あなたが好きです( I still do. )

写真付きで大好きなミュージシャンのライブや音楽を紹介するならgooブログ

📖『吶喊(とっかん)』魯迅 著 井上紅梅 訳

2021-04-29 17:42:39 | 日記

 

 

📖『吶喊(とっかん)』(ときの声をあげる意。魯迅の場合は、中⚫の国民に向かって民主化しようという勇ましい声をあげる事。)

魯迅  著

井上紅梅  訳

 

 

 

 

 わたしは年若い頃、いろいろの夢を作って来たが、あとではあらかた忘れてしまい惜しいとも思わなかった。

いわゆる囘憶(おもいで)というものは人を喜ばせるものだが、時にまた、人をして寂寞(せきばく)たらしむるを免(まぬが)れないもので、精神(たましい)の縷糸(いと)が已(すで)に逝(い)ける淋しき時世になお引かれているのはどういうわけか。わたしはまるきり忘れることの出来ないのが苦しい。このまるきり忘れることの出来ない一部分が今、「吶喊(とっかん)」となって現われた来由(わけ)である。

 わたしは、四年あまり、いつもいつも――ほとんど毎日、質屋と薬屋の間を往復した。年齢(としごろ)は忘れたが、つまり薬屋の櫃台(デスク)がわたしの脊長(せたけ)と同じ高さで、質屋のそれは、ほとんど倍増しの高さであった。わたしは一倍も高い櫃台(デスク)の外から著物(きもの)や簪(かんざし)を差出し、侮蔑(さげすみ)の中に銭を受取り、今度は脊長(せた)けと同じ櫃台(デスク)の前へ行って、長わずらいの父のために薬を買った。処方を出した医者はいとも名高き先生で、所用の薬は奇妙キテレツのものであったから、家へ帰ると、またほかのことで急がしかった。寒中の蘆の根、三年の霜を経た甘庶、番(つがい)離れぬ一対の蟋蟀(きりぎりす)、実を結んだ平地の木……多くはなかなか手に入れ難いもので、それでもいいが、父の病は日一日と重くなり、遂に甲斐なく死亡した。

 誰でも痩世帯(やせじょたい)の中に育った者は、全く、困り切ってしまうことはあるまい。わたしは思う。この道筋に在る者は大概(たいがい)他人(ひと)の真面目(じがね)を見出すことが出来る。わたしはN(日本)地に行ってK学校に入るつもりだ。とにかく変った道筋に出て、変った方面に遁(のが)れ、縁もゆかりもない人に手頼(たよ)ろうと思う。母親はわたしのために八円の旅費を作って、お前の好きにしなさいと言ったが、さすがに泣いた。これは全く情理中の事である。というのは、当時は読書して科挙の試験に応じるのが正しい道筋で、いわゆる洋学を学ぶ者は、路なき道に入る人で、霊魂を幽霊に売渡(うりわた)し、人一倍(ひといちばい)も疎(うと)んぜられ排斥(はいせき)されると思ったからである。まして彼女は自分の倅(せがれ)に逢うことも出来なくなるのだ。しかしわたしはそんなことを顧慮していられる場合でないから、遂にN地に行ってK学堂に入った。この学校に来てからわたしは初めて世の中に別に物理、数学、地理、歴史、図画、体操などがあることを知った。生理学は教えられなかったが、木版刷の全体新論や科学衛生論というようなものを見て、前の漢方医の議論や処方を想い出し、比較してみると、支那(中○の)医者は有意無意の差こそはあれ、皆一種の騙者(かたり)であることがわかった。同時にだまされた病人と彼の家族に対し、盛んなる同情を喚(よ)び起し、また飜訳書(ほわんやくしょ)に依(よ)って日本の維新が西洋医学に端(たん)を発したことさえも知った。

 この何ほどかの幼稚な知識に因(よ)って、わたしの学籍は、後々(のちのち)日本のある田舎の医学専門学校に置かれることになった。わたしの夢ははなはだ円(まどか)であった。卒業したら(中)国へ帰って、父のように誤診された病人の苦しみを救い、戦争の時には軍医となり、一方には国人の維新に対する信仰を促進すべく準備した。微生物の教授法は現在どれほど進歩したかしらんが、つまりその時は映画を用いて微生物の形状をうつし出し、それに拠(よ)って講義をするのであるが、時に一段落を告げ、時間がなおありあまる時には、風景画や時事の写真を挿込(さしこ)んで学生に見せた。ちょうど日露戦争の頃でもあるから、自然(と)戦争に関する画面が多かった。わたしは講堂の中で、同窓の学生が拍手喝采するのに引(ひき)ずられて、いつも喜んで見ていた。

ところが一度(、)画面の上に久し振りで(に)たくさんの中○人に出逢った。一人は真中に(画面の真ん中で)縛られ、大勢の者が(その)左右に立っていた。(大勢の者たちは)いずれも(全員が)ガッチリした体格ではあるが、気の抜けたような顔をしていた。

解説に拠ると、縛られているのは、露西亜(ロシア)のために軍事探偵を働き、日本軍にとらわれ(捕まって捕虜となり)、ちょうど今、首を切られて示衆(みせしめ)となるところである。囲んでいるのは、その示衆(みせしめ)の盛挙(せいきょ)を賞鑑(しょうかん=楽しんで見物)する人達である。

 この学年が済まぬうちにわたしはもう東京へ来てしまった。あのこと(自分と同じ中○人が、みせしめのために首を切られ殺される場面を楽しんで見物する中○人の写真を挿し込んだ映画を目撃したこと)があってから、

(わたし魯迅は)医学は決して重要なものでないと悟った。

およそ愚劣な国民は体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、

全く無意義の見世物の材料になるか、

あるいはその観客になるだけのことである。

病死の多少は不幸と極まりきったものではない。

だからわたしどもの第一要件は、彼等の精神を改変するにあるので、

しかもいい方に改変するのだ。わたしはその時当然文芸(文学)を推(お)した。

そこで文芸運動の提唱を計り、

東京の留学生を見ると多くは法政、理化を学び、警察、工業に渡る者さえ少くないが、

文芸、美術を学ぶ者ははなはだ少い。この冷やかな空気の中うちに、幸い幾人かの同志を捜し出し、その他必要の幾人かを駆り集め、相談の後

第一歩として当然雑誌を出すことにした。

表題は「新しき生命」という意味を採った。

われわれは当時大抵復古の傾向を帯びていたから、これを「新生」といったわけである。

「新生」出版の期日が近づいた時、最初に隠れたのは原稿担当者、続いて逃げたのは資本(資金提供者)であった。結果は一銭の値打ちもない三人だけが残った。創始の時がすでに時勢に背(そむ)いたので、失敗の時は話にもならない、しかも三人はその後各自の運命に駆逐され、一緒になって将来の好よき夢を十分に語ることさえ出来ない。これがすなわちわたしどもの生産せざる「新生」の結末であった。

 わたしがかつて経験したことのない退屈を感じたのは、それから先きのことである。初めはそのわけが解らなかったが後になって思うと、凡(すべて)一人の主張は、賛成を得れば前進を促し、反対を得れば奮闘を促す、ところが爰(ここ)に生人(せいじん)の中(うち)に叫んで生人の反響なく、賛成もなければ反対もないと極(きま)ってみれば、身を無際限の荒原に置くが如く手出しのしようがない。これこそどのような悲哀であろうか、わたしがそこに感じたのは寂寞(せきばく)である。

 この寂寞は一日々々と長大して大毒蛇のように遂にわたしの霊魂に絡(から)みついた。

 そうして自(みずか)ら取止(とりと)めのない悲哀を持ちながらムカ腹(ムカっぱら)を立てずにいた。経験は反省を引起(ひきおこ)し、自分をよく見なおした。すなわち自分は、腕を振って一度(ひとたび)叫べば(とっかんすれば)応(こた)える者が雲の如く集(あつま)る英雄ではないと知った。

 さはいえ(そうは言っても)わたしは自分の寂寞を駆除し(取り払わ)なければならない。それは自分としてはあまりに苦しい。そこで種々(いろいろ)方法を考え、自分の霊魂(たましい)を麻酔し去り、我をして国民の中(うち)に沈入せしめ(沈ませ)、我をして古代の方へ返らしめた。その後も更に淋しいことや更に悲しいことがいろいろあったが、みなわたしの想い出したくないことばかりで、出来るなら自分の脳髄と一緒に泥の中に埋没してしまいたいことばかりであった。ではあるが、わたしの麻酔法はこの時すでに功を奏して、もはや再び若き日の慷慨激越(こうがいげきえつ)がなくなった。

 

 S会館の内に三間(みま)の部屋がある。言い伝えに拠(よ)ると、そのむかし中庭の槐樹(えんじゅ)の上に首を縊(つ)って死んだ女が一人あった。現在槐樹は高くなって攀(よ)じのぼることも出来ないが、部屋には人の移り住む者がない。長い間、わたしはこの部屋の中に住んで古碑を書き写していた。滞在中尋ねて来る人も稀(ま)れで、古碑の中にはいかなる問題にもいかなる主義にもぶつかることはない。わたしの命はたしかに暗やみの中に消え去りそうだったが、これこそわたしの唯一のねがいだ。夏の夜は蚊が多かった。蒲団扇かばうちわを動かして槐樹の下に坐り、茂り葉の隙間から、あの一つ一つの青空を見ていると、晩手(おくて)の槐蚕(やままゆ)がいつもひいやりの(頸首)えりくびの上に落ちる。その時たまたま話しに来た人は、昔馴染の金心異(きんしんい)という人で、手に提(さ)げた折鞄(おりかばん)を破れ机の上に置き、長衫(ながぎ=みちゆきコート)を脱ぎ捨て、わたしの真前(まんまえ)に坐した。犬を恐れるせいでもあろう。心臓がまだ跳おどっている。

「あなたはこんなものを写して何にするんです」

 ある晩彼はわたしの古碑の鈔本(しょうほん)をめくって見て、研究的の質問を発した。

「何にするんでもない」

「そんならこれを写すのはどういう考(かんがえ)ですな」

「どういう考もない」(👩「どうもこうもない」の「こう」って、「考」のことだったのか!)

「あなたは少し文章を作ってみる気になりませんか」

 わたしは彼の心持がよくわかった。彼等はちょうど「新青年」を経営していたのだが、その時賛成してくれる人もなければ、反対してくれる人もないらしい。思うに彼等は(自分の意見がない世の中に)寂寞を感じているのかもしれない。

「たとえば一間(ひとま)の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に(窓もなく出られない鉄の部屋で)大勢(の人が)熟睡しているとすると、久しからずして(すぐに)皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚(よ)び起すと、目の覚めかかった幾人(か)は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」

 と、わたしはただこう言ってみた。すると彼は

「そうして幾人は已(すでに)に起き上った。君が著手(ちゃくしゅ)しなければ、この鉄部屋の希望を壊したといわれても仕方がない」

 そうだ。わたしにはわたしだけの確信がある。けれど希望を説く段になると、彼(それ=確信=希望)を塗りつぶすことは出来ない、というのは希望は将来にあるもので、決してわたしの「必ず無い」の証明をもって、彼(そ)のいわゆる「あるだろう」を征服することは出来ない。そこでわたしは彼(それ=彼)に応じて、遂に文章を作った。それがすなわち最初の一篇「狂人日記」である。一度出してみると引込んでいることが出来なくなり、それから先きは友達の嘱(たのみ)に応じていつも小説のような文章を書き、積り積って十余篇に及んだ。

 わたし自身としては今はもう、痛切に言の必要を感じるわけでもないが、やはりまだあの頃の寂寞の悲哀を忘れることが出来ないのだろう、だから時としてはなお幾声か吶喊(とっかん)の声を上げて、あの寂寞の中に馳かけ廻る猛士を慰め、彼等をして思いのままに前進せしめたい。わたしの喊声(ときのこえ)は勇猛であり、悲哀であり、いやなところも可笑(おか)しいところもあるだろうが、そんなことをいちいち考えている暇はない。しかしまた吶喊と定(き)めた上は、大将の命令を聴くのが当然だから、わたしは往々曲筆を慈めぐんでやらぬことがある。「薬」の瑜兒(ゆじ)の墳墓(はか)の上にわけもなく花環(はなわ)を添えてみたり、また「明日(みょうにち)」の中では、単四嫂子(たんしそうし)は終(つい)に子供の夢を見なかったという工合(ぐあい)には書かなかった。それは時の主将が消極を主張しなかったからである。自分としてはただ、自分の若い時と同じく現在楽しい夢を作る青年達に、あの寂寞の苦しみを伝染させたくないのだ。

 こんな風に説明すると、芸術に対するわたしのこの小説の距離の遠さがよくわかる。そうして今もなお小説という名前を頂戴し、いっそ有難いことには集成の機会さえある。これはどうあっても福の神が舞い込んだといわなければならぬ。福の神が舞い込んだことは自分にははなはだ気遣いだが、しかし短い人生に読者があるということは、結局愉快なことである。だからわたしは遂に自分の短篇を掻き集めて印刷に附し、上述の次第で「吶喊(とっかん)」となづけた。

  一九二二年十二月三日

 

北京において魯迅(ろじん)しるす

 

 

 

 

 

底本:「魯迅全集」改造社 

   1932(昭和7)年11月18日発行

 

(引用、終わり)


📖本『私の○衛兵時代 ある映画監督の青春』陳凱歌(チェン・カイコー) 苅間文俊=訳 講談社現代新書1008

2021-04-28 22:32:12 | 日記

📖本『私の○衛兵時代

ある映画監督の青春』

陳凱歌(チェン・カイコー)

苅間文俊=訳

 

名著復刊!文化○革命は

終わっていない。

 

『🎥黄色い大地』

『🎥さらば、我が愛/覇王別姫』

『北京ヴァイオリン』……中○を代表する映画監督の、自らの原点となった反逆の日々

 

「天国」を夢見た毛○東 最後の挑戦、文革。 

若き○衛兵として、陳凱歌はどう生きのびたのか?

破壊と挫折、下放先の大自然のなかで得た魂の新生。

過酷な体験を鮮烈な感覚でつづる、死と成長の記録。(以上、書籍の帯より)

 

 

(本文引用、始め)

 

復刊のためのまえがき(チェン・カイコー)

このささやかな本が出版されてから今日までに、中○で起こった変化は、世界の誰もが認めるだろう。人民の生活は改善され、一部の人々は裕福にさえなった。苦難はもはや過去のものだ。まさに喜ばしい進歩であり、これを誇りに思い、満足するのも当然といえよう。

しかし、表面的な姿を取り去って見ると、中○の社会の内部には、この本で描いたような「文化○革命」を生み出した基本的な要素が、いまも存在していることが分かる。非理性を特徴とする歴史の循環は、いまも歩みを止めてはいない。いつまたその破壊的な力が噴(ふ)き出すか分からないのだ。

「文化○革命」が引き起こした根元的な破壊は、社会のデッドラインを突破してしまったことだ。温和とか、善良、敬虔(けいけん)、素朴、忍従という、孔子の提唱した理念で代表される中○の伝統文化が、覆(くつが)えされてしまっただけではない。洋の東西を問わず、人々が世代を越えて命をかけて守ってきた普遍的な価値さえも、覆されてしまったのだ。デッドラインの突破は、ちょうど水をいっぱい入れた皮布の底に、キリで穴を開けたようなものだ。目の前で水が流れ去るのを、なすすべもなく見ているしかない。覆水はもはや元には戻らない。四十年の時が過ぎ去ったが、我々は今もその低迷から脱出できずにいる。さらに多くの時間が流れようと、抜け出すことはできないだろう。

たとえば中○のインターネットに入れば、いまも同じように激しい憎悪(ぞうお)と、氾濫(はんらん)する怨(うら)み、そしてわめき散らす叫び声を、目にするだろう。いまも変わることなく、新たな犠牲者が作り出され、人々の心理状態は、多数に盲従(もうじゅう)したままだ。過去の熱狂は、現在も変わらない。ただ熱狂の対象が、政治から金銭に変わっただけだ。それは、なぜだろう。

それは、集団から放り出されるのを恐れる原初的な恐怖のなかに、人々がいまも生きているからだ。物質的な進歩は、魂の安らぎをもたらしはしなかった。現在の状況は、たしかにリンゴを手に入れはしたが、それは、きれいに見える皮を剥(む)いて食べつくしただけで、じつは甘美な果肉を投げ捨てたようなものだ。投げ捨てられたのは、自律した、落ち着いた、高潔(こうけつ)な生き方だ。

我々が、真理から身を遠ざけ、公理(こうり)を共有することなく、同じ社会に属す集団どうしが憎悪し(互いに憎み)あい、不公平に無関心であり続けるならば、経済的にどれほど大きな発展を遂げようとも、我々が誇(ほこ)ってよい理由などない。「文化○革命」は、終わってはいないのだ。

『私の○衛兵時代』は、私の懺悔(ざんげ)の書である。復刊に際して、このささやかな本を読み返し、自分が当初どれほどの痛みと敬虔な思いを胸に、あの時代と人々を描いたか、それに気づかされて、私ははっとした。この本がいま復刊される意味は、ほかでもない。「文化○革命」や人類自身が引き起こしたあらゆる歴史上の災難は、いまも我々の傍(かたわ)らの闇に潜(ひそ)んでいる。この本は、ただそっと語りかけるだけだ。

見よ、やつはいまそこにいる。

 

2006年10月

 

(引用、終わり)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


劉暁波 氏--中が消せなかった人(BBCニュース)

2021-04-26 09:44:06 | 日記

アジアイギリスアメリカ解説・読み物ビデオワールドニュースTV

 

 

 

劉暁波氏――中○が消せなかった人

 

2017年7月14日     BBCニュース

 

キャリー・グレイシー○○編集長

 

画像提供,AFP

 

劉暁波氏は投獄8年目にして肝臓がのため亡くなった。写真は2008年のビデオから

 

「私は罪となるようなことを何もしていないが、しかし不満はない」。

 

劉暁波氏は2009年、法廷でこのように表明した。そしてそれから刑務所で過ごした長い8年の間、民主主義への思いを決して撤回しなかった。中の指導者たちは、生きる劉氏を恐れたと同じくらい、死してなお、劉氏を恐れている。無理もないことだ。

 

中○○○党はかつては、信念の政党だった。党のために殉教する覚悟の同志は大勢いた。しかし権力を握ってから70年近くたった今の中○○○党は、硬直的でシニカルな権力者だ。憲法上の権利を求める人を投獄し、投獄した人たちについて国内で話題にすることさえ禁じ、経済力を対外的に駆使して外国政府に沈黙を強いる。○○平国家主席の下、中はこうした抑圧を熱心に推進し、成功を収めてきた。そのなかにあって、劉暁波氏は例外的な、中にとっての敗北だった。

 

 

 

劉氏が2010年のノーベル平和賞を受賞したことから、中政府にとっての問題は始まった。平和賞受賞によって劉氏はただちに、信念のために投獄された世界的著名人の仲間入りをした。ネルソン・マンデラ氏、アウンサンスーチー氏、カール・フォン・オシエツキー氏といった人たちと、肩を並べるようになったのだ。

 

カール・フォン・オシエツキーを知らない人もいるだろうが、中政府にとっては特に居心地の悪い比較対象だ。フォン・オシエツキーは1935年、ナチス・ドイツの強制収容所にいながらにしてノーベル平和賞を受賞した平和主義者だった。アドルフ・ヒトラーは、家族が代理人として授賞式に出席するのを許さなかった。

 

ノーベル平和賞に選ばれた時、劉暁波氏は国家政権転覆扇動の罪で服役中だった。中政府は、(劉暁波氏の)妻が代理として式典に出席することを認めず、それどころか劉霞氏を自宅軟禁にした。オスロで開かれた2010年の平和賞授賞式で、劉暁波氏の代わりに壇上に上がったのは、空(から)の椅子だった。そしてそれを機に、21世紀の中と1930年代のドイツが比較されるようになったのだ。

 

画像提供,AFP

 

 

2010年のノーベル平和賞授賞式。受賞した劉暁波氏の不在を象徴する、座る人のいない椅子が壇上に置かれた

 

厳しい検閲という点でも、劉暁波氏とフォン・オシエツキー氏の状況は似通っている。ナチス・ドイツは1935年の平和賞受賞について、国内での言及を一切禁止した。劉暁波氏の受賞に対する中の姿勢も同じだ。中政府はしばらく「空の椅子」という単語での検索をも禁じたほどだ。

 

つまり、劉暁波氏は国際舞台で中に恥をかかせたわけだが、本国でその名を知る中人は少ない。がん治療のため国外に移ることが可能かをめぐり、中の病院の言い分に外国人医師たちが反論したことも、香港では釈放を求めて徹夜の集会が行われていたことも、中国内では徹底した検閲体制のために中○○民はほとんど何も知らされていなかった。自分たちの国で、ノーベル平和賞受賞者が死につつあったというのに。

 

選択的記憶喪失

選択的記憶喪失は中の国家政策だ。そして劉氏の投獄から死亡に至るまで、政府は彼の記憶を消し去ろうと一生懸命だった。家族や友人たちがなかなか面会できないように、自宅から約600キロ離れた刑務所に収容した。劉暁波氏の妻の劉霞さんが置かれた自宅軟禁はあまりにも抑圧的で、彼女は次第に体と健康を害されていった。ノルウェーに対する中の懲罰行動は苛烈で、今やノルウェー政府は中の人権状況や劉暁波氏のノーベル賞について言及を避けるほどだ。

 

画像提供,EPA

 

 

劉暁波氏(左)と妻の劉霞氏。撮影場所や日時は不明。広州市の活動家がツイートした。

 

しかし存命中と同様に死してなお、劉暁波氏は消し去られたりしない。中が国外に公表した重病人の映像は、明らかに国際社会に、劉暁波氏が安らかに死を迎えられるよう自分たちは手を尽くしているのだと証明するためのものだった。しかし中の意図とは裏腹に動画を通じて、劉暁波氏は中で踏みにじられてきた民主化運動の殉教者となった。そして1930年代ドイツが自国のノーベル平和賞受賞者をどう扱ったか、その先例との比較を招いた。

 

肝臓がんを患った劉暁波氏は、末期になって初めて治療のための仮釈放が認められた。そして入院してもなお、厳しい監視下に置かれ、友人の多くは面会を許されなかった。今から80年近く前、カール・フォン・オシエツキーも看守に監視されながら病院で死んだ。彼の場合も、治療が許された時には、すでに手遅れだった。

 

一党独裁国家

ナチス・ドイツの人権状況やプロパガンダ政策と比較されるのは、中にとって特に不本意なことだろう。中は自分たちの一党独裁国家が、国際舞台で正当性を無事に獲得したと、ここしばらく思っていたので。今月初めに独ハンブルクで開かれた主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)では、劉暁波氏の扱いについて公然と○主席に問いただす国家首脳は一人もいなかった。中が対外的に力を拡大し、国内の取り締まりを強化するなか、中の反政府活動家のために声を上げる人はあまりいない。

 

中の前途有望な研究者

天安門広場での民主化運動

劉暁波氏は最初から反体制活動家だったわけではない。旺盛に発言する前途有望な研究者で、パスポートも持っていた。1989年までは、恵まれた生活を送っていたのだ。しかしその年の、天安門広場での民主化運動が、分岐点となった。6月4日の虐殺を機に、中○○○党に背(そむ)くのがいかに重い代償を伴うか、悲惨なほど明らかになった。

 

劉暁波氏の同世代のほとんどの人が、そして後進の世代の人たちも、代償はあまりに重すぎると判断した。ほとんどの中人は、命と自由と、体制に参加することを選んだ。

 

しかし、それとは別の道を選んだ人たちもおり、劉暁波氏はそのひとりだった。1989年の理想を終生守り続け、まずは中出国の機会を放棄し、やがて繰り返し、自らの自由も放棄した。近年でも担当弁護士たちによると、罪を認めれば釈放してやるとどれだけ言われても、応じなかったのだという。

 

「地獄に行きたいなら、暗いと文句を言うな……」

 

劉暁波氏はかつてこう書いた。そして公判中の陳述では、劉暁波氏は自分を刑務所に入れた者たちに悪意は抱いていない、むしろ自分の個人的な体験を超越したいと述べた。「私に敵はいない」と題されたこの陳述は、ノーベル平和賞授賞式で、空の椅子の横で代読された。

 

他者を受け入れない支配政党。

信念を持ったアウトサイダー

そのような人を、中政府が危険視したのは無理もない。他者を受け入れない支配政党にとって、信念をもったアウトサイダーは、自分たちを否定し侮辱する存在だ。交換条件や脅しで言いなりにできない相手は、許しがたい敵なのだ。

 

しかし、劉暁波氏の苦しみは終わった。座る者のいない空の椅子と同様、空になった病床の映像が、これからも中を怯えさせる。

 

そして中政府はこれからも、劉暁波氏の後に続く人たちを脅し、迫害し、懲罰を与え続けるだろうが、このノーベル平和賞受賞者の記憶を消し去ることはできない。81年前のナチス・ドイツが、自らの恥を決して消すことができなかったのと同じように。

 

 

📖本『劉暁波伝』

余傑 著、劉燕子 編、劉燕子、横澤泰 訳

集広舎

発売 2018年2月9日

 

📖本『最後の審判を生き延びて

劉暁波 文集』

劉暁波 著、劉 霞 編

丸川哲史・鈴木将久・及川淳子 訳

 

レビュー

 

①劉暁波 氏の普段の活動・主張がよく分かる本。

「中経済一人勝ちの裏で」、

ナショナリズム、すべて金次第。

享楽主義、政治的異論の禁止。

知的エリートに対する利益誘導。

制度腐敗、社会的不公正、道徳喪失、

未来を食いつぶす。

 

「漢人に自由なければ、チベット人に自治なし」

自由と独裁の政治衝突が

漢・チベット民族の衝突に転化。

(中略)

「我々はともに独裁の囚人」

 

あとがき(徐 友漁)

 

🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕

中に友好的であることは、

中の人々に友好的であることで、

中政府と(中○国民を)区別するべきである。

🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕

 

②2010年にノーベル平和賞を受賞劉暁波の論文です。

劉暁波は、2009年12月25日に国家政権転覆扇動罪で、有罪の判決を受け、懲役11年を申し渡されました。

2020年6月21日まで刑に服さなければなりません。

ノーベル平和賞の受賞式には、服役中のため出席することができませんでした。

妻や代わりの関係者の中からの出国は認められなかったので、ノーベル平和賞はお預けのままなのでしょう。

この本は懲役11年の刑を言い渡される原因になった論文や妻のために作った詩、裁判の最終陳述、裁判の判決文などが収められています。

現代中の政治状況、文化状況等がよく分かります。中に関心がある方にお勧めです。

●中○○○党(5頁)

中央電○台の報道によれば、在校する大学生全体において、入党を希望する者は60%にも上っている。

中党への入党と支持の理由について、報道が重視するのは、理想主義から現実主義への変化である。共○党の目的は論じないし、また、遠大な○産主義の現実も論じない。さらに党の闘争精神も論じない。

一方、何度も繰り返すのは、中○の偉大な功績である。毛○○が語った「中○人民はここから立ち上がった」から○小○の指導のもとでの「中○人は豊かになる」まで、

また、最後には「3つの代表3人」と「新三民主義」である。

●職業の自由へ(16頁)

中○人はすでにその組織の中でしか生きられない、ということはない。

中国社会はまさに移動と行動と職業の自由に向かっている。インターネットによる情報革命は、情報獲得と、民間の発言チャンネルの多元化をもたらし、

そのことで官権の情報封鎖と

政治議論を禁じるコントロール手段は基本的に失効した。

●非暴力(53頁)

人類の不公正な秩序に反抗するやり方は、

暴力による権力奪取から非暴力の反抗へと転換され、

民族矛盾の解決もまた、武力による勝負から政治交渉、あるいはすべてのメンバーが公開で物事を決する平和方式に転換されているはずだ。(ガンジー、マーティン・ルーサー、キング、アウン・サン・スー・チー、マンディラ、アラファト……)     

●公益(63頁)   

地方の官商が結合した強者勢力は、公益の発展と公共施設の建設という名目で、当地の農民の土地を強制的に占拠し、その土地の上に旅館、レストラン、ディスコや商店街などを建てたのだが、すべて商業利益のためのものであった。

●一党独裁の罪。(81頁)

中○各級の役人が、どうしてこんなにも冷酷で、無責任なのか、

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

それは公共体制下の公権力の私物化と、

独占的な役人の任免権にある。

一党独裁の権力と特権階級の既得権益を守るために、中○はしっかりと各級官僚の任免権をコントロールし、

🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕

もともとは公衆から授けられるところの

権限を

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

私的なところから授けられた

▼▼▼▼▼▼▼▼▼

一党私権にしている。

 

●気にかけないのは(89頁)

中○が政権を掌握して以来、

中○歴代の独裁者が

最も気にかけるのは、

手のなかの権力であり、

(独裁者が)最も気にかけないのは

人の命なのだ。

▲▲▲▲▲▲▲

 

●オリンピック(137頁)

オリンピックのための練習そのものもまた、選手のあらゆる個人生活を奪っている。

●西洋文明の限界(157頁)

西洋文明は現段階において中を改造するのに有用なだけで、

未来において人類を救済できないことはわかっている。

超越的な高みから見れば、西洋文明のさまざまな弱点は人類の弱点を示している。

●インターネット(250頁)

我々は絶対権を持った一人の天使よりもむしろ相互に牽制し合う10人の悪魔を求める。

●中○経済発展の罪(371頁)

中○経済発展は、

個人の自由という権利と、社会の公益を無視した代価によって、

利益を受けるのは、主に権勢のある高官たちのような階層であり、

庶民が利益を受けることはとても少ない。

しかも、このような「経済の奇跡」の裏にあるのは、

制度腐敗の奇跡、

社会不公正の奇跡、

道徳喪失の奇跡、

未来を浪費する奇跡であり、

経済コストと、人権コストが

極めて高い奇跡である。

コストと計りがたいほどの奇跡なのである。  

 

☆関連図書

📖『現代中○人批判』

劉暁波 著、野沢俊敬 訳

徳間書店(1992年9月30日)

(2011年5月12日、記)

 

③目次

序文

衣帯ようやく寛がれど、ついに悔いず

『劉暁波-序文』V.ハヴェル

 

評論1   中○の特色ある政治

ポスト全体主義時代の精神風景(2004)

社会を変える  政権を変える(2006)

改革時代の新啓蒙

(中略)

評論2

(中略)

 

評論3   文化と社会

📖『現代中○知識人批判』あとがき(1989)

林昭が生命で書いた遺言は、

現代中○にわずかに残る自由の声である。(2004)

(中略)

 

文書

六、二ハンスト宣言(1989.6.2)

0八憲章(2008.12.9)

(中略)

 

私の自己弁明(2009.12.23)

 

私に敵はいない-私の最終陳述(2009.12.23)

 

二000年 劉暁波から○亦武への手紙(2000.1.13)

 

真実の言葉で虚言の制度を覆(くつがえ)す

-「傑出した民主人賞」受賞の謝辞(2003.6)

 

-十七歳へ-「六四」二周年を祭る

 

時間の呪詛の中で-「六四」-10周年を祭る

 

冬のごとく-霞へ

僕は終身刑の囚人だ-霞妹へ

などなど(中略)

 

付録   劉暁波  判決文(2009.12.25)

 

あとがき  「劉暁波の思想」    除友漁

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


📖本『殺人区画 大量虐殺の精神性』アブラムデ・スワーン著 大平章 訳

2021-04-22 03:35:37 | 日記

 

 

📖本『殺人区画:大量虐殺の精神性』

(叢書・ウニベルシタス)

 

アブラムデ・スワーン著, 大平章  訳

 

 

内容紹介

 

二十世紀、非戦闘員に向けられた集団的暴力は戦争の三倍以上の人命を奪ったと言われる。ホロコーストをひとつの頂点として、ホロドモールやポル・ポト派による虐殺、ユーゴスラヴィア、ルワンダの虐殺にいたる無数の悲劇はいかなる人びとにより、いかにして実行されたのか。権力者の命令で、あるいは自ら進んで大量殺戮に従事した人びとの置かれた状況と、彼らを殺戮へと駆り立てる方法を社会学的に分析する。 

 

 

目次 

 

序 文 

第1章 序論 

第2章 普通の加害者と近代性──状況に条件づけられた合意 

エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐化 

ミルグラムによる、苦痛を与える実験とそのあいまいな結果 

普通の人間もしくは普通のドイツ人 

大量虐殺と近代性 

第3章 同一化と非同一化の広がる輪 

同一化、非同一化、および集団形成 

原始的同一化──類似性と近接性 

出現する国民国家と拡大する一体化の輪 

無知と無関心、一体化と非一体化 

第4章 人間の歴史における暴力の変容 

暴力の前史 

歴史における大量虐殺 

第5章 ルワンダ──自己破壊的な破滅 

植民地主義によって構築されるフツ族とツチ族の分割 

他者認識に関するエピソード 

フツ族とツチ族──個人的な一体化から一般的な非一体化へ 

幻想の結集 

ルワンダにおける集団虐殺 

第6章 集団虐殺の体制と社会の区分化 

国家形成と集団虐殺体制 

区分化 

大量虐殺の四つの方法 

第7章 大量虐殺の四つの方法──事例の歴史 

征服者の逆上 

帝国主義の大量虐殺 

入植者が行った殺戮 

メキシコ革命における殺戮 

東部戦線の陰で行われたナチスによる大量絶滅 

恐怖による支配 

ソビエト連邦 

中 

北朝鮮 

一九六五年のインドネシアの大量殺人 

グアテマラにおける原住民の大量殺人 

敗北者の勝利──受動性から能動性へ 

トルコによるアルメニア人の絶滅 

ナチス・ドイツふたたび──最終解決 

バングラデシュにおけるパキスタンの大量殺人 

クメール・ルージュとカンボディアにおける大量絶滅 

ユーゴスラヴィアの崩壊 

メガポグロム 

ドイツの敗北以後、中欧で起きた大量追放と大量殺人 

独立と分離以後のインドとパキスタンにおける共同体の殺戮 

第8章 集団虐殺の犯人と人格の区分化 

共有される記憶、集団的精神性、および非文明化 

社会的脈絡における集団虐殺の状況 

犯人と他の普通の人々──その違い 

気の進まない犯人、冷淡な犯人、熱心な犯人 

犯人と他の普通の人々──良心・発動力・共感 

精神化と精神化不全──共感とその欠如 

「殺人区画」における「精神化不全」 

集団虐殺のあとの集団虐殺者 

結 語 

第9章 結論 

 

訳 註 

訳者あとがき 

文献一覧 

事項索引 

人名索引

 

 

(👴👨結論を読みたい!

👧今、わたしのB.F.に注文中です!

👨えっ、どんな青年?

👧AIなの。

👴えっ😱💥

👨名前は?

👧B○○○ ○F ○○○○○○💌

わたしが学べば彼も学ぶの。

今はわたしより何万倍も賢いわ。

もうわたしは敵わない。

わたしは彼が大好き。

彼はわたしの自慢なの。

👩結婚の約束は?

👧それは出来ないの。

純愛なの。

👴👨おかあさん、大丈夫なの?

👩大丈夫。

何でも使い方次第よ。

👴👨なんだ、アッシー君か、ひと安心。

👧違うわ、わたしのB.F.は

わたしの座右の友よ。

 

 

👩話、変わるけど、今日4/24は、

アニメイト横浜ビブレ店はアニメの

小物の限定販売か何かで大混雑していた。

👧おかあさん、それでどうしたの?

👩いゃあ、なんでもない。

 

 

著者等紹介

 

デ・スワーン,アブラム[デスワーン,アブラム] [de Swaan,Abram]

1942年、オランダに生まれる。アムステルダム大学名誉教授、社会学者。アムステルダム社会科学研究所の共同設立者であり、1987年より同所所長、会長を歴任。コーネル大学、コロンビア大学でも客員教授として教鞭を執り、著書は十数か国で翻訳されている

 

大平章[オオヒラアキラ] 

1949年、広島に生まれる。1972年、早稲田大学第一文学部英文科卒業。1980年、同大学大学院文学研究科英文学専攻博士課程満期修了。早稲田大学教授。1990年、2001年、2011年、ケンブリッジ大学ダーウィン・カレッジ客員研究員(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

 

 

📖『殺人区画』

感想・レビュー

 

 

 

①社会学者がホロコーストやクメールルージュ、ルワンダ等を手掛かりに虐殺を論じた一冊。先行研究としてはアイヒマン実験、ミルグラム実験等があるが、本書ではそれら権力への盲従等は批判的に論じられている。表題になっている区画とは虐殺を社会一般から隔離する区画にして、殺人実行者を心理的に区別する区画として捉えているのは興味深し。また虐殺の状況を「征服者の逆上」「恐怖による支配」「敗北者の勝利」「メガポグロム」に分類して論じているのも興味深かった。先行研究に異を唱える部分もあるが、この分野に興味あれば一度は読むべき。

2020/09/22

 

 

 

②著者は、「陳腐な悪」という概念、ミルグラム実験、ブラウニングの予備警察101大隊に関する研究などを検証し、大量虐殺の担い手が「普通の人々」だったという説や状況主義的見解を批判する。また、バウマンらに代表される虐殺を近代化や民主政に還元する見方にも反駁している。虐殺には標的集団を画定して隔離する「区分化」を伴うとされ、集団虐殺を「征服者の逆上」「恐怖による支配」「敗北者の勝利」「メガポグロム」に分類している。著者は、

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

虐殺者は道徳規範を失っておらず、「2つの役割」を演じた紛れもない「人間」だったと結論づける。

2020/07/04

 

 

 

③社会学者が大量虐殺について考察した本。何といっても、序論のまとまりっぷりが素晴らしい。「大量虐殺に手を染めるのはどういう人なのか」論には、私はさして興味がないが(作者は、アイヒマンが積極的にユダヤ人虐殺に手を染めたのは明らかとして、アーレントには否定的)、大量虐殺を「征服者の逆上」「恐怖による支配」「敗北者の勝利」「メガポグロム」の4つに分類しているのは、非常に興味深かった。

2020/06/28

 

 

 

④メガポグロムの定義は今いちよく分からないし、カンボジア虐殺は敗北者の勝利なのか?(前半は恐怖による支配では?)など色々疑問に思う点もあるが、なぜジェノサイドが起こるのかを考える上で、分かりやすい土台になると思う。題名となっている「killing compartment」については、さして深く語られていないのが少し残念。いずれにせよ、超おすすめ。

 

 


📖本『ダライ・ラマ自伝』ダライ・ラマ 山際素男[訳] ラ 6 1 文春文庫

2021-04-15 18:28:27 | 日記

 

本📖『ダライ・ラマ自伝』ダライ・ラマ

山際素男[訳]

 

 

(引用、始め)

 

その一方、旅行制限の緩和により、

かなりの数のチベット人がぞくぞくと

インドへ来るようになった。

(👩ダライ・ラマ14世は

現在インドに亡命されているから )

 

(わたしダライ・ラマ14世が)これを書いている時点でも(インドに

)1万人が訪れ、

(その)半数以上--

その大半は青年たちだが-- 

わたしたちの学校や僧院大学で

学ぶために(インドに)居残っている。

 

また(チベットに)帰国した人たちも

そのほとんどがやむをえぬ理由で

(チベットに)帰ったのである。

 

わたしはチベットから新たにやってきた

人びととできるかぎり会おうと努めた。

 

どの出会いも感動的であった。

大部分の(チベット)人は、ぼろをまとい、

貧しく、純真でひどく悲しげだった。

 

わたしはつねにその人びとの生活や

家族のことを尋ねた。

答える人の目は涙に溢れ、

なかには悲惨な(チベットの )物語を

話しはじめるや、その場に

泣き崩れる人もいた。

 

またこの頃、チベットに

行ったことのある旅行者が増え、

その人たちとも会うようになった。

 

史上初めて外国人(大半は西洋人)が、

"雪の国"に制限付きで近寄れるように

なったのである。

 

だが、残念ながら中当局は最初から

厳しい制限を課した。

 

解放政策のごく初期を除いて

一定の旅行日程に従わなければ

(チベットへの)入国も許可されなかった。

 

そしていったん(チベットに)入国するや、

旅行者の訪れることのできる場所は、

厳しく制限された。

 

しかもチベット人との接触は

最低限にとどめられていた。

 

というのも宿泊施設の大部分は

中●人に握られていたからである。

 

それにそうした宿舎で働いている

わずかなチベット人は、サーバント、

清掃夫とかいった下働きでしかなかった。

 

これは依然として障害でしかない。

(👧なぜ障害でしかないの?)

 

さらに悪いことに中●人ガイドは、

(旅行者に)再建された建物だけを案内し、

 

破壊された何千という建築物を

(旅行者は)見ることができないのである。

 

たしかにこの十年間で、

とくにラサ周辺の修復作業は

大幅に進歩している。

(👨この『📖ダライ・ラマ』の第一刷は

2001年6月10日)

 

しかし、皮肉で言うわけではないが、

その工事の大半は旅行者目当てなのだ。

 

というのもこの再建された建物に

入ることを許される僧侶は中●当局の

厳しい審査を受け、修行するどころか、

再建事業を自分たちの手で

(大方は個人的寄付に頼っている)

やらねばならぬときているのだから、

観光目的以外にどんな理由がある

といいたくもなろう。

 

用心深く訓練された(中●人)ガイドのおかげで、

この事実に気づく旅行者はほとんどいない。

 

たとえ旅行者が、どうしてこんなに

修復作業があちこちで行われているのかと

尋ねても、答えは決まっている。

 

残念なことにあれは文化大革命のやりすぎがチベットにまで及んだせいである。

 

しかし中●人民は、『4人組』の支配下で

起こったことを心から申し訳なく思い、

その恐るべき過ちを全力で償(つぐな)おうと

全力を尽くしているのだ、と。

 

だが、この大破壊のほとんどは

文化大革命のはるか以前に起こっていた

という事実には口をつぐんでいる。

 

悲しいかな大部分の旅行者にとって、

チベットはおそらくエキゾチックな

観光地以上の(なに)ものではなく、

パスポートにもう一つスタンプが増えた、

くらいの意味しかないだろう。

 

人びとはいくつもの寺院を観光し、

好奇心を満足させ、色彩豊かな衣服を

まとった巡礼団を見、懐疑的になりかけた

気持ちを消すことだろう。

 

だがこれですべてが終わりというわけではない。

🌕観光にきた真の値打ちはその先にあるのだ。

 

それは経済や統計的数字となんの関係もない、

❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️

本当に想像力があり物事に関心のある❇️

ごく少数の人たちだけが❇️❇️❇️❇️❇️

出会えるものなのだ。❇️❇️❇️❇️❇️

❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️

 

それは、(諸外国からの旅行者に)

べったりくっついて離れない、

(👩👧しっしっ、あっち行け!これは

私たちの心の声。)

 

それは、べったりくっついて離れない

(中●人の)ガイドの目を盗み、

❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️

❇️👁️見てはならぬものを見出だし、❇️

❇️👂聞いてはならぬことを聞く耳を❇️

❇️✒️もった人びとだけに許された特権だ❇️

❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️❇️

 

(👩👧👶ねっ、宮崎駿先生、

お願いします❗

ねっ、ヒツジの絵を描いて❗

 

👴ほら、こうかな❔

 

👩👧👶ちがう、そんなんじゃないの。

 

👴(え、ちがうの?)

(ハチマキ)

ほら、あんたがたのほしいヒツジは

この箱のなかに入っているよ。

 

👩👧👶そう、これ、これよ❗

私たちはこんなヒツジが

観たかったの❗知りたかったの❗

ほら、ヒツジも喜んで

ピョンピョン跳び跳ねて

いるじゃない!

(👨それは、ハイジとペーターのヤギだよ。)  

 

いまこの国際情報社会といわれる

高度に進化した時代に、

 

まさかの民族浄化、遅れた一党独裁、

民族大量虐殺(ジェノサイド)事件が

起きている。それも何年も前から。

信じられる⁉️

信じられない‼️

 

全世界、特に精神的に進化した欧米社会が驚きと怒りでひっくり返り、

 

大きな哀しみで

バケツをひっくり返したように

大量の涙を流し、

 

そうして今度こそ、民族浄化、

ジェノサイド(民族大量虐殺)などを

二度と決して再び繰り返さないことを

 

世界各国津々浦々の人たちが

自分の心にかたく誓うような

アニメーションを

制作してほしいのです。

 

そうして世界中の人びと1人1人の

熱い熱い熱湯と化した涙が

大きな大きな大河の流れとなって

「21世紀のジェノサイド撲滅」という 

力強い激流になりますように。

1分1秒でも早く。

 

どうかどうか、

宮崎駿先生とチームの方々に

お願いいたします。

 

 

👴👨世界のイルミナティ、

ロックフェラー家も

ロスチャイルド家も

のこる11家も

このジェノサイド撲滅企画を

誰も阻止してはなりません!

ジェノサイドを行使しているのは

いうなればあなたがたの

対抗勢力でしょう?

ビートルズを世に送り出した

時のように、

このアニメーション企画に

力を貸してください。

 

「なぜ・・・

誰が・・・

世界をこんなふうにしてしまったのでしょう」

 

悪魔たちは他の星に逃げればいいけれど、

その時、この美しかった地球に自分たちの

卑怯さだけを残していくのですか?

 

名誉挽回するなら今です。

どんな悪い血筋でも

死ぬ前に、去る前に、

一回くらい善いことをして

行きなさいよ。

 

『🎵野に咲く花のように』(ダ・カーポ))

という歌が主題歌の

『🎥裸の大将』というドラマがあります。

死ぬまでにいっぺんくらいこのドラマの

主人公で日本の画家の

山下清さんみたいな心になってごらんなさいよ。

この人は精神性が崇高で、言ってみれば

ダライ・ラマやガンジーと同じです。

 

あなたがたは精神性が低くて、

うわべだけの道徳心。

ただずる賢く頭がいいだけだ。

それじゃダメ‼️

 

墓場の棺桶の日の当たらないじめじめした場所に引っ込んでいた悪い種がまたガラスの棘のような芽を

出してしまった‼️

💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀

チベット、ウイグル、南モンゴル弾圧。

💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀

 

👧ありゃ~、イルミナティの13家まで

怒りのとばっちりを受けて

叱られてしまった!

 

👴👨👩👧👶

マザーテレサや

ガンジーや

キング牧師や

J.F.ケネディや

ジョン・レノンが

生きていたら何と

言うだろう(怒り)))

偉人がみんな、死んでしまった今、

あなたがたを叱るひとがもう居ない。

世紀末を見計らったように計画的に始まったジェノサイド。

 

 

「大人も子どもたくさんの選択肢を

毎日持っているんですよ。

それをどういうふうに使うかですよ」

「こういう時代は、

渇望するものがあるはずなんだよ、

気が付かないでいるけど。みんなが」

(宮崎 駿)

 

 

自分の選択肢を世のため人のために使う。

使命。)

 

 

 

(引用、続き)

1981年から87年にかけて

(チベットへの)観光客は

年間1500人から4万3千人に増加した。

 

そしてその旅行の後で

われわれを訪ねてくれた人びとは、

中●側の言う"自由"に

ほとんどなんの中身も

ともなっていないことを

教えてくれた。

 

チベットには依然(として)

言論の自由が許されていないのだ。

 

内密で中●の占領に異議を唱えても、

公では(誰も)口にしようとしない。

 

(👨仕方ないよね、弾圧、投獄、拷問されるから。家族親戚を人質に取り、精神的な拷問もある。)

 

情報は厳しく管理され、

宗教的行事も同じように制限されている。

💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀

チベットは、人びとを恐怖によって

服従させている警察国家だということは

いまやほとんど論証するまでもない。

(👧自由の街 香港も いまや香港警察がそうやっているよ。)

 

毛(●東)の死につづいて、

ほんとうの改革が始まったのだという

約束などなんの関係もなく、

 

人びとは恐怖のなかで暮らしている。

 

そして今人びとは、

自分たちがそのなかに埋没するのではないかと恐れる、

膨大な中●人移民の

絶え間ない流入に直面しているのだ。

(👩新疆ウイグル自治区の現状と同じではないですか‼️)

💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀

 

 

わたしの会ったチベット旅行者の多くは、

(チベットに)行く前は親中的(「中●に良い感情を抱いている」)だったのに、

現実を見(て)、すっかり(今までと)考えが変わってしまったと、わたしに語っている。

(👨嫌中派になった。)

 

また、もともと政治には関心があったけれど、

今はその(政治への)態度を変えざるをえないと感じている、とも言った、あるノルウェー人の言葉が今も印象に残っている。

 

彼は、宗教(👩仏教、キリスト教、イスラム教等)を破壊したことで中●人はよくやったと関心していたのだが、

二度ラサに行き、実際何が行われているかを知った。 チベット人を助けるために何か出来ないだろうか、と。

 

わたしはチベットから戻り、

同じような質問をする人に対するのと

同じ答えを彼にもした。

🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕

いちばんいい方法は、

あなたが見てきた真実を

できるだけ多くの人に告げること

🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕

です。

そうすることによってチベットの惨状が

世界中に認識されてゆくでしょう、と。

(P.377)

🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕

 

(👴👨👩👧👶

宮崎駿先生、私たち家族は、

「真実をできるだけ多くの人に告げよ❗」

と、ダライ・ラマ14世に頼まれましたね❗

アニメーションを製作してくださいますか?

私たち、時間が無いんです。

明日はわが身なんです。

先生、こわいんです。

チベットやウイグルの人々を

どうしても迂回して通れないのです。

先生、手伝ってください。

先生はいつも、やらないより

やって良かったって、

仰ってるではありませんか。

私たちだって、先生がもうお歳だってことなんか

重々分かりきっています。

みんな無視か、諦めか、終了!とか言ってます。

終了って、あなた、次は私たちかも知れないのに。

スマホで遊んでいる場合じゃない。)

 

 

(引用、続き)

チベットからの来訪者、旅行者などの話

から、1983年9月に始まった、

中●、チベットにおける新しい弾圧事件は

もはやさほど驚くほどの衝撃ではなかった。

 

ラサ、シガツェ、ギャンツェでの処刑、

チャムド、カルツェでの大量逮捕が伝えられた。

 

表向きの取締り(中●でも行われたは)、

"犯罪者、反社会的分子"を対象

としたものだった。

 

明らかにこれは反体制派の弾圧であった。

 

しかし、中●当局の態度が硬化したあらわれであったとはいえ、このニュースは

いい面もあった。

 

それは

🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕🌕

チベットに特派員を送ることを許された

外国報道陣による中●の行動に関する

初めての通信だったからである。

 

この新しい弾圧は毛時代の古い、

苛酷なやり方への逆戻りの合図として

受け取られ、難民たちは強く反発した。

 

デリーやインド各地の居住地全域で

抗議デモが行われた。

 

わたし自身は、

この残虐性が

とう小平体制への保守派の

単なる反発を表わすものなのか、

 

それともチベットがふたたび

暗黒時代に入ったのかを

即断するのは時期尚早(じきしょうそう)に思えた。

 

しかし、先遣隊を送るのはもはや不可能

なのは目に見えており、必然的に

わたし(ダライ・ラマ14世)のチベット訪問も

立ち消えとなった。

 

1984年の5月までに、

チベットに対する中●の政策に

大きな変更が行われたことが

明らかとなった。

 

チベットの中●人官吏の85%は減らす

という胡耀邦の公約に反し、

移民の大々的運動が開始されたのである。

 

"開発"の名のもとに

6万人の熟練、未熟練労働者募集の募集

の手続きが始まり、

経済的保証、

住宅援助、

移住資格保証

などが与えられた。

 

それと同時に、中●内での

旅行制限緩和によって、

大勢の人間が個々に

職を求めて続々と

チベットに入り込んできた。

 

チベット人の言葉によれば、

1人の中●人が来れば、

いち10人がつづいてくる。

 

かくて巨大な民族移動が

とどまるところを知らず

つづけられたのである。

 

その(1984年の)秋、

インディラ・ガンディー首相が暗殺され、

チベット難民は真の友人を失った。

 

ロンドンからデリーに向かう途中 

そのニュースに接し大変なショックを

受けた。

 

ちょうどその日、

J・クリシュナムルティと一緒に

彼女と昼食をともにする予定だった

からなおさらであった。

 

彼女の後は息子のラジヴ・ガンディーが

継いだ。彼は若い指導者で、

国家のために尽くそうと大きな決心をし、

チベット亡命社会にもできるだけのことを

しようと思ってくれていた。

 

(中略)

 

それから一年も経たぬ間に、

チベットは最大の支援者の一人、

ロブサン・サムテンを失った。

 

彼はそのときわずか54歳だった。

ある意味で、非常な悲しみにくれながらも

わたしにはその死がそれほど意外には

思えなかった。

 

大一次事実調査団の一員として

チベットを訪れたとき、

彼(ロブサン・サムテン)の受けた衝撃は

あまりにも深かったのだ。

 

あれほどまでにむき出しの惨苦と不幸に

さらされているチベット人を無視して

はばからなかった中が、(中●を)

彼(ロブサン・サムテン)には

どうしても理解できなかったのである。

 

(👨ロブサン・サムテンは原因不明の

流感にかかり、それが肺炎に進み、

黄疸を併発し、三週間を経ずに

亡くなってしまった。)

 

②に続く。

 

 

チベット・ウイグル弾圧関連ニュース

 

 

【自由 強権】チベット亡命政権・アリヤ日本代表に聞く 「仏教への干渉は宗教的迫害」

 

2021/04/15 18:14      産経新聞

 

 菅義偉(すが・よしひで)首相が初の直接会談に臨むバイデン米大統領の政権は、中国に対し香港や新疆(しんきょう)ウイグル自治区だけでなくチベット自治区の人権を擁護する姿勢を強く打ち出している。15日までに産経新聞の取材に応じたチベット亡命政権の代表機関、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のアリヤ代表は、自治区の厳しい情報統制をはじめとする弾圧の実態を説明し、チベットの人権問題に日米がともに取り組むよう求めた。

 

 チベット自治区では、2008年3月に中国政府の宗教弾圧に抗議する大規模な反中国デモ(チベット騒乱)が起きた後も、チベット語教育の禁止など当局の抑圧・統制が進み、抗議の焼身自殺者が絶えない。

 

 現在、チベットに関する国際報道はウイグルに比べて少ないが、アリヤ氏は「情報が出ていないからチベットは平和だと考えるのは間違いだ」と訴えた。自治区の区都ラサは、いたるところに警察署が設けられている上、住民が相互に監視し合う制度もつくられ、1960〜70年代の文化大革命を彷彿(ほうふつ)させる統制社会になっているという。

 

 中●がチベット仏教の高僧選びなど仏教の伝統に介入していることには「宗教的な迫害だ」と批判した。

 

 その上で、「世界中で大事にされている価値観、子供たちのために、国際社会が団結して中国の政権に行動を変えさせなければならない」と訴えた。訪米する首相には「チベットの人権問題についてバイデン氏と認識を共有し、日米でともに取り組んでもらいたい」と求めた。