賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

信者はどんな見解を持つべきか

2020-01-26 11:54:18 | デボーション

  人が初めて神を信じてから、受け取った物は何だろうか。あなたは神について何を知っただろうか。神を信じて、あなたはどれほど変わっただろうか。今、あなたがたは皆、神を信ずることは、ただ単に魂の救いや、肉の幸福のためでもなく、神の愛を通してあなたがたの人生が豊かになることなどでもないと分かっている。そのように、もしあなたが肉の幸福や一時的快楽のために神を愛するなら、たとえ最後にあなたの神に対する愛が頂点に達し、あなたが何も求めないにしても、このあなたが求める「愛」は依然として汚れた愛であり、神には喜ばれない。自分たちのつまらない人生を豊かにするために神を愛したり、心にぽっかりあいた穴を埋めたりするために神を愛する人たちは楽な生き方を求める人たちで、神を本当に愛することを求める人たちではない。このような愛は人の意志に反し、感情的快楽を追求しており、神はこの種の愛を必要とはしない。では、あなたの愛とはどのようなものだろうか。あなたは何のために神を愛するのか。今あなたはどのくらい神に対して真の愛を持っているのか。あなたがたのほとんどが持っている愛については先に述べた通りだ。この種の愛は現状維持のままでしかない。それは永久的不変性を得ることも、人に定着することもあり得ない。この種の愛は花が咲いた後も実がならず、しぼんでしまう花のようである。すなわち、そのように神を一旦愛した後、誰もその道を導いてくれないと、あなたは倒れてしまうだろう。もし神を愛する時代に神を愛するだけで、その後のあなたのいのちの性質に何の変化も起こさないなら、あなたは引き続き暗闇の力に覆われ、逃れることもできず、サタンに操られ騙されることから解放されることはあり得ないだろう。そのような人は完全に神に得られることはできない。最終的には、彼らの霊、魂、体は依然としてサタンに属していることになる。これに議論の余地はない。完全に神に得られることができない人たちはすべて彼らの本来の場所に戻る。つまり、サタンの所に戻り、神からの次の段階の懲罰を受けるため、火と硫黄との燃える池に落ちるだろう。神に得られる人たちとは、サタンに逆らい、サタンの支配下から逃れる人たちのことである。そのような人たちは正式に神の国の民の中に数えられる。神の国の民はこのようになるのである。あなたはこの種の人になりたいだろうか。あなたは神に得られたいだろうか。サタンの支配下から逃れ、神の元に進んで戻りたいだろうか。あなたは今サタンに属しているだろうか、それとも神の国の民の中に数えられているだろうか。そのようなことは全て明白であるべきで、これ以上説明の必要はない。

  かつて、多くの人たちは野心や観念、そして自分たちの希望のために追求した。これらの事を今ここで議論はしない。あなたがた一人一人が神の前で正常な状態を維持することができ、サタンの支配の足かせから次第に自由になることができる実践方法を見つけることが鍵である。そうすれば、あなたは神に得られ、神があなたがたに願っている通りの生き方ができる。これこそ神の願いが成就できる唯一の方法である。多くの人たちは神を信じているが、神が願っていることは何で、サタンが望んでいることは何かを知らない。彼らはばかげた信じ方をし、盲目的に周りの人間について行き、クリスチャンとしてのまともな生活を送ったことがない。彼らは正常な人間関係を持つこともなく、神と正常な関係を持つことなど無論なかった。このことから、私たちは人間の問題や欠陥、神の心を邪魔する要因がたくさんあることが分かる。これは人が正しい軌道に乗っておらず、本当の人生を経験していないことを証明するのに十分である。それでは正しい軌道に乗るとはどういうことだろうか。正しい軌道に乗るとはあなたが神の前でいつも心を静め、神と正常に交わり、自分には何が欠けているか次第に知るようになり、次第に神についてもっと深い認識を得ることである。これにより、あなたの霊は日ごとに新たに目が開かれ、導きと示しを与えられるだろう。あなたは更に切望し、真理に入ることを求めるようになる。毎日新しい光と新しい認識が存在する。この道を通して、あなたは次第にサタンの支配から自由になり、あなたは霊的に大きく成長する。このような人こそ正しい軌道に乗った人である。あなたの実体験を評価し、上記に述べたことに照らし合わせて、神の信仰においてあなたが取った道を考察しなさい。あなたは正しい軌道の乗っている人だろうか。どんな事において、あなたはサタンの足かせとサタンの支配から自由になったのだろうか。もしあなたがまだ正しい軌道に自分自身を乗せていないなら、あなたとサタンのつながりを切断していない。そうであれば、神への愛を追求することは、本物で、献身的で純粋な愛が結果として得られるだろうか。あなたの神への愛はゆるぎなく心から出ているとあなたは言うが、あなたはまだサタンの足かせから自由になっていない。あなたは神をからかっているのではないか。もしあなたが神への純粋な愛を手に入れ、完全に神に得られ、神の国の民の中に数えられたいなら、あなたはまず最初に自分自身を正しい軌道に乗せなければならない。

 

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神のアブラハムへの約束

2020-01-25 12:46:33 | 聖書の学び

神のアブラハムへの約束

  (創世記:22:16-18)ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

  これはアブラハムに対する神の祝福の全記録である。短い箇所だが、内容は濃い。神がアブラハムに、なぜ、そしてどのような背景で賜物を与えたか、そして何を与えたかが書かれている。神が発した言葉に込められた喜びと感激、そして自身の言葉に耳を傾けることのできる者を一刻も早く自分のものとしたいという思いがそこには込められている。神の言葉に従い、命令に従う人々に対する神の愛情と優しさを読み取ることができる。そして、神が人々を自身のものとするために払う代価と、注ぐ慈しみと思いを見ることもできる。さらには、この「わたしは自分をさして誓う」という言葉を含むこの箇所は、自身の経営(救いの)計画の働きの背後にある、唯一神のみが背負う苦悩と痛みの強烈な感覚をわたしたちに与える。この箇所を通して考えることは多く、後に続く者達に特別な意味を持ち、非常に大きな影響を与えるものだ。

人間はその誠実さと従順さゆえに神の祝福を受け取る

  ここから読み取れるアブラハムに対する神の祝福は非常に大きなものではないだろうか。どれほど大きいだろうか。その答えの鍵となるのが次の言葉だ。「また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。この言葉が示すものは、アブラハムは後にも先にも見たことのないような大きな祝福を受けたということである。神が命じたとおり、アブラハムは自分の愛するひとり息子を神に帰した。(注:この場合、「捧げた」と言わずに、神に「帰した」と言うべきである。)神はアブラハムがイサクを捧げることを許さなかっただけでなく、アブラハムを祝福した。どのような約束をもってアブラハムを祝福したのだろうか。彼の子孫を繁栄させるという約束をもってである。どれ位の数になると言っているだろうか。聖書に次のように書かれている。「天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう」。神のこの言葉にはどのような背景があったのだろうか。つまり、アブラハムは神の祝福をどのように受け取ったのだろうか。それは聖書に書かれている通りだ。「あなたがわたしの言葉に従ったからである」。つまりアブラハムは神の命令に聞き従い、神の言ったこと、要求したことを一切不平を言わず全て行ったゆえに、神はそのような約束をした。この約束には当時の神の考えを示す重要な文章が含まれている。それに気づいただろうか。「わたしは自分をさして誓う」という神の言葉に、あなた方はそれほど注意を払っていなかったかもしれない。だが、神はこの言葉を通して、自身を指して誓ったのだ。人が誓いを立てるときには、何を指して誓うだろうか。天を指して誓う、つまり、神に対して宣誓し、神に対して誓う。神が自身を指して誓うという状況を人々はあまり理解しないかもしれないが、わたしの正しい説明を聞けば理解できるようになる。神の声は聞けるがその心を理解することはできない人間と向き合う神の心はまたしても寂しく、神は戸惑った。切羽詰まって、そして無意識にと言ってもよいだろう、神は極めて自然なことをした。自身の胸に手を置き、アブラハムへの賜物を自身を通して約束した。そして人は、「わたしは自分をさして誓う」という言葉を聞いたのである。この神の行動にあなた自身を照らしあわせてみるだろうか。あなたが自分の胸に手を当てて自身に語るとき、その言葉をはっきり理解できるだろうか。誠実な態度でそうできるだろうか。心から、率直に語るだろうか。そう考えると、神はここでアブラハムに対し、真心から、誠実に語ったことが分かる。アブラハムに語りかけ祝福したと同時に、神は自身にも語っていた。神は自身にこう語っていた。「わたしはアブラハムを祝福する。彼の子孫を天の星のように、海辺の砂のように増し加える。彼はわたしの言葉に従った者であり、わたしが選んだ者だからだ。」神が「わたしは自分をさして誓う」と言った時、神はアブラハムを通して選ばれしイスラエルの民を生み出すことを決意し、その後自身の業により速やかに導いたのである。つまり、神はアブラハムの子孫が神の経営(救いの)担い手となり、神の働きと神により現わされたものがアブラハムから始まり、アブラハムの子孫に受け継がれ、そうすることで人の救いを実現するようにしたのである。これが祝福とは言わないだろうか。人間にとって、これ以上の祝福はありえない。これが最大の祝福と言える。アブラハムが受け取った祝福は子孫が増えることではなく、アブラハムの子孫における神の経営(救い)、神の任務、そして神の働きである。つまりアブラハムが受け取った祝福は一時的なものではなく、神の経営(救いの)計画と同時進行で継続されるものなのだ。神が語り、自身を指して誓った時、神はもう心を決めていた。この決断の過程は真実だろうか。本当にそのような決断があっただろうか。神はこの時、アブラハムとその子孫のために苦労し、代価を払い、自身と自身が持っているもの、自身全てを、生命までも差し出すと決めた。そしてまずこの人々に自身の業を現わし始め、人間が自身の知恵と権威、そして力を見るようにすると決めた。

神を知り、神の証しとなる者を自身のものとすることが神の変わることのない願いである

  神は自分に対して語ったのと同時にアブラハムにも語ったが、果たしてアブラハムは、神の語った祝福以外に神の真の願いをその言葉から理解することができただろうか。できなかった。それゆえに、神が自身を通して誓ったその時、神の心は未だに孤独で、悲しんでいた。この時、神の意図や計画を知る人や理解できる人はひとりもいなかった。この時点では、アブラハムを含め、神と親密に話すことのできる者はおらず、まして神がしなくてはならない働きに協力できる者などいなかった。表面上は、神は自分の言葉に従うアブラハムを得たかのように見えるが、実際は、アブラハムの神への認識は無に等しいものだった。神はアブラハムを祝福したが、神はまだ満足してはいなかった。神はまだ満足してはいなかったとはどういうことだろうか。それは神の経営(救い)はまだ始まったばかりであり、神が自分のものとしたいと望んでいる人々、会いたいと思っている人々、愛した人々はまだ神から離れていたということである。さらに時間が必要で、待つ必要があり、忍耐する必要があった。と言うのは、神自身以外に神が必要としているものを知るものはおらず、神がなにを得たいか、何を望んでいるかを知るものもいなかったからである。それゆえ、神は非常に感激したのと同時に、心は重かったのである。それでも神はその働きをやめることはなく、やらなければならない働きの次の段階を計画した。

  あなた方は神のアブラハムに対する約束に何を見るだろうか。神は、アブラハムが神の言葉に従った、ただそれゆえにアブラハムに大いなる祝福を授けた。表面的にはこれはごく普通のこと、また当然のことに思えるが、そこには神の心を見ることができる。神は人の従順さを特に大切にし、自身に対する理解と誠実さを尊ぶ。神はどれくらいこの誠実さを尊ぶのだろうか。どれほど尊ぶか、あなた方には理解できないかもしれないし、理解できる人はひとりもいない可能性も十分ある。神はアブラハムに息子を与えた。そしてその息子が成長した時、神はアブラハムにその息子を自分に捧げるように命じた。アブラハムは文字通り神の命令に従い、神の言葉に従った。その誠実さを神は非常に尊いものとした。どれくらい神はそれを尊んだだろうか。なぜ尊んだのだろうか。神の言葉や心を理解できるものが誰もいなかった当時、アブラハムのしたことは天を揺るがし地を震えさせた。それは神に、それまで感じたことのない満足感を与え、自分の言葉に従うことのできる人間を得たことの喜びをもたらした。この満足感と喜びは、自身が手で創った被造物から生まれた。これが、人間が神に捧げた最初の「捧げもの」となり、人間が創造されて以来最も神に尊ばれた。神はこの捧げ物を待ち焦がれており、この捧げ物を、自分が創造した人からの最も価値ある贈り物として大切に思った。それは神の努力と払った犠牲に対して初めて実りを示すものとなり、これによって神は人間に希望を見出した。その後神は、アブラハムのような人間の群れが自身に伴い、誠実に自身と向き合い、誠実に自身を慈しむことを更に強く望んだ。神はアブラハムが生き続けることすら望んだ。自身の経営(救い)を継続するのに、アブラハムのような心を持った人間を伴いたかったからである。だが神が何を望もうと、それは望みでしかなく、思いだけでしかなかった。アブラハムは神に従うことのできる人間であっただけで、神に対する理解や認識を全く持ち合わせていなかったからである。神を知り、神の証しとなり、神と同じ思いになるという神の要求の基準に対し、アブラハムは遠く及ばない人間であった。それゆえに、彼は神と共に歩むことができなかった。イサクを捧げるアブラハムに、神は誠実さと従順さを見、神からの試練に耐えたことを知った。神はアブラハムの誠実さと従順さを受け入れたが、それでも神の親友となり、神を知り、理解し、神の性質を知らされるに相応しくはなかった。神と思いを同じくし、神の心をなす者にはほど遠かった。ゆえに、神はまだ寂しく不安であった。その寂しさと不安が増せば増すほど、極力自身の計画を迅速に進める必要があり、経営(救いの)計画を全うしてその心を一刻も早く全うするために人々を選び、自身のものとする必要があった。それは神の切実な願いであり、初めの時から今日まで変わらない。神が人を造った当初から、勝利を獲得できる人々、自身と歩み理解し、深く知り、その性質を理解できる人々を神は求めていた。この神の願いはずっと変わらない。どれほど待たなければならないとしても、どれほどその行く手が困難でも、目的とするものがどれほど遠くても、神は人間に対する期待を変えたり諦めたりしたことはない。ここまでの話を聞いて、神が望むことを何か理解できただろうか。おそらくまだそれほど深くは理解できていないだろうが、徐々に理解できるようになる。


逆境の最中に神の愛を味わう

2020-01-24 13:18:44 | 福音を証しするシリーズ

  私は1980年代にある村で生まれ、一家は代々続く農家でした。大学に進んで貧しく遅れた村の生活から抜け出そうと、私は学業に没頭しました。高校に入って「西洋美術史」と出会い、「創世記」「エデンの園」「最後の晩餐」など数々の美しい絵画を目にしたとき、宇宙には万物を創造なさった神がいらっしゃるのだと初めて気づきました。私は神への憧れで心が一杯になるのを抑えられませんでした。大学卒業後はよい仕事をたやすく見つけ、素晴らしい伴侶を得ました。ようやく自分の願いと先祖の希望が叶ったのです。私は地面を相手に働く先祖代々の農業生活から逃れ、2008年に子供が生まれると、人生はさらなる喜びに満ち溢れました。人生で得たすべてのものを見渡しながら、自分は幸せで快適な人生を送るに違いないと信じました。しかし、人も羨む美しい生活を送る一方で、心の奥にある漠然とした虚しさを振り払うことができませんでした。それは私をとても困惑させ、無力感を覚えさせたのです。

  2008年11月、家族が全能神の終わりの日の福音について教えてくれました。神の御言葉を通して、神が人類のいのちの源でいらっしゃること、神の御言葉が私たちのいのちの活力であり、柱であることをようやく理解しました。神から私たちのいのちへ授かった糧と滋養を捨ててしまうと、私たちの心は空虚で孤独なものとなり、物質的な喜びをどれほど得たところで、心と霊が必要とするものを満たすことは決してできないのです。全能神も次のようにおっしゃっています。

  「人間は結局、人間に過ぎない。神の地位といのちに取って代われる人間はいない。人類は、誰もが食べる物に満ちたり、平等かつ自由である公平な社会だけではなく、神の救いと神によるいのちの満たしが必要なのである。神の救いといのちの満たしを受けて初めて、人間の欲求、探究心、そして霊的空虚感が解決されるのである。」(『言葉は肉において現れる』の「神は全人類の運命を支配する」より)神の御言葉は砂漠のオアシスのように私の心と霊を洗い流し、心の混乱を解放しました。このとき以来、私は強い飢えと乾きを癒やすように神の御言葉を読み、心がようやく故郷に戻ってきたような、言葉では表わせない安心感を常に覚えました。それから程なくして、教会の取り計らいによって数名の兄弟姉妹と会うようになりましたが、彼らはどんな悪天候でも絶えず私に会いに来てくれました。その頃、私は多くのことを理解していませんでしたが、彼らはいつも辛抱強く私と交わってくれました。かすかな苛立ちを見せることも、私に調子を合わせることもなかったので、これらの兄弟姉妹の誠実さと愛を深く感じました。より多くの真理を理解するにつれ、人類をお救いになる神の切実な希望を理解し始めました。また、兄弟姉妹がとても熱心に自分を費やし、神の福音を伝えていることもわかりました。私も自分の本分を尽くしたいと思いましたが、子供が小さく面倒を見てくれる人が他にいなかったため、道を開いてくださるよう神に祈るだけでした。その後、幼稚園を運営している姉妹がいることを聞き、彼女のもとに子供を預けることにしました。彼女はためらうことなく子供の世話を手伝うと約束してくれたうえ、学費や食費さえ受け取りませんでした。そのときから、この姉妹は日中だけでなく夜間も子供の世話を手伝ってくれました。私はこの姉妹の行動に深く感動しましたが、これはすべて神の愛から来ているものだと知っていました。神の愛に報いるため、私はためらうことなく福音を宣べ伝える活動に加わりました。福音を伝えていると、神の輝きに照らされておらず、悲しい状況にいる人たちを次々と目にしました。彼らの辛い人生の嘆きを聞き、彼らが神による終わりの日の救いについて知った後、その顔が喜びと幸福で満たされるのも目の当たりにしました。このことは、私の福音伝道への情熱をよりいっそう駆り立てました。そして私は、暗闇の中で暮らし光に飢えているより多くの人々に神の福音をもたらす決意をしました。しかし、ちょうどその頃、中国共産党政府が兄弟姉妹への厳しい弾圧と追及を開始し、私もこの災難を受けることになりました。

  それは2012年12月21日の午前のことでした。十数人の兄弟姉妹があるホストファミリー宅で集会をしていると、突然ドアをけたたましくノックする音と、怒鳴り声が聞こえました。「ドアを開けろ!ドアを開けろ!家宅捜索だ!」姉妹の1人がドアを開けると、6、7人の警官が警棒を振り回しながら突入してきました。彼らは私たちの間に乱暴に分け入り、引き出しをあさり始めました。若い姉妹が進み出て、「私たちは友人の家に集まっていただけで、違法行為はしていません。どうして家宅捜索しているのですか」と尋ねると、その警官は強い口調で「言うことを聞け!俺たちがそこに立ってろと言ったら、そこに立ってるんだ。俺たちが話せと命じてないなら、黙っていろ!」と答えました。そして彼女を乱暴に床に投げ飛ばすと、「反抗する奴は叩きのめしてやる!」と怒鳴りました。彼女の爪は割れていて、指から出血していました。警官の悪意に満ちた顔を見て憎しみと恐怖を感じた私は、私に強さと自信を与え、神の証しに立てるよう私をお守りくださいと、心の中で神に祈りました。祈り終えると心がかなり落ち着きました。警官は伝道に使う資料と神の御言葉の書籍を多数押収し、私たちをパトカーへと追い立てました。

  警察署に着くやいなや、警察は私たちの所持品をすべて押収し、名前と住所を訊いたあと、教会のリーダーは誰かと問いました。私は家族を巻き込むことを恐れて何も話さず、もう1人の姉妹も無言でした。そのため、警察は私たちがリーダーだと考え、別々に尋問する準備を始めました。そのとき、私は強い恐怖を感じました。警察は地元以外の人間が相手だと特に残酷になると聞いており、その自分が尋問対象とされたのです。それは間違いなく、残忍な行為と不運を意味していました。私が心を乱して恐怖に陥っていると、すぐそばにいた姉妹が「神よ、あなたは私たちの岩であり、私たちの避難所です。サタンはあなたの足元にひれ伏す存在で、私はあなたの御言葉に従って生き、証を立ててあなたに満足していただきます」と祈るのが聞こえました。それを聞いて心が明るくなり、次のように考えました。「その通りだ。神は私たちの岩でいらっしゃり、サタンは神の足元にひれ伏す存在だ。何を恐れる必要があるだろう。神に頼り、神に協力する限り、サタンを打ち負かすことができるだろう」突然、私は恐怖を感じなくなり、それと同時に恥ずかしさを覚えました。この姉妹はこんな状況に遭遇しても神の御言葉に頼って生きることができ、神への信頼を失っていません。一方の私は臆病で意気地なしです。神を信じる者の気骨がまったくないのです。神の愛と、私を力づけ助けてくれたその姉妹の祈りのおかげで、私は警察の横暴な力に対する恐れを感じなくなりました。そして心の中で次のように決心しました。「今日、私は逮捕されたけれど、きっと証しを立てて神に満足していただこう。神を失望させる臆病者には決してならないわ」。

  10時頃、2名の警官が私に手錠をかけ、私だけを尋問室に連行しました。警官の1人が地元の方言で話しかけましたが私には理解できず、何と言ったのかと聞き返しました。すると意外にも、この質問に警官たちは激怒しました。警官の1人が叫びながら立ち上がり、「お前は俺たちを尊敬していない!」と怒鳴りながら私のほうに駆けてきて、髪の毛を掴んで頭を前後に揺さぶりました。私はめまいを感じてひっくり返り、頭皮が剥がれて髪が引き抜かれたような気がしました。その直後、今度は別の警官が私のもとに駆け寄り、「痛い目に遭わせなきゃならんようだな。白状しろ!誰に言われて福音を伝道したんだ」と叫びました。私は怒り心頭で、「福音の伝道は私の本分よ」と答えました。そう口にした瞬間、最初の警官が再び私の髪を掴んで顔を平手打ちしながら、「それならもっと伝道させてやるぞ!もっと伝道させてやる!」と怒鳴りました。そして、私の頬が赤かぶのように赤くなり、痛みがこもり、腫れ上がるまで、彼は殴り続けました。殴り疲れると私を放し、私から発見した携帯電話とMP4プレーヤーを取り上げて、教会に関する情報を聞き出そうとしました。私は知恵を絞って彼らに対処しようとしましたが、1人の警官が出し抜けに「お前はここの人間ではないな。お前の北京語は流暢すぎる。明らかにそこら辺の奴とは違う。正直に言え!なぜここに来た。誰に送られた。お前たちのリーダーは誰だ。ここの教会にどのように接触したんだ。お前の住所はどこだ」と訊きました。警官たちが私を重要人物とみなし、あくまで私から教会の情報を聞き出そうとするのを耳にして、口から心臓が飛び出そうになりました。そこで自信と力を与えてくださるよう神に求めました。祈りのおかげで心が次第に落ち着き、「私は何も知りません。」と答えました。その返事を聞くと、彼らは激しくテーブルを叩いて「ちょっと待ってろ。すぐに思い知らせてやる!」と叫びました。そして私のMP4プレーヤーを取り上げ、再生ボタンを押しました。私はとても怖くなりました。彼らがどんな手段を使って私を取り扱おうとしているのかがわからず、急いで神様を呼び求めました。いのちへの入りに関する交わりがここで再生されるとは思ってもいなかったのです。「あなたがたは、そのような人間が救われると思っているのですか。そのような人はキリストへの献身がなく、キリストと心を一つにしていません。そのような人は試練に遭遇すると、キリストから離れて独自の道を進みます。神に背を向けてサタンに従うのです……赤い大きな竜の治世で神の働きを経験するあいだ、赤い大きな竜に背を向けて神の側に立てるならば、どのような迫害や追及や抑圧があろうと、神に絶対的に従い、死ぬまで神に身を捧げることができます。このような人だけが「勝利者」と呼ばれるにふさわしく、神と心を共にしている人と呼ばれるにふさわしいのです(『いのちへの入りに関する説教と交わり IV』収録の「救われて完全にされるために入らなければならない神の御言葉の10の現実」より)。「キリストから離れ」という言葉を聞いて、心が刺されたように痛みました。主イエスが働きをなさっていたとき、主に従ってそのお恵みを享受した人は数多くいたものの、主が十字架にかけられ、ローマの兵士がクリスチャンをこぞって捕縛し始めると、多くの人が恐怖のために逃げ出したことを思い出さずにはいられませんでした。それは神に大きな痛みをもたらしたのです。しかし、これら恩知らずな人々と私の違いは何でしょうか。私は神のお恵みと祝福を享受し、自分は神に従っていると信じ切っていました。しかし、苦しんで代価を払うことが必要な試練に直面すると、臆病になって恐怖を覚えたのです。それでどうして神に安心していただけるでしょうか。無神論者が支配する国、中国で受肉なさることは大きな危険を伴うことを、神は明確にご存じだったにもかかわらず、堕落した私たち人間を救うべく、ためらうことなくこの悪魔の地へとおいでになり、追及と断罪に耐え、自ら私たちを真理の追求の道へと導いてくださった事実について考えました。神が私たちを救うために進んですべてを犠牲になさり、すべてをお捨てになるのを目の当たりにして、神の救いというお恵みを享受している私のような人が、どうしてわずかばかりの代価を払えないのでしょうか。私は良心の呵責を感じ、自分がとても自分勝手で無価値なことを憎みました。また、神が私への期待と心配に満ち溢れていらっしゃることを私は深く実感しました。私の霊的背丈が未熟であり、サタンの横暴に直面して恐れを感じていることを、神はよくご存じなのです。神は警官に録音を再生させるという形でそれを私にお聞かせになり、ご自身の御心を理解できるようになさることで、私が試練と抑圧の最中で神の証しを立て、神に満足していただけるようになさいました。しばらくのあいだ、神の愛にとても感動して涙が溢れ出ました。そして心の中で次のようにお伝えしました。「あぁ、神よ。私はあなたから離れてあなたを傷つける人にはなりたくありません。喜びのときも悲しみのときも、あなたと共にいたいのです。いかにサタンが私を拷問しようと、私はあなたの証しを立て、あなたに安心していただくことを決意しました」。

  そのとき、警官がプレーヤーを止めると同時にばたんと音がし、警官たちが私のほうに駆け寄ったかと思うと憎々しげに、「その通りだ。俺は赤い大きな竜で、今日はお前を拷問するためにやって来たんだ」と言いました。それから地面に裸足で立つよう命じ、コンクリートブロックの真ん中に固定された鉄の輪に私の右手を拘束しました。ブロックがとても小さいので、中腰の姿勢にならざるを得ません。警官たちは私がしゃがむことも、左手を使って脚を支えることも許しませんでした。しばらくすると立っていられず、しゃがみたいと思いましたが、警官が私に近づき「しゃがむな!苦しみたくないならさっさと白状しろ!」と怒鳴りました。私は歯を食いしばって耐えることしかできませんでした。それからどれくらい時間が経ったでしょう。足は氷のように冷たくなり、脚は痛み、痺れ、どうしてもそれ以上立っていられずしゃがみこんでしまいました。すると警官は私を掴みあげ、コップ一杯の冷水を持ってきて私の首にかけました。あまりにも冷たくて身体が震えだしました。そして警官は私の手錠を外して木の椅子に突き飛ばすようにして座らせると、両手を椅子の両端に拘束し、窓を開けてエアコンをつけました。冷たい突風が吹き込み、寒さに震えが止まりません。心が弱るのを抑えられませんでしたが、この苦しみの最中、私はひたすら祈り続け、この痛みを耐える意志と強さを私に与え、肉の弱さに打ち勝たせてくださるよう神に懇願しました。まさにそのとき、神の御言葉が内側から私を導いたのです。「たとえあなたの体が苦しみに耐えている時でも、サタンによる思いを受け入れてはならない。…信仰とは一本の丸太橋のようものである。卑屈になって命にしがみつく者がそれを渡るのは困難だが、自らを進んで犠牲にする者には不安なく渡ることができる。」(『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第六章」より)神の御言葉のおかげで、サタンは私に神を裏切らせるべく私の肉を拷問しようとしていることと、肉のことを少しでも気にかければサタンの策略にはまってしまうことがわかりました。私はこの2つの文章を頭の中で繰り返し反芻し、サタンの策略に用心してその考えを拒否しなければならないと自分に言い聞かせました。その後、警官は大きなやかんに入った冷水を持ってきて、私の首に残らずかけました。衣服がすっかりびしょ濡れになり、その瞬間、まるで氷室の中に落ちたかのように感じました。あまりにも卑劣で邪悪な警官を見て私は怒りで一杯になり、次のように考えました。「この悪魔の群れはあらゆる手段を用いて私に神を裏切らせようとしている。絶対にその企みを成功させるわけにはいかない」私がひどく震えているのを見た警官は私の髪を鷲掴みにして窓から空を見上げさせ、嘲るように「寒いんだろう。だったら神に助けてもらえよ」と言いました。私が無反応なのを見ると、再びやかん一杯の冷水を私に浴びせ、エアコンを最低温度に設定し、その風が直接私に当たるようにしました。骨を突き刺すような突風が何度も吹き込み、エアコンの冷風も私を襲います。私はあまりの寒さに身体を丸め、あたかも凍った塊のようになりました。全身が硬直してしまったような感じです。私の自信は少しずつ揺らいでいき、馬鹿げたことを考えずにはいられませんでした。「奴らはこんな寒い日に冷水を浴びせ、冷房をつけた。私を生きたまま凍らせようとしているのか。私がここで死んでも、親戚は知るよしもないだろう」私が暗闇に落ちゆく中、イエスが人類を贖われるべく十字架にかけられながら耐えた苦しみのことが突然頭に浮かびました。そして、次の神の御言葉を思い出しました。「精錬を経た愛は強く、弱くはない。いつ、どのように神があなたを試練にあわせるかにかかわらず、あなたは自らの生死に悩むことなく、喜んで神のためにすべてを捨て、神のためにどんなことでも耐えることができる。かくして、あなたの愛は純粋になり、信仰は真となるだろう。」(『言葉は肉において現れる』の「精錬を経ることによってのみ、人は真に神を愛することができる」より)神からのこれらの御言葉は私を心底刺激しました。そうです!神の証しを立てられる日には、神が私をすくい上げてくださる。肉のことなどどうして気にしていられるでしょうか。たとえそれが命を失うことを意味するとしても、私は神に忠実でいようと決心しました。すると突然、心の中にこみ上げるものがあり、大いに元気づけられました。私は無言で神に祈りました。「あぁ、神よ。あなたは私にこの息を授けてくださいました。いのちに執着してあなたを裏切った者として生きるぐらいなら死んだ方がましです」徐々にそれほど寒さを感じなくなり、神がそばにいらっしゃって私を慰めてくださるのを実感しました。正午から夜7時まで、警察は休むことなく尋問を続けました。私がまったく口を開かないのを見た彼らは尋問室に私を閉じ込め、冷気が直接私に当たるようにし続けました。

  夕食後、警察の尋問は一層厳しくなりました。警官たちは悪意も露わに、「話すんだ!お前たちの教会のリーダーは誰だ。言わないなら手段は他にもある。唐辛子の絞り汁と石鹸水を混ぜたものをお前に飲ませ、糞を食わせ、裸のまま地下室に閉じ込め、そのまま凍死させてやる!今日話さなければ、明日もう一度訊いてやる。時間はいくらでもあるからな」と脅しました。警官がこのように言ったことで、彼らは人間ではなく、人間の皮を被った悪魔の群れであることがはっきり分かりました。彼らがこんな風に脅せば脅すほど、私は心から彼らを憎み、絶対に屈するものかと決意が新たになりました。私が屈しないのを見た彼らは布袋を見つけてきてそれを水に浸し、私の頭に被せました。そしてそれを私の頭部に押し付け、私を動けないようにしてからそれを縛り付けました。両手が手錠で椅子につながれているので、まったく身動きできません。間もなく、私は窒息しそうになりました。全身がこわばるのを感じましたが、それでも警官たちの憎悪が消えることはありませんでした。彼らは冷水の入ったやかんを持ち、口を割らなければ窒息死するぞと言いながら、冷水を私の鼻に注ぎました。濡れた布袋が空気を通さないのに、そのうえ鼻に水を注いだのです。呼吸するのも難しく、死がそこまで迫っているように感じました。私は無言で神に祈りました。「ああ、神よ。私のこの息はあなたが私に授けられたものです。そして今日、私はあなたのために生きなければなりません。いかに警察が私を拷問しようと、けっしてあなたを裏切りません。私のいのちを犠牲にせよとおっしゃるなら、一言たりとも不満を漏らさず、あなたの御旨と采配に喜んで従います……」警官たちはなおも拷問を続けました。私が意識を失って呼吸が止まろうとしたまさにそのとき、彼らは突然その手を放しました。私は心の中で神に感謝せずにいられませんでした。神が万物の主でいらっしゃること、常に私を見守っていらっしゃること、そして私が警察の手に落ちたとしても、肉への拷問はお許しになるものの、いのちまでは奪わせないことを身をもって体験したのです。その後、私は自信を深めました。

  翌日の正午頃、数名の警官が私ともう一人の姉妹をパトカーに乗せて拘置所に連行しました。警官の1人が脅すようにこう言いました。「お前はこの辺の人間じゃない。お前を6ヶ月拘束してから、3年ないし5年の禁固刑にしてやる。いずれにしても、誰も知るよしはないだろう」「禁固刑?」自分が刑罰を受けると聞いて、私は弱くならずにはいられませんでした。服役したら他人に見下されるだろうと思ったのです。苦痛と弱さを感じていると、神が再びそのお恵みを示してくださいました。同じ雑居房の囚人が全員、全能神を信じる姉妹だったのです。彼女たちは悪魔の巣窟にいても、恐れている様子を少しも見せませんでした。互いに励まし、支え合っていたのです。私が否定的になって弱っているのを見ると、自分の経験を話して証しをし、神への信頼を与えてくれました。また経験に関する次の賛美歌を歌い、私を励ましてくれました。

  「人類を救うため、神は謙って肉となられ、各段階を導き、教会の間を歩み、真理を表し、丹念に水を注いで人を清め、完全にする。私は試練の苦みを味わい、神の裁きを受けた。苦みの後には甘みが訪れ、私の堕落は清められた。私は神の愛に報いるため、心と体を捧げる。神は幾度も春、夏、秋、冬を見てこられた。苦みも甘みも共に味わいながら…。神は後悔することなく全てを犠牲にし、ご自身を無にして愛を与えられた。私は試練の苦みを味わい、神の裁きを受けた。苦みの後には甘みが訪れ、私の堕落は清められた。私は神の愛に報いるため、心と体を捧げる。愛する人々は私を捨て、他の人々は私を中傷したが、神への私の愛は最後まで揺るがない。私はひたむきに神の御心に従う。私は迫害や苦難に耐え、人生の浮き沈みを経験する。私が人生でこれに耐え、人生が苦みに満ちているのは重要ではない。私は神に従い、神を証ししないといけない。私は試練の苦みを味わい、神の裁きを受けた。苦みの後には甘みが訪れ、私の堕落は清められた。私は神の愛に報いるため、心と体を捧げる。」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神の愛に報いることと神の証人となること」より)この賛美歌について考えているうち、これら姉妹からのいのちの力を感じ、私は大いに励まされました。賛美歌のとおり、私たちは真の神に従い、神を敵とみなす無神論政党が支配する国で、正しいいのちの道を歩んでいるのです。私たちは数多くの苦難を経験するよう運命づけられていますが、そのすべてに意義があり、監獄にいるのさえ輝かしいことです。なぜなら、私たちは真理を追い求めて神の道に従うために迫害されているのですから。世俗の人々が恐ろしい罪を犯して投獄されているのとはまったくわけが違います。そして、真の道を守るために迫害と屈辱を受けた歴代の聖徒のことを考えました。しかし現在、私は数多くの神の御言葉を無償で提供され、何世代もの人々が理解できなかった真理を理解し、彼らが知りえなかった奥義を知っています。それなのに、どうして少しばかりの苦しみに耐えて神の証しをすることができないのでしょう。こう考えたとき、私は弱さの状態から再び這い上がり、心は自信と強さに溢れていました。そして神に頼り、毅然たる態度で、明日の拷問と自白の強要に臨む決意をしました。

  それから10日後、警察は私だけを別の拘置所に連行しました。そこに拘束されていたのは全員、詐欺や泥棒、違法ビジネスの罪を犯した人達でした。私が監房に入ると、彼女たちは「ここに入ったらよほどのことがない限り出られない。あたしたちはみんな判決を待ってる。中には数ヶ月待ち続けている奴もいるわ」と言いました。私はこの囚人たちを見て、不安のあまり心が張り裂けそうになりました。ひどい扱いをされるのではないかと怖くなったのです。そして、警察が私を彼女たちと同じ監房に入れたということは、きっと自分に重罪の判決が下るのだろうと考えました。8年間も投獄された兄弟姉妹がいるという話を聞いたことがありました。私の刑期はどのくらいになるのでしょう。まだ29歳だというのに。この暗い牢屋の中で老いていくなんて。これからの日々はどうなるのだろう。その瞬間、故郷、両親、夫、そして子供が突然ひどく遠くに行ってしまったかのように思えました。まるで心をナイフでえぐられたかのようで、目に涙が溢れました。自分がサタンの策略にはまったことは知っていたので、神に必死で呼びかけました。神が私をお導きになってこの苦しみから逃れることを望んだのです。祈りのさなか、「これに立ち向かうとき、あなたは神の許しを得ている。試練を受けたヨブのように不平を言うな」と、心の中で明確なお導きを感じました。その瞬間、神の御言葉が私を再び啓いたのです。「あなたはむしろわたしのすべての取り決め(たとえそれが死であっても、あるいは滅びることであっても)に服従するか、それとも、わたしの刑罰を避けるために途中で逃げ出すか。」(『言葉は肉において現れる』の「あなたは信仰について何を知っているか」より)神の御言葉の裁きと刑罰に私は恥ずかしくなりました。自分は神に対して少しも誠実でないのに、口では素晴らしい神の証しを立てたいと言っていたことに気づいたのです。しかし、投獄されるという厄災が実際我が身に降りかかると、私は逃げることだけを望みました。真理のために苦しむ実際の能力はこれっぽっちもありません。逮捕されたときのことを思い返すと、神は常に私のそばにいらっしゃいました。その間ずっと、私が自分の道を失ったり、道で躓いたりするのではないかとご心配になり、決して私をお見捨てになりませんでした。神の私への愛はまことに誠実で、まったく空虚ではありません。しかし、私は身勝手で、自己中心的で、自分の肉の損得ばかり考えていました。進んで神のために代価を払おうとしなかったのです。どうして私に人間性や良心があるでしょうか。そう考えると後悔と負い目で一杯になりました。私は無言で神に祈り、悔い改めました。「ああ、神様。私は間違っていました。これ以上あなたを口先で褒めて欺くことはできません。私は進んで現実を生き、あなたに満足していただきます。判決がいかなるものになろうとも、必ずあなたの証しを立てます。あなたが私の心を守ってくださることだけをお願いいたします」ちょうどそのとき、リーダー格の囚人が私のそばに来て、「なぜあんたがここにいるのかはわからないけど、あたしたちの間では、『休みたくて自白すれば、死ぬまで刑期を勤めることになる。激しく抵抗すれば、自分の人生を生きられる』って格言があるのよ。話したくないなら話しちゃだめよ」と話してくれました。リーダー格の囚人を通して私に授けられたこの信じられないような采配と知恵に対し、私は神に感謝しました。神はそうなさることで、続く尋問にどう対処すべきかを私が知るようになさったのです。また、他の囚人も私をいじめなかったばかりか、衣服をくれたり、食事の時間に多目によそってくれたり、自分たちが買った果物やお菓子を分けてくれたりするなど、私の面倒を見てくれた上、日々の労働でも私を助けてくれたことに感謝しました。これらがいずれも神の御旨にして采配であることはわかっていました。私の霊的背丈が子供のように低いことに対する神の思いやりだったのです。神の愛とご加護を目の当たりにし、私は決心しました。「刑期がいかに長くなろうと、神の証しを立てよう!」

  この拘置所では数日おきに警察の尋問を受けました。厳しくしても効き目がないと見た警察は、今度は下手に出始めました。尋問していた警官がわざと気楽な態度を装って私と雑談し、おいしい食べ物を与えたうえ、良い仕事を探す手伝いができると言いだしたのです。これはサタンの策略だとわかっていたので、彼が尋問するたび私は神に祈り、これらの策略にはまることがないようどうかお守りくださいとお願いしました。尋問中、この警官はついに邪悪な意図を見せました。「俺たちはお前に文句があるわけじゃない。ただ全能神教会を取り締まりたいだけなんだ。協力してくれ」この邪悪な言葉を聞いて私は心から怒りを感じ、次のように考えました。「神は人間を創造なさり、現在までずっと私たちに糧を施し、導いてこられた。そしていま、神はご自身がお作りになった人々を救い、私たちが苦しみの深淵から逃れる手助けをなさるべくおいでになった。いったいそのどこがいけないの。これらの悪魔にここまで憎まれ、中傷されなければならないのはなぜなの。私たちは神の被造物。神に従い、神を崇拝するのは正しく適切なこと。それなのに、サタンはなぜ私たちをこのように妨害し、神に従う自由さえ奪おうとするの。いま、彼らは神を打ち倒そうと躍起になる中で、私を操り人形にしようとしている。中国共産党政府はまさに、断固として神に逆らう悪魔の群れだわ。本当に邪悪な反動主義者よ!」そのとき、筆舌に尽くし難いほど心が痛み、神の証しを立ててそのお心を安らげることしか望みませんでした。なおも私が話そうとしないのを見ると、警察は心理的な手段を使ってきました。チャイナモバイル社経由で私の夫を探し出し、子供と一緒に説得のためによこしたのです。もともと、夫は私の神への信仰を気にしていませんでしたが、警察に騙されて何度も私に、「頼むから信仰を諦めてくれ。私のことはともかく、少なくとも子供のことを考えてくれ。母親が刑務所にいるなんて、この子にどれほどひどい影響を与えるか……」と言いました。夫は無知のせいでこのようなことを言っているのだと、私にはわかっていました。そこで夫の話を遮り、次のように言いました。「あなたはまだ私を理解していないの。私たちは長年一緒に暮らしてきたのよ。あなたはいつ、私が何か邪悪なことをしたのを見たっていうの。何もわかってないなら黙ってて」何を言っても私の心が変わらないのを見ると、夫は冷たい言葉を言い放ちました。「そんなに頑固で聞く耳を持たないなら、離婚だ!」「離婚」の一言は私の心を深く突き刺しました。そのせいで、私は中国共産党をいっそう憎むようになりました。夫が神の働きをこのように憎み、これほど心無い言葉を私に投げつけたのは、彼らが中傷し、不和の種を蒔いたからです。中国共産党政府こそ、天に背くよう一般の人々に呼びかける罪人です。また、私たちの夫婦としての感情を傷つけた罪人でもあるのです。そう考えると、もう何も夫に言いたくなくなりました。そして静かに、「だったら急いで子供を家に連れて帰ってください」と言いました。この作戦がうまく行かなかったのを見た警官は怒りのあまり机の回りを行ったり来たりしながら、私に「俺たちがこんなに努力しているのに、何一つお前から答えを引き出していない!あくまでこのまま口を割らないなら、お前をこの地域のリーダー、政治犯とみなす!今日話さなければもうチャンスはないぞ!」と叫ぶように言いました。しかし、彼らがどれだけ怒鳴り散らそうと、私は心の中で神に祈り、私の信仰を強くしてくださいとお願いするだけでした。

  尋問中、神の御言葉の賛美歌が私を内側から導き続けてくれました。「大きな信仰と大きな愛がこの働きの段階で要求される。不注意ならつまずくかもしれない。なぜならこの業は前と違うから、神が完全にするのは人の信仰である。人はそれを見ることも触れることもできない。神は言葉を信仰と愛と命に変える。神が完全にするのは人の信仰だ。人は幾多もの鍛錬に耐え、ヨブより大きな信仰を持たねばならず、大きな苦難を受けねばならない。それでも神から離れることなく、神が完全にするのは人の信仰である。人はそれを見ることも触れることもできない、神は言葉を信仰と愛と命に変える。神が完全にするのは人の信仰だ。人が大きな信仰を持ち、死に至るまで従順なら、神の業のこの段階は完成する。それはあなたが思うほど容易ではない。人の観念に合わないほどその意義は深くなる。これを注意して考慮せよ!」(『小羊に従って新しい歌を歌おう』の「神が完全にするのは信仰である」より)神の御言葉から受け取った信仰と強さのおかげで、尋問中、私は非常に断固たる態度を取ることができました。しかし監房に戻ると、いささか弱くなって傷ついた気持ちを抑えることができませんでした。「夫は本当に私と離婚するつもりのようだわ。そうしたらもう帰る家はない」また刑期がどのくらいになるかも見当がつきませんでした。この痛みの中、神からの次の御言葉が頭に浮かびました。「あなたは当時のペテロの気持ちを体験すべきである。彼は悲しみに打ちひしがれ、もはや未来もどんな祝福も求めることはなかった。彼は利益、幸福、名声、世の富などを求めることはせず、最も意義のある人生を生きることだけを求めた。それは神の愛に答え、彼にとって最も、最も貴重なものを神に捧げることであった。そうすることで、彼の心は満たされた。」(『言葉は肉において現れる』の「ペテロはどのようにしてイエスを知るようになったか」より)ペテロの偉業は私を深く感動させるとともに、すべてを捨てて神に満足していただく私の志をかき立てました。その通りです。ペテロは悲しみが極限に達したときも、それに耐えて神に満足していただくことができました。それは彼自身の見通しや運命のためでも、彼自身の益のためでもありません。そして最後は十字架に逆さ吊りにされましたが、そのときも神の証しを立てる立派な証人として振る舞いました。一方、私は幸運にも受肉した神に従い、私のいのちに対する神の無限の糧とお恵みと祝福を享受しながら、神のために本当の代価を払ったことは一度もありませんでした。そして私が神の証しを立てることを神が必要となさっているいま、その一度だけでも私は神に満足していただくことができないのでしょうか。この機会を逃してしまえば、一生後悔することにならないでしょうか。そう考えた私は神の御前で決意しました。「ああ、神よ。私は喜んでペテロの例にならいます。どのような結果になろうと、たとえ離婚されることになっても、監獄で刑期を勤めることになっても、私は決してあなたを裏切りません!」祈り終えると体の芯から強さが湧き上がってくるのを感じました。有罪になるのか、刑期はどのくらいになるのか、家に帰れるのか、家族と再会できるのかといったことはもはや考えから消えました。悪魔の巣窟での1日は神の証しを立てる1日だと、それだけを考えるようになったのです。一生刑務所で暮らすことになったとしても、決してサタンに屈しません。自分を捨てた瞬間、神の愛と愛情を本当に味わうことができました。それから数日経ったある日の午後、看守が突然、「荷物をまとめろ。家に帰っていい」と言いました。私は自分の耳を疑いました。釈放される前、警察は一枚の書類に署名するよう私に言いました。その書類にははっきりと、「証拠不十分にて無罪。釈放」と記載されていたのです。私はこれを見てとてつもなく興奮しました。「自らを進んで犠牲にする者には不安なく渡ることができる。」という神の全能性と誠実さを目の当たりにしたのです。この霊の戦争でサタンは戦いに敗れ、最後に勝利なさったのは神でした!

  36日間拘束されて中国警察から迫害を受けた後、私は残酷な専制政治と、中国共産党政府の反抗的で反動的な本質を真に理解しました。このとき以来、私は政府を深く憎悪するようになりました。この逆境のさなか、神はずっと私のそばにいらっしゃり、私を啓いて導き、私がサタンの残忍さと試練を克服できるようにしてくださったのです。これにより、神の御言葉はまさに人のいのちであり、私たちの強さであるという事実を真の意味で経験することができました。また、神は私たちの主でいらっしゃり、万物を支配なさり、サタンにどれほど多くの策略があっても、常に神に打ち負かされることを真に認識しました。サタンは私の肉を拷問して私に神を裏切らせようと試みましたが、その残酷な拷問は私を打ち負かすことができなかったばかりか、かえって私の決意を固くさせ、その邪悪な素顔をすっかり露呈するとともに、私が神の愛と救いを認識できるようにしました。私が最も貴重ないのちの豊かさを得られるよう、神が私のために采配なさったすべてのことに、心の底から感謝いたします。この先どのような抑圧や逆境があろうと、断固として神に従い、これまで同様、福音を広めて神の偉大な愛に報い続けることを、私は決意いたします。

浙江省 陳露


神様が人類の運命を支配されている事実をどうのように認識し、扱うのか

2020-01-23 00:12:37 | 聖書の奥義を開く

神が人間の運命を統治しているという事実は、誰にも変えることが出来ない

   ここまでの話を聞いて、あなたがたの運命に対する考え方は変わったであろうか。神による人間の運命の統治を、あなたがたはどのように理解しているであろうか。簡潔に言うと、神の権威の下では、全ての者が能動的あるいは受動的に神の統治と計画を受け入れるので、人生においてどれほどもがいたとしても、どれほど誤った道を進んだとしても、結局は創造主がその者のために定めた運命の範囲内に戻ってしまう。これが創造主の権威の凌駕することが不可能な性質であり、創造主の権威が万物を制御し支配する方法である。万物のいのちを支配する法則を担い、妨害されることなく人間が生まれ変わることを可能とし、毎日、毎年、世の中を変化させ、進歩させているのは、この凌駕不可能な性質と、この形態の制御と支配である。あなたがたは、こうした事柄全てを目のあたりにし、表面的に理解しているか、あるいは深く理解している。理解の程度は、真理に関する自分の経験と認識、そして神に関する自分の認識により異なる。真理の事実をどの程度知っているか、神の言葉をどの程度経験しているか、神の本質と性質をどの程度知っているかは、神による統治と采配に関するあなたがたの理解度を示すものである。神による統治と采配の存在は、人類がそれらに服従しているか如何に依存しているであろうか。神にこの権威があるという事実は、人間がそれに服従するか如何により決まるであろうか。神の権威は、状況を問わず存在する。つまり、あらゆる状況において、神は人間の運命その他あらゆるものを、神の考えと望みに従って支配し、計画する。これは人間が変化することで変化するものではなく、人間の意志に依存しないものであり、時間、場所、地理のいかなる変化によっても変えられることが無い。なぜなら、神の権威は、神の本質そのものだからである。人間が神による統治を知って受け入れられるかどうか、そしてそれに服従出来るかどうかは、神による人間の運命の統治という事実に少しも影響しない。つまり、神による統治に対して人間がどのような姿勢を取るかによらず、神が人間の運命と万物を統治しているという事実が変わることは無い。たとえ神による統治に服従しなかったとしても、依然として神はあなたの運命を操り、また、たとえあなたが神による統治を知ることが出来なくても、神の権威は依然として存在する。神の権威、そして神が人間の運命を統治しているという事実は人間の意志から独立したものであり、人間の好みや選択に従って変わることが無い。神の権威は全ての場所にあり、いつでも、どの瞬間も存在する。もし天と地が無くなるとしても、神の権威は決して無くならない。なぜなら、神は神自身であり、神に唯一の権威があり、神の権威は人間や出来事、物事、空間や地理による制限を受けないからである。神は常に神の権威を行使し、神の力を示し、神の経営(救い)の業を継続する。また神は、これまでと同様、常に万物を支配し、万物に必要なものを与え、万物を指揮する。そうした事柄は、誰も変えられない。それは事実であり、太古の昔から不変の真理であり続けている。

 

 

神の権威に服従することを望む者の適切な姿勢と行動

   神の権威と、神が人間の運命を統治しているという事実を、人間はどのような姿勢で知り、扱うべきであろうか。これはあらゆる者が経験する難題である。実生活の問題に対処する時、神の権威と神による統治をどのように知り、理解すべきであろうか。こうした問題をどのように理解し、取り扱い、経験すべきかを知らない場合、どのような姿勢で神による統治と計画に従っている自分の意向、願望、そして事実を示すべきであろうか。あなたは、まず待つこと、次に追究すること、その後に従うことを覚える必要がある。「待つ」とは、神の時を待つことであり、あなたのために神が計画した人々、出来事、物事を待つことであり、また神の旨が徐々に明示されてゆくのを待つことである。「追究する」とは、神が計画した人々、出来事、物事により、あなたに対する神の入念な旨を観察し、理解すること、それらの物事により真理を理解すること、人間が達成すべき物事や従うべき道を理解すること、人間に対して神がどのような結果を実現しようとしているか、人間に対して何を達成しようとしているかを理解することである。当然ながら、「従う」とは、神が計画した人々、出来事、物事を受け入れ、神による統治を受け入れ、それにより創造主が人間の運命をどのように支配しているか、どのようにして神が人間に神のいのちを与えるか、神はどのようにして人間に真理を備えさせようとしているかを知ることである。神の采配と統治の下にある全ての物事は自然の法則に従っているので、自らの全てを神の采配と支配に委ねるとあなたが決心したのであれば、あなたは待つこと、追究すること、そして従うことを覚える必要がある。それが神の権威に服従することを望む者全てが取るべき姿勢であり、神による采配と計画を受け入れることを望む者全てに備わっているべき基本的な資質である。そのような姿勢を取り、そのような資質を備えるには、一層の努力が必要である。そうした努力をして初めて、あなたがたは本当の現実に入ることが出来る。


人間の人生における6つの節目-死:第6の節目

2020-01-22 09:00:00 | 聖書の奥義を開く

   慌ただしい日々と、挫折と失望、歓喜と悲哀、幸運と不運、忘れられない年月など、無数の出来事を経験し、巡る季節のなかで何の前兆もなく様々な人生の重要な節目を瞬く間に過ごした末、人間は衰退期に入る。過ごした年月は身体全体に刻み込まれている。もはや真っ直ぐ立つことは出来ず、濃色の頭髪は白くなり、明るく澄んだ眼は暗く曇り、滑らかで柔らかい肌はシミとシワのある肌へと変化する。耳が遠くなり、歯が抜け落ち、反応が鈍くなり、動きが遅くなる。この時点で、人間は情熱溢れる若年期から完全に離別し、人生の終盤となる晩年期へと入る。その次に、人間は人生最後の節目である死を迎える。

1.創造主のみが人間の生死に対する力を持つ

   ある者の出生がその者の前世により運命づけられているとすれば、その者の死は、その運命の終焉となる。ある者の出生がその者のその人生における使命の始まりであるとすれば、その者の死は、その使命の終了となる。創造主は、ある者の出生の諸条件を定めているので、その者の死についても諸条件を定めていることは言うまでも無い。言い換えると、偶然生まれる者はおらず、予期されない死は無く、出生と死は必然的にその者の前世とその時の人生と関連している。ある者の出生の状況と死の状況は、両方とも創造主により予め定められたものであり、それらはその者の終着点、運命である。各人の死は、出生について言えるのと同様に、様々な特定の状況下で発生するので、人間の寿命、死亡の経緯や時刻は様々である。強健であるが早死にする者もいれば、虚弱であるが長生きして安らかに永眠する者もいる。不自然な原因で死ぬ者もいれば、自然な原因で死ぬ者もいる。自宅から遠く離れて死ぬ者もいれば、側にいる家族に看取られて死ぬ者もいる。空中で死ぬ者もいれば、地下で死ぬ者もいる。水中に沈む者もいれば、災害の犠牲者となる者もいる。朝死ぬ者もいれば、夜死ぬ者もいる。人間は、皆華々しい出生、輝かしい人生、栄誉ある死を望むが、自分の運命から脱したり、創造主による統治から逃れられたりする者はいない。これが、人間の運命である。人間は将来に向けて様々な計画を立てることができるが、出生と他界の時期や状況は誰にも計画できない。人々は死を回避し、拒否しようと最大限努力するが、死は人知れず静かに近付いて来る。自分の死期やどのように死ぬかを知る者はおらず、ましてや何処で死ぬかを知る者はいない。生死の力を持つのは人類では無く、自然界の生き物では無く、唯一の権威を持つ創造主であることは明らかである。人間の生死は自然界の法則の結果ではなく、創造主の権威による統治の結果である。

 

 

2.創造主による統治を知らない者は、死の恐怖に苛まれる

   ある者が老年になると、その者が直面する課題は、家族を養うことでも、人生の大望を抱くことでもなく、人生をどのように終えるか、どのように臨終を迎えるか、自分という存在に、どのように終止符を打つかである。表面的には、人間は死に対して少しも気にかけていないように思われるが、その問題を追究せずに済む者はいない。なぜなら、死後に別の世界、人間が感じたり把握したり出来ない世界、誰も知らない世界が存在するかどうかを知る者はいないからである。そのことが原因となり、人間は死に直面すること、然るべき時に死と対峙することを恐れ、その問題を避けるよう最大限努力する。したがって、皆死を恐れ、死という不可避な人生の事実が神秘とされ、人間それぞれの心に消えない影が出来る。

   自分の身体の劣化を感じ、死が迫っていると感じる時、人間は曖昧で表現し難い恐怖を覚える。死に対する恐怖により、人間は一層淋しさと絶望感を感じ、この時点で、人間は何処から来て、何処へ向かっているのだろうか、こうして束の間の人生を終えて死ぬのだろうか、その人生の終わりの時なのだろうか、結局人生の意味は何だったのだろうか、結局人生には何の価値があるのだろうか、それは富と名声なのだろうか、それは家族を養うことなのだろうか、などと自問する。そうした具体的な疑問について検討したことがあるか、死をどれほど恐れているか如何を問わず、すべての人間の心の奥深くには、生命の謎や未知の事柄を探索したいという欲求があり、またそれに紛れて、この世に対する未練、この世を去ることの不本意さがある。人間が何を恐れているか、何を探索したいか、何に未練があるか、何を去るのが不本意なのかを明解に説明出来る者は、おそらくいないであろう。

   人間は死を恐れているので、過剰に懸念する。人間は死を恐れているので、捨て去れない物事が多すぎるのである。臨終する時、子どもや自分が愛する人々、財産など様々な事について、あたかも懸念すれば死がもたらす苦悩や恐怖を解消できるかのように懸念する人もいる。またあたかも生きている者たちとの何らかの親しい関係を維持すれば死に伴う絶望と淋しさから逃れられるかのように思う人もいる。人間の心底には、未確定の恐怖、愛する者と離別する恐怖、青い空や物質世界を二度と見られないことの恐怖がある。愛する者と共にいることに慣れきった、人を恋しがる魂は、握りしめたものを手放して未知の世界に独りで立ち去るのを不本意だと感じる。

3.富と名声を追究した人生は、人間を臨終時に途方に暮れさせる

   創造主による統治と定めのために、影形の無いものとして誕生した孤独な魂は、両親と家族を得、人類の一員となる機会、そして人間の生活を体験して世界を見る機会を得る。またその魂は、創造主による統治を経験する機会、創造主による創造の素晴らしさを知る機会、そして何よりも、神の権威を知り、その対象となる機会を得る。しかし大部分の者が、こうした稀少で束の間の機会を本当に掴むことは無い。人間は一生涯のエネルギーを運命に立ち向かうことに費やし、家族を養おうと必至で働き、富と地位の間を行き来して、全ての時間を費やす。人間が大切にするものは、家族、金銭、名声であり、人間はこれらを人生において最も価値の高いものとみなす。あらゆる人々が自分の運命に不満であるが、人間は何故生きているのか、人間はどう生きるべきか、人生の価値と意味は何であるか、という最も喫緊に検討して理解する必要のある問題を心の中で常に先送りする。人々は、その生涯が何年であるかを問わず、若さを失い白髪とシワが現れるまで、富と名声で人間の老化を止めることが出来ず、金銭で心の空虚感を埋められないことを悟るまで、そして出生、老化、疾病、死の法則の例外となる者や、待ち受ける運命から逃れられる者はいないことを悟るまで、一生涯を通して、せわしなく富と名声を追い求めるのみである。人間は、人生最後の節目に直面せざるを得なくなった時に初めて、巨額の財産があったとしても、特権のある高い地位にあったとしても、死を免れられる者はおらず、全ての者が元来の何も無い孤独な魂に還るということを理解する。両親のいる者は両親が全てであると考え、財産のある者は金が自分の頼みの綱である、生涯の資産であると考える。立派な地位があれば、人間はそれにしがみついて、そのために命を賭ける。この世を去ろうとする時になって初めて、人間は自分が生涯をかけて追究してきた物事が、空を渡り行く雲のようなものであり、いずれも掴み続けることも、死後の世界に持っていくことも出来ないものであり、自分を死から免れさせる力が無いものであり、この世を去る時に持参することも、慰めを与えることも出来ないものであり、また特にそうした物事のなかに、死を超越する救済を与えることの出来るものは無いということに気付く。物質世界で得る富と名声は、その者に一時的な満足感、束の間の悦楽、安楽の錯覚を与え、その者に道を踏み誤らせる。そうしたわけで、広大な人間の世界で翻弄されて平和と慰め、心の静寂を求めるうちに、人間は何度も波に呑まれる。人間は何処から来て、何故生きていて、どこへ行くのか、など、理解すべき最も重要な問題を理解せずにいる時、人間は富や名声により魅惑され、迷わされ、支配され、完全に道を見失う。時の流れは速く、年月は瞬くうちに過ぎ去ってゆく。人間は、気付かぬうちに、人生の壮年期に別れを告げる。人間がこの世を去ろうとする時、人間は、この世の物事は全て流れ去って行き、自分の所有物を保持できなくなるという漸進的な認識に達する。その後、人間は、泣いている幼児と同様に、自分が何も所有していないと実感する。この時点において、人間は人生で何を成し遂げたか、生きていることの価値とその意味、その者がこの世に現れた理由を考えさせられる。そしてこの時点において、人間は来世や天国、報いが実在するかを知りたい気持ちが次第に強くなる。人間が死に近ければ近いほど、人間は人生とは何かを知りたい気持ちが強くなる。死に近ければ近いほど、人間の心は益々空虚になり、絶望感が強くなるので、死に対する恐れが日々強くなってゆく。人間が死に近付く時このような思いになる理由は2つある。1つ目の理由は、自分の人生を依存してきた富と名声を失いつつあり、この世の目に見える物事すべてから去ろうとしていることである。2つ目の理由は、愛する人々や支援の手段が存在しない、足を踏み入れるのが不安になるような、馴染みのない世界、神秘的な未確認の領域に独りで立ち向かおうとしていることである。この2つの理由のため、人間は死に直面すると、皆不安になり、それまで知らなかった混乱と絶望感を覚える。人間は、この時点になって初めて、この世に現れた時、最初に理解すべきことは、人間がどこから来るのか、何故生きているのか、人間の運命を支配するのは誰か、人間の存在に施され、それを統治するのは誰であるかを知る。こうした物事が人生における真の財産であり、人間の生存に不可欠な基盤であって、自分の家族を養う方法や、富や名声を得る方法を知る事でも、人々よりも卓越した存在となる方法、一層豊かに生活する方法を知る事でもなく、ましてや他人を超越し、競争に勝つ術を覚えることなどでは無い。人間が生涯をかけて覚える生存のための様々な技能により、物質的な快楽を豊富に得ることが出来るものの、そうした技能は人間の精神に真の平和と慰みをもたらすことは決して無く、むしろ継続的に人間に道を踏み誤らせ、人生の意味を知る機会を全て失わせ、適切に死を迎える方法に関し、隠された問題を造り出す。こうして、人々の人生は無駄になる。創造主は、全ての人間を平等に扱い、生涯にわたり創造主による統治を経験し、知る機会を全ての者に与えるが、人間には、死に近づき、自分に死の恐怖が差し迫る時まで光が見えるようにならず、その時は、既に手遅れである。

   人間は、金銭と名声を求めて人生を過ごし、そうしたわらしべを握りしめて、あたかもそれがあれば生き長らえて死から免れられるかのように、それが唯一の助けであると考える。しかし、死が迫る時になって初めて、こうした物事がどれほど自分に無縁であるか、死に直面した自分がどれほど弱いか、どれほど脆いか、どれほど孤独であり、誰にも頼ることができず絶望的であるかを知る。人間は、いのちを金銭や名声で買うことが出来ないこと、いかに裕福な者であっても、いかに高尚な者であっても、死に対して人間は皆同様に貧しく些細な存在であることを知る。人間は、金銭でいのちを買えないこと、名声で死を消し去れないこと、金銭も名声も、一分一秒たりとも人間の寿命を延ばせないことを知る。それを強く感じれば感じるほど、人間は生きていたいと切に願う気持ちが強くなり、死が近づくのを一層恐れる。人間は、自分のいのちが自分自身のものではなく、自分で制御出来るものではないこと、自分が生きるか死ぬかについて、自分自身は全く干渉できないこと、そうしたことが自分の制御出来る範囲外にあることを、この時点になるまで真に理解しない。

4.創造主による統治を受け、安らかに臨終を迎える

   ある者が生まれた時、孤独な魂は、創造主がその魂のために計画した、地上での生活経験、創造主の権威の経験を始める。その者すなわちその魂にとって、これが創造主による統治に関する認識を得て、創造主の権威を知り、それを自分で経験する格好の機会であることは言うまでも無い。人間は、創造主が人間のために定めた運命の法則に基づいて生活する。理知と良心のある者にとって、地上における数十年の間に創造主による統治を受け入れ、創造主の権威を知ることは、それほど困難ではない。したがって、数十年にわたる自分の人生経験の中で、あらゆる人間の運命は予め定められていることを認め、生きることの意味を把握あるいは概括することは、誰にとっても極めて容易なはずである。こうした人生の教訓を受けると同時に、次第に人間は、いのちがどこから来るかを理解し、心が本当に必要とするものは何か、人間を真の人生の道へと導くものは何か、人生の使命や目標であるべきものは何かを把握する。また次第に人間は、人間が創造主を拝まず、創造主による統治の対象とならなかった場合、その者が死に直面した時、すなわちその魂が再び創造主に対面するとき、その者の心は無限の恐怖と不安で満たされるということを認識する。ある者が、この世に数十年存在してきて、それでも人間のいのちがどこから来るかを知らず、人間の運命が誰の掌中にあるかを認めずにいるのであれば、その者は安らかに臨終を迎えられないのは当然である。数十年の人生経験の後に創造主による統治に関する認識を得た者は、人生の意味と価値を正しく理解し、人生の目的に関する深い認識を持ち、創造主による統治の真の経験と理解があり、さらに創造主の権威に服従出来る者である。そうした者は、神による人類創造の意味や、人間は創造主を拝むべきであること、人間の持つものが全て創造主に由来し、近い将来に創造主へと還ることを理解し、また創造主が人間の出生を計画し、人間の死を支配し、生と死の両方が創造主の権威により予め定められていることを理解する。したがって、その者がそうした事柄を真に把握した時、その者は自然と安らかに死を迎えることができ、この世の所有物全てを穏やかに手放し、その後の物事を喜んで受け入れ、またそれに従い、創造主により計画された人生最後の節目を、盲目的に恐れ、避けようともがくのではなく、それを歓迎出来るようになるであろう。ある者が、人生は創造主による統治を体験し、その権威を知る機会であり、その者が創造された人間として本分を尽くし、使命を果たす希な機会であると考えているのであれば、その者は必然的に正しい人生の見通しを得て、創造主により祝福され、導かれた人生を送り、創造主の光の中を歩み、創造主による統治を知り、創造主の支配に服従し、創造主の奇跡の業と権威の証をするものとなる。そうした者は必然的に創造主に愛されて受け入れられ、また死に対して安らかな姿勢を取る。人生の最後の節目を喜んで歓迎出来るのは、そうした者のみである。ヨブは死に対して明らかにこの姿勢を取っていた。ヨブは人生最後の節目を喜んで受け入れる姿勢を取り、自分の人生の旅路を穏やかに終え、自分の人生における使命を全うして、創造主の許へと還っていった。

5.ヨブの人生における取り組みと進歩により、ヨブは安らかに死を迎えることができた

   聖句では、ヨブについて、次のように述べられている。「ヨブは年老い、日満ちて死んだ。」(ヨブ記42:17)これは、ヨブが死んだ時、彼には何も後悔することがなく、苦しむことも無く、この世から自然と去ったことを意味している。皆知っている通り、ヨブは生きている時分に神を畏れ、悪を避けていた。神はヨブの正しい行いを讃え、人々はそうした行いを覚えている。ヨブの人生は、他の誰よりも価値があり、重要であった。ヨブは神の祝福を享受し、神はヨブを地にあって正しき者と呼び、また、ヨブは神からの試みに会い、サタンに試された。ヨブは神を証し続け、正しき者と呼ばれるに相応しいとされた。ヨブが神の試みに会った後の数十年間、ヨブは従前にも増して価値が高く、有意義で着実で、平和な人生を送った。ヨブの義なる業のため、神はヨブを試し、ヨブの義なる業のため、神はヨブに現れ、直接言葉を伝えた。それゆえに、ヨブは試された後の年月において、人生の価値を一層具体的に理解し、認識し、創造主による統治を一層深く理解し、創造主が祝福を与え、奪うことに関して、一層正確かつ確実な認識を得た。聖書には、ヨブに対してヤーウェがそれ以前よりも大きな祝福を与え、創造主による統治を知り、安らかに死と直面する上で更に有利な立場にヨブを立たしたことが記されている。したがって、ヨブが老いて死を迎えた時、ヨブは自分の財産について懸念しなかったことは確実である。ヨブには心配も後悔も無く、無論死に対する恐れも無かった。なぜなら、ヨブは生涯を通して神を畏れ、悪を避けて生活し、自分の最期を懸念する理由が無かったからである。現在、死に直面した時のヨブのように行動出来る者は何人いるだろうか。こうした簡単な態度を示すことが出来る者がいないのは何故だろうか。その理由は1つしかない。すなわちヨブは、神による統治に対する信念、認識、服従を主観的に求めて人生を過ごしたが、ヨブはこうした信念と認識、服従をもって人生の重要な節目を過ごし、晩年を過ごし、最期の節目を迎えた。ヨブが経験した事柄によらず、ヨブの人生における取り組みと目標は幸福であり、苦痛ではなかった。ヨブが幸福であったのには、創造主がヨブに与えた祝福や賞讃のみならず、より重要な理由があった。それは、ヨブの取り組みと人生の目標、神を畏れ、悪を避けることで得た、創造主による統治に関する漸進的な認識と真の理解、そして更には、創造主による統治対象として、ヨブが人生において個人的に体験した創造主の奇跡の業、そして人間と神の共存、面識、相互理解に関する、暖かく忘れがたい経験と記憶、創造主の旨を知ることに起因する慰めと幸福、神の偉大さ、驚異、愛すべき存在、忠義を理解した後に生まれる敬意である。ヨブが一切苦痛無しで死を迎えることが出来た理由は、ヨブは死ぬことで創造主の側に還ることを知っていたことである。そして、ヨブの人生における取り組みと進歩が、ヨブが安らかに死を迎えること、創造主がヨブのいのちを取り戻すことに冷静な気持ちで向き合うこと、さらには汚れのないまま、懸念すること無く神の前に立つことを実現させた。現在の人々はヨブが手に入れたような幸福を掴むことが出来るであろうか。あなたがた自身は、そうした幸福を掴む立場にあるであろうか。今日の人間はそうした立場にあるが、それではヨブのように幸福に生きられないのは何故であろうか。今日の人々が死の恐怖の苦悩から抜け出せないのは何故だろうか。死に直面した時、涙を流したり、震えたり、気絶したり、天と人間を非難したり、号泣したり、むせび泣いたりする者もいる。こうした反応は、死が近付いた時に突然現れるものでは決して無い。人間がこうした気恥ずかしい行動を取る主な理由は、心の奥深くで死を恐れていること、神による統治と采配に関する明瞭な知識や認識が無く、ましてそれに心から服従することなど無いこと、そして人間はあらゆる物事を自分で計画して管理し、自分の運命や人生、死を制御することしか望まないことである。したがって、人間は死の恐怖から逃れることが決して出来ないのは当然である。

6.人間は、創造主による統治を受け入れることによってのみ、創造主の側に戻ることが出来る

   ある者に、神による統治や采配に関する明瞭な認識や経験が無い場合、その者の運命や死に関する認識は必然的に支離滅裂なものとなる。人々は、こうした事柄が全て神の掌中にあることを明確に見ることが出来ず、神がそうした事柄を支配、統治していることに気付かず、その統治を放棄したり、統治から逃れたりできないことを認めないので、死に直面した時、そうした人々の最期の言葉や懸念、後悔には際限が無い。そうした人々は、過剰な重荷、過剰な抵抗、過剰な混迷を負っており、それが原因で死を恐れる。この世に生を受けた者すべてにとって、自分の出生は必然であり、死は不可避であり、そうした過程を超越することは出来ない。苦痛を感じること無くこの世から去りたい、抵抗や懸念無く人生最後の節目と直面したいと願うのであれば、後悔しないようにすることが唯一の方法である。後悔せずに他界する唯一の方法は、創造主の統治と権威を知り、それらに服従することである。人間は、この方法のみにより、人間同士の不和、邪悪、サタンの拘束から離れることが可能となる。この方法のみにより、ヨブのような創造主に導かれ、祝福される人生、自由で解放された人生、価値と意味のある人生、正直で率直な人生を送ることが可能となる。そしてこの方法のみにより、ヨブのように創造主により試され、奪われるに従い、創造主による指揮と采配に服従することが可能となる。この方法のみにより、ヨブのように生涯を通して創造主を拝み、創造主の賞讃を得て、創造主の声を聞き、創造主が現れるのを目撃することが可能となる。この方法のみにより、ヨブのように苦痛や懸念、後悔無く幸福に生活して幸福に死ぬことが可能となり、この方法のみにより、ヨブのように光の中で生活し、光の中で人生のひとつひとつの節目を過ごし、光の中で穏やかに生涯を閉じ、造られた人間として創造主の統治を経験し、学び、知るという自らの使命を果たし、光の中で死んで、造られた人間として、永遠に創造主の側にあり、創造主の賞讃を受けることが可能となる。