賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

私たちクリスチャンはどのように結婚相手を選ぶべきでしょう

2020-07-21 11:32:39 | 信仰Q&A

  信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ

   私は結婚相手を見つける年頃になりました。私の結婚については両親から心配され、親戚と友人たちからもよく聞かれるので、私は重いプレッシャーを感じています。結婚相手を探す話しになると、私の未信者の友人たちは誰もが、「背が高くて、金持ちで、ハンサム」や「色白で、金持ちで、美しい」人を選びたがっていますが、私たちクリスチャンはどのような人を選ぶべきなのか、私は全く分かりません。お返事お待ちしております。

敬具

シャンヂィ

2018年11月20日

 

   シャンヂィ姉妹へ

   結婚は私たちの生活においてとても重大な出来事ですので、じっくりと考えるのは良いことです。私たちはクリスチャンとして、本事柄における神の御心を理解するために真理を求め、関連する原則に従って行動するべきです。そうすると、私たちは適切な結婚相手を見つけて、神の祝福を受けることができます。次に、私の個人的な体験を話したいと思います。

   以前、私もハンサムで家計の豊かな人を結婚相手に見つけたいと思っていました。そこで、私はこういった条件に合った男性と出会った時、彼と交際を始めました。しかし、その後予期せぬ事が起こりました。未信者であった彼は抑えがきかないほど勝手気ままな人だったのです。特に、彼は女付き合いにけじめの無い人でした。これ故に、彼と交際をしていた間はとても不安な思いをしました。また、彼はキャリアの面で私の助けを必要としていたので、いつも横から私をおだててくるのですが、私たちの勤める会社で安定したした足掛かりを手にしたとたん、私の相手はしてくれなくなりました。特に、私は悲しくて、失望し、慰めて欲しかった時、彼は私のことを気に掛けてくれなかっただけでなく、私は手間がかかり過ぎると言って文句を言ったのです。なので、彼と交際していた間に一番多く感じたのは彼の心遣いや配慮ではなく、むしろ無関心さでした。後に、私は、彼が私との交際を始める以前から他の女性と交際していたということを彼のQzoneで知り、その後私は彼から冷たくフラれてしまいました。その衝撃にはとても辛い思いをさせられました。

   教会の集会で、私は姉妹に自分のこの体験を話しました。すると、彼女はこのように交流してくれました、「私たちはクリスチャンとして、結婚を含めて何をするにしろ、自分の好みに頼るのではなく、神の御心を求めるべきです。なので、私たちは自分たちの結婚相手を選ぶ時も、それを神の御手に委ねるべきなのです。さらに、私たちは好みの人が自分たちに合っている人であるかどうかも神に尋ねるべきです、なぜなら神のみが人々の深奥を覗き、人々の心を見抜くことができるので、神が私たちに用意してくださるお相手は間違いなく最も適した人なのです。もう1つ考慮すべき点はその結婚相手が私たちと同じ心を持っているかどうかということです。お互いに理解し合えないような人々が一緒に幸せになれるでしょうか?これについて聖書にはこう記されています、『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。』(コリント人への第二の手紙 6:14)。そして、ある人がした交流の中にこういう節があります、’大人になったら結婚するのは至って普通のことですが、人は適切な相手を選ぶべきです。それは、最低限、その人の信仰といのちにとって有益な人であるべきで、それはとても重要なことです。人々のする選択により歩んで行く道と終着点が決まるのです。大事なことは、神の御要件に従ってそれぞれが自分の歩む道を選択できるかどうかということです。’ この言葉は実践すべき道を私たちにはっきりと指し示しています。自分の結婚相手を探す際に、私たちは相手の容姿や家計のみを重要視するべきではありません。最も大切なことは同じ考え方を共有し、善良な人間性を持ち、私たちの信仰に有益な人を選ぶことです。こうすることで、お互いに理解し合い、我慢し合い、許し合えるのです。また、これは私たちの真理の追究といのち成長においても有利なことです。しかし、結婚相手を自分の好みまかせに選んでしまうと、相手は背が高くで、ハンサムで、その家族が裕福であったとしても、その人自体は人間性が悪く、貪欲で、かつ怠慢な遊び人で、家族を大切にしない人であるということがあります。そのような人とは全く分かり合えません。これ故に、その人と暮らしても害と悲しみ意外は何も得られません。さらに酷いことに、もしその人が、私たちが神を信じることを妨げるようなことがあれば、それは私たちの人生を台無しにさえしてしまい、私たちは救われる機会を失ってしまいます。」この交流を通じて、私はこう理解しました:「クリスチャンとして、結婚相手を探す時に最も大切なことは自分の相手が善良な人間性をもっているのかどうか、そして自分の信仰に有益な人であるかどうかを確かめるべきなのです。私はまた、お互いが同じ心を持っていて、同じものを追求しているのかどうかも考慮する必要があったのです。」

   その後すぐに、私の叔母が医者の男性を紹介してくれたのですが、その人の家庭は裕福で、彼の両親は共に教師であると言っていました。そして、彼女が彼の写真を見せてくれると、そこには彼のハンサムなルックスが写っていました。一目見て、彼が自分のタイプだと分かりました。その後すぐ、ヂャン姉妹が私に彼女の甥ヂャン・スンを紹介してくれて、私は彼と知り合いになりました。彼は見た目が普通な修理工、そして彼の両親は2人とも一般的な作業員でした。この条件は全てあの医者とは比べものになりませんでした。しかし、特に言及すべきこととして、ヂャン・スンは敬虔なクリスチャンだったのです。彼は心から神を信仰しており、私たちは同じ考え方をしていました。あの医者について考えてみましょう。彼は未信者でした。そして、もし彼と結婚することになれば、彼は私が神を信仰することを反対するかもしれません。考え方の共有ができないと、お互いの気持に直接悪影響を及ぼし、前のボーイフレンドと私のように離別に至ってしまうでしょう。しかしながら、自分の肉的な関心を考慮してしまった私は医者を選ぼうと思いました。このように、私はどう選択してよいのか分からなくなってしまったのです。

   その時、私は神に祈ることしかできませんでした。祈りを捧げた後、私はある交流の中でこの節を目にしました、「結婚相手を探す際に、真理ではなく、自分の肉的な好みに完全に頼り、自分の願望に沿った人だけを選んでしまう人々がいます。このような人々は神に従順であると言えるしょうか?神は私たちに、不信者とつり合わないくびきを共にしないということを要求されます。この要求に従って行動せよと言われたら、信者を結婚相手に選べますか?信者と交際する時に、’このルックスが悪くて地位も無い人は私の理想の相手ではないです。お付き合いしたくありません。ルックスが良くて、地位もあるけど信仰を持たない悪魔を選んだ方がましです’ 、と言う人がいます。このようなことをして、神に従順であると言えますか?」

   この交流を読んだ後、私は自分の心を静めて神の御旨を求めました。私はこう思いました:「私は2人の男性から選ぶことができたけども、単純に外見と家系で判断すれば、医者の方がいいと思ったわ。でも、それは、不信者の観点に従っていたということだし、自分の肉的な好みに基づいていたのよ。しかも、彼は神を信仰していなかったし、それは間違いなく私の信仰と真理の追究に対して不都合なことだったわ。一方のヂャン・スンはと言うと、彼の家計はあまり良くなかったけど、彼は神を信仰して、真理を追い求めて、さらには人間性が良くて、自分の家族と兄弟姉妹たちを大切にしていたわ。それに、彼は教会で積極的に本分を尽くしていた。彼を選んだら、私たちは将来同じ道を歩んで、一緒に主に仕えることができるわ。それがいい事だったのよ。自分の状況はと言うと、私は普通の家庭に生まれて、両親は共に一般的な作業員、それに私は高学歴でもないわ。この条件は全て医者に比べると遥かに劣っているわ。だから、彼と結婚したらつり合いが取れないのよ。それで、私は引け目を感じて困ってしまうだろうし、彼に避けられるかもしれないわ。」こう思った私は自分の考えを神に伝え、自分の肉の好みを捨てて神の御要件に従うと祈りを捧げました。祈りを捧げた後、私は心が穏やかになって落ち着きました。

   その後、私は思い切って医者と交際するのをやめて、ヂャン・スンと交際を始めました。私は彼と触れ合っていくうちに、彼の物事に対する考えは不信者のものとは完全に異なり、彼は人生の快楽を追い求めることに集中していなかったことを知りました。彼の自分の意見として、そのような物を追い求めるのは無意味であり、信者は真理を追い求め、神の御心を理解して神を喜ばせることに努力を注ぐべきだと言っていました。私たちが会う度に、彼は一緒に神を讃えようと私をリードしながら神の御言葉を読み、讃美歌を歌ってくれました。特に、彼は、「私たちの気持ちは神の御言葉を基礎づけて確立されているべきです。私たちは神の御言葉に従いながらお互いを愛し合うべきです。片方の言うことが正しくて、真理に適っているのなら、もう片方はそれに従い、それを受け入れるべきです。このようにして、真理を私たちの指導者とするのです」、と強調しました。さらに、私が傲慢さとうぬぼれを表すと、彼は私と話しをして、キリストの謙虚な姿勢と素晴らしさを見習うように言ってくれます。私が消極的で弱気になっていると、彼は神の御言葉を使って私を慰め、励ましてもくれます。彼としばらく仲良くしていると、私は彼が自分にとってとても大きな助けになっていたことに気が付きました。過去、私は神の御言葉を求めることには注意を払っていませんでした。しかし、今は、物事に直面すると、私は神の御心を求めることに集中し、神の御言葉を切望するので、真理を追い求めることにもっと自信が持てるようになっています。次第に、私たち2人は腹心の友となりました。物事が起こると、私たちはそれを解決するために真理を求めます。私は、神の御要件に従って相手を探してのみ、真の幸せを手にすることができると心の中で感じました。

   その後、私が実家を訪れると、叔母が私にこう言いました、「あの医者と結婚しなくて良かったわね。あの男は親に甘やかされているから。最近は一日中酒と、女と、ギャンブルにふけてるし、仕事も辞めてしまったから、両親がカンカンに怒ってるのよ。」これを聞いた私は心の中で神に感謝しました。結婚相手を探すことについて、神の御要件に従って行動せず、自分の虚栄心に屈していたら、私は今頃苦しみの中を生きていたことでしょう。この体験をした後、私は、「結婚相手を探すにあたって、私たちは相手の外見と家系は重要視すべきではありません。最も大切なことは、同じ考えを持ち、同じものを追い求める人を選ぶということです。こうしてのみ、私たちの結婚生活は幸せなものになり得るのです」、と心から理解しました。

   シャンヂィ姉妹、以上が私の持つ経験と認識です。これら全てがあなたの役に立つことを願っています。神の御要求通りに行動してさえいれば、私たちは神の御加護と祝福を授かることができます。神の御恵みがありますように!

敬具

信仰ステーション、ピンファンより


神の救いを受け入れたあと、新しい生活を手に入れる

2020-07-20 22:40:07 | 信仰生活

   私は美容師で夫は農業をしています。私たちはマレーシアで、オレンジを投げる伝統行事にて出会いました。これは良縁を求める女性のための行事です。一年後、私たちの結婚式は牧師の立会のもと、教会で執り行われました。私はその牧師による私たちの婚姻のための祈りにとても深く感動しました。私は信心深くありませんでしたが、声に出さずに神に懇願しました。「この人がずっと変わらず私を慈しみ、私を大切に思ってくれますように。そして一生私の伴侶でいてくれますように」

   結婚生活が始まると、夫婦間の対立がひとつまたひとつと生じてきました。夫は毎朝四時に家を出て野菜を売りに行き、午後七時までは帰宅せず、私は午後十時過ぎまで仕事が終わりません。私たちは一緒に過ごす時間がほとんどありませんでした。疲れきった体を引きずって帰宅するたびに、私は夫から気遣いや思いやり、理解を少しでも受けられたらと強く願っていました。仕事はどうだったか、楽しかったかどうか、夫に尋ねてほしかったのです。しかし残念なことに、私が仕事から帰ると夫はほぼ毎回テレビを見ていなければ携帯電話をいじっていて、私にお帰りとすら言わないこともありました。私が存在すらしていないかのようでした。私はこれに本当に落胆して、次第に夫に対して不満を募らせていきました。

   あるとき私はお客さんと意見の行き違いがあり、とてもいら立ち、不当な扱いを受けたと感じていました。帰宅後、そのことを夫に愚痴りました。夫が私を慰めてくれるだろうと期待していたのです。しかし驚いたことに夫は携帯電話をもてあそびながら、ただ私に気づいてうなずいただけで、私に意識を向けないではありませんか。うなずいた後はすぐにうつむいてまた携帯電話を見始めました。夫の私に対する完全な無関心に我慢できず、私は夫に向かって怒鳴りました。「あなた石でできてるの?話さえできないの?誰かのことも気に留めるってことある?」ひどく怒る私を見て、夫は答えるのを拒否しました。夫に無言でいられればいられるほど、私の怒りはヒートアップしました。私は夫をしつこく責め立て、何か言わせてやろうとすっかり躍起になっていました。思いがけず夫が突然「まだ言い足りないのか」と怒鳴り返してきました。これで私は余計に怒りを感じ、さらに不当に扱われたと思い、夫にわからせようと話し続けました。結局、夫は何も言おうとしないため、私たちの口論は話になりませんでした。また別の時に、職場であった腹立たしいことについて夫に愚痴を言って、夫が私の気を楽にしてくれることを期待したことがありました。しかしその代わりに夫の返事はぶっきらぼうで氷のように冷たかったのです。「どっちもどっちだろう。君は他人の問題しか見えてないんだな。なんで自分のことを省みないんだ?」私は瞬間的に不機嫌になり、一言言ってやらずには気がすみませんでした。憤りで頭がいっぱいになり、思いました。「この人どんな人種なの。私、なんでこんな人と結婚しちゃったの。私の気持ちをこれっぽっちも考えないじゃない。一言だって私を慰めようとしない」この時から私は、職場でのことを夫に話すのをほとんどすっかりやめました。しばらく後になって夫は私に仕事のことを訊こうとしてきましたが、私は夫に注意を向けたいとは決して思いませんでした。夫は次第に私に質問するのをやめていきました。私たちの間には共通の話題がどんどんなくなっていき、失望するような出来事が起こると、私は耳を貸してくれる友達に当たってみるのでした。時には遅くまで外で話し込み、夜半過ぎまで帰宅しないこともありました。それほど遅くに帰宅しても、夫は私を気遣う様子など見せず、ただ「うちをホテル扱いしてるみたいだ」と言うのです。私はひどく気分を害し、夫への不満が大きくなり、私たちはしょっちゅう口げんかするようになりました。二人とも苦しんでいました。私はこれ以上こんな生活を続けたくないと思い、夫ときちんと話せるチャンスを見つけようと決めました。

   ある日の夕食後、私は夫に頼みました。「私のこと本当に我慢ならないんでしょ。どうなの。どうして私のこと少しも気にしてくれないのよ。私のことで何か問題があるなら直接言ってよ」夫が何とも答えないので、私は夫に迫り続けました。すると驚いたことに夫はいら立って私に怒鳴ったのです。「そんな質問をするのはやめろ。君とのことは全部が問題だよ。うんざりなんだよ」こんな風に言い返され、私は怒りで頭に血が上り、私たちはまた言い合いを始めました。何か言っては言い返されるというように、しばらく口論を続けていましたが、最後は夫が立ち上がり私をドンと押しました。私はバランスを崩し、ソファに倒れ込みました。夫が私に手を挙げたことに、私は胸が張り裂けそうでした。「これがあんなに慎重に選んだ夫?これが私があれほど望んでいた結婚?この人はどうして私をこんなふうに扱えるんだろう」この時から私は夫に何かを期待するのをやめました。

   2014年4月、ほんの偶然から、ある姉妹が私に主イエスの福音を分かち合ってくれました。姉妹は主が私たちを愛していて私たちを救うために十字架にかけられたのだと言いました。私は主の愛に心から感動したので、主の福音を受け入れました。その後、私は牧師に結婚生活の問題について話したところ、牧師は言いました。「私たちは、まず自分自身が変わらない限り、他の誰も変えることはできないのです。主イエスの例に倣い、他者への寛容さと忍耐強さを実践すべきなのです」それで私は自分自身を変えようとし始めました。仕事が終わるとすぐに帰宅し、家を掃除し、時には夫が私を無視するとかっとしそうになりましたが、寛容さと忍耐強さを私にお授けくださるよう主に祈りました。自制心を失って夫と口論を始めてしまった時には、その口論を丸く収めようと私の方から働きかけました。私に起こった変化を見て、夫も主を信じるようになりました。双方が信徒になると、口論は減り、意思の疎通が増えました。主が直接私たちをお救いくださったのがわかり、私は主への感謝でいっぱいになりました。

   しかし時は流れて、私たちはなお自分の感情をコントロールできずにいました。家庭内不和はまだ時々起こり、そして特に一人が不機嫌だともう一人も寛容さと忍耐強さを実践することができず、結果として私たちの口論は激しさを増していきました。口論の後は毎回、私は心が痛み苦しくなりました。そして主に祈りました。「主よ、寛容で忍耐強くなるようにと教えてくださいますが、私はどうしてもそうできないようです。夫が私の嫌なことをするのを見ると、夫への不満が本当にひどくなります。主よ、私はどうすべきなのですか」その後、私は実践の道を見つけたくて教会が主催するあらゆる勉強会に参加し始めました。しかし望んでいたものは得られませんでした。グループのリーダーに助けを求めても、ただこう言うだけです。「妻と私もしょっちゅう口論しますよ。パウロでさえ『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ人への手紙7:18)と言っていますしね。たえず罪を犯しては告白するというサイクルに直面した私たちの問題の解決法を誰も持っていません。私たちにできるのは、主に祈り、憐れみくださいとお願いすることだけです」それを聞いて私は途方に暮れました。対立の泥沼にはまったまま二人とも残りの人生を過ごすのが運命だ、ということなのでしょうか。

   2017年3月、これまでずっと無口な人だった夫が突然、生き生きとした話し好きになりました。それに加えて聖書に書いてあることで自分が理解したことを、たびたび私と分かち合ってくれるようになりました。さらに驚いたことに夫の話は本当に光に満ちていたのです。私は不思議に思いました。夫が突然別人になったかのようだったからです。それに夫の言うことは本当に識見に飛んでいました。私は一体何が起こっているのか知りたいと強く思いました。ある日、夫があるSNSのグループのメンバーだと偶然に知り、すぐに夫に仲間とどんなことを話しているのか尋ねました。夫はとても真剣な面持ちで、終りの日の全能神の働きのことを検討しているのだと、主イエスが既に再臨されていて、それが全能神なのだと言いました。夫が言うには、全能神は既に何百万語もの御言葉を発せられ、終りの日における人類の裁きと清めの働きをされているとのことでした。また、それは聖書の預言「さばきが神の家から始められる時がきた」(ペテロの第一の手紙4:17)を完全に成就していると言いました。神の出現と働きを求めるなら、自分の観念と想像に盲目的に執着するのではなく、神の御声を聞くことに集中しなければならない。真理を追求せずにただ神の啓示を消極的に待っていたら、主の再臨を歓迎することはできないだろう、とも言うのです。これを聞いて私は衝撃を受け、信じられない気持ちでした。その後、私はかつてインド人牧師が言っていたことをふと思い出しました。神の再臨のことを耳にしたら、心を開いて真剣に吟味して求めるべきだと。自分の観念と想像を頼りにして盲目的に物事を決め付けてはいられないのだと。そこで私は主に祈りました。「主よ、もし全能神が本当に再臨された主であるなら、心を開いて真理を追求し、このことを吟味できるよう、どうか私をお導きください。そうでないならば、私が主から逸れないよう、私の心をお守りください。アーメン」

   こう祈った後、聖書を開くと、ヨハネの黙示録3章20節にこうありました。「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」これは私によって突然の天啓の瞬間で、主が私に話されている、再臨したらあなたの戸を叩こうと仰っているのだ、と感じました。主の声に耳を傾けて戸を開けよという主のご指示だと感じました。それはまるで聖書にある花婿の声を聞いて花婿を迎えに急いだ賢いおとめたちのようでした。それから私はヨハネによる福音書16章12-13節のことを考えました。「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」聖書のこのような節について熟考していると、高揚感が湧き上がってきました。主が遠い昔に、ご自身の再臨に際し私たちにさらに多くの御言葉を発し真理を授けてくださると教えてくださっていたのだと気づきました。そして終わりの日の全能神の働きは、人類を裁き清めるために御言葉を発せられることです。全能神は本当に再臨された主イエスなのだろうか。もし主が本当に再臨され、人類のあらゆる困難を解決するために真理を表されているなら、罪の束縛から逃れる希望があります。ならば私と夫の間の問題も解決できるのではないでしょうか。私はすぐさま、全能神教会の兄弟姉妹と連絡を取らせてほしいと夫に頼みました。私も終わりの日の全能神の働きを吟味したいと思ったのです。

   集会では全能神教会の兄弟姉妹が聖書からいくつか節を選んで、真理のさまざまな側面について私に話してくれました。それは主の再臨の仕方、主の新しい名前、主がどのような働きをなさるのか、といったことでした。兄弟姉妹の説教はとてつもなく説得力があり、私には全く新しいものでした。私は終わりの日の神の働きについてもっと知りたいと切望したので、何度も何度も神に祈り、神の御言葉を理解できるように私を照らしてくださいとお願いしました。神の御言葉を読み、兄弟姉妹の説教を聴くことにより、私は次第に人類を経営する神の目的、人類を救う神の働きの三段階、人類の結末と終着点について、次第に理解するようになりました。終わりの日の神の働きについて調べている間も、私はごくごく些細なことでいまだに夫と言い争ってしまうことがあり、その後でひどい罪悪感に苛まれ動揺し自問しました。「なぜ私は神の御言葉を実践できないの」私は当惑したままでした。集会で、私はある姉妹に質問しました。「私と夫はなぜいつも口げんかしてしまうのでしょうか。なぜ平和に仲良くやっていけないのでしょうか」姉妹は神の御言葉の数節を私のために見つけてくれました。「人は贖いを通して神のもとに帰っただけで、人は神について何の認識もなく、依然として神に抵抗し、神を裏切っている。人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神に抵抗する性質が既に定着して存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清くなることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より)「イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「序文」より)

   姉妹はそれから、説教をしてくれました。「最初、アダムとイブはエデンの園で神の御前にて幸せに暮らしていました。口論などありません。苦しみもありませんでした。しかしヘビの言うことを聞いて善悪の知識の木になる実を食べた後、彼らは神からどんどん離れ、神を裏切り、神によるお世話と保護を失ってサタンの権力下で生きるようになります。悲しみと苦しみの日々の始まりです。これが今日まで続いているのです。そして私たちはサタンによりどんどん深く堕落しています。私たちは堕落したサタン的な性質に満ちています。私たちはとてつもなく傲慢で利己的で嘘つきで、強情です。あらゆる物事において自己中心的で、常に人に自分のことを聞かせたいのです。だから闘ったり殺し合ったりするのです。親子、夫婦ですらお互いへの寛容さと忍耐強さを持たず、互いに調和して仲良くやっていくことができないでいます。私たちには最も基礎的な良心と理知さえも欠けているのです。主イエスが私たちを贖ってくださり、私たちが主に祈り、告白し、悔い改め、頑張って主の教えに従ってもなお、私たちはどうしても罪を犯し神に背いてしまいます。これは主イエスが人類を贖うという働きのみをされたからなのです。主イエスは人類を完全に救い清めるという働きはなさいませんでした。主イエスの救いを受け入れることは、ただ、もはや私たちに罪はなく、祈りにおいて主の御前に来て、主の憐れみを受けて罪を許される機会があることを意味するだけです。でも、私たちの堕落した性質はまだ清められていません。私たちの罪深い本性はまだ私たちの中に深く根付いたままです。私たちにはまだ、終わりの日に主が再臨なさり、人類を清め変容させる段階の働きを行なうことで私たちの罪深い本性の問題を解決していただくことが必要なのです。そして今や神は再び受肉され、私たちを堕落した性質から完全に救い、サタンの影響から逃れさせて完全に救うために、裁き清める働きを行うための御言葉を発せられています。神の新しい働きに遅れずついていき、神の御言葉の裁きと罰を受け入れ、真理を追求し、神の御言葉を実践する限り、私たちの堕落した性質は次第に変容します。これが真の人の似姿を生きられる唯一の道であり、そうすることで初めて他者とのかかわり合いにおいて調和を実現できるのです」

   神の御言葉と姉妹の説教から、私はようやく気づきました。私たちが罪を犯しては告白するという状況に常に生きているのは、主イエスが人類を贖うという働きはされても、私たち信徒の罪が赦されただけで、私たちの中の罪深い本性は非常に深く揺るぎなく存在しており、私たちのサタン的な性質はまだ清められていないからなのです。その好例が、私が主の教えに沿って忍耐強さと寛容さを実践しようとしても、夫が私の嫌な言動をするやいなやどうしても腹を立ててしまうことです。どうしても自分を制御できないのです。私たちを救う神の働きなくして、自身のサタン的な堕落した性質を自身の努力だけで拭い去ることは不可能です。そして今、人類を裁き清める働きを行なうために神が再び受肉されました。神の新しい働きを受け入れ、真理を本当に追求することで、私たちには性質の変容を達成する機会があります。私は御声を聞かせてくださった主の憐れみに心から感動し、とてつもなく感謝しました。しかし私にはまだわからないことがありました。神が私たちを清め変容させる目的で御言葉を発するために今回再臨されたのはわかりましたが、どうして御言葉が私たちの堕落した性質を裁き清めることができるのでしょうか。そこで私は自分の混乱を説明しました。

   姉妹は、神の御言葉の別の一節を読んでくれました。「終わりの日には、キリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。裁きの働きを行うにあたって、神は少ない言葉で人間の本性を明らかにするだけではない。神は長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。このようなさらけ出し、取り扱い、刈り込みの方法は通常の言葉が取って代わることはできず、人間が完全に失った真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は制圧され、神への服従に向かうように徹底的に説得され、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、人による神の真の顔の認識と、人間自らの反抗的性質についての真理である。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」より)

   姉妹はさらに私と説教を分かち合ってくれました。「神の御言葉は、神がどのように裁きの働きをされるのか明確に私たちに説明しています。神は人類を裁き清めるために御言葉を使われるのです。神は御言葉によりおもに私たちの堕落した本性と本質、サタン的な性質を直接明らかにされ、細かく分析されます。また、どのように神に服従し神を崇拝すればよいのか、正しい人としてどう生きればよいか、どのように真理を追求し、性質の変化を達成すればよいか、どうすれば正直な人でいられるか、そして神が何を人に望まれ要求されるかを明確に説いてこられました。神はどのような人を好まれ、どのような人を排除されるか、また他に多くのことも告げられてきました。また、私たちを刈り込み取り扱い、試し、精錬するための人々、出来事、物事、環境を準備されます。こうして私たちの堕落した性質が明らかにされ、私たちは神の御前に行き真理を追求し、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、自らを顧み、自らを知ることを余儀なくされます。神の裁きと刑罰の御言葉を受け入れると、まるで神が私たちと面と向かって生き生きと話されているように感じられるのです。そこで神に対する私たちの不従順と抵抗、私たちの不正な動機、私たちの観念と想像を余すところなく明らかにされます。それで初めて私たちは自らの本性と本質が傲慢さとうぬぼれ、欺瞞、腹黒さ、身勝手さ、卑劣さに満ちていることを知ることができます。私たちは神への畏敬の心が全く欠けていること、サタン的で堕落した本性に完全に基づいて生きていること、露呈するものすべてがサタン的性質であること、ただただ人の似姿に欠けていることを知るのです。すると自分を憎み始め、心から自分を嫌悪し、これ以上サタンの影響下で生きていたくないと、サタンにもてあそばれ傷つけられるのはもうたくさんだと思います。何よりも、神の裁きと刑罰をとおして神の神聖な本質と罪を一切許容しない神の義なる性質とを知ります。神への畏敬の心が私たちの中で生まれ、神に御満足いただくために真理を実践しようと意欲的になります。ひとたび真理を実践し始めると、神の善に満ち憐れみ深い性質が私たちに明かされます。神の御言葉を読み続け、神の裁きと刑罰を経験し続けることにより、自身の堕落した本性についての認識を深め、神が表現される真理をさらに認識し、神の裁きと刑罰を受け入れ服従すること、肉を見捨て真理を実践し神に満足していただくことをさらにいとわなくなります。堕落の露呈が減っていき、真理を実践するのがどんどん容易になり、神を畏れ悪を遠ざける道へと次第に歩みを進めていきます。神の御言葉による裁きと刑罰を経験すると、これが堕落した性質から私たちを救い癒す万能薬であることを誰もが心から確信することができます。これが私たち堕落した人間に対する神の至高の真の愛であり、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければ、真の人の似姿を生きることは決してできません」

   神の御言葉と姉妹の説教は、私にとってとても大きな衝撃でした。終わりの日の裁きと刑罰という神の働きは本当に実際的だと思い、また自分の堕落した性質が変容するよう願うなら、神の御言葉による裁きと刑罰を経験しなければならないのだと思いました。そうでなければ、罪を犯しては告白するという循環の中に永遠に生き続け、罪の束縛から決して逃れられないのです。ですから心の中で神に祈り、御言葉で私を潤し糧を与えてくださいと、そして自分自身を知り、堕落した性質が近い将来変容して真の人の似姿を生きられるように私を裁き罰する環境を整えてくださいとお願いしました。

   終りの日の神の働きを受け入れた後、私はまた神が私のために整えてくださったこの結婚について、新たな認識を得ました。ある時、ある姉妹が私のために神の御言葉の数節を読んでくれたのです。「人間は、自分が結婚を経験するまで、結婚に関して様々な幻想を抱き、その幻想は全て美しい。女性は、白雪姫に登場する王子のような自分の夫を想像し、男性は自分が白雪姫のような者と結婚することを想像する。こうした空想により、人間には、それぞれに結婚の条件、数件の要求事項、基準事項があることが示される。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)「結婚は人生における重要な節目である。結婚は人間の運命の産物であり、人間の運命における重要な繋がりである。結婚は人間の個人的な意志や嗜好に基づくものでも、何らかの外的要因に影響されるものでもなく、当事者双方の運命、双方の運命に関する創造主の采配と定めにより決定される。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)「したがって、ある者が結婚した場合、その者の人生の旅路は、その者の配偶者に関与して影響を与え、同様にその者の配偶者の人生の旅路はその者の人生の運命に関与して影響を与える。換言すると、人間の運命は相互に関連しており、他人に全く依存せずに自分の人生における使命を全うし、役割を果たすことが出来る者はいない。人間の出生は、極めて幅広い関係の結びつきに影響を与える。また、成育にも複雑な関係の結びつきが含まれる。それらと同様、必然的に結婚もまた、極めて幅広く複雑な網の目のような人間関係の中に存在し、維持されて、その関係に含まれる全ての者の運命に影響する。結婚は、当事者双方の家族や、成育環境、容姿、年齢、資質、才能その他あらゆる要素の産物ではなく、むしろ共通の使命と関連する運命から発生する。これが、創造主により指揮され、用意された、人間の運命の産物である結婚の起源である。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一無二の神自身 3」より)姉妹はそれから私と説教を分かち合ってくれました。「私たちの結婚はどれもがみな、神によって予定されていて、私たちが誰と家庭を持つかを神がずっと前に決められているのです。みな神ご自身の知恵により采配されています。神が私たちのためにお選びになった結婚は、私たちの社会的地位や外見や能力によるのではなく、両人の人生における使命により決定されます。しかし、私たちは自身の堕落した性質にコントロールされているので、たえず自分の片割れにたくさん要求し、いつも相手が物事を自分のやり方で行なってほしいのです。相手がそうしないと、私たちはそれを受け入れるのを拒否し、不満に感じます。相手と口論したり怒ったり、不平をぶつけたりもし、また神を責めたり誤解したりもします。こうして両人とも苦しんで生きることになります。この種の痛みは他の誰からももたらされるものではなく、神の支配や編成によるものでもなく、ただ私たちが傲慢でうぬぼれた堕落した性質で生きているがゆえなのです。このような堕落した性質により、私たちは神の支配に抗います。神の采配や編成に服従できずにいるのです」

   姉妹のこの説教を聴いて、私は夫との今までの関係を思い返しました。私はいつも夫に対し不満を露わにし、いつも私の思い通りにしてほしいと要求していました。夫が私のことを気にしていなかったり私に気遣いや思いやりをみせてくれないと、また私が幸福であるか知ろうとしてくれないと、夫に対し文句を言い、だめな人だなどと思っていました。私は夫をあらゆる面で見下し、冷戦をふっかけ、彼に注意を払うのを拒否していました。私はようやく、自分が実に傲慢でうぬぼれていて利己的で卑劣な人間だったとわかりました。自分の利益しか考えず、他人の気持ちを考えようとしない人でした。よくよく考えてみると、夫が私に思いやりがないなどというのは全く真実ではありませんでした。夫はただかなり内向的であまり感情を表さないだけだったのです。そして夫には独自の思いや好みがありました。それなのに私は夫がしたがらないことをさせようと躍起になっていたのでした。私はいつも夫に私を中心にして動き回ってほしくて、それが私たちの間であれほどの対立が起こった原因だったのです。私は自分の過去の振る舞いを後悔せずにはいられませんでした。また夫が言ったことを思い返せば、過去に主の福音を夫に伝えたのは私の方ですが、今度は夫が終わりの日の神の福音を私と分かち合ってくれたのでした。これは私たちへの神の偉大な御恵みで、神の素晴らしい編成でした。私たちは二人とも極めて恵まれていたのに、私には感謝の気持ちが一切ありませんでした。それどころか神が私のために手配してくださった結婚に自分を委ねようとせず、たえず神を責めていました。自分がどれほど傲慢でどれほど理知を欠いていたかがわかりました。御言葉で私を導いてくださった神に感謝します。私はこの結婚におけるあらゆる苦しみの根源を見つけました。そして心が楽になり力が抜けるのを感じました。またこの時から、傲慢でうぬぼれた堕落した性質を捨てるため、そして夫と仲良く暮らしていくため、私は生活において喜んで神に頼り、神に目を向けるようになりました。

   それ以来、夫と私はよく一緒に神の御言葉を読んだり真理に関して交わったりするようになり、被創造物として自らの能力の最善を発揮して本分を尽くしています。また、毎日神の御言葉により糧と潤いを得ています。問題に直面した時には、神の御言葉から神の御意志を求めます。堕落を露呈したり口論を始めたりすると、二人とも神の御前に進んで自らを顧みて自らを知ります。このように実践していると、お互いへの認識も赦しの心も育っていきました。口論の回数はどんどん減り、家庭生活は調和し、人生がどんどん充実してきました。私が一番感動したのは、夫が私よりも真理を認識していることです。夫はよく神の御言葉で理解したことについて私と説教を分かち合ってくれ、私の堕落した性質が見えた時には真理と神の御意志について話してくれます。私への夫の思いやりと愛を本当に感じ、心から幸せです。私たちの歩んだ道を振り返ると、いまだに私は私のまま、夫は夫のままです。終りの日の全能神の働きを受け入れ、いくらかの真理を理解してきた、ただそれだけで、何もかもがすっかり変わったのです。私たちをお救いくださった全能神に感謝します。


真に祈るのとはどういう意味か

2020-07-19 17:24:49 | 信仰Q&A

   真に祈るとは何を意味するであろうか。それはあなたの心の中にある言葉を神に話すことであり、神の意志を把握し、神の言葉に基づいて神と交わることを意味する。またそれは殊更に神を身近に感じ、神が自分の目の前にいて、あなたには何か神に言いたいことがあると感じることである。またそれは、自分の心の中に光が射すのを著しく感じ、神が殊更に愛しいと感じることである。あなたは著しく霊の動きを感じるだろう。するとあなたの兄弟姉妹は、あなたの話を聞いて喜びに満たされるだろう。彼らは、あなたが話す言葉が、彼らの心の内の言葉であり、彼らが言いたいと願っていた言葉だと感じるだろう。あなたが言うことが、彼らが言いたいことを代表していると感じるだろう。真に祈るとは、このことを意味する。真に祈った後、あなたは心の中に安らぎを感じ、喜びに満たされるであろう。神を愛する強さが向上し、あなたは全生涯で、神を愛する事以上に価値があり大切なことは無いと感じるであろう。そして、これら全ては、あなたの祈りが効果的であったことを証明するであろう。

「祈りの実践について」より

   神が人々に要求する最低基準は、自分の心を神に開くことができることである。人が神に対して真心を捧げ、心の中にある本音を告げるならば、神はその人の内に働くことをよしとする。神は人の曲がった心ではなく、純粋で正直な心を求めている。人が神に自分の心の真実を話さないならば、神はその人の心を動かすことも、その人の中で働くことも無いであろう。したがって、祈りにおいて極めて重要なことは、自分の本心から来る言葉を話し、自分の欠点や反抗的な性質を神に告げ、ありのままの自分を神に曝け出すことである。そうして初めて、神はあなたの祈りに関心を抱くであろう。そうでなければ、神はあなたから顔を隠すであろう。

「祈りの実践について」より

   祈りとはひととおりの儀礼を行うことでも、手順に従うことでも、神の言葉を暗唱することでもない。すなわち祈りとは言葉を模倣し、他人を真似ることではない。祈りにおいて、あなたは心を神に捧げなければならない。そして、神に心を触れられるよう、自分の胸中の言葉を神と分かち合わなければならない。あなたの祈りが効果的であるためには、その祈りはあなたが神の言葉を読むことに基づいていなければならない。神の言葉の中で祈ることによってのみ、あなたはもっと多くの啓き照らしを得ることが可能となる。真の祈りは、神による要求を待ち焦がれる心を持ち、それらの要求を自ら進んで果たすことにより示される。あなたは神が憎む物事全てを憎み、それを基礎として、神が説明する真理について知り、明瞭に理解するようになるであろう。決意と信仰、認識、また、祈った後に実践するための道を持つこと。それのみが真の祈りであり、このような祈りだけが効果的であり得るのである。しかし、あなたが神の言葉を享受すること、神の言葉の中で神と交わること。また、あなたの心が神を求めることができ、神の前で静まっていること。それらのことの基盤の上に、祈りは建て上げられねばならない。このような祈りは、既に神との真の交わりを持つ境地に達しているのである。

「祈りの実践について」より

   わたしは、兄弟姉妹が日々真に祈ることが出来ることを願っている。これは教理に固執することではなく、ひとつの達成すべき効果である。…あなたは、次のように言うべきである。「神よ、私は自分の本分を尽くすことを望みます。私達の中であなたが栄光を受け、私達という人間の集団の中の証しを得ることが出来るようにするために私ができることは、私の全存在をあなたに奉げ尽くすことだけです。願わくは、私があなたを真に愛し、満足させ、あなたを私が追求する目的とすることが出来るよう、私達の中で御業を行ってください。」あなたがこの重荷を負う時、神は必ずあなたを完全にするであろう。あなたは、自分のためだけでなく、神の意志を実行し、神を愛するために祈るべきである。これが最も真なる祈りである。

「祈りの実践について」より

   霊的生活を送れば送るほど、心は神の言葉で満たされる。あなたは常に霊的生活を送ることを考えるようになり、その重荷をになうようになる。あなたがそのような状態になると、霊的生活を通して神に自分の心の中にある真実を示すことができ、あなたのやりたいこと、考えていること、神の言葉への理解と求め方を神に伝えることができるようになる。小さなことであっても、隠しておいてはいけない。心の中にある言葉を神に話す練習をし、神に真実を伝え、躊躇せず心の中にあるものを語らなければならない。これを実践すればするほど、あなたは神の素晴らしさを感じるようになり、あなたの心はますます神へと近づけられて行くのである。その状態になると、あなたは神が誰よりも大切だと感じるようになる。何があっても決して神のそばを離れなくなる。このように日々ディボーションの時間を持ち、それをおろそかにすることなく、自分の人生における使命と捉えるならば、神の言葉があなたの心を占領するようになる。これが聖霊に触れられるということなのである。それはあたかも、あなたの心がずっと神のものであったかのようで、あなたの心に常に愛があったかのように感じるものである。それをあなたから取り上げる事のできる者はいない。この状態にまでなると、神は真にあなたの心に住み、あなたの心には神が存在するようになるのである。

「健全な霊的生活は人々を正しい道へ導く」より


神が義であるなら、善良な人々が脅かされ、抑圧され、苦難するのに邪悪な人々が悠々と成功するのはなぜか

2020-07-18 23:53:15 | 信仰Q&A

  聖書参照箇所

   「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。」(ルカによる福音書16章19〜28節)


   神の御言葉による答え:

   この生涯で幸運を得る者は、間違い無く永遠に苦難を受けるが、この生涯で苦難を受ける者は、間違い無く永遠に恵みを受けるであろう。私はそのように予定を定め、それは誰も変えることができない。誰も私の心を変えてはならず、私の言葉に何一つ加えてはならず、ましてや私の言葉を何一つ減らしてはならない。これに違反する者は、私が必ず罰する。

「キリストが最初に発した言葉と証し」より


堕落した人類が受肉した神の救いをさらに必要とすると言われるのはなぜか

2020-07-17 23:13:38 | 天の国の福音

   神が人を救うとき、霊の手段を用いたり霊として直接行なわない。というのは、神の霊は人が触れることも見ることもできず、人が近づくこともできないからである。もし神が霊の立場で直接人を救おうとするなら、人は神の救いを受け入れることはできないであろう。そして、もし神が造られた人の外形をまとわないなら、人はこの救いを受け入れることはできないであろう。というのは、ちょうど誰もヤーウェの雲の近くに行くことができなかったように、人は決して神に接近することができないからである。被造物である人となることによってのみ、すなわち、言葉を神がまとう肉体に入れることによってのみ、神は従ってくるすべての人たちに直接言葉を働かせることができる。その時初めて、人は自分自身で神の言葉を見聞きし、さらに言葉を自分のものとし、これによって、完全に救われることができる。もし神が肉とならなければ、肉なる人はそのような大きな救いを受けることもできないし、誰一人救われることもないであろう。もし神の霊が人の間で直接働いたなら、人は打ち倒されてしまうか、神と係わる方法がないまま、サタンにすっかり連れ去られ囚われるであろう。最初の受肉は人を罪から贖う、つまりイエスの肉体を通して人を罪から贖うためであった。つまり、イエスは十字架から人を救ったが、堕落したサタン的な性質は依然として人の中に留まった。二番目の受肉はもはや罪のためのいけにえとしての役割ではなく、罪から贖われた人たちを完全に救うことであった。それにより、赦されたものが罪から解放され、完全に清められ、性質が変えられ、それによりサタンの暗闇の影響を打ち破り、神の玉座の前に戻ってくるためである。このようにしてのみ、人は完全に清められる。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

 

堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である

   神が受肉したのは、その働きの対象がサタンの霊や肉体を持たない何かではなく、人間、つまり肉体をもち、サタンに堕落させられた存在だからである。人間の肉体が堕落しているからこそ、神は肉体をもつ人間を働きの対象とした。さらに、人間は堕落の対象であるため、神は救いの働きの全段階で、人間をその働きの唯一の対象としている。人間は死すべき存在で、生身の体をもっているが、人間を救える唯一の存在は神なのである。そこで、その働きでよりよい成果が得られるよう、神は働きを行うために人間と同じ属性をもつ肉体をもたなければならない。神がその働きを行うために受肉しなければならないのは、人間が肉体をもっていて、罪を克服することも、肉体を捨て去ることもできないためだ。受肉した神の本質と存在は人間の本質や存在とは全く異なるものなのだが、神の外見は人間と変わらず、通常の人間と同じように見える。神は普通の人間のように生活し、神を見る者は、普通の人間との違いを見いだせない。この普通の外見と普通の人間性とは、普通の人間として神がその神性の働きをするには十分である。神の受肉は普通の人間として働くことを可能にし、人々の間での働きを容易にし、さらに、その普通の人間性は人々の間で救いの働きを進めることの役に立つ。神の普通の人間性は人間の間に多くの混乱を招いたが、そうした混乱は神の働きの成果に影響を与えていない。つまり、神の普通の肉体の働きは人間に素晴らしく有益なのである。たいていの人は神が普通の人間であることを受け入れないが、それでも神の働きは効果的であることができ、そうした効果は神が普通の人間であることで達成される。この点に疑問の余地はない。神の肉体における働きから、人間は、神の普通の人間性について人間の間に存在する観念から受けるよりも十倍、数十倍のものを得る。そして、そうした観念はいずれ、すべて神の働きに飲み込まれることだろう。また、神の働きが達成した成果、つまり、人間がもつ神についての認識は、人間が神についてもっている観念をはるかに超える。神の肉体における働きは想像もできないし、測りようもない。神の体はどの人間の肉体とも異なっているからだ。外見は同じでも、本質は異なっている。神の肉体は、神について、人間の間に多くの観念を生み出す。しかし、神の肉体はまた、人間が多くの認識を得ることを可能にする。そして、似たような外見をもつどの人間をも征服できる。神は単なる人間ではなく、人間の外見をもつ神であり、誰も神を完全に理解することはできないからである。目に見えず、触れることもできない神を誰もが愛し、歓迎する。もし神が人間の目には見えない、ただの霊であるならば、人間が神を信じることは容易である。人間は自分の想像力を自由に働かせることができる。神の姿として、どんな姿でも好きなものを選び、それで喜んで満足していられる。このように、人間は自分の神が最も好むこと、この神が人に望むとおりのことなら何でも、何のとがめもなく行うことができる。さらに、人間は、自分よりも神に忠実で信心深い者は誰もいない、他の人はみな異邦の犬で、神に背いていると信じている。これが、神について漠然と教義に基づいた信仰をもつ人々が求めているものであると言える。彼らの求めているのは、どれも同じようなもので、ほとんど違いがない。これは単に、人々の想像している神の姿が異なっているというだけで、その本質は、実際のところ、同じなのだ。

   人間は自分の信仰がいいかげんなものであっても気にとめない。そして、好きなように神を信じている。これは誰も妨げることのできない「人間の権利と自由」の一つなのだ。なぜなら人間は他の誰のものでもない、自分の独自の神を信じているからである。これは私有財産であって、ほとんど誰でも、こうした私有財産をもっている。人間はこれを自分の貴い宝だとみなしているが、神にとっては、これ以上卑しく無価値なものはない。この人間の私有財産以上にはっきりと神に敵対するものはないからである。なぜなら、神が受肉してその働きを行うため、神は触れることのできる形を持ち、人が見、触れることのできる肉体になるからである。神は形のない霊ではなく、人間がさわり、見ることのできる肉体である。しかしながら、人々の信じる神々のほとんどは、生身の体をもたず、形がなく、不定形である。このように、受肉した神は、神を信じる者ほとんどの敵となり、同様に、受肉した神という事実を受け入れることのできない人々も、神の敵となった。人間は考え方や反抗心からではなく、この私有財産のために観念にとらわれているのだ。この私有財産のせいで、たいていの人は死に、この漠然とした、触れることができず、目にも見えない、実際に存在しない神のために、人間のいのちは損なわれている。人間のいのちが失われるのは、受肉した神のためではなく、まして、天の神のせいでもなく、人間が思い描いている神のせいなのである。神が受肉した唯一の理由は、堕落した人間が必要としているからである。人間が必要としているのであって、神が必要としているのではない。神のすべての犠牲と苦しみは人間のためであって、神自身のためではない。神には賛否も報奨もない。神はもともと自分のものであるもの以外、将来何らかの収穫を得るわけではない。神が人間のためにすること、犠牲とすることはすべて、何か大きな報酬を得るためではなく、純粋に人間のためである。受肉した神の働きには想像を超える困難が数多く伴うのだが、それが最終的に達成するものは、霊による直接の働きの成果をはるかに超える。肉の体の働きは多くの困難を伴う。肉体は霊のような偉大な身分をもたないし、霊のような超自然的な業は行えない。まして、霊と同じ権威をももたない。しかし、この平凡な肉の行う働きの本質は、霊が直接行う働きの本質をはるかに上回る。この神の肉体は、すべての人間の必要に応えるものなのだ。救われるべき者たちにとって、霊の使用価値は、肉にはるかに劣る。霊の働きは、全宇宙、すべての山々、川、湖、大海に及ぶ。しかし、肉の働きで神は、触れるすべての人と効果的に交流できる。そのうえ、触れることのできる形をもつ神の体は、人間には理解しやすく、信頼しやすく、神についての人間の認識を深めることができ、神の実際の業の深い印象を植え付けられる。霊の働きは神秘に包まれていて、死すべき人間には理解し難く、見ることはそれ以上に難しい。だから、無意味な想像に頼るしかない。しかしながら、肉の働きは正常で、現実に基づいており、豊かな知恵を含み、人間の肉眼で見ることのできる事実である。人間はその身で神の働きの知恵を経験できるから、豊かな想像力を働かせる必要もない。これが受肉した神の働きの正確さ、本物の価値である。霊には、人間の目に見えず、想像しにくいことしかできない。たとえば、霊による啓示、霊による感動、それに霊の導きなど。しかし、知性のある人間には、こうしたものは何ら明瞭な意味をもたない。こうしたものは感動あるいは漠然とした意味しか提供せず、言葉による指示を与えられない。しかしながら、受肉した神の働きは、大いに異なる。言葉を用いて正確な導きができるし、明確な意図、そして、目指すべきはっきりとした目標がある。だから、人間は手探りして歩きまわる必要がないし、想像力を働かせる必要も、まして、推測する必要もない。これが肉における働きの明瞭さであって、霊の働きとの大きな違いである。霊の働きは限られた範囲においてのみ適しており、肉の働きと置き換えることができない。肉の働きは、霊の働きよりはるかに正確で、必要な目標とずっと現実的で価値ある認識とを人間に与える。堕落した人間にとって最も価値ある働きは、正確な言葉と目指すべき明確な目標を与え、そして見て触ることのできるものである。実際の働きと時宜にかなった導きだけが人間の嗜好に合う。そして、現実の働きだけが人間をその堕落した邪悪な性質から救える。これを成し遂げられるのは受肉した神だけである。受肉した神だけが、人間をかつて堕落した邪悪な性質から救えるのだ。霊は神に備わった本質であるが、こうした働きは受肉した神にしかできない。もし霊だけで働いたなら、神の働きは効果的なものではないだろう──これは明確な事実である。大方の人は、肉のために神の敵になっているが、神がその働きを完了するとき、神に敵対する者たちは敵であることをやめるだけではなく、それどころか神の証人になるだろう。そうした人たちは神に征服された証人、神の心にかない、神と分かちがたい証人になる。神はその肉体における働きの重要性を人間に知らせる。そして人間は、人間存在の意味にとってのこの肉体がどれほど重要であるかを知り、人間のいのちの成長のために神の肉体がどれほど価値あるものであるを知り、そのうえ、この肉体が、離れることが到底できない、生きるいのちの泉となることを知るだろう。受肉した神は、本来の神の身分と地位には遠く及ばないし、人間からすると神の本来の地位と相容れないものと思われるだろうが、この肉体、すなわち神の真の姿や身分をもたないこの存在は、神の霊には直接できない働きができるのである。それが神の受肉の真の意味と価値であり、そしてこの意味と価値を人間は理解し、受け入れることができない。すべての人間は神の霊を仰ぎ、受肉した神を見下すが、彼らがどう判断し、どう考えるかに関わりなく、この肉体の真の意味と価値とは霊にはるかに優る。もちろん、これは堕落した人間との関連においてのみ言えることだ。真理を求め、神の現れを待ち望む者すべてにとって、霊の働きは感動と啓示、理解不能で想像もできない不思議な感覚、偉大で超越的で崇めるべきものであるが誰にも達成できず手に入れることのできないものという感覚だけを与える。人間と神の霊とは、遠くから互いを見ることしかできない。まるで両者の間に遠い隔たりがあるように。そして、けっして似ることがない。まるで、目に見えない境界で隔てられているかのように。実は、これは霊が人間に与えた幻影である。なぜならば、霊と人間とは種類を異にするものであり、霊と人間はけっして同じ世界で共存できず、霊には人間的な要素は何もないからである。だから、人間には霊は必要ではない。霊には、人間に最も必要な働きを直接することができないからである。肉の働きは求めるべき真の目標、明確な言葉、そして、神が現実的かつ正常で謙虚で普通であるという感覚を人間に与える。人間は神を恐れはするだろうが、たいていの人は神と心安く付き合える。人間は神の顔を見、神の声を聞くことができるし、遠くから見る必要はない。この肉体は人間にとって近づきやすいように思われる。遠くの不可思議な存在ではなく、目に見え、触れられるのだ。この肉体は人間と同じ世界にあるのだから。

   肉体において生きるすべての者にとって、性質を変えるには目指すべき目標が必要だ。そして、神を知るには、神の本当の業を見、神の本当の顔を見る必要がある。この二つは神の受肉した体でのみ可能なことだ。そして、いずれも普通の現実の体でのみ成し遂げられる。だから受肉が必要なのであり、すべての堕落した人間はこれを必要としているだ。人々は神を知る必要があるので、漠然とした超自然的な神の表象を心から消し去らなければならない。そして、堕落した性質を捨て去る必要があるのだから、まずその堕落した性質を知らなければならない。人間の力だけで漠然とした神の表象を心から消し去ろうとしても、望ましい成果は得られないだろう。人々の心にある漠然とした神の表象は、言葉だけではさらけ出したり、消し去ったり、完全に除いたりすることはできない。そうしてみても、人間の中に深く根付いているものを消し去るのは不可能だろう。実践の神と神の真の姿だけが、そうした漠然とした超自然的なものと入れ替わり、徐々に人々に教え、そうした方法によってのみ、目指すべき結果が得られるのだ。人間は、過去に求めていた神が漠然とした超自然なものであったことに気づく。これを成し遂げるのは、霊による直接の導きではなく、まして、特定の個人の教えでもなく、受肉した神なのである。受肉した神が本格的にその働きを行うとき、人間の固定観念が露わになる。なぜなら、受肉した神の正常さと現実性は、人間の想像の中にある漠然とした超自然な神とは正反対なものだからだ。人間の元来からの固定観念は、受肉した神との対照によってのみ明らかになる。受肉した神と比較することなしには、人間の固定観念は明らかにならない。言い換えれば、現にそこにあるものと比較しなければ、漠然とした物事は明らかにならない。言葉によってこの働きのできる者は誰もいない。また、言葉によってこの働きを明確に表現できる者は誰もいない。ただ神自身がその働きができるのであって、ほかの誰も神に代わってその働きをすることはできない。人間の言語がどんなに豊かであろうと、神の現実性と正常性を言い表すことはできない。神が人間のもとで自ら働き、自分の姿と実在とをすっかり示してはじめて、人間はもっと実際的に神を知ることができ、もっとはっきり神を見られるのだ。肉体をもつ人間には、この成果を成し遂げられない。もちろん、神の霊もまた、これを成し遂げることはできない。神は堕落した人間をサタンの影響から救うことができるが、この働きは、神の霊には直接できないことだ。そうではなく、神の霊のまとう人間の体だけが、受肉した神の肉体だけができることだ。この生身の体は人間であると同時に神であり、正常な人間性を備えている一人の人間であるが、また、完全な神性を備えた神でもあるのだ。だから、この肉体は神の霊でなく、霊とは大きく異なっているのだが、それでも、人間を救う受肉した神自身であって、霊であると同時に肉体でもある。どのような名で呼ばれようと、つまるところ、それは人間を救う神そのものだ。神の霊は肉体から切り離すことはできず、肉の働きはまた、神の霊の働きでもあるからだ。これはただ、この働きが霊として行われるのではなく、人間として行われるということである。霊が直接行う必要のある働きは、受肉を必要としない。また、生身の体を必要とする働きは霊には直接できないもので、受肉した神だけが可能なのだ。これがこの働きに必要なものであり、また、堕落した人間に必要なものなのだ。神の働きの三つの段階では、一つの段階だけが霊によって直接行われた。そして残りの二つの段階は受肉した神が実行し、霊が直接働くことはない。霊が行った律法の時代の働きは、堕落した人間の性質を変えることを伴わず、神について人間が知ることと何の関わりもないものだった。しかしながら、恵みの時代と神の国の時代の受肉した神の働きは、人間の堕落した性質と神についての認識に関わるもので、救いの働きにおける重要かつ不可欠な部分である。だから、堕落した人間は受肉した神による救いを、受肉した神の直接的な働きをさらに必要とする。人間には、受肉した神が導き、支え、水をやり、養い、裁き、罰する必要がある。そして、受肉した神からのさらなる恵みと贖いが必要だ。受肉した神だけが人間の親友となり、牧者となり、現実に存在する助けとなることができる。これらすべてが現在と過去において受肉が必要とされる所以である。

   人間はサタンのせいで堕落したが、神の被造物のうちで最高のものだ。そこで、人間には神による救いが必要だ。神の救いの対象はサタンではなく人間であり、救われるべきものは人間の肉、人間の魂であり、悪魔ではない。サタンは神が滅ぼす対象であり、人間は神に救われる者である。人間の肉はサタンによって堕落させられた。だから、まず人間の肉が救われなければならない。人間の肉は極めて深く堕落しており、神に敵対するものになっている。そして、公然と神に敵対し、神の存在を否定しさえする。この堕落した肉は、まったく手に負えない。堕落した肉の性質以上に扱いにくく、変えにくいものはない。サタンは人間の体に入って混乱させ、人間の体を使って神の働きを妨害し、神の計画を妨げる。それゆえ人間はサタンとなり、神の敵になった。人間が救われるには、まず征服されなければならない。このため、神は挑戦に立ち上がり受肉した。働きを行い、サタンと戦うためである。神の目的は堕落した人類の救いと、自分に抵抗するサタンを打ち破り、滅ぼすことである。神は人間を征服する働きによってサタンを破り、同時に堕落した人間を救う。そうして、神は二つの問題を一度で解決する。神は肉において働き、肉において語り、すべての働きを肉において行う。人間とよりよく交わり、よりよく征服するためである。この神の最後の受肉において、世の終わりの神の働きは肉において完了する。神は受肉したままですべての人間を種類によって分け、すべての経営(救い)の働きを終え、また、肉における働きをもみな終える。地上での働きがすべて終わると、神は完全な勝利者となる。受肉して働いた神は完全に人間を征服し、人間をすべて自分のものとしている。これは、神による救いの計画がすべて終わるということではないか。神が肉における働きを終えるとき、サタンを完全に打ち破り、勝利するので、サタンには、もはや人間を堕落させる機会がない。神が最初に受肉したときの働きは、人間の罪の贖いと赦しであった。次の働きでは、人間を征服し、完全に自分のものとし、サタンがもはや働けないようになって完全に敗れ、神が完全な勝利者となる。これが肉の働きであり、神自身が行う働きなのだ。神の三段階の働きの最初のものは、霊が直接行ったもので、肉によるものではなかった。しかしながら、神の三段階の働きの最後のものは受肉した神が行うもので、霊が直接行うものではない。中間段階の贖いの働きもまた、神が受肉して行った。全経営(救い)の計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への崇敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする、つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営(救い)の働きの核心である。救いの三段階の働きのうち、最初の段階の律法の時代の働きは、救いの働きの核心から遠いものだった。ただ救いの働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変化はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営(救い)の核心にほとんど関係がなく、人間の救いという正式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の行った働きは隠された、測り難いものであり、人間には恐ろしくて近寄りがたいものであった。霊は直接救いの働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営(救いの)計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営(救い)の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう──神の二回の受肉の働きがなければ、経営(救い)の計画全体は停止し、人類の救いの働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。誰が任務にふさわしいかは、その働きの性質と重要性とによって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊の働きの性質対肉の働きという観点からは、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉とどちらの働きをするかの決定の際の、これが神の判断であった。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。

   受肉した神の働きは最も意義深い。それは働きについての語りであり、最終的に働きを終えるのは受肉した神であって、霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人も逃さず人を一人一人試みつつ、全人類を自ら裁くと信じている人々がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人一人裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。堕落はすべての人間に共通しているのではないか。人間の本質は、みな同じなのではないか。裁かれるのは人間の堕落した本質、サタンのせいで堕落した人間の本質、そして人間の罪全部である。神は人間の些細で無意味な過ちを裁かない。裁きの働きは代表によるもので、特に誰かのために行うものではない。そうではなくて、この働きでは、一群の人々が人類を代表して裁きを受けるのである。受肉した神が自ら一群の人々に働きかけ、全人類に施す働きを代理的に行うと、その後、それが徐々に広まる。裁きの働きも、そのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、全人類の不義を裁く──例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害等。裁かれるのは人間の神への敵対の本質であって、この働きは終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が考えたものである。今、受肉した神が行っている働きは、まさに、大きな白い玉座の前での裁きである。今日の受肉した神は、終わりの日にすべての人間を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そしてすべての性質が神の総体である。神の肉の働きの規模は限られているし、直接全宇宙に関わるものではないが、裁きの働きの本質は、全人類への直接の裁きである。これは、中国に対してのみ行われるものではなく、少数の人々にだけ下るものでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表し、受肉した体の作業範囲の働きを終えた後、神は直ちにこの働きを全宇宙に広める。イエスの福音がそのよみがえりと昇天の後で全宇宙に広まったように。それが霊の働きであろうと、肉の働きであろうと、限られた範囲だけにおいて実行される働きであるが、全宇宙への働きを代表するものなのである。終わりの日、神は受肉した体で働くために出現する。そして、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神なのである。霊でも肉体でも、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人間を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたものであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうしたことばについての観念をもっているが、受肉した神がすべての人間を裁き、征服することは誰も否定できない。人間がそれをどう評価するかに関わらず、事実は、結局のところ、事実である。誰ひとり、「働きは神によるが、その肉体は神ではない」とは言えない。これは戯言だ。この働きは、受肉した神以外にはできないものだからだ。この業はすでに完了しているのだから、この働きの後で神が再び人間を裁く働きをすることはあり得ない。二度目の受肉した神はその経営(救いの)計画全体のすべての働きをすでに完成したのだから、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、肉の体をもち堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではなく、裁きの働きは霊的世界ではなく、人間の間で行われる。人間の肉体の堕落を裁くのには、受肉した神以上に相応しいものはおらず、受肉した神以上に資格のあるものもいない。もし神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないであろう。そのうえ、そうした働きは人間には受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができず、そのため効果は即座に見られるものでもない。まして、人間が神の侵しがたい性質をより明確に目にすることはできないであろう。もし受肉した神が人間の堕落を裁くなら、はじめてサタンを完全に打ち負かせる。受肉して普通の人間性をもった神は、直接人間の不義を裁くことができる。これが神本来の聖さ、すばらしさである。神だけが人間を裁く資格があり、その地位にいる。神には真理と義があるから、人間を裁くことができる。真理と義のない者には他人を裁くことができない。この働きが神の霊によって行われたなら、それはサタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉に優る。もしこの働きを霊が直接行ったならば、神は人間の不服従のすべてを裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた人間の神についての観念を通して行われるからである。人間は霊について何の観念も抱いたことがない。そのため霊には、人間の不義をよりよく露わにすることができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らない者すべての敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人間のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、すべての人間の裁きは霊が直接するのではなく、受肉した神の働きなのである。人間の体をもつ神は、人間が目で見、触れることができる。また、受肉した神は完全に人間を征服できる。この受肉した神と人間との関係において、人間は敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして、拒否から愛へと変わっていく。これが受肉した神の働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることによってのみ救われ、神の口から出ることばによって徐々に神を知るようになり、神に敵対している間に神に征服され、神の刑罰を受けている間にいのちの糧を受ける。この働きはみな受肉した神の働きであって、霊としての神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深い働きであり、神の働きの三段階のうちの最も大事な部分は、受肉による働きの二つの段階である。人間の甚だしい堕落は、受肉した神にとって大きな障害である。とりわけ、世の終わりの人々に対する働きは極めて困難で、敵意に満ちた環境で、どの種類の人々の素質もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、とどこおりなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神の働きの三つの段階は、肉において終結するだろう。そしてそれは受肉した神によって完結しなければならないのだ。最も重要かつ肝要な働きは肉において為され、人間の救いは神が受肉して自ら行わなければならない。人間はみな、受肉した神が人間と関わりがないと感じるだろうが、実際は、この肉体が、全人類の運命と存在に関わっているのだ。

   神の働きのどの段階も、人間のために行われるもので、それはすべての人間のためなのだ。それは受肉した神の働きであるが、それでもすべての人間を対象とする。神はすべての人間の神であり、すべての被造物とそうでないものの神である。受肉した神の働きは限られた範囲のものであるし、この働きの目的もまた限られているが、神が働きのために受肉するたびに、神は、その働きの対象として究極的な代表を選ぶ。神は単純で平凡な集団を働きの対象とはせず、肉の働きの代表となるだけの能力ある集団を選ぶ。この集団が選ばれるのは、神が受肉して行う働きの範囲が限られているためで、受肉した神のために特に用意され、受肉した神の働きのために特に選ばれるのである。神が働きの対象を選ぶのは、根拠のないことではなく、原則による。働きの対象は、受肉した神の働きに有益なものでなければならず、また、すべての人間を代表する者でなければならない。たとえば、ユダヤ人はイエス自らによる贖罪を受け容れることで全人類を代表することができた。また、中国人は受肉した神自身による征服を受け容れることで全人類を代表できる。ユダヤ人が全人類を代表したことには根拠がある。また中国人が、神自らによる征服を受け容れることで全人類を代表することにも根拠がある。ユダヤ人の間で行われた贖いの働き以上に贖いの意義を示すものはない。また、中国人の間での征服以上に征服の働きの完全性と成功を明らかにするものもない。受肉した神の働きと言葉は、少数の集団にだけ向けられているもののように見えるが、実際は、この小集団のもとでの神の働きは全宇宙の働きであって、その言葉は全人類に向けられたものなのだ。受肉しての神の働きが終わった後、神に従う人々は、自分たちの間で神が行った働きを広めることとなる。受肉した神の働きで最もよい点は、神に従う人々に正確な言葉と勧告、人類への正確な心を残せるため、受肉した神の働きと全人類に向けられた心とを、後に信者たちがこの道を受け入れる人々により正確に、具体的に伝えられる点にある。受肉した神の人間の間での働きだけが、神が人間と共に存在し、生きている事実を真に確立できる。この働きだけが、神の顔を見たい、神の働きに立会い、神の直接的な言葉を聞きたいという人間の欲求を満たす。受肉した神は、ヤーウェの後ろ姿だけが人間に示された時代を終わらせ、また、漠然とした神への人間の信仰の時代を終わらせる。とりわけ、最後に受肉した神の働きは、すべての人間により現実的で実践的な快い時代をもたらす。神は律法と教義の時代を終わらせるだけではなく、もっと重要なことに、現実的で正常で、義であり聖なる神、経営(救いの)計画を明らかにし奥義と人類の運命を示す神、人間を創り、救いの働きを完了し、数千年にわたって隠されていた神を人類に明らかにするのだ。神は漠然の時代を完全に終わらせ、全人類が神の顔を求めても見つけられなかった時代を終わらせる。神は、すべての人間がサタンに仕えた時代を終わらせ、すべての人間をまったく新たな時代へと完全に導く。これはみな神の霊ではなく、受肉した神の働きの結果なのだ。神が受肉して働くと、神に従う者たちは、もはや漠然とした不可解なものを手探りで求める事をせず、漠然の神の心を推測することをやめる。神が肉における働きを広めると、神に従う人々は、神が受肉して行った働きをすべての宗教、すべての宗派に伝え、その言葉全部をすべての人間の耳に伝えるだろう。神の福音を受ける者が聞くことはみな、神の働きの事実で、人間が自分で見たり聞いたりしたこと、事実であって、噂ではない。こうした事実は神がその働きを広める証拠であり、また、その働きを広めるために用いる道具である。事実がなければ、神の福音はすべての国々、あらゆる場所に伝わらない。事実なしで人間の想像だけであれば、神はけっして全宇宙を征服する働きを行うことはできない。霊は人間には触れることのできないもので、人間には不可視で、霊の働きは神の働きのそれ以上の証拠も事実も人間に残せない。人間はけっして神の本当の顔を見ないだろうし、存在しない漠然とした神をいつまでも信じているだろう。人間はけっして神の顔を見ないし、また、直接神が語る言葉を聞くこともない。人間の想像するものは、結局のところ、むなしく、神の真の顔に取って代われない。神の本来の性質、神自身の働きは、人間がまねる事ができない。目に見えない天の神とその働きは、受肉した神が自ら人間の間で働いて、はじめて地上にもたらされる。これが、神が人間に姿を現す最も理想的な方法であり、この方法により人間は神を見て、神の真の顔を知る。そして、これは受肉しない神では不可能なことだ。神はこの段階まで働きを実行しているので、その働きはすでに最高の結果を生み出しており、完全な成功である。神が受肉して直接行った働きは、すでに彼の経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。

   肉となった神の働きの各段階は、その時代全体の働きを代表するもので、人間の働きのように特定の期間を代表するものではない。だから、神の最後の受肉の働きの終わりは、神の働きが完了したということではない。受肉しての神の働きは、時代全体を代表するもので、神が人間として働いた期間だけを代表するものではないからだ。これは、神は受肉している期間に、その時代のすべての働きを終えるというだけで、そのあとは、その働きはあらゆるところに広まる。受肉した神はその任務を終えた後、将来の働きを神に従う人々に託す。このようにして、その時代全体の神の働きが途絶えることなく続けられる。受肉した時代全体の働きは、それが全宇宙に広まってはじめて完了したとみなされる。受肉した神の働きは新たな時代を開き、神の働きを続ける人々は、神に用いられる者たちだ。人間による働きはみな、受肉した神の職分の範囲内で、その範囲を出るものではない。もし受肉した神が働きを行うために来なければ、人間は古い時代を終わらせることができず、新たな時代を開くこともできない。人間による働きは、単に人間に可能な範囲の任務であり、神の働きの代わりにはならない。受肉した神だけが、するべき働きを完了するべく来ることができるのであり、神をおいては誰一人代わってその働きをすることができない。もちろん、わたしの言っているのは、受肉しての働きのことである。この受肉した神は、人間の観念に合致しない段階の働きを行い、その後、神はさらに別の、人間の観念に合致しない働きをする。働きの目的は人間を征服することである。ある意味で、神の受肉は人間の観念に合致しない。さらに、神は人間の観念に合致しない働きをするので、人間は神についてますます批判的な意見をもつようになる。神はただ、神についてさまざまな観念を持っている人間の間で、人間を征服する仕事をする。人間がどのように神を扱おうと、神はその務めを果たし、人間はみな、神の支配下に入っていることだろう。この働きの事実は、中国人の間に反映されるだけではなく、すべての人間がいかに征服されるかをも表している。こうした人々になされた成果は、すべての人間になされる働きの成果を予め告げるものであり、神が将来行う働きの成果は、こうした人々に対する成果を上回るだろう。受肉した神の働きは鳴り物入りで宣伝されるようなものではないし、神秘の霧に包まれているものでもない。それは具体的な事実であって、一足す一が二である働きなのである。それはすべての人から隠されているものではなく、また、誰をも欺くものではない。人々が見るのは事実であり、現実的なものであって、人間が得るものは、本当の真理と認識である。働きが終わると、人間は神について新たな認識を得、真に神を求める者は、もはや神に関して何の観念ももたない。これは、神の働きの中国人に対する影響だけではなくて、人類全体を征服する神の働きの効果を表すものだ。人類全体を征服する働きにとって、この肉体、この肉体の働き、肉体のすべて以上役立つものはない。それらは今日の神の働きに有益で、将来の神の働きにも役立つ。この肉体はすべての人々を征服し、すべての人々を自分のものとする。人類全体が神を見、神に従い、神を知るためにこれより優れた働きはない。人間のする働きは単に限られた範囲のものであるが、神がその働きを行うときは、特定の人にだけ語りかけるのではなく、全人類、神の言葉を受け入れる者すべてに語りかけるのである。神の告げる終わりはすべての人間の終わりであって、特定の人だけの終わりではない。神は誰かを特別扱いしないし、誰かを不当に罰することもない。そして、神は人類全体のために働き、話しかける。だから、この受肉した神は、すでに全人類をその種類によって分け、すでにすべての人々を裁き、全人類に相応の終着点を定めている。神はその働きを中国でだけ行っているが、実際は、すでに全宇宙の働きを定めている。神は、言葉を発して計画を一歩一歩進める前に、自分の働きがすべての人間に広まるのを待つわけにはいかない。それでは遅すぎるのではないか。今、神は将来の働きを予め終えることが完全に可能だ。働いているのは受肉した神なのだから、無限の働きを限られた範囲で行い、その後で、人間がするべき務めを人間が果たすようする。これが、神の働きの方針である。神は一時的に人間とともに生活できるだけで、時代全部の働きが完了するまで人間と共にいることはできない。それは、神が予め自分の働きを予言する神だからである。後に、神は言葉によってすべての人類をその種類にしたがって分け、人類は言葉にしたがって、神の順を追った働きに入る。誰一人免れない。誰もがその通りに行わなければいけない。だから、将来、時代は言葉によって導かれるのであって、霊によって導かれるのではない。

   受肉した神の働きは、肉において行われなければいけない。もし霊が直接行ったとしても、それは何の成果も得られないだろう。たとえ霊が行ったとしても、その働きはこれといった意味をもたず、結局は説得力を欠くであろう。被造物はみな、創造主の働きが有意義なものであるかどうか、それは何を示すのか、それは何が目的なのか、神の働きは権威と知恵に満ちたものなのかどうか、また、それが最高の価値と意義のあるものなのかを知りたいと願う。神が行う働きはすべての人間の救いのためであり、サタンを打ち破るためであり、そして万物のもとで自身の証をするためである。だから、神の行う働きにはまことに重要な意味があるはずだ。人間の肉はサタンによって堕落し、最も深く盲い、まことに深く損なわれた。神自らが受肉して働く最も根本的な理由は、救いの対象が肉の体をもつ人間であり、サタンもまた人間の肉を用いて神の働きを妨げているためである。サタンとの戦いは、実は人間を征服する働きであり、同時に、人間はまた、神による救いの対象でもある。このように、受肉した神の働きは不可欠なのだ。サタンは人間の肉を堕落させ、人間はサタンの体現者となり、神に打ち負かされるべき存在となった。このように、サタンと戦って人類を救う働きは地上で行われ、神はサタンと戦うために人間にならなければいけない。この働きは極めて実際的なものだ。神が受肉して働いている時、神は実際はサタンと肉において戦っている。神が肉において働くとき、神は霊的領域の働きをしており、霊的領域での働きのすべてを地上で現実的なものにする。征服される者は神に逆らう人間であり、打ち負かされる者はサタンの体現者(もちろん、これもまた人間)、神に敵対する者であり、最終的に救われる者もまた人間である。このように、神が被造物の外形をもつ人間になることがますます必要なのは、神がサタンと真の戦いを行えるようにであり、それにより神に対して不服従で神と同じ姿をもつ人間を征服し、神と同じ姿をもちサタンによって損なわれた人間を救うためである。神の敵は人間、その征服の対象は人間、救いの対象も神の被造物である人間だ。そこで、神は人間とならなければいけない。そのほうが、ずっと働きをしやすくなるのだ。神はサタンに勝利し、人間を征服し、そのうえ、人間を救うことができる。この肉は普通で現実のものであるが、神はありふれた肉体ではない。神は単に人間である肉体なのではなく、人間と神の両方ある肉体なのだ。これは神と人間との違いであり、これが神の身分のしるしなのだ。このような肉体にだけ、神の意図する働きができ、肉における神の務めを果たし、人間たちの間での働きを完了できる。そうでなければ、神の人間たちの間での働きは、いつも空虚で不完全なものとなる。神がサタンの霊と戦って勝利者となることができても、それでは堕落した人間の古い本性はけっして直せないし、神に不服従で敵対する者たちは、けっして真に神の支配に服従することもできない。つまり、神はけっして人類を征服することができず、けっして人類全体を得られないということだ。神の地上での働きが完了しなければ、神の経営(救い)はけっして終わらず、全人類は安息に入ることができない。もし神がすべての被造物と共に安息に入れなければ、このような経営(救い)の成果はなく、神の栄光はその結果消える。神の肉体には何の権威もないが、神の行う働きは成果を達成していることだろう。これが神の働きの明確な方向である。神の肉体に権威があるかどうかにかかわらず、神としての働きを遂行できるならば、それは神そのものだ。この肉体がどれほど普通で平凡なものであっても、神がするべき働きができるのは、この肉が単なる人間ではなく、神だからだ。この肉が人間にはできない働きができるのは、その内なる性質が人間のそれと異なっているためで、それが人間を救えるのは、その身分が人間とは異なるからだ。この肉の体が人類にとって極めて重要なのは、それは人間である、かつそれ以上に神であるからだ。それは通常の人間には不可能な働きが可能だからであり、神には地上で共に暮らす堕落した人間を救うことが可能なためである。神は人間と同じ外見をもつが、受肉した神はどんな重要人物よりも人間にとって重要である。それは神の霊には不可能な働きが可能だからであり、神自身について霊よりも優れた証しができ、神の霊よりも完全に人間を得ることができるからだ。その結果、この肉は普通で平凡であっても、その人類への貢献と人類存在にとっての意義により、この肉体は極めて尊いものとなる。そしてこの肉の真の価値と意味は誰にとってもはかりしれないものがある。この肉は直接サタンを滅ぼすことはできないが、神はその働きによって、人間を征服し、サタンを打ち負かせる。サタンを完全に支配下に下せる。これは、神が受肉したから、サタンに勝利して人類を救うことができるのだ。神は直接サタンを滅ぼしはしないが、サタンによって堕落させられた人類を征服する働きをするため受肉する。このようにして、神は被造物のもとで自分を証しでき、堕落した人間をよりよく救える。受肉した神がサタンを打ち負かすことは、神の霊が直接サタンを滅ぼすよりも偉大な証しであり、より説得力がある。受肉した神は、人間が創造主を知る手助けをよりよく行うことができ、被造物のもとでよりよく神自身を証しできる。

『言葉は肉において現れる』より