賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

就職のために祈り、神の御業を目の当たりにした

2020-07-11 23:15:38 | 信仰生活

   日本は実に良い国だと前から聞いていました。2015年4月に日本に渡り、そこは環境も良く、人々もとても礼儀正しく友好的だとわかると、日本で仕事を見つけて定住できればという思いが募りました。

   しかしそれから、日本で既に働いていた人から、外国人がそこで仕事を見つけるのはとても難しいが、不動産屋の資格が得られればもっと見つけやすくなると聞きました。そのため語学学校を卒業した後、就職と専門資格に重点を置いた経済学を迷わず専攻し、特に不動産屋の資格取得を専攻目標としました。しばらく勉強に励んだ末、ようやく試験に合格しました。

   就職の機会を増やすため、不動産業の免許以外にも様々な資格の試験を受け、私の履歴書の内容は更に充実しました。履歴書を見ながら、「不動産会社どころか、他の会社もこれだけの資格証書を見たら絶対雇ってくれるはずよ」と思いました。そう思うと最高の気分でした。

   自信満々に履歴書を数ヶ所の会社に送って求人に応募しましたが、意外にも手元に届いたのは却下通知の連続でした。愕然とし、「でもこんなに資格があって中国語が話せて、海外の企業で翻訳の協力もできるのよ。不動産会社なら、本物の不動産屋の資格者が必要じゃないの。どうして面接の機会もくれないのかしら」と思いました。ひどく気を落とし、「これだけの資格を取るのにもうこんなにがんばってきたのよ。それでも就職できなかったら、他にどんな方法があるの」と感じました。誰かにバケツ一杯の冷水を掛けられたような気分になり、今までの情熱がかなり冷めていきました。就職できるはずだという自信はやがてすっかりなくなりました。

   私が気づかないうちに、就職の絶好の時期は過ぎ去り、多くの会社では募集が止まり、外国人を必要とする会社はもっと減りました。それでも私は今までの努力を無駄にしたくなかったので、学校の先生たちに外国人を雇っている会社はないか聞きに行きましたが、就職先がなく、結局はとてもがっかりしました。まもなくして、うちのクラスで私ともう一人の留学生以外は全員就職したことを知って一層苛立ち、「このままで就職できるの。日本に居られるかしら」と将来のことを心配せずにはいられませんでした。

それから二週間ひたすら履歴書を送り続けましたが、何も起こりませんでした。この事態にはとても落胆して困惑し、「仕事が全然見つからなかったらどうしよう」と思いました。そのことを考えれば考えるほど不安になりました。その時、神のことを考え、急いで神の御前に出て祈り、私の不安な心を静めてこの逆境を乗り切らせてくださいと願いました。翌日、教会の姉妹の一人に会いに行き、自分の仕事探しのことで相談しました。私の話を聞いてから、彼女は神の御言葉の一節を読んでくれました。「大学で有利な学部を選択し、卒業後は満足できる職に就いて、人生の旅路の第一歩で成功を収める者もいる。様々な技能を学んで身に付けたが、自分に適した職や役職を得られず、ましてや経歴を積むなど問題外で、人生の旅路に就いてすぐに、何をしても挫折感を味わい、様々な問題に悩まされ、先行きが暗く、人生が不確かな者もいる。……自分の夢と直面する現実には常に差があり、物事が自分の思い通りになることは決して無い。そうした現実に直面するので、人間は決して満足することが無い。自分の暮らし向きや将来のために、考えられ得る限りの手を尽くし、大いに努力し、大いに犠牲を払って自らの運命を変えようとする人々もいる。しかし、自らの多大な努力により自分の夢や願望を叶えられたとしても、結局のところ自分の運命は変えられず、いかに根気強く努力したとしても、宿命により決められた物事は超越出来ない。能力や知能指数、意志の力の差異に関係なく、人間は運命において皆平等であり、偉大か取るに足りない人間か、背が高いか低いか、高貴か下賤かによる差別は無い。ある者が従事する職業、ある者の生業、ある者が生涯にわたって蓄える富は、その者の両親や才能、努力、野望によって決まるものではなく、創造主により予め定められている。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)

   姉妹はそれから次のように交流てくれました。「私たち人間の運命と将来は神が司り、采配しておられ、私たちがいつ就職できるかもすべてずっと前から神が予定されています。単に私たちがどれだけ働くかといった外界の要因で決まるのではありません。たとえば周りの人たちを見てください。勉強に励んでさまざまな修了証書を手にする人もいれば、留学する人もいますが、それでも卒業してからは無職のまま実家で暮らし、適職が見つからないことがあります。一方、学業の成績は平凡で教養は高くなくても、何らかの特別な能力があるため良い仕事が見つかる人もいれば、自営業者になる人さえいます。このことから、私たちの運命と将来は神が司り、采配しておられ、私たち次第ではないことがわかります。しかし、私たちは神の主権を認識しないため、たとえ神を信じていても、心から神に祈って頼ることも、仕事探しを神に任せることも、神の主権と采配に従うこともありません。むしろ自分には多くの資格と証書があり、中国語が話せて外国語を翻訳できるのだから、自分の知性と素質だけで良い仕事が見つかると思っています。それは神に反抗していないでしょうか。仕事探しの際に、壁にぶつかったり、挫折に遭ったりすると、私たちは神の御心を求めず、それどころか消極的になって失望し、苦悩に生き、その道を長くたどるほど心が迷います。実際には、このような状況が私たちに降りかかるのをお許しになるのも神であり、そこには神の厚意が一層強く存在します。神はこれらの挫折と失敗を用いて、私たちが自分を省みて知り、そのような状況で神の主権を経験して認識し、万事において神に頼ることを学び、神の支配と采配に従うように促しておられます。ですから仕事を探すときはより頻繁に神に祈って頼り、神の導きを求め、神が自分に采配されることは常に自分に丁度良いことであり、ただ落ち着いて受け入れればいいのだと信じなくてはなりません」

   私は姉妹の交わりを聞いた後、私たちがどのような職業にありつくかは神が予定しておられるのだと理解しました。それまでの私は神の主権を認識せず、むしろ自分は中国語が話せて日本語も少し話せるのだから、こんなに資格と証書があるのだから、仕事を見つけるのは楽勝だと常に信じていました。しかし結局のところ、長いこと努力しても面接の機会さえ与えられませんでした。壁にぶつかって挫折したときは意気消沈し、この苦痛の原因は、私が神の主権を認識しなかったこと以外にありませんでした。このことを悟ると解放感が大いに増しました。

   後で神の御言葉をもう一節読みました。「人は大半の時間を無意識の状態の中で過ごしています。神に頼るのが正しいのか、それとも自分に頼るのが正しいのかを知らないのです。そうして大半の時間、自分に頼ることを選び、また自分の周りの有利な環境や条件、自分にとって有利な周りの人や出来事や物事に頼ることを選びます。これが、人が最も得意とすることです。人が最も苦手とするのは、神に頼って神を仰ぐことです。なぜなら、神を仰ぐのはあまりに面倒だと感じているからです。そのような人は神を見ることも感じることもできず、そうするのは漠然としていて現実的でないと思います。ゆえに、人はこの課程において最低の成績を残し、そこへの入りもこの上なく浅いものになります。どのように神を仰ぐべきか、どのように神に頼るべきかを学ばなければ、神があなたに行なう働きも、神があなたに与える導きと啓きも見ることはありません。これらのことが見えなければ、『神は存在し、人の生活の一切を導く』という言葉に心の奥底で疑問符をつけ、句読点や感嘆符で終わらせることはありません。『神は人の生活の一切を導きますか』『神は人の心の奥底を観察しますか』などと質問するのはなぜですか。それは心から神に頼ることも、神を仰ぐこともしないからであって、ゆえに神への真の信仰を生み出すことができないのです。神への真の信仰を生み出せなければ、神が行なうあらゆることにいつまでも疑問符が残り、句読点で終わることはありません」(『キリストの言葉の記録』の「信者はまず世界の悪しき風潮を見通さなければならない」より)

 神の御言葉のことをじっくり考えたとき、私は自分が神を信じていながら、万事において神に頼って神を仰ぐことにも、神の働きを実際に体験することにも関心がなかったと悟りました。むしろ自分の知性と素質に頼って行動したため、神の主権の真の理解と認識がなく、自分の神への信仰がうわべのものに過ぎず、本物ではなかったのです。このことの理解に至ったとき、この状況が私に降りかかるのを神がお許しになったのには正に神の厚意がこめられていると悟りました。神はこの逆境を用いて、私が御前に戻り、自分を省みて知るようになさり、私が神に頼って神を仰ぐことを学び、この現状の中で神の働きを体験して神の主権を認識することで、神への真の信仰を得るようになさったのです。神の御心を理解すると、神への感謝に満たされました。仕事探しを神に任せて神に頼ろうという気持ちになり、仕事が見つかっても見つからなくても神の支配と采配に従おうと思いました。

   翌日、私はいつものようにネットで仕事を探し始め、留学生を雇っている不動産会社をたまたま見つけました。更に、場所が東京の都心で、決められた休暇があり、残業が基本的にない会社でした。この仕事なら教会の集会への参加と両立できます。私にとって丁度良い仕事でした。「神がこの仕事を用意してくださったのかしら。とにかく応募してみよう」と思いました。それでこの会社に履歴書を送り、思いがけないことに、数分後にその会社から面接への電話がありました。電話が終わった後、私はただ神に感謝するばかりで、神に仕事探しを任せ、神に頼ってその主権と采配に従う気持ちになったとき、神は本当に道を開いてくださったのだと悟りました。

   しかし、興奮しつつも再び不安になりました。私は子供の頃から内向的な性格だったので、人と話すのが苦手で、会話ではいつも苦労していました。以前面接があったときは、質問される可能性のある事柄のリストをいつも作って覚え、完全に準備ができたときだけ冷静に面接に臨むことができました。それでも自信のなさと神経質のせいで、いざ面接になると覚えたことをすぐに全部忘れてしまいました。今回の面接は急に入って来たので、私は何の準備もしていませんでした。その時、自分が心配と不安の状態にあることに気づいたため、急いで神の御前に出て祈り、神の導きを求めました。そしてこれらの御言葉が思い浮かんだのです。「この世における生活では、孤独ではない。人間には、神の配慮があり、神は人間と共にあり、人間は常に神をよりどころとすることができる。神は、神に付き従う者たち全てにとって、家族である。よりどころとすることのできる神の存在のため、人間は孤独になることも絶望することも一切なく……」(『言葉は肉において現れる』の「神の働き、神の性質、そして神自身 3」より)「そうだわ」と思いました。「神がすべてのものを支配し、管理され、毎日私たちの生活を導かれる。私たちの信実な後ろ盾と支えでいてくださる。私はこの面接に一人で行くけど、神が私とともにおられ、導いてくださるのだから、何を心配しているの。心から神に頼る限り、神は私を先の道へと手を引いて導いてくださる」その時、モーセがイスラエル人(びと)をエジプトから連れ出した聖書の話を思い出しました。神がモーセに呼びかけられたとき、モーセは言葉が出るのが遅く、話すのが苦手だと名言しましたが、そのことで心配したり、恐れたりはしませんでした。なぜなら、すべてが神の御手の中にあり、 神が自分の手を引いて導いてくださるとわかっていたからです。そのため自信を持って神からの使命を受け、神に頼ってイスラエル人(びと)を無事にエジプトから連れ出しました。このことを考えると、私の心の中に強さと自信が急に湧いて来ました。「神は私の後ろ盾と私の支えなのだから、神に頼って信仰に頼り、神の主権を経験して認識し、従わないといけない」と思いました。

   面接の前に、私は絶えず神に祈り、手を引いて先へ導いてくださいと願いました。神のおかげで、面接が始まったとき、私はあまり緊張しすぎず、面接官とうまく話せました。その日に早速面接官から合格の連絡があったので、二次面接のアポイントを取りました。

   帰り道で、私は神への賛歌を歌い、とても意気軒昂でした。心から神に頼り、神に目を向けるとき、神が御言葉を用いて手を引き、導いてくださり、すぐそばにおられることを実感させてくださることをこの体験から知りました。神に拠り頼んだとき、神について何の疑念もなく、信仰が高まりました。

   面接にはいくつか段階があり、二次面接に合格してからすぐに三次面接に案内されました。三次目の面接官は二人の部長であり、面接官の役職が毎回上がっているのに気づくと再び不安になりました。「今度の面接官は二人の部長で、きっとすごく条件が厳しいわ。うまくやらなかったら、この二人の一存で落とされて振り出しに戻ることになる。神に頼ることはできるけど、結局のところ、私は日本語があまり流暢じゃない。そんな私をわざわざ雇ってくれるかしら」そう思えば思うほど自信がなくなり、間違いなく落ちるだろうと感じました。

   面接の日が来ると、私はますます不安になり、まったく落ち着けませんでした。自分の状態がよくないことに気づいたので、急いで教会の姉妹にメッセージを送って悩みを伝えました。彼女はそこで神の御言葉の次の一節を送ってくれました。

   「神は人間の唯一の主であり、神は人間の運命の唯一の主である。したがって、人間にとって自分の運命を決定し、支配することは不可能である。その者の能力が如何に優れていても、その者は他人の運命に影響を与えられず、ましてや指揮したり、予定したり、制御したり変更することは出来ない。人間のすべてを支配するのは、唯一無二の神自身のみである。なぜなら、人間の運命に対する統治を担う唯一の権威があるのは神のみであり、したがって創造主は人間の唯一の主だからである」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)

 姉妹は次のように交わってくれました。「神は創造主であり、神だけが人間の運命の主(あるじ)です。神の権威は唯一ですから、どれだけ有能な者でも、どれだけ力強く、どれだけ地位が高い者でも神の主権を絶対に超えることはできません。実際のところ、面接に合格できるかどうかは、面接官にかかっているのではなく、神にかかっています。それでも私たちは権力と地位を持つ人に制約され、束縛されており、そのような人の決定を最高の権威とみなしています。このことから、私たちは心の中に神の居場所がなく、神の権威を認識しておらず、それだけが私たちの心配と恐れの原因だということがわかります。洁(ジエ)净(ジン)さん、神は創造主であり、万物は神の手の中にあると信じなければなりません。今日、私たちは実際に神の権威と御業を体験して感謝し、こうして体験すればするほど、神の御業を目の当たりにし、神への信仰が伸び続けます。そうして初めて神への真の信仰が私たちの中に生まれるのです」

   神の御言葉を読み、姉妹の交わりを聞くことで、私は心配も恐れもしなくなり、自分が自信をなくしたのは、心に神の居場所がなかったからに過ぎないと悟りました。また、神が私の運命を支配される者であり、私がその役職に選ばれるかどうかは神次第であり、どんな人にも決められるものではないことがわかりました。神を信頼し、支配と采配に従わなければならないことがわかったのです。そう思うと、すぐにこの上ない安心と安らぎを感じ、肩の上にのしかかっていた緊張が急に解けていきました。

   再び心の状態が正されてから、落ち着いて面接に行くことができました。面接では質問の意味が理解できないことも、日本語がすらすら出て来ないこともありましたが、合格するかどうかは神の御手にかかっており、自分はただ最善を尽くせばいいのだと心に留めておきました。その時、自分にはたどるべき道があるように感じ、もはや戸惑いも緊張もありませんでした。数日後、会社からメールで、三次面接も合格で、次は社長との面接があるという通知がありました。私は有頂天になりました。この体験により、神の御言葉の権威を実感しました。そして、神の御言葉に従って実践する限り、神の不思議な御業を目の当たりにできると知りました。

   次に、社長との面接がありました。私はまだ少し緊張していましたが、それまでの面接の経験を通して、神の不思議な御業を目の当たりにしており、神が私のそばにおられ、私を前進へと導いてくださっていることをすでに理解していました。そのため神に祈りを捧げました。「神よ。ご承知のように、私はあまり口がうまくなく、洞察力と勇気に欠けています。ありとあらゆる人、出来事、物事、状況の中で御働きと御言葉を体験できるように、信仰と力をくださるようにお願いします。すべてを御手の中にお任せします」そう祈ると徐々に落ち着きました。面接中もずっと心地よい気分で、身も心もかつてない解放感を味わいました。驚いたことに、面接が終わってたった数分後、人事部長から採用の内定と、給料は優遇するという連絡を受けました。この結果を見て、私はとても興奮し、目が涙であふれ、これはすべて神の不思議な御業だと悟りました。

   仕事を探し始めたときから今までのことを振り返り、神が信実であってすぐそばにおられ、施しと導きをくださっていることを実感しました。私たちは心から神に頼って仰ぎ、どんな人や出来事、物事や状況に出会っても神の働きと御言葉を体験する限り、神の不思議な御業を目の当たりにすることができます。神に感謝あれ。この仕事探しの経験において、私は良い仕事を得ただけではありません。更に大いなる収穫は、神の主権についての真の認識を得て、神への信仰が高まったことです。これからの人生の経験では、神がそばにおられ、御言葉の導きがあるのだから、どんなことにももっと勇気と自信を持って向き合えるだろうと信じています。


祈りの証言ー生死の瀬戸際で主イエス様の御恵みを授かりました

2020-07-10 23:12:10 | 信仰生活

   私の家族は経済的に苦しんでいました。もっと良い生活をしようと、私は長年一生懸命に働きました。私は過労が原因で様々な病気に罹りました:心臓病、高血圧、神経衰弱症、頸神経圧迫、過形成腰静脈の圧迫等。私は検査を受けに病院に行った時、医師から末期症状だと言われました。当時、私はこれらの病気に苦しみ一晩中寝れませんでした。私は本当に辛い痛みに苦しみました。自分の将来とこれだけの病を抱えていることを考えると、助かる道はないと感じずにはいられませんでした。

   私が痛みに苦しみ、無力感に駆られていた時、私の親戚が私に主イエス様の福音を伝導してくれました。当時、私は拠り所も当てもないまま海をさまようボートのようでしたが、主が救いの御手を差し伸べてくださりました。主が側に居てくださるおかげで、私はとても温かい気持ちになり、人生にうろたえることもなくなりました。私はまた生きる希望を手にしたのです。後に、私の容態も少し改善していきました。

   2007年5月のある朝、私は朝食を作りたくなりました。私は立ち上がったとたんに突然意識を失ってしまいました。私は急いで子供にこう言いました:「助けを読んできて。気分が悪いの⋯」私の子供は急いで助けを求めに行きました。その瞬間、私は自分の体が思い通りにならない感じがして、喋ることもできませんでした。しばらくした後、私の家族と近所の人たちが来て、急いで私を地元の病院に連れて行ってくれました。しかし、医師は私を病院に入院させてはくれず、私の夫に私の病は重篤過ぎて、治療ができないと伝えたのです。母と夫が泣いているのが聞こえました。彼らはすすり泣きながらこう言っていました:「彼女はまだ若いのにこんな深刻な病に罹ってしまうなんて。一体どうしたらいいんだろう?ああ、神様!どうか彼女を御救いください!」私はこれを聞いて少し混乱し、緊張しました。私はこう思いました:「私の病気は本当に治療不可能なの?私は本当に絶望的なの?

   ちょうどその時、私は主イエス様のこと、そして私の親戚が私に福音を伝導してくれた時に言ったことを思い出しました:「私たちが信仰する主イエス様は天と地、そして万物を創造なされた唯一なる真の神であられ、生命の与え手であられるのです。どのような危険に遭遇しようとも、主は私たちの拠り所であられるのです。」この御言葉について考えた後、私はそれほど動揺しなくなりました。私はこう考えました:「神が側に居てくだされば、私は死ぬことはないのです!」そして私は心の中で主にこう祈りを捧げました:「ああ、主なる神様。今日、私はあなたの憐みと御恵みのおかげであなたの前に来ることができました。私は重篤ではありますが、全てはあなたの御手にあると信じています。私は自分をあなたの支配に委ねたいと思います。私の生死はあなたによって決まるのです。」こう祈りを捧げた後、私の心は安定して平安を感じ、私は真の信仰を抱けているように感じました。次第に、私は頭がすっきりとし、体の痛みを感じられるようにもなったのですが、呼吸するのが困難で、それによって激しい腹痛と頭痛がして、息苦しくもなりました。私たちは直ぐに病院に到着しました。診断後、医師は私は大動脈疾患と重症高血圧を患っていると言いました。私が昏睡状態に陥ったのは頸神経の圧迫と神経血管の圧迫が原因でした。ある程度の治療を行った後、医師は私に点滴をしてくださり、更なる観察のために私を緊急治療室へと運んでくれました。その時、私は心の中で絶えず主に祈りを捧げました:「ああ、主なる神様!私はあなたの御導き、そして御加護のみが私を地獄の門から引き戻してくださるものと期待していました。」私はこう祈りを捧げて少しエネルギーを得た気分になりました。私は知らぬ内に普通に呼吸ができるようになっていました。痛みは大幅に収まり、私は眠りに落ちました。

   ある夜中、私は突然の鳴き声によって目が覚めました。私と同じ病で、私から反対外のベッドにいた患者が死んでしまったのです。彼が入院してわずか2日目の出来事でした。私は彼らの鳴き声を聞きながらこう思いました:「主の御気遣いと御加護がなければ、私たちは何時、何処で死ぬか分からないわ。私たちのいのちは本当にはかないものなのね。私も病気で入院しているけど、私はまだ生きている。これは主から私への御加護なのではないかしら?」私は主に心から感謝しました。そして、私は10日以上前に、私の近所に住んでいた隣人が同じ病を患っていたことを思い出しました。当時、彼は自ら歩いて救急車に入ることができていましたが、私は運ばれて入りました。しかし、彼は数日間病院で入院した後に亡くなってしまいました。これについて考えていると、私は自発的に主に祈りを捧げて感謝しました:「主なる神様、私は重篤でありながらも、あなたに対する確信と信頼を感じられています。私はあなたを信仰しているがために、あなたは常に側に居てくださり、私に信念をお与えくださり、私を強くしてくださっておられます。」

   そして3日目に奇跡が起こりました。私はまだ歩くことはできませんでしたが、話すことと、目を開けることができるようになったのです。私は地獄の門まで行ってしまいましたが、主の力強い御手が私を引き戻してくださったのだと知りました。4日目、私はまだ歩くことができませんでした。しかし、私たちには高額の医療費を支払う余裕がなかったので、私の家族は私を地元の病院へと転送しました。私は10日ほど治療を受けた後に退院することができました。私の親戚と近所の人たちが全員私の見舞いにきてくれました。彼ら全員が驚いてこう言いました:「あなたはひどく病気だったのに、半月で回復するなんて信じられない!」私は喜びながらこう言いました:「そうなんですよ!主なる神様が私を救ってくださったんですよ!これは全て主の御業、私が生き延びたのは本当に奇跡なんです!」

   この病に罹り、私は主の権威と素晴らしい御救いの働きを実際に体験したのです。主イエス様はこう仰っておられました:「よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。」 (マルコによる福音書 11:23)。主はこうとも仰りました:「また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう。」 (マタイによる福音書 21:22)。私は、この体験により、主は常に側で私に信念と力をお与え下さり、私が病に打ち勝てるよう支えてくださっておられたのだと理解しました。主は人々を救う光であられ、いのちが生き続ける基盤であられます。この体験は私が主を信仰して行く道に根を下ろしてくれました。私は死ぬまで主に従って行きます!主なる神様、有難うございました!


神は恵みの時代に人類を贖ったのに、なぜ終わりの日に神はまだ裁きの働きを行う必要があるのか

2020-07-08 23:37:08 | 天の国の福音

   「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14)

   「たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。」(ヨハネによる福音書 12:47-48)


   関連する神の言葉

   イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より

   当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じているならば、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。救われることは人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人はもう罪の中にはおらず、罪が赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないということである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より

   イエスがその働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識は依然として漠然として不明瞭だった。人は昔からイエスをダビデの子と信じ、偉大な預言者で人の罪を贖う情け深い主であると宣言した。信仰によって、イエスの衣の端を触っただけで癒された人々もいれば、盲人たちが見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的な性質が人に深く根づいているのが発見できず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉による平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、病人の癒しなど多くの恵みを受けた。残りは人による良い行いや外見上の信心深さであった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまず良い信者と思われたのである。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされた。それは彼らが救われたことを意味する。しかし、彼らはその生涯において、いのちの道を全く理解していなかった。彼らはただ罪を犯しては告白し、それを常に繰り返すのみで、性質が変えられる道へ進んでいる訳ではなかった。これが恵みの時代の人間の状態であった。人は完全な救いを得たのであろうか。いや、得なかった。だから、その段階の働きが終わってからも、依然として裁きと刑罰の働きが残っている。この段階は人に従う道を与えるように、言葉を通して人を清くする。もし悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。というのは、人の罪深い本性が捨てられることもないだろうし、人は罪が赦されるというところで行き詰まるだろうからである。罪のためのいけにえを通して、人は罪を赦されてきた。というのは十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に留まっており、人は依然として罪を犯し、神を拒むことができ、よって神はまだ人類を得ていない。だからこの段階の働きで神は言葉を用いて人の堕落した性質を示し、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもっと意味があり、もっと有益である。というのは、今、人に直接いのちを提供し、人の性質を完全に新しくできるのは言葉だからである。それはもっと徹底的な働きの段階である。だから、終わりの日の受肉は神の受肉の意義を完成し、人の救いのための神の経営計画を完全に終了したのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   あなたは終わりの日にイエスが降臨することだけは知っているが、正確にはどのように降臨するのだろうか。あなた方のように贖われたばかりで、まだ変えられておらず、神に完全にされてもいない罪人が、神の心に適うだろうか。古い自我を持ったままのあなたは、イエスによって救われたのは事実であり、神の救いのおかげで罪人とは見なされなくなったが、これは、あなたには罪や汚れがないという証拠ではない。変えられないままであれば、あなたはどうして聖いものとなれるのか。内側では、あなたは汚れに満ち、自分勝手で卑劣であるにもかかわらず、イエスと共に降臨することを望む――あなたはそこまで幸運ではない。あなたは神を信じる上での段階を一つ見落としている――あなたは単に罪から贖われただけで、変えられてはいないのである。あなたが神の心に適うためには、神が自らあなたを変えて清める働きをしなければならない。もしあなたが罪から贖われただけなら、聖さを得ることはできない。このように、あなたは、神が人を経営する働きの一段階、つまり変えられて完全にされるという重要な段階を逸したために、神の良き祝福を共有する資格はないであろう。よって、贖われたばかりの罪人であるあなたは、直接神の嗣業を受け継ぐことはできないのである。

『言葉は肉において現れる』の「呼び名と身分について」より

   人は贖われ罪を赦されたが、それはただ神が人の過ちを覚えず、過ちに応じて人を取り扱わないこととみなすことが出来る。しかし、肉に生きる人が罪から解放されていないと、人は堕落したサタン的な性質をどこまでも顕し続け、罪を犯し続けることしかできない。これが人の送る人生で、罪と赦しの終わりのないサイクルである。大多数の人は昼間罪を犯し、夜になると告白するだけである。そのように、たとえ罪のためのいけにえが人にとって永久に有効だとしても、人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人は堕落した性質を持ち続けているからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   人にとって、神の十字架は神の受肉の働きを終結させ、全人類を贖い、彼がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。実際は、神にとっては、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。彼は人類を贖っただけで、人類を征服しておらず、ましてや人の中のサタンの醜さ変えてはいない。そのため神は「受肉したわたしの肉は死の苦しみを経験したが、それはわたしの受肉の目標のすべてではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架に釘で打ち付けられたが、イエスはわたしの働きを完全には終了しなかった。その一部を行ったに過ぎない」と言う。したがって、神は受肉の働きを続行する計画の第二回目を開始した。神の最終的意図は、サタンの手から救われたすべての人を完全なものにし、神のものとすることであり、そのため、神は肉となるという危険を再び冒す準備をした。

『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(6)」より

   終わりの日の働きは言葉を語ることである。大きな変化が言葉を通して人にもたらされる。言葉を受け入れた人たちにもたらされた変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちにもたらされた変化よりもはるかに大きい。というのは、恵みの時代に、悪霊は按手と祈りによって人から立ち去ったが、堕落した性質は人の中に残ったままであった。病気が癒され、罪が赦されたが、人の中にある堕落したサタン的な性質から人がどのように浄化されるかということに関しては、この働きは人の中ではまだなされていなかったからである。人は信仰の故に救われ罪が赦されただけで、人の罪深い本性は取り去られず内面に残ったままであった。人の罪は神の受肉を通して赦されたが、それは人の中に罪がないという意味ではない。人の罪は罪のためのいけにえによって赦されることができたが、どうすれば人がもはや罪を犯さないようにし、その罪深い本性が完全に取り去られ変えられるかということに関しては、人にはこの問題を解決する方法はないのである。人の罪は神の十字架の働きの故に赦されたが、人は古い、堕落したサタン的な性質の中で生き続けてきた。そのため、人は堕落したサタン的な性質から完全に救われなければならない。そうすることで、人の罪深い本性が完全に取り除かれ、二度と芽生えなくなり、人の性質が変えられるのである。そのためには、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変えるための道を知らなくてはならない。また、人はこの道に沿って行動することが必要とされる。その結果、人の性質は次第に変わり、光の輝きの下で生きることができ、すべてを神の心に沿って行なうことができ、堕落したサタン的な性質を捨て去ることができ、サタンの暗闇の影響から解放されることができ、それにより罪から完全に抜け出ることができる。このとき初めて人は完全なる救いを受けることができる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   病気を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を顕すことによっても、すっかり完全にされることはないのである。癒したり悪霊を追い出したりするための権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に残っている。すなわち、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているということである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、清められる。人から悪霊を追い出したり、人を贖ったときは、それはただサタンの手から人を捕まえ、神のもとに戻したことでしかなかった。神によって清められていないし、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には、依然として汚れ、敵対心、そして不従順が存在する。人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、清くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

   刑罰や裁きという神の働きの実質は、人類を清めることであり、それは、最終的な安息の日のためである。さもないと、全人類は、それぞれ自身と同類のものに属することができないか、あるいは安息の中に入ることができない。この働きは、人類が安息の中に入るための唯一の道なのである。清めの働きこそが人類の不義を清め、刑罰と裁きの働きこそが人類の中のそれらの不従順なものを全部さらけ出すのである。それによって、救うことのできる人と救うことのできない人とが識別され、生き残ることのできる人と生き残ることのできない人とが区別されるようになる。神の働きが終わる時、生き残ることのできる人は、清められ、人類のより高い領域の中に入って、地上でのよりすばらしい第2の人生を享受する。すなわち、彼らは人類の安息の日に入って神と共に生活する。生き残ることのできない人が刑罰や裁きを受けた後、彼らの正体が全て露呈される。それから彼らはみな滅ぼされ、サタンと同じように、もう地上で生きることができなくなる。未来の人類はもうこのような人々を含まない。このような人々は究極の安息の地に入る資格がなく、神と人が共有する安息の日に入る資格もない。なぜなら、彼らは懲らしめの対象であり、邪悪で、義なる人ではないからである。…悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。

『言葉は肉において現れる』の「神と人は共に安息に入る」より

   神の経営(救い)の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働が三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。おそらく人は、二つの軍勢が戦うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと想像の中で考えているだろう。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なく曖昧で、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの手段はサタンとの戦いを通してである、とわたしがこうして言うので、人はそのような戦いの様子を想像する。人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にすることによってその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営(救い)における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営(救い)の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営(救い)の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物とし

   たが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。かくして、サタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より


仏教徒と道教徒には世俗的な事柄から離れ苦行を行うという宗教実践があるが、これで救いを得られるのか。

2020-07-07 23:31:57 | 信仰Q&A

  聖書参照箇所:

   「なにゆえ、もろもろの国民は言うのでしょう、「彼らの神はどこにいるのか」と。われらの神は天にいらせられる。神はみこころにかなうすべての事を行われる。彼らの偶像はしろがねと、こがねで、人の手のわざである。それは口があっても語ることができない。目があっても見ることができない。耳があっても聞くことができない。鼻があってもかぐことができない。手があっても取ることができない。足があっても歩くことができない。また、のどから声を出すこともできない。これを造る者と、これに信頼する者とはみな、これと等しい者になる。イスラエルよ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。アロンの家よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。主を恐れる者よ、主に信頼せよ。主は彼らの助け、また彼らの盾である。主はわれらをみこころにとめられた。主はわれらを恵み、イスラエルの家を恵み、アロンの家を恵み、また、小さい者も、大いなる者も、主を恐れる者を恵まれる。どうか、主があなたがたを増し加え、あなたがたと、あなたがたの子孫とを増し加えられるように。天地を造られた主によってあなたがたが恵まれるように。天は主の天である。しかし地は人の子らに与えられた。死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない。しかし、われらは今より、とこしえに至るまで、主をほめまつるであろう。主をほめたたえよ。」(詩篇115章2〜18節)

 

   答え:

   この働きの終わりには、全ての教派が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪教は無に帰して、二度と現れることはない。

   …世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。…そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けするだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。もしかれらが邪教信者であるなら、神とは相いれないし、そして神と相いれないなら、彼らは神に敵対する者なのである。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。

「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

   人が人を裁く場合は、人の行いを基準とする。つまり、行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は不道徳者である。神が人を裁く時は、人の本質が神に従順であるかどうかを基準とする。つまり神に従順な者は義なる人であり、神に従順でない者は敵であり、不道徳者である、この人の行いがよいか悪いか、この人の言葉が正しいか間違っているか、に関わらず。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を買うことを考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違って思っている。従って多くの人は虚偽の行為を通じて一時の恵みを獲得するためにこのような方法を用いようとする。

「神と人は共に安息に入る」より

   しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

   わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行ってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる──空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は、新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。地上の国々は永遠に消え去り、わたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる──つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。…

第一部「全宇宙に向かって語った神の言葉」の「二十六番目の言葉」より

   今、未来の人類の終着点を感じ取ることができず、しかもわたしが話す言葉を信じない多くの人々がいる。真理を行わない人々と同様に、信じない人々は皆、悪魔である。追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する知識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは、天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒も悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、彼らはやはり滅ぼされる。…肉となった神を信じない人はみな悪魔である。さらに、彼らは滅ぼされる。

「神と人は共に安息に入る」より