目覚め。

チャネリングされたイエスの言葉とACIM。

09-4-4 聖なる瞬間#2

2009-04-13 06:46:06 | Chapter 15
〔このコースがシンプルなのは、真実がシンプルだからです。複雑さとはエゴの属性で、ただ明確なものを不明瞭にしようとするエゴの仕業です。〕


(現在ポールがしているように)ポールが私の声を聞こうとするときには、彼は口を空けて、彼に明白に示された言葉をしゃべります。真実は明白なものです。
貴方が自分個人の個性や偏見を取り去った時、真実の明白さが貴方に解るのです。


貴方が静かになって、物事が明白になったとき、そしてその明白さが貴方の口から言葉となって表現された時、それは貴方の個人的行動としては経験されません。


貴方が創造したものが明白になるのではありません。だから、静かに自分の目的を、自分の判断や考えや、わがままを、捨てたとき、貴方は受け取ることが出来るのです。
水を吸い取るスポンジのように満たされるのです。

その時、貴方の言うことが、することが、貴方の佇まいが、貴方に明白になったものに照らし出されるのです。そして他の人達も、明白になったその価値を、意味を、真実を認識します。それが、「ある」と言うことです。
貴方が、完璧になるのでははく、完璧さに隠れるのではなく、完璧そのものなのです。
その様に貴方が自分の務めを果たすのです。

この様にある時、貴方の言葉や態度には傲慢が見られません。
その時、貴方の言葉は理解されるでしょう。
そしてコミュニケーションが達成されます。

それは、ここに居る貴方が自分のアイディアをあそこに居る誰かに伝えるのではなく、いわば、神の栄光を見た貴方がアーと叫ぶのです。それを聞いた皆もそれを感じるのです。それが、美を感じた感嘆というものです。

その驚愕の声は、貴方が誰かの為に上げたのものではありません。
それは貴方が満たされた証拠です。満たされた反応です。

私が伝えたいのは、目覚めの時に貴方がとる行動は、今貴方がしている行動とは全く違うと言う事なのです。

〔貴方は永遠に「聖なる瞬間」の内に生きることが出来ます。今から出来ます。そして永劫まで見通す事が出来ます。その理由は。」〕
その簡単な理由が解らなくなるのは、それを知りたくないと思い、手放すのを拒否したときだけです。



〔その理由とは、「聖なる瞬間」とは貴方が完璧なコミュニケーションを与え、受け取る瞬間だからです。つまり、その瞬間とは貴方の意識が(与える事と、受け取る事に)開かれている時です。〕


つまり、貴方のマインドが、開かれたドアの様にオープンな時、受け取ることが出来、与えることが出来ます。



貴方ならこう言いますか? 「コミュニケーションなら毎日してるよ。言ったり言われたり。言い返したり。」
そうして、自分を状況の中に塗りこんでしまう訳です(言い返す人として)。
この様なやり取りは、二方向通信と呼びましょうか?
本来これは、意地悪なコミュニケーションです。


孤児として振舞っている限り、自分が(神から切り離された)孤児だと信じている限り、全てのコミュニケーションは、やられたらやり返す式の意地悪を含んだ自己防衛なのです。何時も誰の立場が上か気になって、疲れちゃうわけです。



「受け取り与える」とはどう言う事でしょう? 
それは、仕返しごっごや鞘当では無いのです。
それは、今ポールがしていることです。静かに立って、自分の存在を(物としても人間としても)押し出さず。貴方は物事を認識して結論を決定する生物ではないのです。


それは心の中に、静けさが保たれていて、その静けさが貴方の中に真実を呼び込こんだと言う事です。
我々はそれを父の意思と呼びます。
その反応は、オーという叫びとなって現れるかもしれません。
あるいは(ポールの様に)言葉が出るかもしれません。
いずれにしろ、その反応は、静けさを保った結果、真実の明白さが貴方に届いた証拠なのです。


そして、貴方が受け取り、貴方が与えるのです。
その過程において、ポールが自分の小さなイメージを、貴方の小さなイメージにぶつけたりはしません。
これは、取引ではなく、優越競争でもないのです。


そこに、傲慢はありません、なぜならそこには、個人的な押し付けが無いからです。
そこではとても意味深いものが起こっています。

〔「聖なる瞬間」とは完全なコミュニケーションを受け取り、そして渡している、時のことです。〕


真のコミュニケーションとは双方通信ではないのです。
コミュニケーションとは、お互いに差し向けるものではなく、皆で夕日を見ている様なものです。 太陽が雲の陰から現れて、日差しが空を神々しく照らすと感動の余り声を上げてしまうのです。隣の人が聞いているかなんて、気になりません。でも、隣の人にも解っています。彼も同じもの体験しているから。


貴方達二人は、同じものを体験し、それに一緒に答えたのです。
言葉をやり取りしたのではなく、共同体験をしたのです。


ここでのコミュニケーションとは、その様な体験です。


〔「聖なる瞬間」とは、完全なるコミュニケーションを受け取り、そして与え事である〕でも、覚えて置いて下さい、完全なコミュニケーションとは貴方が自分の事を忘れている時に起こるのです。
その時貴方の心にあるのは神だけです。その時、貴方は何らかの神性を体験しているのです。

〔これは、貴方の心が、受け取りそして与えるように開かれている時に起こります。〕
しかし、この受け取りと分け与えは、貴方が現在考えているようなコミュニケーションとは違う働きなのです。


〔その経験により、全ての人の心が既にコミュニケーションを取っている事が理解できます。〕
その経験をするとき、貴方は隣人とだけコミュニケーションしているのではありません。
美に対する感嘆の声を上げているのが、貴方とその周りの人達だけでは無く、全ての兄弟が一緒に居ることに気づくでしょう。なぜなら、プライベートな思考などはありえないからです。その気づきが、父がその身を委ねた聖壇(つまり貴方が)がどれだけ完璧で無欠か知り始める兆候です。

〔その経験により、全ての人の心が既にコミュニケーションを取っている事が理解できます。〕 これからではなく、既に、全ての人の心はコミュニケーションを取っているのです。

〔従って、何も変えようとはせず、全てを受け入れなさい〕

この文章は、貴方に病や罪や死や暴力や殺人なども全て受け入れなさいと言っているのですか?

違います。もし貴方が孤児であることをやめ、独立した思考者、孤立した認証者としての地位を捨てれば、何かを変えようとする欲望が消滅します。貴方はもう、自分の得に成る様に、自分の安全を保障するために、自分の兄弟を操る事を止めるでしょう。

そして、他者に影響を与え操ろうとしなくなれば、目の前に起こっている真実が明白に理解できるようになります。

そして、その明白なものが、明白さゆえに受け入れられるようになります。
その心の内に平和があるのです。平和が全てを率いている事がわかるのです。

プライベートな考えを持ち、秘密を保とうとする限り、これは成し得ません。
秘密の思い? 隠さなくっちゃ、台無しにされてしまうから、出し抜かれてしまうから、誰も信じられないから?

プライベートな考えを持ち、秘密を作っている限り、平和を見出すことが出来るでしょうか?

〔秘密を保つ唯一の方法は、「聖なる瞬間」が成り立っている完璧なコミュニケーションを遮断することです。〕「聖なる瞬間」とは、貴方が完全なコミュニケーションを受け取り、与えている瞬間のことです。

〔貴方は、自分の思考を秘密に保つことが出来ると考えています〕
他人に知られたくない悪意(悪者にならないよう)や、善意を(犠牲者にならないよう)秘密にしておく事が出来ると考えています。

〔貴方は、自分の思考を秘密に保つことが出来ると考えています。自分の
考えを自分だけのものとして秘密にしておくことで救済されると考えています。
貴方は自分だけの思考をプライベートに保つことができると考えているのです。
〕そして貴方は自分の得になりそうな考えだけをシェア(共有)します。
他者からのサポートが得られそうなものだけを与えるので。
他者からの認証を求めて、与えようとするのです。

何かを得ようとして、何かを与えるのです。それでは、分かち合いは行われません。
しかし、貴方は自分を押し出さず無防備で居るとき、真実を見て感嘆するのです、そして分かち合うのです。
分かち合おうと思ったからではなく、あまりに素晴らしすぎて、黙っていられなかったから。

〔貴方しか知らないプライベートな思考を自分だけのものとして保ち、特定の思考だけを他の人に知らせることができると、貴方は考えています。
それでいて貴方は、自分にはどうして他の人や(全てのものを内包する)神と旨くコミュニケーションが取れないのか悩むのです。〕

貴方が静かになる意思を持ち、父の視点を呼び込んだ時(真実を知りたいと思った時)真実とは貴方自身が貴方にとって明白になることだと知るのです。
そして、貴方の兄弟達の真実もまた明白になるのです。
父が抱擁する、分かちがたい形の中で彼や彼女と貴方は繋がっている事も明白にわかるのです。

つまり貴方は与え、受け取り、「真の家族の経験」を体験し始めます。
家族とはアイデンティティのことです。そして、プライベートで独立したアイデンティティなどはあり得ません。


貴方が隠そうとする全ての考えが、コミュニケーションを遮断します。
そう貴方が願い、その様にするからです。
コミュニケーションの遮断は、プライベートな考えを保持することにより起こります。それは貴方の兄弟達、姉妹達、そして貴方の世界を無条件に受け入れるのを拒否することです。

すると、貴方には彼らが神の子供たちには見えなくなります。
すると、世界が神の大国には見えなくなります。

しかし、完全なコミュニケーションを通して、兄弟姉妹を神の子供と認識し、この世界を神の園と見る体験こそが、貴方の持って生まれた権利なのです
私が貴方に呼びかけているのは、この経験をしてもらいたいからです。

コミュニケーンを拒むことに価値を見出している間は、完全なコミュニケーションを認識する事は不可能です。


今週、正直に考えてください。「完全なコミュニケーションを、私は求めているだろうか?」完全なコミュニケーションへの障害物を全て捨てる意思があるだろうか? もし、答えがNOなら。精霊の熱意をもってしても、それを貴方のものとする事は不可能です。なぜなら、貴方はそれを彼と分け合う準備が出来ていないからです。分け合う、と言う事は、支配的ではなく平等だと言うことです。
本当の分かち合いとは、お互いの謙遜と、傲慢の不在により起こるものです。


もし答えがNOならば、精霊には、それを(完全なコミュニケーションを)貴方の元に届ける事は出来ません。なぜなら、貴方にはそれを彼と分け合う準備が出来ていないからです。

完全なコミュニケーションは、それに反発するマインドへは入っていけないのです。
貴方はどの様に、反発しているのでしょうか? 自分個人の思考を起すことによって、反発しているのです。
自分個人の思考にこだわる事こそ、卑小さ、なのです。

〔「聖なる瞬間」は平等な意思によって受け渡される〕
つまり、支配的なところは無いのです。
〔全ての思考をつかさどる一つの意思を受け入れることにより、〕
全ての思考をつかさどるものとは何でしょうか?
それは、貴方を支配する何かの存在ではありません。
全ての思考をつかさどるのは、真実の明白さです。
真実を知りたいと貴方が思ったとき明白になる、その真実の明白さ(絶対性)、こそが全思考をつかさどっているのです。
真実の明白さ(絶対性、神)を表現すること以外の思考は存在しなくなります。

よい一週間をお過ごしください。来週も会いましょう。
貴方の個人的な行動や思考は、自己欺瞞で自分の為にならない事を知って下さい。

今週は、出来るだけ沢山静寂を受け入る時間を作って下さい。
そして真実を見れるよう何時も招へいしてください。

ページ位置の確認。
Sparkly Book では 357ページ目の第一文節。
Second Editionでは、310ページの第四文節。
First Editionでは、288ページの最終文節。
JCIM(Jesus‘ Course in Miracles)では、150ページになってから一番初めの文節。
CIMS版では、300ページ目の38文節です。

これは、下記のWEBの文章を和訳したものです。
http://www.nwffacim.org/default.aspx