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まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

江野川跡を歩く

2012-03-23 22:17:05 | 川・橋・船
守口の現場から次の現場へ、阪神高速の高架沿いに太子橋今市方面へ歩く。
騒音もなく、高架下はインターロッキングが敷かれ広々とした遊歩道となっている。
脇には一段高くなった土地に団地の住棟が並んでいる。


団地が終わったところで信号待ちの間、何気なく淀川方面を望むと、道が盛り上がっている。
ははぁ、これも旧淀川堤防じゃないか?ということは団地も堤防上に建てられたということか。



そして前方を見ると、ここから先の高架下は今までとは違い断然ナチュラルな雰囲気。
おや、これは川跡じゃないのか!?いや絶対、廃川跡だ。


古い案内板が立っていた。「江野川筋自転車歩行者専用道路」。あぁやっぱり。
ここまではきれいに整備されていたから気付かなかったのだ。
ふ~ん、淀川からつながっていたのか。しかし、淀川の旧流路から何とも微妙な離れ加減だなぁ。

歩きながら携帯で検索してみると、江野川というのは農業用水として人工的に開削されたものだそうだ。
こんな記事を発見。

これによると、それまでばらばらに淀川から取水していた農業用水をまとめて堤内水路を作り
各地に分配する計画が立てられ、予備水路とされた江野樋から城北運河までの部分が江野川である。
1934(昭和9)年に完成。これは淀川の改修のずっと後。
改修で埋めた旧流路とニアミスとも言えそうな場所に、後年になって再度川を掘ったのだ。

そしてまた高速道路建設のため埋め立てられ、1974(昭和49)年に完全に暗渠化。


この案内板はその直後に立てられたのだろうか。阪神高速守口線は1971(昭和46)年に
供用開始されているはずだが、絵には一切描かれていない。
それほど高速道路建設への反対感情が強かったのかもしれない。

※4/1写真追加


コメント (6)
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守口の淀川堤防跡

2012-02-17 00:38:13 | 川・橋・船
仕事で行った守口警察から次の現場へ行こうと、国道1号線を渡ってまっすぐ住宅地の中を歩いていく。
松町、竹町、梅町、桃町。四角く区画整理された住宅地だ。

おや。何か心に引っかかる・・・・

角角で左右の道を見通しながら進んでいくと、左手の下り坂がだんだん急になってきて、ついには
今歩いてる道まで前方で下り坂になっている。なんで守口のまちなかにこんな起伏があるんだろう??



そして右手を見ると緑地が見える。



見に行ってみると、桜並木の細長い緑地だ。「桃町緑道公園」。ここに生える桜の木は背が高く
幹は黒ずみ、長い年月を経たことが見てとれる。

ははぁ、これは。

この起伏は淀川の旧流路の跡だな。京阪守口市駅の駅前にある文禄堤、そこから市役所の
裏を通る道脇に残る古い石垣
、そして桃町緑道。これは大きく蛇行した旧淀川左岸堤防の名残だ。
ここの桜の木は、元から堤防上に生えていたかもしくは旧堤防の一部を公園として残した際に
植樹されたものだろうか。100年は経っていないか、子孫かもしれないな。
おめでたい松竹梅の名のつく町々は、淀川改修後に旧河床を区画整理して作られた住宅地。
西側の下り坂は右岸堤防の外側へ降りる坂だろう。※ここもまだ左岸、河床へ下る地形のようだ。


一昨年歴博で開催された淀川展の図録を引っ張り出して見ると、守口付近は1896~1909
(明治29~42)年に改良工事が行われている。
現在の地図を見ても、旧流路の中心線で分けられていた市境が今もそのまままちなかを通っているのが
よく分かるが、そんなこと忘れてまちを歩いても、こうしてちゃんと名残を感じ取れるのが
とても面白い。
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近鉄伏見の疏水橋梁

2012-01-19 23:55:11 | 川・橋・船
最近京都方面の仕事が多い。
昨日伏見に行ったときに、近鉄線が伏見駅の南側で疏水を斜めに渡る橋がカッコいいのを発見!
上路式のトラス鉄橋だ。

タイトルに「疏水橋梁」と勝手に書いているが、正式名称はわからない(苦笑)。

レンガの古い橋台も見えるな。今のトラスはコンクリートの橋台に載っているので、
あれは先代の橋のものなのか、それとも橋台をかさ上げしたのか?
まぁスパンから見てもう少し短い桁が載っていたのだろうな。




リベット打ちの力強いトラスが道路から間近で見れるナイススポットだ。
疏水の水量が多ければさらに迫力あるだろう。


JR桃山駅もよさそう。このあたりの近鉄京都線、京阪本線、JR奈良線の線路の変遷に
ついて、以前兄から聞いたことがあるのを思い出したが、内容忘れた。。。
もう一度ちゃんと調べてから探索に来よう。
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新田用水の円筒分水

2011-12-08 22:25:27 | 川・橋・船
こちらも伊賀鉄道廃線跡巡り中。
田んぼの中を伸びる初瀬街道を歩いていたら、目の前を横切る堤が。
おお、天井川か。道の部分だけ堤が切れている。
堤上に登ってみるとゴボゴボと音を立てて水が噴き出していた。サイフォンか!


そこに張られていた新聞の記事によると、「新田用水」という灌漑用水路らしい。
美旗新田の開発を行った伊賀藩加判奉行加納直盛を中心として、1655年に作られたが
大雨で水源の大池が不能となったため、直盛の子である直堅が前深瀬川から引き直した
全長約14kmの水路が1676年に完成した。これはその一部のようだ。


桜並木の天井川を端まで歩いて行くと、、、、おや、あれは。


円筒分水だ!おお~美しい!中央の筒から湧き出す水が15方(たぶん・・)に開けられた
四角い窓から外側へあふれ出す。外側の筒は窓5個(たぶん・・)ずつで仕切られていて、
水は正確に三分の一の量ずつ別々の水路へ流れていくようになっている。これぞ機能美!


こういう素晴らしい土木遺産が、ひっそりと、しっかりと、残っているのはうれしいことだ。

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寝屋川のほとり

2011-07-23 11:28:39 | 川・橋・船
京阪寝屋川市で昼ご飯を食べるところを探して東出口近くの寝屋川一番街商店街に入ってみた。
駅ロータリーから外れていて閉まっている店も見受けられるが、道は京阪線の下をくぐり駅西側の
商店街にまっすぐ続いているのが見通せた。


西側にでてみると目の前に寝屋川が京阪線と平行して流れ、外島橋を渡ったところから
ベル大利という商店街が始まる。アーケードの入口が堤防上にあり下り坂から始まる構造は
放出駅前のみゆき通商店街と同じだ。


寝屋川は水辺を歩ける親水空間として整備され、流れる水も意外なほど澄んでいる。
第二寝屋川とはずいぶんイメージが違うな。。


案内地図を見ると、寝屋川のすぐ向こうにもう一本川が平行しているらしい。川があると
いうことは橋があるはず。しかし入口から覗き込んでもアーケードは途切れなく続いており
橋があるようには見えない。ちょっと見に行ってみるか。



入口の急坂を下りながら商店街を俯瞰してみるが橋などない。
地図にははっきり水色で塗ってあり暗渠でないはずだが、いったいどうなってるんだ?

・・・と、商店と商店の間を何気なく見ると、おやっ、建物の後ろに空間がある!?
絶え間ない通行人の目を気にしながら、路地とも犬走りともつかない細い隙間に一歩踏み出してみた。

うわっ、川だ。

道の反対側は階段がついていて公園に降りられるようになっている。


そしてそこから振り返ると・・


すごい!川の上に建物が建っている!ドブではなく公園まで整備された割合ちゃんとした川が、
商店街の下を貫通している。というか、何気ない顔して商店街が川の上に乗っかっている。


川沿いの公園には、三枚板(さんまいだ)と呼ばれた小さな川船のレプリカが展示されていた。
かつてこのあたりは井路が縦横に走り、稲や肥料の運搬にこのような川船が活躍していたとか。

この川は住宅密集地内を流れしかもちょっとややこしいことになっているのに、よく埋め立て
られなかったもんだ。しかしそのおかげで三枚板舟が井路を行き来する風景を、今もなんとなく
想像することができる。


散策に時間をとってしまったのでお昼は寝屋川駅構内のマクドでちゃちゃっと・・・
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守口の淀川左岸風景

2011-06-30 00:17:35 | 川・橋・船
京阪守口市の駅前には、もとの淀川左岸の堤防である「文禄堤」があることはだいぶ前に書いた。


守口警察へ行くのに京阪守口市駅で地図を見て、文禄堤上の京街道とカーブ具合も平行な、
一本北側の道を通ってみようと思いついた。北側とはすなわち堤の川側である。
川の名残が見られるかもしれない。


歩きだすと、堤の上から路地を抜けて降りてくる古い石段があった。

この細い階段は意外に人通りが多い。写真を撮ろうと携帯カメラを構えていると次から
次から人がやってくる。ビジネスマン、親子づれ、おじいちゃん、おばあちゃん、、、
決してバリアフリーでないこの階段を皆好んで通るのはなぜだろう。石段の魔力だろうか(笑)


こちらも古そうな木造住宅。堤の斜面に腰かけたような形で、3階建ての蔵もある。


この家の門は道路から5~60cmとずいぶん高いところにあって不思議な感じ。
今は実際に出入りはしていないのだろうが、門扉越しに覗くと建物の下部はレンガ造の
ようで、アーチ型の開口部が見えた。

まぁ古いと言っても淀川を改修した明治31~41年より前から建っていたわけでは
なかろう。しかし、流路変更で元の河床が廃河川敷となった後も、しばらくは水が残り
じめじめしていたであろうから、石を積んで少し高いところに家の基礎をおいたことは
理解できる。そしてその高さの基礎が今も残っているのであろうと想像する。


ちなみに守口警察へ行ったのは、出頭したわけではなく仕事である。念のため(笑)。



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大和高田駅にて。

2011-06-21 22:45:26 | 川・橋・船
吉野川分水をたどった日、実家からの帰りに大和高田駅まで車で送ってもらったが、急行の
時間まで15分ほどあったので駅前をうろついた。

駅の東側は高田のまちなかを貫く中央道路。前にも書いたが、くねくね曲がったこの道路は
旧高田川の廃川跡だ。その道を跨ぐようにホームが架かり、こちらから見ると高架駅である。


駅を出て右手の商店街の入口は急な坂であり、上って右に行くと駅のホームの裏を通って
高田川の土手道に出る。土手道の踏切は駅のすぐ西側にあり、こちらから見ると地上駅。

ふと気づいたのだがその手前が深い窪地になっている。
商店街に面した建物は裏を見るとさらに下の階があり、1Fと思っていたのは2Fなのだ。

商店街は旧高田川の自然堤防と見られ、流路変更で現高田川の堤防を築いたときに、
新旧の堤防にはさまれた元の地面が不自然な低地として残ったと思われる。
ちなみに、商店街は旧高田川左岸の土手、高砂湯のある道は右岸の土手になる。


駅のロータリーに面したテナントビルは1階の内装を撤去して自転車預かり所にしている
ところが多い。駅の2階に改札ができ、道路の向こう側、ユニチカ工場跡地のオークタウン
方面と直結したことで、商店街側エリアには厳しい状況がますます進んでいるようだ。


商店街の入口にあった「お好み焼き大軌」。近鉄が大軌と呼ばれていた頃からやって
いるんだろうか。高校3年間通っていたのに、今まで気づかなかったなぁ~。


この駅も十数年前に大改修され、桜の古木も伐られ印象がかなり変わってしまったが、
1階と2階に改札がある不自然さや、駅前のややこしい構造など、元の地形に
影響された部分は独特であり、そういうところに愛着や郷愁を感じるのである。


※一部、勘違いしていた部分があるので訂正記事を書きました。
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千本松渡し

2011-06-17 01:13:21 | 川・橋・船
阪堺線の恵美須町駅からのったチン電を東玉出で下りて友達と合流、津守のまちなかを
通り抜け、千本松渡船場へ向かう。
大阪の渡し船でまだ乗ってなかった唯一の船である。


一日で8ヶ所の渡し船を乗りつくすことも自転車なら容易だが、私は全部を一気に乗る
ことはあまりしない。乗りつぶしが目的でなく、あくまで周遊ルートの一部に組み込んで
交通機関として使いたいのだ。

さて津守の庶民的なまちなかにはやっぱり素敵なお風呂屋もあった。
大黒湯。


正面のタイル壁に男女二つ並んだドアはあまり大阪では見かけないタイプ。
2階の壁の散らしタイルもいいねぇ。

やってるのかな?やってるよね。開店は4時から。

渡船場の例にもれず、工場地帯の辺鄙なところを抜けていく。


めがね橋ともいわれる千本松大橋は両岸にぐるぐるらせん状のスロープがある。
船を通すために橋の桁下を高くする必要があったが、その取付道路を直線で取ろうと
すると遠くなりすぎるためだ。西側のらせんの中央部が野球のグラウンドになっている
のは面白いが、こちら側は撤去自転車の置き場と、大して面白くはない。
ちなみに木津川大橋は北側のみらせん構造になっていて、中央部は緑地である。


おお!広い。岸壁間230m。周囲を眺めると工場ばかり。
川の中に突き出すように造られた浮き桟橋に、びゅうびゅう風が吹き抜ける。寒っ!






船がこちらに戻ってきて、人がぞろぞろ降りてくる。結構利用者がいるものだ。
さぁ私たちも船に乗り込んだらすぐに出発。
こないだ乗った木津川渡しは橋を横目に見ながら渡ったがここでは橋の真下をくぐりぬける。
橋を斜めにクロスするが、高すぎるからだろう、あまりくぐった気がしない(笑)。
対岸のらせんが近付いてきた。


大阪の渡船、めでたく完乗!

ここから友達の希望の千島のブックオフへ行って、バスでなんばへ戻ってゴハンを食べて、
今日の周遊ルート完結!
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愛媛の旅 予讃線旧線、下灘と長浜大橋

2011-06-12 22:43:02 | 川・橋・船
八幡浜からの続き。


松山と並ぶ、今回の愛媛の旅のメインは伊予長浜にある長浜大橋である。他はルートを
考えながら言わば後付けしたのだ。長浜大橋は肱川(ひじかわ)に架かる現役の可動橋。

伊予長浜駅のある予讃線旧線は、地図で見ると内陸ルートとの間が中州状になっていて、
台湾の海線と似た感じ。開通時はメインルートだったのが1986(昭和61)年に
内子を通る新線が開通してからはすっかりローカル線の様相となり、今は各駅停車の
列車が上下線ほぼ1時間半に1本ずつ走るのみである。

松山へ戻る直前の、日没間際に伊予長浜を組み込んだ。伊予灘に面しているので
夕日も見れるかも知れない。1時間半あれば橋を渡ってまちも歩けるだろう。
・・・と、出発前日にyumeさんのブログを読んでいたら、下灘駅にも行きたくなった。
下灘駅は海に直接続いているようなホームの風景が人気なのは知っていたが、
駅舎も古くてかわいいようなのだ。
下灘は長浜の3つ先、先にちょろっと訪れて引き返しても長浜で1時間とれるな。。
というわけで急遽行くことにした。


海線(勝手にこう呼ぶ)は伊予長浜から向井原までほぼずっと海沿いを走るのに、なぜ
下灘だけが有名なのか?と疑問に思っていたのだが、実際乗ってみると確かに他の駅も
遠景は美しいが海岸から少し離れていたり木立があったりで、ホームからの見通しが
よくない。下灘駅に到着したらそのロケーションの完璧さを実感できた。

この日はちょっともやがかかっていて、牛乳を流したように、海と空の境界が全く
わからない。しかしかすかに明るい部分に、太陽が埋もれているのだ。


車で来たらしい何組かの先客がいた。皆この広々としたホームの風景に魅せられて
やって来て、思い思いに写真を撮っている。しかし、、、
その広々したホームのベンチで海を背負って、長いこと携帯で電話をしている人。
皆写真撮りたいんだよ、電話するなら横の方でしてくれないかな。ちょっと興ざめ。。


伊予長浜方面へ戻る列車が来た。



一度通り過ぎた伊予長浜駅。ホームが3つあり上屋もしっかりした少し大きな駅だ。


商店街を通り抜けて肱川河口まで約15分。赤い鉄橋が見えてきた!おお、あれだ!

去年テレビで肱川のことをやっていたのを見たのだが、この地の独特な地形のせいで
冬の日の朝、霧が肱川の川面を嵐のような速さで流れ海へ下る現象が起きるのだとか。
その映像で白い霧の中に赤い長浜大橋が浮かび上がっていた。季節的に肱川嵐は
見れないが、そんな幻想的な肱川に架かる可動橋を、是非見たかった。


見上げる高さの風格ある親柱には「昭和十年三月架設」とある。現役の道路可動橋
としては日本で最古だとか。説明板によると、施工は大阪の細野組。堀江にある、
あの細野ビルヂングの細野組である。

河原へ下りて全景を見よう。

うわぁ・・・・カッコイイなぁ!
東高洲橋と同じタイプの、バスキュール式と呼ばれる跳開橋。船が通るときには橋の
床の一部が跳ね上がって開く構造。今は橋が開くのは毎週日曜日と決まっていて、
それに合わせて来たかったのだが、スケジュールの都合上どうしてもかなわなかった。

歩いて跳開部分へ行ってみよう。

跳ね上がる部分の道路面は東高洲橋と同じく普通のアスファルトのようだが、
距離が長い分引き上げるのにより大きな力を必要とするからだろうか、上部構造は
背が高いし重りも大きい。またアームはラチス材となっているなど、東高洲橋よりも
さらに力強い。



意外なことに跳開部分以外の欄干のトラスはリベットでなくボルトナットだ。
後年改修されたのかもしれない。

日が沈み、橋にも灯りがともる。
まだしばらくこの幻想的な夕闇の中に佇んでいたかったが、列車の時間が迫ってくる。
肱川嵐を見にいつかもう一度来ようと心に決め、橋を後にした。


駅の近くの踏切の手前にひっそりとバッテン標識が。


ここにも引き込み線があったんだな。


さぁ長い一日だった。松山へ戻って道後温泉に入ろう。明日は松山近郊を歩く予定。


ちなみに、道後温泉に行ったら本館の券売場の前は長蛇の列!!GW恐るべし!
あきらめて椿の湯というスーパー銭湯みたいなお風呂で汗を流したのであった・・・

続く
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吉野川分水をたどる

2011-06-07 01:37:56 | 川・橋・船
毎年田植えの時期になると、いつもは干からび気味の用水路が生き返ったように
水を満々と湛え、学校では用水路に近づかないよう厳重注意が出される。。。
吉野川分水。奈良盆地に育った人々には毎年おなじみの風景だろう。
しかしこれがどこから来てるのか。またまた兄と母親と3人で、見に行ってきた。

兄の解説を聞きながら、まず樋野というところへ向かう。
吉野川分水は、雨が少なく大河川の少ない大和平野の農業用水をまかなうために、
吉野川から土地の高低差だけを利用して引かれた潅漑用水路(一部上水用も)。
途中で二手に分かれ、西部幹線は新庄~当麻町~香芝方面へ、東部幹線は天理~奈良
~大和郡山方面へ。幹線からそれぞれ網の目のような水路を通じて盆地のすみずみまで
水をを供給しているという。樋野の分水工はその東西幹線を分ける要所である。

少し手前で車を止めて歩いて行くと、ぱっと視界が開けた。うわぁ~!!


トンネルから出てきた青々とした水が、幅3mぐらいの水路内をすごい速さで流れる。


ザバザバと音を立てながら段差を滑り落ちる水は、水路の中央に配された分水工に自ら
体当たりしてそこで真っ二つに等分される。まるで水流を切り分けるナイフの刃だ!




東西二手に分かれた水流は水門をくぐり、一方は再びトンネルの中へ、もう一方は
しばらく暗渠として敷地内を流れたあと、崖の縁でなぜかスパッと途切れていた。
幅500mぐらいの谷を挟んでまた山が続いているが、下の集落に水路の続きは
見あたらない。サイホンで渡しているのだろうか。






直径が背丈ほどもある土管が積んである。この土管が山の中に埋められ水を通して
いるんだな。間違ってここで水路に落ちたら一巻の終わりだろうな。。


親子3人、分水工を堪能してハイテンションのまま車へ戻ろうとしたときに、、、
「おたくらどこから来はったん?」と控えめに声をかけてくるおっちゃんが。
上下作業服、ここを管理している人のようだ。私たちが興味津々写真を撮ったり
あれこれ言いながら隅々歩き回っているのを見ていたのだろう。
「橿原からです」「ほんまでっか?」「ほんとですよ、ここを見るために来たんです」
「うそですやろ?」「いやほんとに、この後下渕の取水口も見に行くんです」「へぇー」

私たちがここを目的にやって来たことをなかなか信じてもらえなかった(笑)。
しかしさっきから疑問に思っていたことをいろいろ聞く私たちに、おっちゃんは
やはりうれしいのだろう、親切に答えてくれた。
今は毎秒7.5トンの水を流していて、天候などによって水量を調整しているとか、
水を流さない時期に土管の取り替えやメンテナンスをするとか、西部幹線のこの先は
やはりサイホンで谷を渡しているとか、途中各所にストレーナーを設けてあり、
落ちて流されたら引っかかるようになっているとか、いろいろな疑問が一挙に氷解。
おっちゃんは分水を放流している期間ここの管理室に詰めているとのことで、
お話を聞けてとてもよかった。

学校の社会見学などは来るということだが、水の大切さを知ることができる格好の
施設であり、何と言っても水の迫力に興奮!!もっと注目されていいのに。
おっちゃんにお礼を言って樋野を後にし、下渕へ向かう。

途中水路が露出している部分があったので車を停めて見ていると、ストレーナーの
ゴミ回収車がやってきた。見ていると、ボタン一つでストレーナーを櫛で梳かすように
して引っかかったゴミを回収できるようになっている。ほほぅ、すごい。
ちょうどいいタイミングで面白い作業を見れた。




下渕の取水口は、正しくは「下渕頭首工」というらしい。吉野川に堰を設け、流れの
一部を引きこんでいる。
しかしここで水を取ることによって今度は下流の紀ノ川流域で水量が不足するため、
熊野川水系の十津川から水をまた吉野川へ引いてくるためのダムと分水も
併せて造られたという。すごい話である。





琵琶湖疎水や中島大水道にも負けない偉大な吉野川分水、奈良県人はもっと誇ろう!



※この日カメラを実家へ持っていくのを忘れ、痛恨。。。携帯カメラの写真である。
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木場の風景

2011-06-04 01:03:03 | 川・橋・船
ノートPCで無事接続。


ニュートラムに乗って平林駅にさしかかると車窓から見える広々した水面。
これは海でなく、陸地を掘って造られた貯木場である。
こないだ仕事中にこの風景を久々に見て気になっていたので、ちょっと見に出かけた。

字の通り木を貯めておく所であるが、木というのは使う前に何年も乾燥させねばならず、
丸太のまま水に漬けておくと製材して乾燥させるときに反りや割れが出にくくなるという
効果があるらしい。
今はもう材木が浮かんではおらず、並んだ杭は朽ちかけ岸近くにはゴミが吹き溜まっている。


平林は住之江区の陸地の末端部で、駅を出るとニュートラムの下を走る道路は
殺伐としている。西へ歩いて行くと、道路の両側に水面が広がった。


江戸時代には今の大阪都心部の枝川にあった材木市場が市街化とともに徐々に郊外へ移転し、
この平林の貯木場は、戦後の復興計画の中で高潮対策事業・大正内港の整備と併せて
大正区内に散在していた貯木場を整理・集約して近代化整備されたもの。
港や池を掘削した土砂を使って臨港地区の盛土をしたのである。

2号貯木池をぐるっと回り込んで歩いた。休日の昼間、広い道路に人の気配はほとんどない。
池はそれぞれ細い水路で川とつながっていて、その水路を渡る橋がかかっている。
橋の上から水路を見下ろすと、ドクドクと水が流れていた。満ち潮で海水が流れ込んで
きているのだろう。


正平橋を渡って、川の北側へ行ってみる。この川は住吉川である。
こちら側の4号貯木池は、地図で見ると池の中に島があるようだ。池の真ん中の道を
是非通ってみたい!と思うのが人情というもの(笑)。
いざ歩いてみるとそこは島という感じではなく普通の陸地で、左右の池をつなぐ細い
水路が渡っているだけだった。
・・・・おや?水路部分からトラックが出入りしている?ガードマンのおっちゃんがいた。
「池を埋めてるんですか!?」「そうです。」「えっ、ここだけですか?」
「他もでしょうね、もう使ってないからねぇ」・・・・そうなのか、この風景も
変わってゆくのか。動揺して工事中の部分の写真を取り忘れた。。。


4号池は中央に道路が通っていたり複雑な形をしていて、沿岸に緑が多い。
水際ぎりぎりに建つ建物の脇に生えた樹木は、広々とした水面の上に枝を伸ばす。
なんだか懐かしいような水辺の風景。


今はどの池にも木くずしか浮かんでいないが、太い丸太がわずかに浮かんでいるのを
見た記憶があるのは思い違いだろうか。大学時代以降だから十数年前のはずだが・・・


大阪ではここにしかない木場の風景。それももう少ししたら大きく変わるかもしれない。


曇り空から雨がポツポツ降ってきた。平林駅に戻るのも遠い。
予定通り、だだっ広く殺伐とした工場地帯の先端にある木津川渡船場へ、小走りで向かった。
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木津川渡し

2011-05-23 01:07:46 | 川・橋・船
大阪市内の8つの渡船のうち、まだ乗っていなかったのは2つ。そのうちの1つがこの木津川渡し。
GW中に乗ってきた。

渡船は、船の通行に障害を来たすため橋を架けられない河口地帯において、橋に代わる道路の一部
という位置づけなので無料である。
木津川渡船は厳密に言うと他の7つとは違っていて、唯一大阪市港湾局の管理である。
他は建設局の管理。ここはもう川でなく海ということか。住之江区側から乗る。


明治40年に大阪市内のすべての渡船が市営となり、大正10年に無料となった。
土木局(建設局の前身)と港湾局の所管の渡船が混在していたのを、昭和15年にすべて土木局の
一括運営となったが、港湾局所管の木津川渡船はその後昭和30年に新設されたのだとか。


巨大な木津川大橋の下、中山製鋼所の工場風景も楽しめる路線だ。川幅も広く、確かにここは
川と言うより海の風景である。


技術の進歩により橋が架けられても、あんなところを歩行者や自転車が渡れるはずもない。
3年前の夏に行った富山の伏木の「如意の渡し」は、去年の秋に行ったら、頭上に伏木万葉大橋が
完成したからというので廃止されていた。仕方ないのでその巨大な橋を歩いて渡ったのだが、
取付道路が長い長い!橋の上は吹き荒れる強風と戦いながら車の横を歩き、対岸での到着点は
元の渡船場から何百mも離れたところで、万葉線の駅まで延々歩かねばならなかった。
渡船なら5分で渡れたところを、20分以上かかってへとへとになってようやくたどり着いた。

橋は車道であり、渡船は歩道である。橋の架設が渡船の廃止の理由にはならないと思う。

雨がいっぱい降ってきた!!走って中船町のバス停へ。ここから帰るときに、あの鳥かご
見つけたのだった。


<他の渡船の記事>
天保山渡し落合上の渡し、落合下の渡し、甚兵衛渡し、船町渡し千歳渡し
※甚兵衛と落合下は書きそびれ

千本松渡しだけまだ乗っていない。またの機会に乗りに行こう。
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防領橋の欄干

2011-02-24 22:58:17 | 川・橋・船
南茨木の駅から歩いて現場を見に行った帰り、違う道を通って駅に戻る。
その途中で出会った、この大して特徴のない橋。
「防領橋」という一風変わった名前に何かいわれがありそうだなと
思って足を止めたのだが、、、

おや、欄干に何かのマークが??

あっ、よく見ると○の中に文字が入っているんだ。





沢、良、宜、東。ここの町名か。
昭和41年1月架設。この頃はまだ手作りの遊び心があったんだなぁ。
おもわず微笑みが漏れる橋であった。

p.s.帰ってから地図を見ると、この場所は「沢良宜東」町ではなかった。
  美沢町と東奈良2丁目3丁目の境であるが、昔はここも沢良宜東町
  だったのか?手元の昭和53年の地図を見ても町名は今と同じである。
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堀のある市役所

2011-01-15 15:51:57 | 川・橋・船
近鉄郡山駅で降りて、郡山城の石垣を間近に見ながら大和郡山市役所へ向かう。
おや、橋?えらく古そうな橋があるな。



うわ、これは市役所へ入るための橋!?百寿橋と彫られた石の親柱はかなり年代物っぽい。
欄干には菱形の模様が。そしてこの池はお堀か?


濁った水面を覗き込むと、金魚ならぬ、コイがうじゃうじゃ寄ってきた。


市役所での用件が済んだあと、駅までまちなかの道を歩こう。
市役所の向かいのこのお店も古いなぁ!基礎部分に目がいく。切石を積んでいたり
丸石を並べたり、レンガ積みとかはよく目にするが、平たい石をこんなふうに目地を取って
積んで(細い石を張って?)あるのは珍しいんじゃないか。



太く力強い格子に比して細やかな意匠と感じられる。


百寿橋、帰って検索してみると報告書が出てきた。→こちら
市役所のある場所は柳沢氏15万石の城内に位置し、池は城の中堀だという。
橋は2代目で1936(昭和11)年竣工の鉄筋コンクリートアーチ橋。
民間人の寄付によるが、当時の郡山町にとって注目のプロジェクトとして美観を重視した
計画がなされたとか。なんと晴れがましい気分のアプローチだろう。
欄干のマークは、柳沢藩の紋所「郡山花菱」を図案化した大和郡山市章だ。
前身の郡山町の町章でもあったのだろうか。

大和郡山もまたゆっくり歩きに来たいな。
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みのり橋

2011-01-05 23:22:17 | 川・橋・船
あけましておめでとうございます。
昨年末は余裕がなくブログの更新ペースがとんでもなく遅くなって
いつもご覧頂いているみなさんには大変申し訳なく思っておりましたが、
今年はがんばってタイムリーにアップしていこうと思いますので、
またよろしくお願い致します。・・・・とか言いながら新年初ブログが5日かい!!


さて、どこへも出かけず実家でのんべんだらりと過ごしていた今年のお正月。
休み最終日の4日に、母と兄と共にちょっと気合いの入った犬の散歩に出かけた。
懐かしい小学校の通学路や田んぼの中のあぜ道を歩き、古い集落に入り込んだり小さな
沼の跡地を確かめたりしながら、道や町並みの変貌ぶりを語り合いつつ、畝傍山を目指す。

畝傍山のふもとにある「農業試験場」、ここは小学校の社会見学で必ず来ることになっている、
地元橿原市では昔からおなじみの施設。今は農業総合センターという名になっていた。
このあたり兄がお勧めの風景があるというのでついていくと・・・・・

さくら川という名の小さな川がゆるりと流れ、その堤にはなるほど桜の木が。
今は枝ばかりだが花の季節はさぞきれいだろう。・・・・・おや、あれは何!?

うわっ!うわうわっ!!なんじゃありゃ!?


すごい!!斜張橋のようなシルエット。こんなの見たことないよ~
しかしあれは石?コンクリート?モルタルの洗い出し仕上げか。しかしこの骨の繊細さは。


このなで肩の欄干を見て!!!欄干の端には親柱がないが、「昭和九年八月架設」の
古いプレートがついている。


中央の柱はこれも親柱と言うのだろうか、内側に付けられたプレートはやや新しいが
川側に向けられたプレートは丸みを帯び緑青が浮き、架設年のプレートと同じ昭和9年に
付けられたものと思われる。



みのり橋。なんと不思議な、素敵な橋。いや~興奮した。

これは農業試験場の敷地内にある橋なので、この施設ができたときに架けられたのだろうな。
・・・・と思って検索してみると、この農業試験場、1895(明治28)年に発足、
1923(大正12)年に現在地に移ってきたようだ。そんなに歴史ある施設だったのか。
今まで知らなかった。。。

あぁ~デジカメを持ってこなかったのがほんと悔やまれる。。。

このあと畝傍山の山頂まで上り、また家まで歩いて帰ったら約4時間。
ん~~筋肉痛~~~(汗)
コメント (8)
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