晴天の下、静かに柳を揺らす微風が初夏の香りを運ぶのを心地よく感じる中、ぼくは東京は浅草の川沿いの道を歩きながら、これから行く場所に心をはせる。
ぼくは葛西かずきよ。年は秋には十五になる。
髪は長くも短くもなく、顔は姉さんたちや周りの人たちの反応から見ると悪くはない、と思う。
背は五尺三寸でも細身のためにあまり強そうにも見えない。もう少し運動をして体を強くしろ、と父さんや兄さんにはいわれるけど、ぼくにはもっと魅力的なものがあるんだ。
そして今向かっている場所にはそれがある。
「それにしても、いつ見ても凄いなぁ」
ぼくは感嘆の声を上げる。
川沿いの道はやがて商家のお屋敷が建ち並ぶ地区へと入り、塀越しに立ち木や土蔵も目に留まるようになり、青々と茂る木々の葉や土蔵の白壁が青い空に映えて、より一層この界隈の豪奢な印象を強くさせる。
そして幾つかの通りを過ぎ、立派な門構えお屋敷の前で立ち止まる。
ここがどんな商いで財を成したのかはぼくは知らない。でもお屋敷の作りからその繁盛振りは伺えた。
かなりの広さを持つ敷地には二階建ての母屋に加えて、離れや土蔵が幾つもあり、木々や花が咲き誇る庭には鯉が泳ぐ池があり、そのすべてが丁寧に整えられて美しい姿で目を楽しませてくれる。
「おやボウズ、またきたのか? お嬢様ならいつものとこだよ」
ふいによく見かける年配の庭師のおじさんが気さくに声を投げてきた。その顔には笑みが浮かんでいる。
「ありがとうございます」
ぼくも笑顔で返す。それを見たおじさんは満足げに頷き自分の仕事に戻る。
もう何度か繰り返したやりとりだけど、お屋敷の人たちにぼくがくることは公認らしい。
だけど、お嬢様、なんていってるけど、あの人はぼくよりもずっと年上だし、それにぼくなんかどうせ相手にしないだろう。
あの人は憧れではあるけどそれ以上ではないし、なんていうか……
そんな複雑な感情が頭の中で踊ってたけど、白壁の土蔵を前にして、ぼくはまた声を漏らす。
見世蔵、というのだろうか。普通の蔵とは違い中で人が暮らしたりもできる作りの蔵なんだそうだ。
頑丈な作りの白壁は威風堂々としていて、扉は閉じられてはいるけど鍵はかけられてはいない。
扉を開くと軋みなく開き、中から心地よい香りが漂ってくる。
窓から差しこむ陽光の他は燭台の灯でほの暗く照らされた中は広く、奥の方は二段となり、段上にはあの人が……
「……いない?」
ぼくは視線を蔵の中に走らせる。確か庭師のおじさんはここにいるといったのに!
「クェ……」
可愛いとも苦しいともとれない悶絶の声が暗がりから聴こえ、とっさにそこを見ると、
「ひっ!」
思わず目に飛び込んだ光景にぼくは悲鳴を上げた。
蔵の隅の暗がりになにかがいる!
黒く細いたおやかな影は捻じれるように歪み、口と思しき場所からキラキラと輝くなにかを吐いている!
「だ、大丈夫ですか、お師匠様!」
恐怖よりも心配の声が出る。
「だ、大丈夫……だと思う」
苦しげだが凜とした女性の声で影が応える。でも、
「でも、そんな吐くなんて! だから飲み過ぎはよくないって!」
「誰が飲み過ぎだ! 人を蟒蛇みたいにいうな!」
駆け寄るぼくに支えられ、影、もといお師匠様はぼくを睨みつけて忌々しそうに呻く。
年は二十代半ば。ほっそりとした体には薄絹一枚をまとい、袖からは細く白い腕がのぞき、ぼくが貸す肩に力なくかけられる。
その面は繊細で目も鼻も顎もすべてが細く、顔にかかる肩までの艶やかな黒髪が、妖しいまでの美しさを醸し出していた。
こんな蔵生活にもかかわらず、口には紅が引かれ、髪ですら差しこむ光の中輝きを放つのを見ると、なぜこんな人がここにいるのだろう、と不思議に思う。
でもお師匠様はぼくの視線に気づくことなく、
「そもそも少しの酒で私が吐くわけないだろう。それより変な臭いがする。屋敷の外を少し調べて、なにか焚かれてないか見てきてくれ」
段上のいつもの場所まで連れていき座らせると、お師匠様は力なく告げる。
「はい」
一言返すとぼくは蔵をあとにした。
お師匠様のいった通り、なにかが焚かれた跡がお屋敷の外で見つかり、ぼくは即座に消した。
『微かなハッカ臭ともつかない臭い。こんなの近くじゃないとわからないのに、凄いな』
「用はすんだようだな」
蔵に戻るとさっきの姿とは打って変わり、段上で本と杯を片手にお師匠様がぼくを迎えた。
「でも凄いですね、あれに気づくなんて」
「なに、他の人より敏感なだけだよ」
笑みを浮かべてお師匠様は応える。
「それ、なんですか?」
「雨月物語。特に吉備津の釜と蛇性の婬なんて、読んでいてゾクゾクする」
さも楽しそうに話すお師匠様の顔を見て、その話を知ってるぼくは笑みを浮かべながらも心中穏やかざるものを感じていた。
「でも、ここにある本の数って凄いですね」
「そうだろ。集めるのは楽ではなかったよ」
ぼくの声にお師匠様は目を巡らし応えた。
蔵の中は蔵書でいっぱいだ。最近刊行された本から、赤本、青本、滑稽本などの古いものから、さらに古い時代の文献まで色々あり、とても巷ではお目にかかれない書物の数々が目的で、ぼくはここに通っているといっても過言じゃない。
「かずきよにはいつも世話になってる」
「いえ、お師匠様のためなら喜んで」
多少のお駄賃と引き換えに、ぼくはお師匠様の身の周りの整理整頓や買い物などを頼まれ、それが最近では日課ともなっていた。
もちろんここの出入りも許されてるし。
両親は繁盛している商家に通っているならといやな顔もしないが、それより不思議なのはぼくという存在の出入りを許しているこの商家だった。
最初は軽い好奇心からこの界隈を歩いていたが、二年前ここのご主人と思われる人に声をかけられ、倉に案内された。
『うちの子が是非会いたがっている』
それが第一声だったと思う。
そしてぼくはお師匠様とこの蔵の蔵書と出会った。
お師匠様があまりにも綺麗だったから、最初は娘ではないのかな、と思ったけど、変な関係じゃないようだし、どういう人なのか今でもよくわからない。
ただご主人もお師匠様もお屋敷の人もぼくには優しくしてくれるから、両親の許可をもらい通いはじめたんだ。
「かずきよは超人気作家、曲亭馬琴先生が書かれた南総里見八犬伝を知らんのか?」
お師匠様の驚嘆の声に苦笑いを浮かべるぼく。
そんななにげない日々がぼくには愛おしかった。
その日の黄昏時、お屋敷をあとにしようとしたぼくは、ふと違和感を感じた。
ぼくに注がれるなにか。周囲を見回す。
「!?」
突然僕と目が合う人がいる!
黒い外套と帽子、下は袴か゚。帽子を目深く被っているから顔はよくわからないが、体格は六尺はあり肩幅も広くかなりがっしりしてるから、たぶん男。
それに手に持っているものはなんだ? 刀?
まさか! そんな物を手にしてたらお巡りさんがただですますはずがない。
ぼくは凝視する男の視線を避けるように顔を背け、その場をあとにする。
後ろから襲われないだろうか? そう考えたけど、変に駆け出しても追いかけてくるかもしれないし、ただ振りかえらず歩くしか……
角を幾つか曲がる。そのたびに後をチラチラと見るけど、男の姿も気配もない。
ぼくが狙いじゃない? じゃああのお屋敷なのか?
薄気味悪い感触が湧きあがりその日は眠れなかった。
「それはきっと切り裂き魔だよ」
ぼくの話を聞いた級友の里画かながそう応えた。
里賀は今年同じ学級になった女の子だが、利発な美人としても最近学内で話題となりつつあった。
大きくも小さくもない体格だが、愛らしいたれ気味の大きな目と小ぶりな口元、そしておかっぱの黒髪にあう洋装を好んで着ているような女の子だ。
その里賀はなにかとぼくに話を持ちかけては色々尋ねてくるので、ぼくとしても悪い気持ちではないし、里賀はぼくの問いによく応えてくれる。
だから悩み事は里賀に話すのが最近では当たり前になっていた。
「切り裂き魔って、夕方から夜に出没するっていう?」
「そう、きっとそいつがそうだよ」
里賀の答えにぼくは少し考えこむ。
切り裂き魔事件。最近巷で話題となっている通り魔殺人事件だ。
被害者は老若男女かまわずで、手口は全身をバラバラに切り刻むという残忍さ。
そしてあの男も刀らしき物を持っていた。
「でもさぁ、あんな怪しいのがいたらすぐにお巡りさんが捕まえない?」
「凄腕なんじゃない? もしかしたらお巡りさんも殺されてるのかも」
里賀の答えには一理ある。あんなのが見咎められることなく歩けるはずがない。ならお巡りさんをことごとく……
「どちらにせよ、どこでその男を見たの?」
里賀のぼくを心配するような真剣な眼差し。ぼくはとっさに応えようとするが、ふとお師匠様のことが頭をよぎり、
「えっと……よくは覚えてないけど、商家が建ち並んでいたところだと思う」
歯切れの悪い返答をする。その様を見て里賀は大げさに肩を落とし、
「もうしっかりしてよ。でもかずきよくん、気をつけてね。あなただけの体じゃないんだから」
そういうと里賀はぼくの手を両手で握る。ぼくを心配する声と柔らかく温かい手を感触。
里賀にとってぼくって、なんなんだろう……
次の日も、その次の日も、お屋敷を訪れては違和感や視線を感じる。
それが日増しに強くなっていくようにも感じ、ぼくは次第に落ち着きをなくしていった。
「なにか悩みでもあるのか?」
その様子はお師匠様にもわかったようで、心配げに声をかけてきた。
ぼくは男のこと、そして里賀が話したことや最近巷で起きてる切り裂き魔のことを話すと、
「切り裂き魔か。妙だな」
「なにがです?」
「男が手にしていたものは刀らしき物だったのだろう?」
「はい」
「そして斬殺死体はバラバラに切り刻まれていた」
「そのようですね」
「刀だけでそれは可能か? 仮にできたとして、連続でやるには刀がどれほど必要になる?」
「考えてみれば……」
お師匠様の問いかけにぼくは違和感を感じた。たしかに刀一本で何人も切り刻むのは難しい。
切るだけならまだしも、全身バラバラにしてれば必ず刃こぼれもするし刀自体がダメにもなる。
「そもそもそれは人の仕業か?」
「は?」
お師匠様のふと漏れた一言にぼくは聞き返す。
「人じゃなければ熊ですか? ここに熊でも出ると」
「熊ではないよ。もっとこう、違う」
言いよどむお師匠様の苦笑い。
「魔物か?」
突然男の声が蔵の中に響く! だが今まで暗がりだと思っていた蔵の中が、青白く輝いている?
「碧力結界……」
お師匠様が当たり前のようにつぶやく。
「ど、どうなってるんですか、これ? 変ですよ!」
「落ち着いて。これは碧力結界といって、退魔師が戦う空間を確保する特殊な技なの。私から離れないで」
落ち着いたお師匠様の声。だが男の声はさらに、
「魔物風情が人様に落ち着けとか、いい度胸だな。切り裂き魔事件が妙だと思ったから、魔物の嫌う香や張りこみで色々目星をつけてきたが、当たりのようだな」
「魔物風情というけど、今のあなたよりは余程強いけど」
「はぁ?」
お師匠様の声に男が素っ頓狂な声を上げ、
「ふ、ふざけるな! こっちだって退魔師だ! お前たち魔物を狩り、この世界より放逐してこその平和だ! そのために俺たちは日々だなぁ」
「それは知ってる。けど退魔師ではなくあなたに致命的な欠陥があるんだ」
「な・ん・だ・とぉ!」
退魔師と呼ばれた男は怒気も顕わにそういい放つと、
「許さねぇぇぇぇぇぇ!」
次の瞬間、突如空間より男が現れお師匠様に刀を振り下ろした!
が……
「ぐぅえぇぇぇぇぇ!?」
軽く触れたお師匠様の手が男を壁際まで弾き飛ばす!
男は金色のキラキラしたものを口から吐きながら、満身創痍の有様で立ち上がり、
「な、殴ったね!」
「刀を振ってきたやつを殴ってなぜ悪い!」
男の言葉にお師匠様が当然という態度でいい返す。
「くっぅぅぅそがぁぁぁぁぁぁ!」
男は息を整えると刀を構え直し、力を溜め……跳ぶ!
だが……
「ぐわぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
ぼくやお師匠様の居る場所に辿りつく前に男は弾き飛ばされた!
盛大な壁に叩きつけられ転がるように崩れ落ちる男。
しかし次の瞬間頬に手をやり、
「に、二度もぶったね! おやじ様にも殴られたことないのに!」
涙目でそう訴える姿は、敵というにはあまりにも……
「私じゃないし、誰もぶってない。帽子をよく見て」
「へ?」
お師匠様のあきれた声に男は帽子を脱いでじっと見つめる。
そのつばはなにかに切断された跡があり、さらにあちらこちらに切られた跡が見られた。
「な、なに、これ?」
素っ頓狂な男の声。
「気づかないの? あなたが碧力結界を張れたのは、この領域への鍵があったから。私が領域を展開している間は鍵のない許可なきものは入りこめない。そしてその鍵を渡したものはすでにこの領域に入りこんでいるという現実を」
事態を飲みこめない男の様子にお師匠様のイラついた声が青白い空間に響き渡る。
「そこにいるんでしょう。出てきなさいよ」
「ちぇっ、ばれちゃってたかぁ」
愛らしい声。なんだ、聞き覚えがある……
「もう、かずきよくんたらあたしがいながら、こんな人に夢中になるなんて、許せないんだから」
「里……賀?」
突如空間に歪みが生まれ、そこから人影が歩み出る。
その人を知っていた。
里賀かな。この状況下で満面の笑みを浮かべ、さらに手が、不気味な桃色に光る金属質の鋭利な鎧で覆われているようなものに変化しているという姿で。
「二年少し前かな、こっちにやってきたんだけど召喚した人が死んじゃって。帰るあてもないから適当に色々狩っては楽しんでたんだけど、最近は人間狩りに目覚めちゃって」
笑いながらさも楽しそうに物騒なことを話し続ける里賀。だがその脚が腕と同じような鎧に覆われていく。
「獲物になる人間って誰彼かまわずじゃなくってぇ、実は魔性の縁がありそうな人だけを狙ってたの」
里賀の体を鋭利な鎧が覆いはじめ、すでに胸さえも奇怪な鎧姿へと変わっている。
「かずきよくん、魔性の縁って知ってる? 魔物とあんなことすると子供ができたりもするけど、そのためには魔性の縁が必要になるの」
愛らしい声と無邪気な笑顔を浮かべた里賀の顔が無表情な鎧で覆われていく。
「だから、その人たちだけ切り刻んできたの。むしろこの世界で魔物が増えないように協力して上げたんだから、感謝してよ、退魔士くん」
全身を鋭利な鎧姿で覆われた里賀、いや、里賀だったものが、里賀の言葉に怒りを滾らせる退魔師に向かって、まるで感謝の言葉をおねだりするような愛らしさで言葉を放つ。
「ふ……ふざけるな! お前がやったのはただの人殺しだ! それだって魔物がいなければ魔性の縁なんて!」
「うるさい」
退魔師の怒声を里賀だった魔物は片手を上げて制する。
「退魔師だろうがなんだろうが、魔物があたし一人だけになれば、邪魔するものなんていなくなる。だから下手に魔物が増えられても困るし、退魔師は元々敵だから、あんたはサクッとここでやるから」
冷酷な言葉手言い放つと腕を振るう。
凄まじい風が起こり、凶器ともいえる風圧が退魔師を襲った!
「くっ!」
その凶風を巧みな体術で紙一重でかわす退魔師!
「避けるのは巧いねぇ。でもそう何回もできるかなぁ?」
嬉々とした声を上げ一方的な殺戮を楽しむ気の里賀がさらに凶風をくりだし、傷つきながらも避ける退魔師!
だが……
「お楽しみ中悪いけど、ここをどこだと思ってるの? 私の蔵なんだけど」
蚊帳の外に追いやられたお師匠様が声を上げる。
「つまりあんたは魔物は自分だけでいい、と」
「そうだよ。あんたもこいつをやったら、やる」
「あと、どうやってここへ入る鍵を手に入れたの?」
お師匠様が落ち着いた声で問いただすと、里賀だった魔物は嬉々としながら、
「そりゃぁ、あんたが好きで傍に置いてるかずきよくんの手を握ってね、鍵の刻印を解除しちゃえば、かずきよのいる場所ならあたしや他の人もどこにでも入れちゃうに決まってるじゃん!」
「つまり、かずきよを利用した、と考えていいのかな?」
「当ったり前でしょ。人間なんて弱小種族、あたしたちのご飯か利用物でしか……」
なにかを察してか得意満面で話していた里賀の動きがいきなり止まる。
里賀の視線がお師匠様に注がれているので、恐る恐るお師匠様を見るとその顔を俯き強張り、さらに低い声で、
「かずきよ、退魔師のところに行って、早く。あと退魔士、かずきよにもしものことがあったらお前も殺す。あと、碧力結界は事が終わるまで死んでも張り続けろ」
冷静を通り声冷徹な響きさえ感じさせるお師匠様の声。
ただならぬ気配に、ぼくは退魔師のところに駆け寄り、退魔師もぼくを抱きかかえ、死守する構えを見せる。
「これで、解放できる……」
「解放って、なにを……」
お師匠様の声に戦くように後ずさる里賀。
「同族だと思っていたが、お前は……お前だけは……許さん……」
お師匠様の体が輝きはじめ、周囲を激しい稲光が走りはじめる!
「な、なに、これ? あんた、誰!?」
状況が飲みこめない里賀。だがお師匠様の光と雷は激しさを増し、やがて!
「雷獣……」
退魔士の口からその名が漏れる。
光が薄れそこに立っていたのは、身のため2m体長5mを超える青白き輝きと雷光を放つ獣。
「あ、あんたが魔物?」
里賀の声に雷獣は方向を上げ、里賀の周囲に雷を降り注ぐ!
「馬鹿な! こんなのがいるなんて!」
降り注ぐ雷をかわしながら、里賀だった魔物はすさまじい速度で雷獣に迫る!
急接近した里賀は、刃物の如き鋭利な腕を雷獣の頭に振り下ろした刹那!
「!?」
雷獣は電光の如き軌跡とともに消え、突如里賀を頭上から踏みつける。
「!!」
激しく床にたたきつけられる里賀! だが次の瞬間には体勢を立て直し、再度攻撃に移る!
だがそのことごとくが交わされ、里賀には焦りと消耗が見えはじめた。
「絶対に俺から離れるなよ! あんな奴らの戦いに巻きこまれたら、お前なんか一発だぞ!」
退魔師がぼくを守る態勢をとりながら、声を潜めてい放つ。この人も必死なんだ。
「でも、こんなに暴れたら建物もなにもボロボロじゃぁ……」
戦いの中、散乱し破壊される書物や文物を見て、ぼくは悲痛の声を上げる。
「安心しろ。碧力結界はこの結界内でしか被害は出ない。結界を解いたら元のままで被害はなかったことになる」
自分の命よりも書物や文物の心配をするぼくの言葉に、苦笑いを浮かべ退魔師は応える。
「まずはお前のお師匠様が勝つことを祈るしかない。俺には……どうにもできん」
その言葉を口にする退魔師の顔には苦いものが感じられた。
「こんな化け物、相手にできるか! あたしは逃げる!」
里賀が大声で喚いた! そこにはすでにあちらこちらが雷で弾け、あるいは焦げ、満身創痍の体を晒している。
「まずは退魔士! お前をやれば結界が!!」
里賀が鬼気迫る声でぼくたちの方に急接近する姿が見える。お師匠様は動かない。
里賀が腕を振り上げる姿が目に焼きつき、
「グッ! ギャァァァァァァァァァァァァ!!」
凄まじい雷光の輝きが里賀に降り注いだ姿が目に焼きつく! 時間も経たず体のあちらこちらが弾け、光の粒子となり消えていく里賀。
「!!!」
ただ里賀の鎧で覆われた無表情の顔が、ぼくの方を凝視していた姿が脳裏に刻まれた。
里賀がいっていた、人間はご飯か利用物、という言葉。
その言葉は本当だったのだろうか。
そしてその中にはぼくも入っていたのか?
もしそうなら、ぼくは……
光が薄れ、そして青白い世界も薄れ、いつもの蔵の中に戻っていた。退魔師がいったように、何一つ壊れていない、前のままだ。
「終わったな」
退魔士がぼくを守る姿勢をやめ、立ち上がる。
その視線が注がれる先には、いつものように段上で佇むお師匠様の姿があった。
何事もなかったように薄衣で呑気に佇む姿が。
「それで、まだやるのか?」
お師匠様の剣呑な声。しかし退魔師は軽く息を漏らし、
「俺ではかなわんよ。返り討ちにあうのがオチだろ」
「では見逃すのか?」
退魔士の言葉にお師匠様の落ち着いた声で返す。
「見逃す、というのがどういうことをいうのか俺にはわからんが、俺は世界の平和を乱す魔物を狩るのが役目だ。退魔師はそういうものだと考えている」
そして周囲を探り、らしきものを手に取り、
「これは切り裂き魔である魔物を倒した物的証拠、というものでもあるな。もちろんそれで魔物の事件がなくなったわけではないが、当座の事件は解決。退魔士としての仕事はこれで完了。問題ないだろ」
自分に言い聞かせるように言葉を連ねる退魔士の顔を見て、ぼくは微妙な表情を浮かべ、お師匠様は冷然とした言葉で、
「だからそれが退魔士として致命的な欠点だというのだ」
言葉はきついがその口元には笑みが浮かんでいる。
「商売替えした方がいいかね?」
「才能は認める。あれだけの技はそう使えるものではない。ただ……」
『甘い』
お師匠様と退魔士の言葉が被り笑みがこぼれる。
「じゃあ、体を大事にしろよ。元退魔士の如月」
労い声を背に如月と呼ばれた退魔士はその場を去った。
それから数か月が過ぎた。
学校では里賀が行方不明となったため、ぼくにまで聞きこみが入るほどだったが、切り裂き魔事件もあり、犠牲者の一人になったのでは、という扱いで終わった。
ぼくも里賀の最期の姿が脳裏に焼きついていたために、もしかしたら悲しい表情を浮かべていたのかもしれない。
ぼくは里賀のことを……
そんなことを思いながら、今日も川沿いのお屋敷へと頼まれた買い物をして急ぐ。
お師匠様がぼくをどう思っているのかはわからない。
ただ、お師匠様にも、そしてあのお屋敷の人たちにも、多分ぼくは特別なんだろう。
でもだから、ぼくはもう逃げだすことはできない。
逃げるという選択肢はぼくにはないんだろう。
でも逃げる必要もない。むしろ受け入れよう。
段上ではお師匠様がくつろいでいる。
「頼まれていた小泉八雲の“怪談”、買ってきました!」
ぼくの声にお師匠様は微笑む。これからもぼくたちの時間は続いていくんだ。
蔵ぼっこ日誌END
ぼくは葛西かずきよ。年は秋には十五になる。
髪は長くも短くもなく、顔は姉さんたちや周りの人たちの反応から見ると悪くはない、と思う。
背は五尺三寸でも細身のためにあまり強そうにも見えない。もう少し運動をして体を強くしろ、と父さんや兄さんにはいわれるけど、ぼくにはもっと魅力的なものがあるんだ。
そして今向かっている場所にはそれがある。
「それにしても、いつ見ても凄いなぁ」
ぼくは感嘆の声を上げる。
川沿いの道はやがて商家のお屋敷が建ち並ぶ地区へと入り、塀越しに立ち木や土蔵も目に留まるようになり、青々と茂る木々の葉や土蔵の白壁が青い空に映えて、より一層この界隈の豪奢な印象を強くさせる。
そして幾つかの通りを過ぎ、立派な門構えお屋敷の前で立ち止まる。
ここがどんな商いで財を成したのかはぼくは知らない。でもお屋敷の作りからその繁盛振りは伺えた。
かなりの広さを持つ敷地には二階建ての母屋に加えて、離れや土蔵が幾つもあり、木々や花が咲き誇る庭には鯉が泳ぐ池があり、そのすべてが丁寧に整えられて美しい姿で目を楽しませてくれる。
「おやボウズ、またきたのか? お嬢様ならいつものとこだよ」
ふいによく見かける年配の庭師のおじさんが気さくに声を投げてきた。その顔には笑みが浮かんでいる。
「ありがとうございます」
ぼくも笑顔で返す。それを見たおじさんは満足げに頷き自分の仕事に戻る。
もう何度か繰り返したやりとりだけど、お屋敷の人たちにぼくがくることは公認らしい。
だけど、お嬢様、なんていってるけど、あの人はぼくよりもずっと年上だし、それにぼくなんかどうせ相手にしないだろう。
あの人は憧れではあるけどそれ以上ではないし、なんていうか……
そんな複雑な感情が頭の中で踊ってたけど、白壁の土蔵を前にして、ぼくはまた声を漏らす。
見世蔵、というのだろうか。普通の蔵とは違い中で人が暮らしたりもできる作りの蔵なんだそうだ。
頑丈な作りの白壁は威風堂々としていて、扉は閉じられてはいるけど鍵はかけられてはいない。
扉を開くと軋みなく開き、中から心地よい香りが漂ってくる。
窓から差しこむ陽光の他は燭台の灯でほの暗く照らされた中は広く、奥の方は二段となり、段上にはあの人が……
「……いない?」
ぼくは視線を蔵の中に走らせる。確か庭師のおじさんはここにいるといったのに!
「クェ……」
可愛いとも苦しいともとれない悶絶の声が暗がりから聴こえ、とっさにそこを見ると、
「ひっ!」
思わず目に飛び込んだ光景にぼくは悲鳴を上げた。
蔵の隅の暗がりになにかがいる!
黒く細いたおやかな影は捻じれるように歪み、口と思しき場所からキラキラと輝くなにかを吐いている!
「だ、大丈夫ですか、お師匠様!」
恐怖よりも心配の声が出る。
「だ、大丈夫……だと思う」
苦しげだが凜とした女性の声で影が応える。でも、
「でも、そんな吐くなんて! だから飲み過ぎはよくないって!」
「誰が飲み過ぎだ! 人を蟒蛇みたいにいうな!」
駆け寄るぼくに支えられ、影、もといお師匠様はぼくを睨みつけて忌々しそうに呻く。
年は二十代半ば。ほっそりとした体には薄絹一枚をまとい、袖からは細く白い腕がのぞき、ぼくが貸す肩に力なくかけられる。
その面は繊細で目も鼻も顎もすべてが細く、顔にかかる肩までの艶やかな黒髪が、妖しいまでの美しさを醸し出していた。
こんな蔵生活にもかかわらず、口には紅が引かれ、髪ですら差しこむ光の中輝きを放つのを見ると、なぜこんな人がここにいるのだろう、と不思議に思う。
でもお師匠様はぼくの視線に気づくことなく、
「そもそも少しの酒で私が吐くわけないだろう。それより変な臭いがする。屋敷の外を少し調べて、なにか焚かれてないか見てきてくれ」
段上のいつもの場所まで連れていき座らせると、お師匠様は力なく告げる。
「はい」
一言返すとぼくは蔵をあとにした。
お師匠様のいった通り、なにかが焚かれた跡がお屋敷の外で見つかり、ぼくは即座に消した。
『微かなハッカ臭ともつかない臭い。こんなの近くじゃないとわからないのに、凄いな』
「用はすんだようだな」
蔵に戻るとさっきの姿とは打って変わり、段上で本と杯を片手にお師匠様がぼくを迎えた。
「でも凄いですね、あれに気づくなんて」
「なに、他の人より敏感なだけだよ」
笑みを浮かべてお師匠様は応える。
「それ、なんですか?」
「雨月物語。特に吉備津の釜と蛇性の婬なんて、読んでいてゾクゾクする」
さも楽しそうに話すお師匠様の顔を見て、その話を知ってるぼくは笑みを浮かべながらも心中穏やかざるものを感じていた。
「でも、ここにある本の数って凄いですね」
「そうだろ。集めるのは楽ではなかったよ」
ぼくの声にお師匠様は目を巡らし応えた。
蔵の中は蔵書でいっぱいだ。最近刊行された本から、赤本、青本、滑稽本などの古いものから、さらに古い時代の文献まで色々あり、とても巷ではお目にかかれない書物の数々が目的で、ぼくはここに通っているといっても過言じゃない。
「かずきよにはいつも世話になってる」
「いえ、お師匠様のためなら喜んで」
多少のお駄賃と引き換えに、ぼくはお師匠様の身の周りの整理整頓や買い物などを頼まれ、それが最近では日課ともなっていた。
もちろんここの出入りも許されてるし。
両親は繁盛している商家に通っているならといやな顔もしないが、それより不思議なのはぼくという存在の出入りを許しているこの商家だった。
最初は軽い好奇心からこの界隈を歩いていたが、二年前ここのご主人と思われる人に声をかけられ、倉に案内された。
『うちの子が是非会いたがっている』
それが第一声だったと思う。
そしてぼくはお師匠様とこの蔵の蔵書と出会った。
お師匠様があまりにも綺麗だったから、最初は娘ではないのかな、と思ったけど、変な関係じゃないようだし、どういう人なのか今でもよくわからない。
ただご主人もお師匠様もお屋敷の人もぼくには優しくしてくれるから、両親の許可をもらい通いはじめたんだ。
「かずきよは超人気作家、曲亭馬琴先生が書かれた南総里見八犬伝を知らんのか?」
お師匠様の驚嘆の声に苦笑いを浮かべるぼく。
そんななにげない日々がぼくには愛おしかった。
その日の黄昏時、お屋敷をあとにしようとしたぼくは、ふと違和感を感じた。
ぼくに注がれるなにか。周囲を見回す。
「!?」
突然僕と目が合う人がいる!
黒い外套と帽子、下は袴か゚。帽子を目深く被っているから顔はよくわからないが、体格は六尺はあり肩幅も広くかなりがっしりしてるから、たぶん男。
それに手に持っているものはなんだ? 刀?
まさか! そんな物を手にしてたらお巡りさんがただですますはずがない。
ぼくは凝視する男の視線を避けるように顔を背け、その場をあとにする。
後ろから襲われないだろうか? そう考えたけど、変に駆け出しても追いかけてくるかもしれないし、ただ振りかえらず歩くしか……
角を幾つか曲がる。そのたびに後をチラチラと見るけど、男の姿も気配もない。
ぼくが狙いじゃない? じゃああのお屋敷なのか?
薄気味悪い感触が湧きあがりその日は眠れなかった。
「それはきっと切り裂き魔だよ」
ぼくの話を聞いた級友の里画かながそう応えた。
里賀は今年同じ学級になった女の子だが、利発な美人としても最近学内で話題となりつつあった。
大きくも小さくもない体格だが、愛らしいたれ気味の大きな目と小ぶりな口元、そしておかっぱの黒髪にあう洋装を好んで着ているような女の子だ。
その里賀はなにかとぼくに話を持ちかけては色々尋ねてくるので、ぼくとしても悪い気持ちではないし、里賀はぼくの問いによく応えてくれる。
だから悩み事は里賀に話すのが最近では当たり前になっていた。
「切り裂き魔って、夕方から夜に出没するっていう?」
「そう、きっとそいつがそうだよ」
里賀の答えにぼくは少し考えこむ。
切り裂き魔事件。最近巷で話題となっている通り魔殺人事件だ。
被害者は老若男女かまわずで、手口は全身をバラバラに切り刻むという残忍さ。
そしてあの男も刀らしき物を持っていた。
「でもさぁ、あんな怪しいのがいたらすぐにお巡りさんが捕まえない?」
「凄腕なんじゃない? もしかしたらお巡りさんも殺されてるのかも」
里賀の答えには一理ある。あんなのが見咎められることなく歩けるはずがない。ならお巡りさんをことごとく……
「どちらにせよ、どこでその男を見たの?」
里賀のぼくを心配するような真剣な眼差し。ぼくはとっさに応えようとするが、ふとお師匠様のことが頭をよぎり、
「えっと……よくは覚えてないけど、商家が建ち並んでいたところだと思う」
歯切れの悪い返答をする。その様を見て里賀は大げさに肩を落とし、
「もうしっかりしてよ。でもかずきよくん、気をつけてね。あなただけの体じゃないんだから」
そういうと里賀はぼくの手を両手で握る。ぼくを心配する声と柔らかく温かい手を感触。
里賀にとってぼくって、なんなんだろう……
次の日も、その次の日も、お屋敷を訪れては違和感や視線を感じる。
それが日増しに強くなっていくようにも感じ、ぼくは次第に落ち着きをなくしていった。
「なにか悩みでもあるのか?」
その様子はお師匠様にもわかったようで、心配げに声をかけてきた。
ぼくは男のこと、そして里賀が話したことや最近巷で起きてる切り裂き魔のことを話すと、
「切り裂き魔か。妙だな」
「なにがです?」
「男が手にしていたものは刀らしき物だったのだろう?」
「はい」
「そして斬殺死体はバラバラに切り刻まれていた」
「そのようですね」
「刀だけでそれは可能か? 仮にできたとして、連続でやるには刀がどれほど必要になる?」
「考えてみれば……」
お師匠様の問いかけにぼくは違和感を感じた。たしかに刀一本で何人も切り刻むのは難しい。
切るだけならまだしも、全身バラバラにしてれば必ず刃こぼれもするし刀自体がダメにもなる。
「そもそもそれは人の仕業か?」
「は?」
お師匠様のふと漏れた一言にぼくは聞き返す。
「人じゃなければ熊ですか? ここに熊でも出ると」
「熊ではないよ。もっとこう、違う」
言いよどむお師匠様の苦笑い。
「魔物か?」
突然男の声が蔵の中に響く! だが今まで暗がりだと思っていた蔵の中が、青白く輝いている?
「碧力結界……」
お師匠様が当たり前のようにつぶやく。
「ど、どうなってるんですか、これ? 変ですよ!」
「落ち着いて。これは碧力結界といって、退魔師が戦う空間を確保する特殊な技なの。私から離れないで」
落ち着いたお師匠様の声。だが男の声はさらに、
「魔物風情が人様に落ち着けとか、いい度胸だな。切り裂き魔事件が妙だと思ったから、魔物の嫌う香や張りこみで色々目星をつけてきたが、当たりのようだな」
「魔物風情というけど、今のあなたよりは余程強いけど」
「はぁ?」
お師匠様の声に男が素っ頓狂な声を上げ、
「ふ、ふざけるな! こっちだって退魔師だ! お前たち魔物を狩り、この世界より放逐してこその平和だ! そのために俺たちは日々だなぁ」
「それは知ってる。けど退魔師ではなくあなたに致命的な欠陥があるんだ」
「な・ん・だ・とぉ!」
退魔師と呼ばれた男は怒気も顕わにそういい放つと、
「許さねぇぇぇぇぇぇ!」
次の瞬間、突如空間より男が現れお師匠様に刀を振り下ろした!
が……
「ぐぅえぇぇぇぇぇ!?」
軽く触れたお師匠様の手が男を壁際まで弾き飛ばす!
男は金色のキラキラしたものを口から吐きながら、満身創痍の有様で立ち上がり、
「な、殴ったね!」
「刀を振ってきたやつを殴ってなぜ悪い!」
男の言葉にお師匠様が当然という態度でいい返す。
「くっぅぅぅそがぁぁぁぁぁぁ!」
男は息を整えると刀を構え直し、力を溜め……跳ぶ!
だが……
「ぐわぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
ぼくやお師匠様の居る場所に辿りつく前に男は弾き飛ばされた!
盛大な壁に叩きつけられ転がるように崩れ落ちる男。
しかし次の瞬間頬に手をやり、
「に、二度もぶったね! おやじ様にも殴られたことないのに!」
涙目でそう訴える姿は、敵というにはあまりにも……
「私じゃないし、誰もぶってない。帽子をよく見て」
「へ?」
お師匠様のあきれた声に男は帽子を脱いでじっと見つめる。
そのつばはなにかに切断された跡があり、さらにあちらこちらに切られた跡が見られた。
「な、なに、これ?」
素っ頓狂な男の声。
「気づかないの? あなたが碧力結界を張れたのは、この領域への鍵があったから。私が領域を展開している間は鍵のない許可なきものは入りこめない。そしてその鍵を渡したものはすでにこの領域に入りこんでいるという現実を」
事態を飲みこめない男の様子にお師匠様のイラついた声が青白い空間に響き渡る。
「そこにいるんでしょう。出てきなさいよ」
「ちぇっ、ばれちゃってたかぁ」
愛らしい声。なんだ、聞き覚えがある……
「もう、かずきよくんたらあたしがいながら、こんな人に夢中になるなんて、許せないんだから」
「里……賀?」
突如空間に歪みが生まれ、そこから人影が歩み出る。
その人を知っていた。
里賀かな。この状況下で満面の笑みを浮かべ、さらに手が、不気味な桃色に光る金属質の鋭利な鎧で覆われているようなものに変化しているという姿で。
「二年少し前かな、こっちにやってきたんだけど召喚した人が死んじゃって。帰るあてもないから適当に色々狩っては楽しんでたんだけど、最近は人間狩りに目覚めちゃって」
笑いながらさも楽しそうに物騒なことを話し続ける里賀。だがその脚が腕と同じような鎧に覆われていく。
「獲物になる人間って誰彼かまわずじゃなくってぇ、実は魔性の縁がありそうな人だけを狙ってたの」
里賀の体を鋭利な鎧が覆いはじめ、すでに胸さえも奇怪な鎧姿へと変わっている。
「かずきよくん、魔性の縁って知ってる? 魔物とあんなことすると子供ができたりもするけど、そのためには魔性の縁が必要になるの」
愛らしい声と無邪気な笑顔を浮かべた里賀の顔が無表情な鎧で覆われていく。
「だから、その人たちだけ切り刻んできたの。むしろこの世界で魔物が増えないように協力して上げたんだから、感謝してよ、退魔士くん」
全身を鋭利な鎧姿で覆われた里賀、いや、里賀だったものが、里賀の言葉に怒りを滾らせる退魔師に向かって、まるで感謝の言葉をおねだりするような愛らしさで言葉を放つ。
「ふ……ふざけるな! お前がやったのはただの人殺しだ! それだって魔物がいなければ魔性の縁なんて!」
「うるさい」
退魔師の怒声を里賀だった魔物は片手を上げて制する。
「退魔師だろうがなんだろうが、魔物があたし一人だけになれば、邪魔するものなんていなくなる。だから下手に魔物が増えられても困るし、退魔師は元々敵だから、あんたはサクッとここでやるから」
冷酷な言葉手言い放つと腕を振るう。
凄まじい風が起こり、凶器ともいえる風圧が退魔師を襲った!
「くっ!」
その凶風を巧みな体術で紙一重でかわす退魔師!
「避けるのは巧いねぇ。でもそう何回もできるかなぁ?」
嬉々とした声を上げ一方的な殺戮を楽しむ気の里賀がさらに凶風をくりだし、傷つきながらも避ける退魔師!
だが……
「お楽しみ中悪いけど、ここをどこだと思ってるの? 私の蔵なんだけど」
蚊帳の外に追いやられたお師匠様が声を上げる。
「つまりあんたは魔物は自分だけでいい、と」
「そうだよ。あんたもこいつをやったら、やる」
「あと、どうやってここへ入る鍵を手に入れたの?」
お師匠様が落ち着いた声で問いただすと、里賀だった魔物は嬉々としながら、
「そりゃぁ、あんたが好きで傍に置いてるかずきよくんの手を握ってね、鍵の刻印を解除しちゃえば、かずきよのいる場所ならあたしや他の人もどこにでも入れちゃうに決まってるじゃん!」
「つまり、かずきよを利用した、と考えていいのかな?」
「当ったり前でしょ。人間なんて弱小種族、あたしたちのご飯か利用物でしか……」
なにかを察してか得意満面で話していた里賀の動きがいきなり止まる。
里賀の視線がお師匠様に注がれているので、恐る恐るお師匠様を見るとその顔を俯き強張り、さらに低い声で、
「かずきよ、退魔師のところに行って、早く。あと退魔士、かずきよにもしものことがあったらお前も殺す。あと、碧力結界は事が終わるまで死んでも張り続けろ」
冷静を通り声冷徹な響きさえ感じさせるお師匠様の声。
ただならぬ気配に、ぼくは退魔師のところに駆け寄り、退魔師もぼくを抱きかかえ、死守する構えを見せる。
「これで、解放できる……」
「解放って、なにを……」
お師匠様の声に戦くように後ずさる里賀。
「同族だと思っていたが、お前は……お前だけは……許さん……」
お師匠様の体が輝きはじめ、周囲を激しい稲光が走りはじめる!
「な、なに、これ? あんた、誰!?」
状況が飲みこめない里賀。だがお師匠様の光と雷は激しさを増し、やがて!
「雷獣……」
退魔士の口からその名が漏れる。
光が薄れそこに立っていたのは、身のため2m体長5mを超える青白き輝きと雷光を放つ獣。
「あ、あんたが魔物?」
里賀の声に雷獣は方向を上げ、里賀の周囲に雷を降り注ぐ!
「馬鹿な! こんなのがいるなんて!」
降り注ぐ雷をかわしながら、里賀だった魔物はすさまじい速度で雷獣に迫る!
急接近した里賀は、刃物の如き鋭利な腕を雷獣の頭に振り下ろした刹那!
「!?」
雷獣は電光の如き軌跡とともに消え、突如里賀を頭上から踏みつける。
「!!」
激しく床にたたきつけられる里賀! だが次の瞬間には体勢を立て直し、再度攻撃に移る!
だがそのことごとくが交わされ、里賀には焦りと消耗が見えはじめた。
「絶対に俺から離れるなよ! あんな奴らの戦いに巻きこまれたら、お前なんか一発だぞ!」
退魔師がぼくを守る態勢をとりながら、声を潜めてい放つ。この人も必死なんだ。
「でも、こんなに暴れたら建物もなにもボロボロじゃぁ……」
戦いの中、散乱し破壊される書物や文物を見て、ぼくは悲痛の声を上げる。
「安心しろ。碧力結界はこの結界内でしか被害は出ない。結界を解いたら元のままで被害はなかったことになる」
自分の命よりも書物や文物の心配をするぼくの言葉に、苦笑いを浮かべ退魔師は応える。
「まずはお前のお師匠様が勝つことを祈るしかない。俺には……どうにもできん」
その言葉を口にする退魔師の顔には苦いものが感じられた。
「こんな化け物、相手にできるか! あたしは逃げる!」
里賀が大声で喚いた! そこにはすでにあちらこちらが雷で弾け、あるいは焦げ、満身創痍の体を晒している。
「まずは退魔士! お前をやれば結界が!!」
里賀が鬼気迫る声でぼくたちの方に急接近する姿が見える。お師匠様は動かない。
里賀が腕を振り上げる姿が目に焼きつき、
「グッ! ギャァァァァァァァァァァァァ!!」
凄まじい雷光の輝きが里賀に降り注いだ姿が目に焼きつく! 時間も経たず体のあちらこちらが弾け、光の粒子となり消えていく里賀。
「!!!」
ただ里賀の鎧で覆われた無表情の顔が、ぼくの方を凝視していた姿が脳裏に刻まれた。
里賀がいっていた、人間はご飯か利用物、という言葉。
その言葉は本当だったのだろうか。
そしてその中にはぼくも入っていたのか?
もしそうなら、ぼくは……
光が薄れ、そして青白い世界も薄れ、いつもの蔵の中に戻っていた。退魔師がいったように、何一つ壊れていない、前のままだ。
「終わったな」
退魔士がぼくを守る姿勢をやめ、立ち上がる。
その視線が注がれる先には、いつものように段上で佇むお師匠様の姿があった。
何事もなかったように薄衣で呑気に佇む姿が。
「それで、まだやるのか?」
お師匠様の剣呑な声。しかし退魔師は軽く息を漏らし、
「俺ではかなわんよ。返り討ちにあうのがオチだろ」
「では見逃すのか?」
退魔士の言葉にお師匠様の落ち着いた声で返す。
「見逃す、というのがどういうことをいうのか俺にはわからんが、俺は世界の平和を乱す魔物を狩るのが役目だ。退魔師はそういうものだと考えている」
そして周囲を探り、らしきものを手に取り、
「これは切り裂き魔である魔物を倒した物的証拠、というものでもあるな。もちろんそれで魔物の事件がなくなったわけではないが、当座の事件は解決。退魔士としての仕事はこれで完了。問題ないだろ」
自分に言い聞かせるように言葉を連ねる退魔士の顔を見て、ぼくは微妙な表情を浮かべ、お師匠様は冷然とした言葉で、
「だからそれが退魔士として致命的な欠点だというのだ」
言葉はきついがその口元には笑みが浮かんでいる。
「商売替えした方がいいかね?」
「才能は認める。あれだけの技はそう使えるものではない。ただ……」
『甘い』
お師匠様と退魔士の言葉が被り笑みがこぼれる。
「じゃあ、体を大事にしろよ。元退魔士の如月」
労い声を背に如月と呼ばれた退魔士はその場を去った。
それから数か月が過ぎた。
学校では里賀が行方不明となったため、ぼくにまで聞きこみが入るほどだったが、切り裂き魔事件もあり、犠牲者の一人になったのでは、という扱いで終わった。
ぼくも里賀の最期の姿が脳裏に焼きついていたために、もしかしたら悲しい表情を浮かべていたのかもしれない。
ぼくは里賀のことを……
そんなことを思いながら、今日も川沿いのお屋敷へと頼まれた買い物をして急ぐ。
お師匠様がぼくをどう思っているのかはわからない。
ただ、お師匠様にも、そしてあのお屋敷の人たちにも、多分ぼくは特別なんだろう。
でもだから、ぼくはもう逃げだすことはできない。
逃げるという選択肢はぼくにはないんだろう。
でも逃げる必要もない。むしろ受け入れよう。
段上ではお師匠様がくつろいでいる。
「頼まれていた小泉八雲の“怪談”、買ってきました!」
ぼくの声にお師匠様は微笑む。これからもぼくたちの時間は続いていくんだ。
蔵ぼっこ日誌END