たいと願って下さい。私のビジョンが、私から貴方への、神からもたらされた贈り物です。それを受け取るには、意識的に私と共に在りなさい。私が貴方と共に居ることに、貴方が私と居ることに、気づいて下さい。我々が離れていることには、何の価値もありません。そして、私の視点を尊びなさい。なぜなら、私の視点がすなわち父の視点だからです。父の視点を、私を通して貴方へ捧げます。それを受け入れたとき、貴方はその視点を兄弟と分かち合うでしょう。
我々は、分かち合いについて話しています。プライバシーとは正反対の事柄です。
これは、畏敬するべき体験をして、内側から抑えがたい声を上げる経験なのです。
その声がどの様な言葉となって飛び出すにしろ、それ以外に言うべきこと、するべきこと、あるべきことは無いとハッキリ解るのです。
貴方の復活は、全てのプライバシーを捨てる行為に、貴方がハイと言った途端に始まります。
ページの確認
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Second Edition 311ページ第9文節
First Edition 289ページ最終文節
JCIM(Jesus’Course in Miracles)150ページ第六文節
CIMS 版 301ページ第43文節
オケー。少し一緒に瞑想しましょう。
沈黙
今晩は。ようこそ。
今現在の時点で、ほとんどの人は復活祭の日(イースター)を終えていますね。
復活とは、これは一人の人間が、貴方の、貴方の、貴方の、全ての人の生命の真実を具体的に実例したものです。
4週間ぐらいかけて、聖なる瞬間について話してきましたが。これは、貴方がYes(ハイ)と言う瞬間のことです。何に対してハイと言うのでしょう? プライベートな思考を放棄することに対してです。「父よ、今行われていることの真実は、どの様なものですか?」と尋ね、その真実を明白に体験し、その体験を通して、瞬間的に(自動的に)行動を通して、貴方の兄弟や世界に関する真実を受け入れ、体現する事です。
聖なる瞬間が貴方の復活なのです。これは、貴方が自身の神性を行動に移したと言う事です。これは、神々しく振舞うのではなく、貴方が神の存在を自分の中に自身として感じることで自分の神性を揺るぎ無いものとして体験することです。 自分の中に神以外の存在を容認しない事により、神の存在を自分の中に感じるのです。貴方は、貴方と呼ばれている存在を捏造して、あたかもそれが実在しているかのように振舞うことを止めるのです。
もし、貴方達一人ひとりの為に役立たないなら、磔なぞ、復活なぞ、アセンションなぞ何になるのでしょう。今この時でも、何時でも、どんな状況でも、彼方が決意した時点が、聖なる瞬間になるのです。それは、彼方が自我を(神に)譲った時です。
聖なる瞬間とは、貴方が「(父よ)貴方の意思が成されますように」と言った時です。
「天におられる我らが父よ、貴方の名前が敬われますように、貴方の王国が打ち立てられ、貴方の意思がなされますように。」
「貴方の意思が成されますように」、よく言われる台詞ですが、これは大抵、「貴方の意思が私の上に成されますように」と解釈されています。本当は「貴方の意思が私を通して成されますように」という意味なのです。 私は自分個人の理由から独自に行動する意思を放棄しました。その様な事より、貴方の(神の)意思が知りたいのです。貴方の意思を、私にも分けて下さい。貴方の意思の真実が明瞭になり、神から分離した視点を持つ権利を私が捨て去れるように。
貴方が「貴方の意思が成されますように」と言うのは、 今現在の余りに人間的な状況の中で、父の意思を貴方の中に確立させる事こそ、貴方の権利であり、一番の任務だからです。
つまり、「貴方の意思が成されますように」という文は, 今現在の状況の中から、父の意思が明白に現れた真実の知識と、動いている父の存在によって貴方が満たされることを父に対して求める呼びかけなのです。 その体験は余りに明瞭なので、貴方が父の視点以外のものに価値を置く事はありえません。
つまり、聖なる瞬間とは貴方が決意した瞬間のことです。聖なる瞬間とは、貴方がハイと言った瞬間です。だから貴方はいつでも復活する可能性を秘めているのです。
言葉を変えて言えば、貴方はいつでも救済を経験することが出来るのです。貴方が日常と呼んでいる今ここで実際に経験し、その日常を変換することが可能です。
しかし、それが起こるのは、今ここです、貴方がその経験を求めるのは、今ここの中でです.
貴方は、今ここの中に自分を譲り、知覚の変容(Sudden Shift of Perception)つまり奇跡を体験します。 復活とは、聖者の為のものではありません。復活は聖者では無い人の為にあります。
復活は、少しの間、非神性に在ることを怠った非聖者が経験するものです。 私は、「怠る」という言葉を頻繁につかいます。
貴方には、(非神性、神からの分離を)怠るという行動が必要なのです。
私は、貴方に怠ること(放棄すること)をお勧めします。 それは簡単なことです。努力も要りません。
でも、貴方は大切だと思い込んできたものを放棄しなければいけません。 なぜなら、独自性(神からの分離)と思考を放棄すれば、その隙間に父の意思が訪るからです。
そして、平和の経験が貴方にもたらされます。動き(それを貴方はフィーリングと呼ぶでしょう)、それが聖なる愛です。それが貴方を包むのではなく、それが自身を照らし出して、貴方は自分を知ることに成るのです。
これだけでも、思考や独立性を放棄する十分な理由に値します。
静かにしている意思とは、一旦埋葬所に入る決意と似ています。その何処でない空白の中で真理が照らし出され変容が起こるのです。
静けさに浸る事は、正気に戻る為の、気づきの子宮、変容の子宮に入るようなものです。
先週の続きを読みましょう。〔聖なる瞬間の為に必要な条件とは、不純な思考が全て無くなる事では無く、貴方が思考を保持しないという事です。〕
〔私が子供のころには子供っぽい行動を取っていましたが、大人になったときには玩具は片付けました〕(聖書、13章、1st Corinthians)
子供はおもちゃ箱を持っていますね。そこには、大切なおもちゃと飽きられたおもちゃが入っています。飽きられたおもちゃも、捨てられずにそこにありますが、それで遊ぶ事はもうありません。それにはもう興味がわかないのです。
つまり、どんな玩具が(思考が)そこにあってもいいのですが。それに囚われてはいけません。
貴方が持っている玩具(思考)を大切なものと考えてはいけません。それは、ただそこに在るだけです。執着も無く、かといって一生懸命無視することもなく。もう、玩具箱から卒業する時です。
もし、兄弟が玩具を取ったとしても、争いは起こらないでしょう。もう玩具は重要なものではないのです。
〔聖なる瞬間の為に必要な条件とは、不純な思考が全て無くなる事ではありません、〕
自分を完全な聖者に磨き上げる必要はないのです。〔必要なのは、どの様な思考にも囚われない事です(どの様な思考も保持(Keep)しないことです)。〕
(思考が起こるにまかせ、それを自分のものとして受け取り保たないことです。)
つまり、聖なる瞬間に少しの間、全ての思考を放棄(無視)するのです。
思考を放棄するには、貴方の注意をそれらに向けない事です。自分の注意(意識)を静かさに向け、思考を放棄します。つまり瞑想ですね。そして、静けさの中から精霊か父か私へ呼びかけるのです。
それだけです。これをすれば、他の事は怠ったことになります。
〔無垢とは貴方が作り出したものではありません。無垢こそが貴方なのですが、貴方はそれをつくりませんでした。いくら貴方がそれを無視しても、それを否定したとしても、それを変化させる事は出来ません。〕
〔無垢とは貴方が作ったものではありません。〕 貴方に受け取る意思があれば、それは何時でも貴方に与えられます。そして本当のところ貴方には既にそれが与えられています。貴方がそれを経験していないだけです。貴方が受け取る決意をした途端、それを経験することになります。無垢の経験を拒まなくなった途端、無垢は貴方に示されます。
どうすれば無垢が体験できるのでしょう? 罪悪感(Guilt)の使用を止めることです。四六時中自分が有罪だと責め、問題が貴方のせいで起きていると自分に言い聞かせるのを止めることです。
こういう失敗をしたから、こういう罪を犯したから自分が罰せられなければいけないと考えることを止めましょう。
貴方が無垢で満たされ、それによって知覚の変容(Suden shift of perception)つまり癒しを経験する為には、罪(罪悪感)の使用を怠る必要があります。
〔それは、貴方がそれを受け入れた途端に与えられます。〕 しかし、贖罪が必要でない場合には贖罪は起こりません。貴方が頑なに自分があれこれの罪を犯していると思い込んでいないなら、貴方の無垢(無罪)を示すために贖罪が起こる事はありません。その場合、聖なる瞬間は必要ではありません。なぜなら自分自身が完全なるもの、神のホストだと知っている者は救済以外の経験はしていないからです。
神のホストには、それが解っています。
〔貴方が完全なコミュニケーションを貴方自身から隠そうとしている間は、完全なコミュニケーションを受け入れる事は、貴方には出来ません。〕 この完全はコミュニケーションとは、貴方と貴方の兄弟がお互いに対して躊躇無く、自己防御なく居るときに起こることです。
これは、貴方と貴方の兄弟が完全にお互いを分かち合っていると言うことです。
その行為を示す言葉は「平和」です。それは安全であり安定であり無敵であり、遍在(Omnipotence)と呼ばれるものです。
〔, 貴方は完全なコミュニケーションを受けれる事はできません、〕
完全なコミュニケーションとは「無防備な分かち合い」の結果です。
〔それを貴方が自分自身から隠している間は。なぜなら、貴方が隠そうと思った事柄は、あなた自身からも隠されてしまうからです。〕
貴方の兄弟に対する全ての防御行為は、貴方と兄弟の同一性を隠してしまいます。
貴方には、自分とそして兄弟の神性が解らなくなってしまいます。
その神性とは貴方が兄弟と分かち合っているものです。なぜなら、貴方達は同じ父の子供(神のホスト)だからです。 貴方は兄弟に対して防御することで、自分たちが神のホストだと言うことを隠してしまいます。
貴方が兄弟から自分を守るつもりでしている事が、お互いの理解を妨げます。
しかし、自分たちがどういう存在か分かち合う経験の中に完璧な安全が既にあるので、本当は防御は必要ないのです。
〔その行為においては〕、どの行為でしょう? 聖なる瞬間の行為です。
〔その行為においては、ただ欺瞞が起こらない様にして、秘密の考えを自分の中に保持するのは止めましょう。〕
欺瞞が起こらないようにするには、どうしたらいいのでしょう?
答えは、欺瞞行為が何かということに隠されています。欺瞞行為とは思考のことです。個人的な、一人っきりの思考のこと、自分だけで考えることですが欺瞞行為なのです。
〔その行為においては、ただ欺瞞が起こらない様にして、〕欺瞞とは自分一人っきりで考える行為です。
〔秘密の考えを自分の中に保持するのは止めましょう。〕自分ひとりで抱え込むのを止めるのです。
一人で考えて、一人で自分の内に仕舞い込んでいる秘密の考えをです。
〔精霊の純粋さで、それらを洗い流してもらいなさい。そして、貴方の全ての意識を差し出して、彼が捧げる純粋さを受け取りなさい。〕 この過激なことを行いなさい。自分だけの為に思考することを怠るのです。
それを止めて、静かになりなさい。耳を澄ませて、真実を知りたいと願いなさい。
私の視点から全てを見たいと願って下さい。私のビジョンが、私から貴方への、神からもたらされた贈り物です。それを受け取るには、意識的に私と共に在りなさい。私が貴方と共に居ることに、貴方が私と居ることに、気づいて下さい。我々が離れていることには、何の価値もありません。そして、私の視点を尊びなさい。なぜなら、私の視点がすなわち父の視点だからです。父の視点を、私を通して貴方へ捧げます。それを受け入れたとき、貴方はその視点を兄弟と分かち合うでしょう。
我々は、分かち合いについて話しています。プライバシーとは正反対の事柄です。
これは、畏敬するべき体験をして、内側から抑えがたい声を上げる経験なのです。
その声がどの様な言葉となって飛び出すにしろ、それ以外に言うべきこと、するべきこと、あるべきことは無いとハッキリ解るのです。
貴方の復活は、全てのプライバシーを捨てる行為に、貴方がハイと言った途端に始まります。