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📖本『シンドラーに救われた少年 THE BOY WOODEN BOX』レオン・レイソン著 古草秀子 訳 河出書房新社

2021-04-11 09:01:33 | 日記


📖本『シンドラーに救われた少年
こTHE BOY ON THE WOODEN』
レオン・レイソン LEON LEYSON著
古草秀子 訳
河出書房新社

(引用始め)
プロローグ--
オスカー・シンドラーとの再会
1章 嵐の前の日々
2章 ドイツのポーランド侵略
3章 地獄のはじまり
4章 「浄化」という名の虐殺
5章 引き裂かれた絆
6章 完全に正気を失った世界で
7章 プワシュフ収容所と瀕死の日々
8章 シンドラーのリスト
9章 生と死の帰路
10章 移動虐殺部隊の恐怖
エピローグ--
自由という遺産
あとがき
謝辞
訳者より
プロローグ--
オスカー・シンドラーとの再会
じつをいえば、手のひらがひどく汗ばんで、
胃がきりきり痛かった。
おとなしく列に並んでいたものの、
私の心は荒く波立っていた。
もうすぐ順番が来て、
この命を幾度となく救ってくれた恩人と
握手するのだ。けれど、
あれからもう長い年月が過ぎた。
彼は私のことなど
すっかり忘れているのではないだろうか、
それが不安でたまらなかった。

1965年の秋、
彼(オスカー・シンドラー)を
出迎えにロサンゼルスの空港へ
向かうときからずっと。
これから再会する相手が
こちらを覚えていてくれなくても
仕方のないことだと、
私は自分に言い聞かせていた。

最後に会ったのはもう二十年も前、
遠い欧州の地で、
状況もまったく違っていた。
当時の私は15歳なのに、
10歳くらいにしか見えない、
飢(う)えて痩(や)せこけた少年だった。

それがいまや35歳の立派な大人だ。
既婚者のアメリカ市民、
陸軍を退役して教師となった。

遠来の恩人を迎えようとして
集まった人々が前のほうへ進みはじめたとき、
私はそのまま後ろにいた。
なにしろ私は最年少だし、
年長者が優先のは当然のことだ。

けれど本心では、
再会した恩人に
(自分のことを)覚えていないと
言われてがっかりするのではないかと不安で、
そんな瞬間を 
少しでも先延ばしにしたかったのだ。

がっかりするどころか、
私は彼(シンドラー)の笑顔とやさしい言葉で
胸が熱くなり、
(👴👨👩👧👶😢😢😢😢😢)
有頂天になった。

「わかったぞ!きみは〈ちびのレイブ〉だな」
彼は目を輝かせて言った。
昔と変わらず、
オスカー・シンドラーは、
私を決して失望させない人だった。
この再会の日、
第二次世界大戦ちゅうの
オスカー・シンドラーの英雄的行為を、
世界はまだ知らなかった。

だが、空港にいた私たちは、
彼の偉業をよく知っていた。
その場にいた全員が、
さらには1000人以上の人々が、
彼に命を救われたのだ。

シンドラーは途方もない危険を冒し、
可能な限りの手段を尽くして、
工場で働くユダヤ人が
アウシュビッツ絶滅収容所の
ガス室送りになるのを
救ってくれた。

そのおかげで、
私たちは
ホロコーストを生き延びたのだ。
私たちの命を救うために、
彼は自分の心と魂と、
驚異的な処世術を駆使し、
巨額の財産を投じた。
彼は多くの
ユダヤ人労働者を救うために、
なんの技術も持っていない私たちを
軍需品生産に欠かせない熟練工だと偽って
ナチスを欺いたのだ。
じつのところ、
私は木箱の台の上に立たないと、
自分が担当していた機械の
スイッチに手が届かなかった。
その木箱は、
私を役に立つ存在に見せ、
生きるチャンスを与えてくれたのだ。
私はホロコーストを奇跡的に生き延びた。
不利な条件ばかりで、
有利な条件などほとんどなかった。
年端(としは)もいかぬ少年で、
なんのツテもなく、
特別な技術も持っていなかった。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
だが、なによりも
重要なひとつの要素が
味方してくれた。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
私の命には価値があると、
オスカー・シンドラーが
考えてくれたことだ。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
自分の身を危険にさらしてまでも、
救う価値があると考えてくれたのだ。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
そして、今度は、
私が彼のためにできることをする番だ。
オスカー・シンドラーについて
知っていることを語るのだ。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
私が彼の記憶のなかにずっと 
あったように彼を読者のみなさんの
記憶の一部にしてほしい。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
この本は私の人生の物語であり、
彼との出会いの物語でもある。
そして、私の家族についても
語っている。
❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️
彼らもまた、
私を救うために 
自分の命を危険にさらした。
(👴👨👩👧👶拘束されているウイグル人のご家族の方々も同じだ。)❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️たとえ最悪の時期にあっても、彼らのおかげで私は愛されていると感じ自分の命がかけがえのないものだと感じることができた。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️私からすれば、彼ら(自分の家族)もまた英雄(ヒーロー)なのだ。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️2章 ドイツ軍のポーランド侵攻(中略)1938年の10月は、数々の不穏なニュースではじまった。新聞もラジオもそこかしこの会話も、ドイツと、その指導者であるアドルフ・ヒトラー総督の話であふれていた。1933年にヒトラーが率いるナチ党が政権を掌握すると、彼らはすぐさま支配力を強化し、反対派を黙らせ、ドイツを世界の超大国として再構築するために動きだした。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ユダヤ人を排斥(はいせき)して「他者」とすることは、ヒトラーの重大計画の一部だった。ヒトラーは、第一次世界大戦での敗北から不況にいたるまで、ありとあらゆる問題の責任をユダヤ人に押しつけた。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1938年3月にドイツがオーストリアを併合(へいごう)し、その六カ月後にチェコスロヴァキアのズデーテン地方を割譲(かつじょう)させると、ユダヤ人に対する差別はいっそう激しさを増した。新たに定められた数々の規制によりこれらの地方に住むユダヤ人の生活はますます不安定な状況に陥った。そうした出来事をきちんと理解するまでもなく、私たちはさらなる大きな衝撃に見舞われた。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ヒトラーの命令で、1万7千人にものぼるポーランド出身のユダヤ人がドイツから追放されたのだ。ユダヤ人はドイツ領内で生きる価値がないので出ていけと、ナチス政権が宣言した。ポーランド政府はナチスと同じく反ユダヤ主義を明白にして、ユダヤ人がポーランドへ帰国するために必要な難民許可を与えなかった。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ユダヤ人たちは、国境周辺のごみごみした中間地帯でみじめな生活を強いられるはめになった。その後、一部の人々は警備兵を買収して国境を越え、クラクフなどへ向かった。(本書の著者であるレオン・レイソンの)両親は私の前ではそうした一連の出来事の深刻さを控えめに語っていた。「東では以前、ポグロムがあった。今度は西で問題が起きている。だが、そのうちに落ち着くさ。見てなさい」と父はのんきを装っていた。父がほんとうにそう思っていたのか、それとも私だけでなく、母を、そして自分自身にもそう思わせようとしていたのか、それはわからない。結局のところ、逃げる場所などあったろうか?できることなどあったろうか?そして、最悪の知らせがもたらされた。1938年11月9日の夜から10日にかけて、ドイツとオーストリアで、シナゴーグが焼き打ちに遭い、ユダヤ教の聖典(トーラースクロール)が燃やされ、ユダヤ人の家々が破壊された。ユダヤ人は手当たり次第に殴られ、100人近くが殺された。(👴👨👩👧👶どあほう‼️ばっかじゃないの(怒)‼️)それほど恐ろしいことが起きているのに人々が傍観しているとは、私(著者)にはとうてい信じられなかった。ナチスのプロバガンダはその晩の出来事を、ユダヤ系ポーランド人の青年ヘルシェル・グリンシュパンがフランス在住のドイツ大使館付き書記官を殺したことに抗議する反ユダヤ人デモから自然発生したのだとした。💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼それはナチスが必要とした口実だったと、私たちはすぐに思い知った。彼らはこの出来事を口実にして、💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼組織化された暴力を全国的に展開したのだ。のちに、この晩は💀水晶の夜(クリスタルナハト)と呼ばれるようになった。シナゴーグやユダヤ人の家や商店で破壊されたガラスが、月明かりに照らされて水晶のようにきらめいて見えたからだ。じつのところ、この晩に破壊されたのはガラスだけではなかった。(👴👨👩👧👶😢😢😢😢😢😢🌊🌊🌊🌊🌊🌊)ナチスが正気に返って、ユダヤ人への迫害が終わってほしいと、私たちは切に願った。わが家に危険が及ぶことはないし、そのうちに状況が落ち着くはずだと、父になだめられても、私は生まれてはじめて心底から恐怖を感じた。(中略)シンドラーは私たちに東部戦線の状況を話してくれた。1945年早々に、ソ連軍がアウシュヴィッツ収容所を解放したと知らされた。地理に明るい囚人たちが地面に地図を描いて、進軍の様子を図にしてくれた。彼らの地図を見ると、ソ連の動きが現実的に感じられた。ソ連軍がやってくる日はそう遠くないと、彼らは言った。戦争の最後の数カ月間、戦況が決定的になるにつれて楽観的になっただろうと思われるかも知れないが、1945年の春、私たちはすっかり疲弊して体力も気力もまったく失っていた。心は粉々に砕け、体はかろうじて息をしているだけだったのだ。父は12時間勤務の間ずっと立っていられなかった。誰も見ていない隙にしゃがみこんでいた。ダヴィドは両脚の痛みを抱えていた。私は物が二重に見えた。機械の目盛りを読まなくてはならないのに細い線は小さい虫がのたくっているようにしか見えなかったのだ。ドイツ軍のポーランド侵攻ではじまった六年間の艱難辛苦(かんなんしんく)がたまりたまったせいかもしれないが、恐ろしい考えが頭から離れなくなっていた。自分が戦争の最後の銃弾で倒れると思えて、どうしようもないのだ。私は頭のなかでその悪夢をくりかえし反芻(はんすう)した。解放を目前にした、まさに最後の瞬間に運が尽きるのだ。実際に、私の恐れはさほど的外れではなかった。1945年四月にSSは工場にいるすべてのユダヤ人を殺せと命じられた。その命令が実行される前に、シンドラーが彼らを放逐して阻止したのだ。当時、急速に接近するソ連軍に捕えられるのを恐れて、ドイツの将校や兵士たちが脱走していた。その混乱に乗じてシンドラーは私たちのためにまたしても危険を冒した。破棄されたナチスの倉庫へ行って、ネイビーブルーの布とウォトカ(ウォッカ)を大量に持ちかえったのだ。迫ってくるソ連軍に捕まれば、自分もどうなるかわからないと、シンドラーは知っていた。彼はまず監視兵たちに向かって、ただちに自発的に去れば生き残れる可能性が高いと伝えた。それ以上うながす必要はなかった。兵士たちは何も反論せず逃げだしたがシンドラー(ドイツ人)は残った。工場を離れる前に、彼はユダヤ人たちを集めて最後の別れの挨拶をしたのだ。あまりにも長い年月を恐怖のなかで過ごしたため、私は彼(シンドラー)の言葉が事実とはなかなか信じられなかたった。❇️「きみたちは自由だ」シンドラーが言った。自由。誰も一言もはっしなかった。なんと言えばよかったのか? 心の底で渦巻いている感情を、どんな言葉で表現できたろう?自由とは、実現不可能な夢のように思えた。その場から去る前にシンドラーはこう言った。近くの町の(ドイツ人の)人々に復讐しようなどと思わないでくれ、彼らは君たちを生かすためにてを貸してくれたのだから。話を終えると、彼は私たち一人ひとりに布一反とウォトカ一瓶をくれた。食料や宿や衣服と交換できるからだ。(👴👨👩👧👶 ううっっっっ、😢😢😢😢😢🌊🌊🌊🌊🌊)私(著者)はシンドラーと個人的な別れの挨拶はできなかったがある囚人の金歯でつくった指輪を彼に贈るための式に参加した。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️その指輪にはヘブライ語で「ひとつの命を救うものは全世界を救う」とタルムードの言葉が刻まれていた。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️真夜中過ぎに、オスカー・シンドラーは車で去っていった。彼(ドイツ人)はアメリカ軍の陣地をめざし無事にたどり着いた。もしソ連に捕まっていたら、たんなるナチスの一員として殺されていただろう。シンドラーが去ってから、私たちは宙ぶらりんな状態でソ連軍の到着を待った。監視兵たちはさっさと職務を放棄して逃げ出してしまっていたので、出ていこうと思えばできたけれど、私たちはそうしなかった。情報もなく、行くあてもなく、収容所の外で何が待っているのか想像もできなかった。まるで台風の目に入ったように静かだった。若者たちが兵士の残した銃を手に見張り番をした。次にどうしたらいいのか誰もわからないまま、夜がさらに更けた。1945年5月8日、答えがやってきた。ソ連兵がひとり、ゲートに現れた。あなたたちは誰かと尋ねられたので、私たちはポーランド出身のユダヤ人だと答えた。あなたたちは自由だ、囚人服から番号と、囚人をランク別に識別するために色分けした三角形のしるしを取りなさい、とソ連兵が言った。いっせいに番号と三角形の印をむしり取ったその瞬間のことを思い返せば、それは私たちの団結と勝利の瞬間だった。圧倒的に不利な状況のなか、私たちは生き延びた。ナチスの日和見(ひよりみ)主義、策略家、勇気ある異端者、英雄など、オスカー・シンドラーは相反するさまざまな評価を受けている。けれど、彼は死を約束された1200人ものユダヤ人を救うという奇跡を成し遂げたのだ。❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️(引用、終わり)(👴👨👩👧👶なぜ世界各国の政府が助けないでたった一人の一般人がやらねばならないのか‼️世界各国の政府の人々は、オスカー・シンドラーや杉原千畝などのたった一人の人間よりぜんぜん機転がきかない、ということではないか。ウイグルやチベット問題で同じ過ちを二度と繰り返さないでください。たくさんの人間のかけがえのないいのちがかかっている。傍観してはならない。毎日毎晩女性たちがレイプされていると思うと、ご飯も喉を通らなくなるのが同じ人間というもの。英国のBBCなどからこれだけ事実や証言があがると人間というものは想像力があって考えれば考えるほど苦しくなる。大企業の社長も善意をもって対処すれば、それでまた会社が盛り上がっていくかも知れない。だから一刻も早く救出してほしい。追伸:中の子どもたちに罪はないから、国が崩壊した暁には、もっと開かれた学校で開かれた先生と一緒に学ばせてあげたい)(引用、続き)10章 移動虐殺部隊の恐怖ソ連が去ると、ゲートが大きく開かれた。私は呆然(ぼうぜん)としていた。みんな同じような状態だった。長年の囚人生活から解き放たれたのだ。当惑と脱力感と激しい喜びが、同時に全身を満たした。頭がすっかり混乱して、どうしたらいいのかわからず、私たちはそれから二日間、そのままブリンリッツ収容所周辺にいた。敵であるドイツの惨敗兵が何百人も列をなしてぞろぞろあるいていくのを目にしても、自分たちが自由になったのだという実感がなかった。かつてあれほど自信満々だった兵士たちがソ連の捕虜となり意気消沈しているのを私は道端に立ってじっと見ていた。とぼとぼと前進する列は何時間も続き彼らは頭を垂れ、陰気な顔をしていた。数人が兵士のブーツを奪って代わりに収容所で履かされていた木靴を放りつけた。私はそれには加わらなかった。たとえどんなことをしてもナチスの仕打ちを「帳消しにはできない」からだ。あれほど意気揚々としていた兵士たちがみじめな敗残の姿でよろめきながら目の前を通る光景をそれを見つめていた数時間を、私は決して忘れまいと思った。やがてチェコスロヴァキア政府がポーランドへの帰国希望者に無料で汽車を提供してくれることになった。母はナフレカへ行ってヘルシェルや親族を探したいと熱望したけれも、父がそんなに東へ行くのはまだ危険だと言った。そして、父は五人でクラクフへ戻ろうと決めた。むろん私たちはみな、ツァリグが敵の手を退かれてナレフカへ戻り、そこで待っているという期待を抱いていた。今回も家畜用の👴👨👩👧👶わたし、今思ったのですけど、昨日の夜就寝していま朝の4時。起きたばっかりだからこれは考えがまとまったということで、マーフィーの何とかでしょうか。👑宮崎駿先生に、


足繁く食べ物を隠れ家に運んでくれたアンネの父オットー・フランクの秘書ミープ・ヒース以外に救いのない❇️『🎥アンネの日記』ではなく、❇️『🎥シンドラーに救われた少年』を是非ともアニメーションにしてほしいと願っております。こちらもやはり「思いをつらぬく」物語だからです‼️『🎥シンドラーのリスト』というタイトルでも良いのですけれどもそうすると、シンドラーの女性関係にも踏み込まねばなりません。そうなると子ども向きでなくなりますので。(引用、続き)今回も家畜用の貨車だったけれど、寝棚があり、引き戸は開いていた。私たちは春の香りを吸い込み、田園風景を眺めることができた。風景を眺めていたが、多くの人の命を奪った戦争の痕跡はほとんど目につかなかった。木々は新芽を伸ばし、野の草花が盛りを迎えている。私の心には戦争の傷痕が深く残っていたが、過ぎゆく風景にはそれらしきものは見えなかった。まるであの恐ろしい苦難の日々は存在しなかったように思えた。だが両親の疲れはて憔悴(しょうすい)しきった顔に目をやると、たちまちあれは現実なのだとわかった。汽車ががたんごとんと音を立てながら東に進むにつれ、私はここ数年していなかったことを自分に許した。❇️将来について考えたのだ。過去数年間というもの、先のことを考えるとなると、つぎの数時間をどう生き延びるか、わずかな食料をどうやって手に入れるか、目の前に待ち受けている死の瀬戸際からどうやって逃れるか、ということを意味していた。それがいまや、「将来」にはもっとたくさんの意味があった。❇️また学校へ行けるかもしれない。❇️家やちゃんとした食事や安全を手にできるかもしれない。❇️いつの日かふたたび、安穏(あんのん)な日々が来るかもしれない。(👴👨👩👧👶それは、私たちがしっかりと見、守り続けなければならないものなのだ。)列車はたびたび停まって、それぞれの故郷の近くで人々を降ろしながら進んだ。列車が停まるたびに、降りた人々はみな後ろを振り返らず、さよならも言わずに去って行った。もはや一瞬たりとも試練を長びかせる気はないからだ。それまで一緒に働いていた人々が、ひとりずつ、家族ごとに、ポーランドのあちこちへ散っていった。私たちはみな、苦難が終わり、❇️自分の人生を取り戻し、(👴👨👩👧👶ナチス政権が人の人生を奪っていたのだ。)長いあいだ離れ離れになっていた家族のもとへ戻れますようにと祈った。悲しいことに、クラクフに着くとすぐに、苦難は終わっていないとわかった。両親もダヴィドもペシャも私も縞柄の囚人服のままだった。私たちは唯一の財産である、シンドラーからもらった布地とウォトカ(酒のウォッカ)を握りしめて、以前住んでいた場所を目指しておずおずと街中を歩いた。好奇の視線を浴びせられたり冷淡に無視されたりして、ひどくいたたまれない気持ちになった。そして、父のキリスト教徒の友人で、以前スーツを売りさばいてくれたウォジェクを見つけ、かつて住んでいたアパートの隣人とも再会した。隣人は私たちをアパートに数日間泊めてくれ、父のためにささやかなパーティを開くことを決めた。貴重なウォトカを一瓶開けて、杯を重ねた彼は、私たちが生きて戻ってきたことに驚いたと告白した。じつのところ、街の多くの人々が同じように驚いていた。 そして、ユダヤ人の予想外の生還を喜ばない人々がいた。私たちが彼らになにかを要求するだろうと、彼らは考えた。彼らは彼らで戦争中に苦しみや喪失を体験しており▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼私たちの苦しみや喪失には感心を▼▼▼▼▼▼持たなかった。反ユダヤ主義の人々などは、ユダヤ人がそこに1000年以上も暮らしてきたという事実を無視して彼らだけのものとみなしている土地から私たちがいなくなったのを見て喜んでいた。そして、私たちが戻ってきたのを目にして不安を感じていた。私たちにしてみれば、たんにようやく取り戻した自由に適応して人生をやり直そうとしていただけだったというのに。(🇯🇵👴👨👩👧👶 強制収容所からウイグル人の方々が帰ってきたとき、自分たちの土地、自分たちの家に他人が住んでいて良いわけがない‼️)母が仕立屋を見つけて、私の分の布地でズボンをつくらせた。新しい服を着るのは六年ぶりだった。仕立屋への支払いはあまった布地だった。父は戦争前に働いていたガラス工場でふたたび雇ってもらえた。(🇯🇵👴👨👩👧👶当然だろう。)住む場所が早急に必要だった。難民のために受け入れセンターになっている学生寮に間借りすることになった。(🇯🇵👴👨👩👧👶ウイグル人解放後は、受け入れセンターを発足させ、そちらにしばらく入居していただかねばならないだろう。難民という言葉が失礼だ。)難民というのが現在の自分たちの姿なのだと、私は実感した。皮肉にも、ユダヤ人が長い歴史を築いてきた国で、私たちは異邦人だった。戦前にはクラクフに六万人もいたユダヤ人が、戦争が終わってみるとわずか数千人になっていた。(🇯🇵👴👨👩👧👶「職業技能教育訓練センター」には、100万人ものウイグル人が収容されているという。100万人て、どんだけ多いことか‼️📖『シンドラーに救われた少年』がアニメーション化されるまでに最短1年?間に合わないかなぁ。その間にどれだけ大勢のウイグル人の命が失われるのだろう‼️「夜半に嵐の吹かぬものかは」。急いで‼️👩どんどんキャッチ・コピーを考えなきゃ‼️👧お母さんっったら‼️また何を考えているの💦💦👩人権を侵害されている人々を救いたい一心で、その思いをつらぬく主人公。提供は、当然ながらウイグル綿を使用したり、収容所で働くウイグル人を無賃金で使った日本企業12~14社でお願いいたします。親鸞の言葉です。「いわんや、悪人をや。」 👩👧宮崎駿先生、「職業技能教育訓練センター」内の🌜🌟ウイグル人の皆さんの命を助けるために、人権を回復するために、どうかアニメーションを制作してください‼️どうかお力をお貸しください。👴どうして僕がやらなきゃならないの?👨なんて、宮崎先生は言わない。👧🇯🇵日本の文科省と、🇯🇵NHKも宮崎アニメーション制作に協賛しよう❇️👴ドイツの了解を得るのが大変だと思いますが、ドイツがどうのこうのとか、歴史を掘り返し批判するためではありません。二度とこの人権無視の歴史をぶり返さないようにアニメーションで全世界の皆さんに知って用心していただきたいのです。どうかよろしくお願いいたします。敬具👧おかあさん、そんなことしても日本はきっと無理だよ。👩いいよ、それならそれで。日本はそこまでの国だっていうことだから。また次のことを考えよう!


宮崎駿先生は、自分がそれをアニメにするかしないかは、「そのストーリーじゃなくって自分がこれだ!と思ったひとつの風景だ」


とおっしゃっておられる。


📖『シンドラーに救われた少年』は 宮崎先生の琴線(きんせん)に触れる、見る者の魂を震わす、または逆撫でするどんな名場面があるだろう。やはり最後、解放直後に「君たちは自由だ」とシンドラーが言う場面だろうか。皆から指輪を贈られる場面だろうか。いや違う。シンドラーが指輪を見て、「もっと交換するものがあればもっともっとたくさんのユダヤ人を救えたのに‼️あと1人、あと2人救えたのに‼️」と嘆き残念がり、


❇️助けきれなかった申し訳なさに


身悶えする場面だと思う。この進化した国際情報社会でいまだにナチスドイツのホロコースト、民族大量虐殺と同じかそれ以上の大惨事が共産国内で起きている。誰もそれをとめる方法がわからない。とめる方法がわからなくても とめたいと思うのが温かい真っ赤な血のかよった人間というものだ。


1日も早くとめなければ毎日毎晩多くの人々の大切な命と心が刻々と奪われていく。私たちはケータイでつたないサイトを見て遊んでいる場合ではない。今こそ、考えて考えて考えねばならない時がきている。アニメ『🎥シンドラーに救われた少年』(仮題)は、収益度外視。ヨーロッパやアメリカのアニメーターの皆さんの協力も仰ごう! 宮崎駿先生が総指揮を取って、パソコンで遠隔会議ができるんだから!宮崎先生のいのちが短くなってしまうのだけが心配ですが。今何もやらない自分を許せない‼️シンドラーが感じたように1人でも多くのウイグル人を救いたい‼️


👧すみません😣💦⤵️母は時々意味不明なことを言います。母はもう宇宙人なんです。👩いえ、わたしはゲルダです。👨👨👨(失笑)そして、君は?👧はい、わたしは🇯🇵日本のハイジです。👶メイでしゅ。👨👨👨(笑い声)いいね!全員合格です。


 


 


夏裘冬扇KAKYU-TOSEN97 片山杜秀 Morihide Katayama

2021-04-11 03:57:55 | 日記

週刊新潮
4月15日号
440円

夏裘冬扇 KAKYU-TOSEN
(万葉集を出典とする著者の造語で、
夏に毛皮のコート、冬に扇子の意味。

「石に口すすぎ、川の流れに枕する」
という意味の夏目漱石のペンネームの
由来を思い出した。

本文から引用始め)

功を焦ればこんなもので、
今度の五輪はそんなものかもしれない。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。
『香妃(こうひ)』(日米開戦の翌年、山田耕作が北京で講演し、
日中親善の証としてぶち上げた新作オペラの大構想。舞台は清代の中。
第6代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい)は、
カシュガルの王の妃が香気漂う絶世の美女と聞き、
王を殺害して彼女を略奪。
が、美女は皇帝に靡(なび)かず殺意さえ抱き、大騒動へ。
これぞ諸民族入り乱れる大陸ロマン!)
『香妃』で中の独裁皇帝を倒そうとする絶世の美女とは
ウイグル人なのだ。
誰か上演したくなってきませんか。

(引用終わり)


片山杜秀(かたやまもりひで)さんとは、
1963年、宮城県生まれ。
思想史家。音楽評論家。
『音盤考現学』『音盤博物誌』(吉田秀和賞、サントリー学芸賞)、
『未究のファシズム』(司馬遼太郎賞)、
『新冷戦時代の超克』など著書多数。
本コラムのタイトルは上記にて説明。