郷土史 「 五大力明王堂ゆらい 」原文 その3 再び 2010-12-24 | Weblog 秀郷は、父の国香を討たれた その息子の貞盛とともに 真壁郡大国玉城の将門を討伐した。 ついに将門は、猿島郡石井郷で討ち死にした。 ( 将門の居城があった。) 時に、天慶3年2月14日。 承平・天慶の乱 The Sound of Music: Climb Every Mountain EssentialDegnities 生きもの地球紀行 ED2 "この星に生まれて" (1996) The sound of music do re mi fa banica100
郷土史 「 五大力 明力王堂ゆらい 」原文 その2 再び 2010-12-18 | Weblog 平将門 神田明神 藤原秀郷 ( 別名・田原藤太秀郷 ) は 将門討伐の勅命を受け 西郷谷に陣所を立てた。 藤原秀郷 しかし、豪勇の将門攻略が困難なので 日乗上人に将門調伏を頼み 上人は大日の滝に斎戒沐浴ののち 檜 ( ひのき ) に霊像五体を 彫刻して本堂に安置した。 これを五大力明王堂といった。 一万人の第九 歓喜の歌 (08年 大阪城ホール) みんなの笑顔! The sound of music do re mi fa banica100 フィルムは少しー。でも、いい! ヴィヴァルディ 四季 「冬」 noboru1947 ほのぼの、いい感じ!
郷土史 「 五大力明王堂ゆらい 」原文その1 再び 2010-12-13 | Weblog 本尊は、地蔵菩薩。 本寺は天台宗で第52代・嵯峨天皇の 大同五年(810年)の創立である。 その住職の日乗上人の、名声高かった。 天慶2年12月 ( 939年 ) 藤原忠平の部将であった平将門は 軍功があったので検非違使を望んだが 平将門 検非違使 そのころ、藤原氏以外は名誉職につけず 将門は関東地方の 下野 ( しもつけ ) 常陸 ( ひたち ) 上野 ( こうずけ ) を征定し 各地方に飛び城をもって平親王将門と号していた。 出典 福島護 著作 ( 五大力明王堂由来 )より The Sound of Music: Climb Every Mountain EssentialDegnities 生きもの地球紀行 ED2 "この星に生まれて" (1996) ( 当ブログの記事すべてについて、掲載されている内容の 無断転用は禁じます。 )
雨引山楽法寺 ( 後 ) 2010-12-06 | Weblog 観音堂につづく正面石段の奥には 宿椎(すだじい)の大木が風雪を超えてそびえる。 横の道をのぼると、白木蓮の大木の下に 幽遠なお顔の観音像と、思わずほほえみかわす 無邪気な笑みを浮かべられた観音像が ひっそりと立っておられる。 人間の命のみでなく全ての生命 動植物をも尊び慈しまれ 人間のみが己の欲心のため 他の命を犠牲にして省みない時代において 生命というものについて深く思惟されているような 貴いお姿をみる。 この石垣にむかし母と二人座り 遠くの青い山々や陽のあたる木々をながめた日がある。 その時の母を思い 今の母を思う。 幸あれかしと思いながら、かなしみが透き通る。 わが母を守りたまえ。 苦労ばかりしてきた母。 動物好きで無邪気な母。 観音堂の奥の小道をゆけば 延命水をひく水屋があり 生命を養う水音をひびかせている。 いつおとづれても 心癒やされる雨引の観音様は なつかしい風光の中に人々を抱擁して 千四百年の時を越えてたたずまれている。 ( 雨引山楽法寺小史・参照 ) 自然が心を癒してくれます。 The Sound of Music: Climb Every Mountain EssentialDegnities 生きもの地球紀行 ED2 "この星に生まれて" (1996)
雨引山楽法寺 ( 前 ) 2010-11-30 | Weblog 創立は、用明天皇二年に梁の国から渡来された 法輪独守居士が開かれた。 推古、聖武、嵯峨の各天皇の勅願寺で ご本尊は旧国宝の延命観世音菩薩である。 天平(奈良時代)に、聖武天皇は妃の光明皇后と 安産子育てを祈願され、昭和に入って 美智子妃殿下(現皇后)の安産祈願をされている。 雨引山楽法寺は、四季折々に花々で彩られ 孔雀が放されて、訪れる人々に 極楽浄土を彷彿とさせる自然の中にある。 真壁城の大手門を移したとされる 薬医門の石段を登れば 左右に仁王様を蔵する門(仁王門)がある。 その迫真の怒りに満ちたお顔は、この門から 邪悪なものは通さない、悪への憤怒を感じさせる。 Edelweiss 平和を祈る心。 このアジアで日本の力は平和のために。 戦場はもう作らないでほしい。 アメリカの揺らぐ政権だけを頼りに アジアを敵にまわすことなく。 どこの国のどの人種にも 卑劣な人間がおり 国や人種に関係なく心の通い合う人々がいます。 一部の行動のために全部を敵として 歴史上、いい結果があったでしょうか。 勝っても負けても 民衆はいつも傷ついてきたのではないでしょうか。 被害者をせせら笑うとき、加害者になっています。
郷土史 「 二宮尊徳の金言 」 原文 昭和30年刊・福島護著作より 2010-11-25 | Weblog 遠きをはかる者は富み、近きをはかる者は貧す。 百年のために松杉の苗を植う。 目前の利をはかる事は貧窮す。 大をなすには小をなすにあり。 百万石の米も一粒から。 万町の田も一鍬の功なり。 小をおこたる者に大はなし。 一升の粒、六、七万あるものなり。 上に立つ人の道は譲ひあり。 国主なら一国服さん。 村長なら一村服さん。 菊作りなら菊栄えん。 商業は高利を取らず 安価に売らば繁盛するがゆえに 次第に富を成す事は妙なり。 参考文献 「 両毛文庫栃木通鑑 」 など 「 農の哲人二宮金次郎伝を読む 下 」 「 一村を救いうる方法は全国を救いうる。 その原理は同じである。 」 二宮尊徳の言葉 二宮 尊徳 ( 相模国 足柄上郡 栢山村 現在の 神奈川県小田原市 栢山(かやま)出身 ) かりゆし58 LIVE In 渋谷109 YouTubeネタバトル ②「ウージの唄」 一万人の第九 歓喜の歌 (08年 大阪城ホール)
「青木の堰と金次郎ー天災と飢饉に世を救う」1 再び 2010-11-01 | Weblog 二宮 尊徳 ( 相模国足柄、現在の神奈川県小田原市出身 )の ー救済方の一箇所についての断章ー 北那珂村の 桜川は西北に流れて 元禄時代には近郊130戸の農民の 田の大切な水利であった。 八代将軍吉宗の石高検地では 千十八石一斗六升とあるが 八代将軍吉宗 天保のころには旗本・川副勝之助 千五百石の領地の10ヶ村のうちのひとつ青木村では 天保 旗本 資力のないために続く災害に 堰の修理不能となり 田畑は草原になり60戸あった農家も 不幸は重なり火災で31戸も失はれた。 生活苦から 次第に村を捨てるものも多く 今はわずか29戸の青木村には 暗黒な貧しさと不安がみなぎっていた。 出典ー福島護 著作 「 一村を救いうる方法は全国を救いうる。 その原理は同じである。 」 ー 二宮尊徳の言葉より - よそ者として迫害されながら村を救い、よその村からも 依頼され懇願されて救済におもむいた金次郎。 報徳記 巻之二 【8】川副氏采邑青木邑の衰廃を興す GAIAー楽天ブログも。 以前にも、投稿しましたが、友人には評判がよく、再び。 I Believe - Russell Watson
郷土史「 西念寺(親鸞聖人ご縁)の良水師 」結び 2010-10-28 | Weblog 文化5年の春、加賀百万石の前田家より 強硬な入り百姓の引き戻しと報復がある という風説が、ちまたにあった。 風説 良水師は、離村は天下のご法度(ごはっと)の時代に 郷土発展のためとはいえ、法を曲げ、それが 藩主・牧野貞喜公に、およぶことをおそれて 牧野貞喜 文化5年6月10日の夜 その一身に責任を引き受けた遺書を残して自害。 そののち、各国の藩主も 入百姓を行った。 歴代の藩主中の名君である 牧野貞喜公の郷土発展事業に協力した 西念寺(稲田御坊)の良水師の 貴い犠牲的な郷土愛、その偉業は 不滅である。 稲田御坊 親鸞聖人 法然聖人 出典ー福島護 著作 (注)良水師の偉業は歴史に埋もれていた印象です。 ウイキペディアの「牧野貞喜」公のところに 良水師のお名前がみえるようになりました。
たとえば RE 2010-01-06 投稿分 一部略 2010-10-10 | Weblog スーザン・ボイルの「 歌は心 」 ( 他人の評価なんて表面的なこと。 その魂にふれて初めて本当の価値を知りました。 ) ポール・ポッツの自信をもって ( 自分の夢を大切に育んで、弱さや臆す心に 打ち勝つことで夢がかなうんですね。 ) コニー・タルボット ( こんなに「 オーバー・ザ・レインボー 」 が 胸を打つ歌だと知らずにきました。 6歳の少女の歌の魂に、驚きました。 ) たとえば見知らぬ人々が あざわらったとしても、胸を張っていよう たとえばおおぜいの人間が ののしっても、わたしは自分を尊ぶ あなたが今、つらい心をもつて 心が赤く皮をむけたように痛んでも もうすこし高いむこうの景色に目をむけて いやしい言葉の嵐がとりまき 傷つけようとするときにも 傷ついてはならない 本当のことを信じてくれる 父母の苦労を無にしないために 高みからみそなわす存在のために 足元に咲いている太陽のような たんぽぽの花 ふみつけられても、その強い魂は 卑しいもののために折れはしない 光の中で人の心を明るくし 薬やコーヒーやサラダにもなり 暮らしをふちどり 心の中に小さい希望の火を点すのだ わたしはたんぽぽの明るい勇気をたたえる 弱い心の自分、素直でない自分 だが不幸は幸福とつながっているに違いない たんぽぽの明るさは悲しみを 乗り越えたもののみが持つ 天なる光をやどすものだから You raise me up / ラッセル・ワトソン (英語、日本語字幕) ラッセル・ワトソンー「 国民のテノール 」 「 16歳の頃旋盤工となり働き、独学により大成しー 各国で愛され、各国元首の前でも演奏。 2006年脳腫瘍で倒れるも奇跡の復活をとげた。 」 以上、参照 下記 ラッセル・ワトソン・プロフィール by(青山ミュージック アソシエイツ)に詳しいです。
郷土史 「 たばこの歴史 」 結び 2010-10-04 | Weblog 慶長10年というと昭和30年年から 丁度350年前に 長崎の桜馬場で煙草が植え始めだと云う。 桜馬場 また 「 和漢三才図会 」 では天正年間 「 草木六部耕種法 」 には天文12年(1543年) の 渡来とある。 和漢三才図会 ( わかんさんさいずえ ) 草木六部耕種法 いづれにしても、豊臣秀吉のいた前後である。 (上記・たばこの歴史1 2010年3月4日投稿分) (その2,3,4,5の部分略) 専売局の職工の日給は48銭4厘 女工が20銭1厘であった。 当時、地方の日雇いの食費は1日10銭に計算して 賃金に含んでいた。 農業日雇いが1日50銭 養蚕も製茶も1日60銭が相場であった。 明治39年にはバット10本が4銭 朝日が20本で6銭。 バット(たばこ) 朝日(たばこ) 昭和7年に達磨葉が廃止され昭和10年に復活 昭和29年に、再度、廃止された。 達磨葉(たばこ) たばこ事業が専売公社と改称されたのは 昭和24年6月1日である。 ( 一部省略 ) 煙草の害が知られていない時代でした。 槇原敬之「母親」 作詞:ビートたけし
忘れえぬ野良たち ( その1 ) REぷらす 2009年8月3日投稿分 2010-09-09 | Weblog ある年の秋の街角で うす茶色の中型犬が 人並みにまぎれて歩いていました。 心引かれて、少し離れたところに 立ちどまって、ながめていました。 すると、ベージュ色のコートを着た 男の人の姿を見つけたその犬は いままでのしょんぼりした体に 急に灯が燈ったように 生き生きとうれしそうに走って その人に近づいて行きました。 そして、立ち止まったその男の人の 黒い革靴からズボン、コートのすそを 見上げてゆきました。 しかし、その顔に犬の目が止まったとき その犬は急に哀しそうに肩を落とし うなだれてしまいました。 その人は、立ち去ってゆきました。 もとの飼い主に似た姿だったのでしょうか。 うなだれたその犬に、何もしてやれませんでした。 何年もたつのに、ふと、あの犬の姿を 思い出すことがあります。 ( あるときは、人間以上に 深い精神性を持っている動物に対する 日本の他の先進諸国に比べて遅れすぎている 動物実験に反対します。 ) 国際動物福祉宣言に EU加盟国27カ国の農務大臣は、満場一致で 正式な支持をしたそうです。 50年以上遅れているような 日本の政策は、どうなるのでしょうか? Celtic Woman - You Raise Me Up (日本語訳) 生きもの地球紀行 ED2 "この星に生まれて" (1996) [Moody Penguin] '枯葉 Les Feuilles Mortes' Yves Montand cover
郷土史「 西念寺(親鸞聖人ご縁)の良水師 」 その7 再び 2010-09-03 | Weblog 「 民間省要 」 に、いわく ー たとえば牛馬に重荷を負わせて打ちたたき つまづけば、なお怒って大鞭し この畜生めとののしるが如し。 言辞なく泣くことなし。 百姓相同じ ー 熊沢蕃山 も、いわく 「 百姓は、年中辛苦して作出したものを 残らず年貢に取られー 略 - 妻子をうらせ、田畠山林牛馬まで売らせて 取られるのは、その百姓 家を破りて流浪し 行方なきものは乞食となり たまたま村里にをさまり居といへども 凶年には餓死をまぬがれず。 」 と。 両説とも当時の農民が 生活難とたたかったことが 描かれている。
あんずの里の想いで REぷらす 2010年3月10日投稿分 2010-08-28 | Weblog ー 少し季節はずれですが - 早春の季節になると、昔、学生時代の数人で 卒業旅行に行った長野県の あんずの里のことを思い出します。 あんずの里 アルバイトでためたお金で、5人で行った 旅でした。 山を下る道をまちがえ 川の流れにそって降りていったら 偶然にもめざしたあんずの里に出ました。 花はまだ咲いていなくて、出会ったおばあちゃんが 「 おねーちゃんたち、かわいそうに。 花はもう少し先なのよ。 」 そう言って近所のおばあちゃんたちを呼び 筵をしき、それぞれがお茶や湯のみをもち あんずの小さい実の砂糖煮や 間引いたほうれん草のおひたしや、漬物で 御馳走してくださったっけ。 「 熊に会わなくてよかったね。この間も うちの鳥小屋が襲われて食べられたのよ。 気をつけて帰りなさいよ。 花の咲くころまたおいで。 」 やさしいおばあちゃんたちのもてなしに 花よりも感激して、貧乏学生であり それぞれ鬱屈し悩んでいた私たちは 心がなごみ、ほっとして旅の電車に揺られました。 その電車の中でも、向かいの席の方々の 旅行者に対する優しさが小さな会話を弾ませました。 時が流れすぎ、あのおばあちゃんたちのお顔は もうはっきりとは思い出せませんが その季節になると 桃源郷のように胸に浮かんで来ます。 花は美しいですが、それよりもまた、旅人 行く人・来る人・いのちたち それを迎え、送る、優しい言葉や、笑顔 そして、もてなしの心こそ 花よりもなお、心に残る美しい花なのかと思います。 「 観音経 」 世尊 妙相具 すべての、善意の良い生命に祝福がありますように。 今ある、その場所の 明るい小さな灯りになれますように。 下記 「 一夜賢者経 」 より 「 されば、ただ現在するところのものを、そのところにおいて よく観察すべし。 揺らぐことなく、動ずることなく そを見きわめ そを実践すべし。 ただ今日 まさに作すべきことを熱心になせ。 」
新昔話「 新編・よくばりな親子ぎつね 」 本結び 2010-08-12 | Weblog きつねたちの ののしり、せせらわらいは あたりに木霊し、悪霊村として あたりにとどろきました。 いじの悪い欲張りぎつねの親子と 旅ぎつね、近所のきつねたちは 自分たちの狂気が ただ、ねたみや、意地の悪さから 出ていると知らなかったが 天はそれをみそなわしました。 次々にののしりの相手をかえて 自分のうさばらしをしている間に 悪霊ぎつねたちには 本物の悪霊がとりつきました。 こんどは、とりついた悪霊が そのきつねたちに 次々と不運や災難をもたらしました。 ついに悪霊ぎつねたちは 天に成敗され 地獄におちていきました。 よいきつねは、お釈迦様のもとにいかれました。 それを惜しむものは誰一人なかったということです。 すでに反省したよいきつねたちも大勢いたそうです。 あたりでは、その村にちかづくと 災難が起こるといわれ 隣村のものもさけて通るようになり ついに、地獄村とよばれました。 そこを通ると、いまでも 欲張りぎつねの親子のわめき声と 旅ぎつねのうそ鳴き そして近所ぎつねたちの 天をもおそれぬ、せせら笑いのむなしい 鳴き声が聞こえるという話です。
新昔話「 新編・よくばりな親子ぎつね 」 結びの1 2010-07-30 | Weblog 村ぎつねたちは 貧乏ぎつねがいなくなると心さびしく いじめるものがいないので、つまりません。 まいにちまいばん、おなじ話をくりかえし あきることなく欲張りぎつね親子は まるで芝居のように、さわぎながら暮らしていました。 旅ぎつねは、しらぬ顔でしたが このどちらも、ほかのきつねが幸福になりそうになると なんとかして足をひっぱります。 このきつねたちは、ほかのきつねが苦しんだり かなしむのを見るのが大好きでした。 それで、あの貧乏ぎつねにとりつき 作り話をして、にたような近所ぎつねと せせらわらったり、ののしったのです。 あるとき、このきつねたちの村に 一匹の尊いひげのきつねが、やってきて 村の鎮守の森をはき清めて、行ってしまいました。 その夜から、村にはふしぎな出来事が つぎつぎとおこったのです。 子狐こんこん かりゆし58「オワリはじまり」 Smile, Charlie Chaplin , Modern Times, 1936 チャップリン・スマイル