賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

あなたは生かされているか

2019-12-18 20:59:40 | いのちのパン

   あなたが正常な人間性を生きることを達成し、全き者にされたら、をしたり奥義について話すことができなくても、人間の姿を生き、表しているのである。神は人を造ったが、その後、人はサタンによって堕落させられ、この堕落が人々を「死人」にしてしまった。したがってあなたが変わった後、あなたは死人とは違うものになる。人々の霊にいのちを与え、人々を再生させるのは神の言葉であり、霊が再生した時、人々は生かされる。死人についての言及は、霊を持たない死体のこと、霊が死んでいる人々のことを指している。霊にいのちが与えられると、人々は生かされる。以前語られた聖者とは、生かされた人々、サタンの支配下にあったがサタンを打ち負かした人々のことを指す。中国の選ばれた人々は、赤い大きな竜による悲惨かつ非人道的な迫害や策略に耐えてきたため、精神はひどく荒廃させられ、生きる勇気を少しも持たなくなった。したがって彼らの霊の目覚めは、本質から始まらなければならない。彼らの本質において、少しずつ霊を目覚めさせなければならない。ある日、彼らが生かされた時、もはや障害物は何もなくなり、すべては順調に進む。今のところ、これは相変わらず達成不可能である。ほとんどの人の生き様は死の雰囲気をかなり含んでおり、死の気配に包まれており、欠けているものがあまりにも多い。言葉に死を帯びている人々もおり、彼らの行動も死を帯びており、彼らが生き抜くもののほとんどすべてが死である。もし今日、人々が公に神について証ししても、この働きは失敗する。なぜなら彼らはまだ完全には生かされていないし、あなたがたのあいだにはあまりにも多くの死人がいるからである。今日、なぜ神はしるしや不思議を示さないのか、そうすれば異邦人たちのあいだに神の働きをすばやく広めることができるのに、と言う人々がいる。死人は神について証しをすることはできない。生きている者だけが証しできるが、今日ほとんどの人は死んでおり、あまりにも多くの人が死に囚われて生きており、サタンの影響下にあり、勝利を得ることができない。それなのに彼らが神について証しをすることなどできるだろうか。福音の働きを広げることなどできるだろうか。

 

 

   暗黒の影響を受けて生きている人々は死の中に生きているのであり、サタンにとりつかれている。神に救われなければ、そして神の裁きを受け、刑罰を受けなければ、人々は死の権勢から逃れることはできず、生きている人にはなれない。こうした死人たちは神について証しをすることはできないし、神に用いられることもできない。いわんや神の国に入ることはできない。神は死人ではなく、生きている人々の証しを望んでおり、死人ではなく生きている人々が神のために働くことを要求する。「死人」とは神に反対し、神に逆らう人々であり、霊が麻痺し、神の言葉を理解しない人々であり、真理を実践せず、神への忠誠心など微塵もない人々、サタンの支配下に住み、サタンに利用されている人々のことである。死人は真理に反対し、神に逆らい、卑しく、卑劣で、悪意があり、野卑で、悪賢く、陰険であることで自らを表す。そのような人々はたとえ神の言葉を飲食しても、神の言葉を生きることはできない。彼らは生きているが、歩く死体、呼吸する屍である。死人は神を満足させることは全くできないし、いわんや神に完全に従うことなどできない。神をだまし、冒涜し、裏切ることしかできない。死人の生き方はすべてサタンの性質を明らかにする。もし、人々が生きている存在になり、神への証しを立て、神に認められることを望むならば、神の救いを受け入れ、神の裁きと刑罰に喜んで服従し、神による刈り込みや取り扱いを喜んで受け入れなければならない。そうして初めて神が要求する真理のすべてを実践することができ、そうして初めて神の救いを得て、本当に生きた存在になることができる。生きている人々は神によって救われ、神から裁きと刑罰を受けており、進んで神に身を捧げ、喜んで神に命を投げ出し、全人生を神に捧げる。生きている人々が神への証しをたてる時のみ、サタンを辱めることができ、生きている人々だけが神の福音の働きを広めることができ、生きている人々だけが神の心にかない、生きている人々だけが本当の人である。神により造られた人は元々は生きていたが、サタンに堕落させられたために死の只中で暮らし、サタンの影響下で暮らすようになり、そこで人々は霊のない死人となり、神に反対する敵となり、サタンの道具になり、サタンの囚われ人になってしまった。神が造った生きている人々はすべて死人となり、そこで神は証しを失い、神が造り、神の息を吹き込まれた唯一の存在である人類を失ってしまった。もし神が証しを奪い返し、神の手で造られたがサタンに奪われた人々を奪い返すならば、神は彼らが生きている人々になるようによみがえらせなければならないし、神の光の中で生きるように彼らを奪い返さなければならない。死人とは霊を持たず、極端に無感覚で、神に反対する人々のことである。そのうえ、彼らは神を知らない人々である。彼らは神に従う意思など微塵も持たず、神に反抗し、反対するだけであり、忠誠心はまったくない。生きている人々は霊が再生しており、神に従うことを知っており、神に忠実な人々である。彼らは真理と証しを備えており、彼らだけが神の家で神に喜ばれる。生かされることができる人々、神の救いを見ることができる人々、神に忠実になることができ、進んで神を探し求める人々、神の受肉を信じる人々、神の出現を信じる人々を神は救う。生かされることができる人もいれば、そうでない人もいるが、それはその人の本性が救われるか否かによる。神の言葉を数多く聞いているにもかかわらず、神の心を理解しない人が大勢いる。彼らは神の言葉を数多く聞いているが、それを実践することができず、いかなる真理を生きることもできず、さらに神の働きを故意に妨げる。彼らは神のためにいかなる働きを行なうこともできず、神に何も捧げることができず、そのうえこっそり教会の資金を使ったり、ただで神の家で食べたりする。これらの人々は死人であり、救われない。神は自身の働きの中にいるすべての人々を救うが、一部の人は神の救いを得られない。神の救いを得られるのはほんの少数だけである。なぜならばほとんどの人はあまりにも死んでおり、救うことができないほど死んでおり、完全にサタンに利用され、本性にあまりにも悪意があるからである。先の少数の人々も完全に神に従うことができたわけではなかった。彼らは最初から完全に神に忠実であった人々、あるいは最初から神に最大限の愛をもっていた人々ではなかった。それどころか、彼らは神の征服の働きゆえに神に従うようになったのであり、神の究極の愛ゆえに神を見ているのであり、神の義である性質ゆえに彼らの性質に変化が見られるのであり、実際的で正常である神の働きゆえに彼らは神を知るようになる。神のこの働きがなければ、彼らがどれほど善良であろうと、まだサタンに属しており、まだ死に属しており、まだ死んでいることだろう。今日これらの人々が神の救いを得られるのは、彼らが神と協力する覚悟があるということに尽きる。

   生きている人々は、神に忠実であるために神に得られ、神の約束の只中で暮らす。死人は、神に反対するために神から嫌われ、拒絶され、神の懲罰と呪いの只中で暮らす。これが神の義の性質であり、いかなる人もそれを変えることはできない。自ら探し求めることにより、人々は神の承認を得て、光の中に暮らす。ずるい企みのために、人々は神に呪われ、懲罰の真中に身を落とす。悪行のために、人々は神に懲罰される。神に対する切望と忠実により、人々は神の祝福を受ける。神は義である。神は生きている人々を祝福し、死人を呪うので、死人は永遠に死の中にとどまり、決して神の光の中では暮らさない。神は生きている人々を神の国へ連れていき、永遠に神とともに留まるべく生きている人々を神の祝福へと連れて行く。神は死人を永遠の死に陥れる。死人は神による破壊の対象であり、永遠にサタンに属する。神は誰も不当に扱わない。真に神を探し求める人はすべて必ず神の家に留まり、神に逆らい、神と相容れない人々は必ず神の懲罰を受けながら生きる。おそらくあなたは受肉した神の働きについて確信がないだろうが、いつか神の肉は人の終末を直接に定めることはなく、その代わりに神の霊が人の終着点を定め、その時人々は神の肉と霊は一つであること、神の肉は間違いを犯すことはなく、神の霊はさらに間違いを犯すことなどないことを知る。最終的には、神は必ず一人の余分も一人も欠けもなく、生かされる人々を神の国に連れて行き、生かされなかった死人はサタンの洞窟に投げ捨てられるのである。


あなたがたは自分の行いを考慮すべきである

2019-12-17 22:12:14 | いのちのパン

   あなたがたの生活における行いから判断すると、あなたがたは皆、あなたがたに与え、あなたがたを満たしてくれる言葉の一章を毎日必要としている。というのは、あなたがには欠けているものが余りにも多く、あなたがたの認識と受け取る能力はあまりにも乏しいからである。あなたがたは日常生活の中で、真理も良い理性もない雰囲気と環境の中で生きている。あなたがたには生存するための資質に欠けおり、わたしや真理を知る基盤もない。あなたがたの信仰は、ただ漠然とした自信、あるいは教義のみに基づく宗教的儀式や認識の上に築き上げられている。毎日、わたしはあなたがたの動きを見守り、あなたがたの意図や悪い実を吟味する。わたしは、決して動かされたことのないわたしの祭壇の上に、心と霊を本当に捧げた人を見つけたことは一度もなかった。だから、わたしはそのような人間の上に、わたしが表現したいすべての言葉を無駄に注ぐようなことはしたくはないと思っている。わたしは心の中では、まだ終わっていない仕事を完成し、わたしがまだ救っていない人類に救いをもたらすことだけを計画している。にもかかわらず、わたしに従う人たちがみな、わたしの救いとわたしの言葉によって人に授けられる真理を受け入れてくれるよう、わたしは願っている。わたしは、あなたがいつの日か目を閉じるとき、黒々とした雲が空に浮かび、うめき声が決して止まることのない、荒れた冷たい世界ではなく、芳香が空気を満たし、生ける水が小川となって流れる領域を見るよう望んでいる。



   毎日、すべての人の行いや思いは神に注目されており、それらは同時に、彼ら自身の明日への準備となる。これはすべての生ける者が歩かなければならない道であり、わたしがすべての者に予め定めた道である。誰もこれを逃れることはできないし、誰にも例外はない。わたしは数えきれないほどの言葉を語り、さらには、測り知れないほどの量の働きを行ってきた。わたしは一人ひとりが、その生来の本性、およびそれがどのように進化するかに応じて、その人が為すべき全てのことを自然に遂行している様子を毎日見ている。知らないうちに、多くの人たちはすでに、あらゆる種類の人たちが露わにされるためにわたしが定めた「正しい軌道」に乗った。わたしはすでにあらゆる種類の人間を違った環境に置いており、その場所で、一人一人が生まれ持った特性を表現し続けている。彼らを縛る者は誰もいないし、彼らを誘惑する者もいない。彼らはすべてにおいて自由であり、彼らが表現するものは自然に出てくる。彼らを抑制するものが唯一あるが、それはわたしの言葉である。だから、ただ死を避けるためにわたしの言葉をしぶしぶ読み、決して実践しない者もいれば、自分を導き糧を施すわたしの言葉なしでは日々耐え難いことに気づき、自然とわたしの言葉をいつも手放さない者もいる。時が経つにつれて、彼らはやっと人生の奥義、人類の終着点、人間であることの価値を発見する。人類はわたしの言葉の前では、このような有様でしかない。そしてわたしは、ただ事を自然の成り行きに任せる。わたしは、人がわたしの言葉を彼らの生存の基盤として生きるように強制するようなことは一切しない。だから、良心や自分の存在価値のない人たちは、静かに事の成り行きを観察し、大胆にわたしの言葉を投げ捨て、自分の好きなようにする。彼らは真理や、わたしから出るすべてのものにうんざりする。さらに彼らはわたしの家にいることにもうんざりする。このような人たちは、たとえ奉仕をしていても、彼らの終着点のために、またわたしの懲罰を逃れるために、わたしの家に一時的に留まる。しかし、彼らの意図は決して変わることはないし、彼らの行動も変わることはない。このことは彼らの、祝福への願望を助長し、また、ただ一度で神の国に入り、そこに永久に留まることができ、さらに永久の天の国に入る欲求までも助長する。わたしの日がいつかすぐに来るのを彼らが待ち焦がれれば焦がれるほど、ますます彼らは、真理が彼らの道の障害物となり、躓きの石となっていると感じる。彼らは、真理を追求することなく、裁きも刑罰も受け入れることなく、とりわけ、わたしの家に従属的に留まり、わたしの命令どおりに従うことなどなく、ただ天の国の祝福を永久に楽しむために、神の国に足を踏み入れるのを待ち切れないでいる。これらの人々がわたしの家に入るのは、真理を求める心を満たすためでも、わたしの経営の下で共に働くためでもない。彼らの目的は、ただ次の時代に滅ぼされない人たちの一人になることだけである。よって、彼らの心は、真理とは何か、あるいは真理をどのように受け入れるかなど全く知っていない。これが、そのような人たちが真理を実践したことがまったくなく、自らがどれだけ極端なほどひどく堕落しているかを悟ることがないにもかかわらず、最後まで「しもべ」としてわたしの家に留まった理由である。彼らは「忍耐強く」わたしの日が来るのを待ち、わたしの働きの仕方に翻弄されても疲れを知らない。彼らがどんなに努力しても、彼らがどんな代価を支払っても、彼らが真理のために苦しみ、わたしのために犠牲を払ったことなど誰ひとり認めないだろう。心の中では彼らは、わたしによって古い時代が終わる日を見るのを待ちきれず、さらに、彼らはわたしの力と権威がいかに偉大であるかを知りたいと切に願っている。彼らが決して急いで行おうとしなかったこと、それは、自らを変え、真理を追求することである。彼らは、わたしがうんざりしているものを愛し、わたしが愛しているものにうんざりしている。彼らはわたしが憎むものを慕い、同時に、わたしの忌み嫌うものを失うことを恐れている。彼らはこの邪悪な世に生きているが、それを一度も憎んだことはなく、この世がわたしによって滅ぼされるのを心底恐れている。彼らが持っている目的は矛盾している。彼らはわたしが忌み嫌うこの世を喜んでいるが、また同時に、わたしがこの世をまもなく滅ぼすことを切望している。こうして、彼らは、真理の道から外れてしまう前に、破滅の災難を免れ、次の時代の主人へと変えられるというのである。これは彼らが真理を愛さず、わたしから出る全てのものにうんざりしているからである。おそらく、彼らは祝福を失わないように、しばらくは「従順なる人たち」になるだろうが、彼らの「祝福切望意識」や滅びと燃える火の池に入ることへの恐怖が覆い隠されることは決してないだろう。わたしの日が近づくにつれ、彼らの願望は着実に強くなる。そして災いが大きければ大きいほど、わたしを喜ばせるにはどうしたらよいのか、彼らが長い間切望してきた祝福を失うのを避けるためには何をどうしたらよいのかが分からなくなり、彼らはますます無力になる。一旦わたしの手がその働きを始めると、このような人たちは先駆者として仕えるために熱心に行動する。彼らはわたしが彼らに気づかないことを深く恐れ、軍隊の前線に突入することだけを考える。彼らは自分たちの行為や行動が全く真理に沿っておらず、わたしの計画をただ妨害し、干渉するだけであるということを知らないで、自分が正しいと思うことを言ったり行ったりする。彼らは大いに努力するかもしれないし、困難に耐えようとする意志や意図は真実かもしれないが、彼らがすることすべてがわたしとは関係がない。なぜなら、わたしは彼らの行いが良い心がけから出ているのを一度も見たことはないし、ましてや彼らがわたしの祭壇に何か置くのを見たことは一度もないからだ。これが、彼らが長年わたしの前でしてきた行いである。

   本来、わたしはあなたがたにもっと真理を与えたいと願ったが、あなたがたの真理に対する態度があまりにも冷たく無関心であるため、わたしは遠慮せざるをえなかった。わたしは自分の努力が無駄になることは望まないし、人々がわたしの言葉を抱えながら、万事においてわたしに逆らうことを行い、わたしを中傷し、冒涜するのを見たくはない。あなたがたの態度と人間性の故に、わたしはあなたがたにとって非常に大切な言葉のごく一部分だけを、人類の中でのテストとしてあなたがたに与える。わたしが下した決断や計画があなたがたの必要とするものと合致していることをわたしが本当に確証し、さらに、わたしの人類に対する態度は正しいものであると確証するのは、今が初めてである。あなたがたが長年にわたってわたしの前でしてきた行動から、これまで一度も受け取ったことのない答えが得られた。そして、このような答えに対する問いは、「真理と真の神の前における人の態度とは、どのようなものだろうか」である。わたしが人間に注いできた努力は、人間を愛することがわたしの本質であることを証明している。また、わたしの前で人が為す行動や行為は、真理を憎みわたしに反抗する人間の本質を証明した。わたしはわたしに従ってきたすべての人たちのことをいかなる時にも気にかけているが、わたしに従う人たちはわたしの言葉をいつも受け入れようとしない。彼らはわたしから出る提案でさえ、ひとつとして受け取ることがまったくできない。これがわたしをもっとも悲しませることである。たとえわたしの態度が誠実で、わたしの言葉がやさしくても、誰もわたしを理解することなどないし、その上、誰もわたしを受け入れることができない。誰もが、わたしから託された働きを、自分本来の考えに従って行おうとする。彼らはわたしの意図を求めることもなく、ましてや、わたしの要望など尋ねることなどない。みなわたしに逆らっているのに、彼らは依然としてわたしに忠実に仕えていると主張している。多くの人たちは、自分が受け入れられない真理、あるいは自分が実践できない真理は、真理ではないと信じている。そのような人たちにとって、わたしの真理は否定され、投げ捨てられるものになっている。それと同時に、わたしは言葉においてのみ神として人間に認められる者となったが、また真理でも、道でも、いのちでもない部外者とみなされるようになった。次の真実を知るものは一人もいない:わたしの言葉は永遠に変わらない真理である。わたしは人間にとっては、いのちを与える者であり、人類の唯一の案内人である。わたしの言葉の価値と意味は、人間に認められているかどうか、受け入れられているかどうかではなく、言葉自体の本質によって決定される。たとえこの地上でだれひとりわたしの言葉を受け入れることができないとしても、わたしの言葉の価値と、どれだけそれが人類の助けになるかは、人には計り知れない。だから、わたしの言葉に逆らい、反論し、あるいはわたしの言葉を全く軽蔑している人たちに直面するとき、わたしの変わらない姿勢はこうである。時と事実をわたしの証人とし、わたしの言葉が確かに真理であり、道であり、いのちであることを示させよう。そして、わたしが言ったことはすべて正しく、人はそれを備えるべきであり、さらに人はそれを受け入れるべきであることを、時と事実に実証させよう。わたしはわたしに従うすべての者たちに次の事実を知らせる。わたしの言葉を完全に受け入れることができない人たち、わたしの言葉を実践できない人たち、わたしの言葉に目的を見いだせない人たち、そしてわたしの言葉によって救いを受け入れることができない人たちは、わたしの言葉によって罪に定められた人たちであり、さらには、わたしの救いを失った人たちである。そして、わたしのむちは決して彼らから離れることはない。

 

更に多くの内容を読むには、聖書の部屋のウェブサイトへどうぞ


極めて深刻な問題──裏切り(2)

2019-12-16 13:19:02 | いのちのパン

   人間の本性はわたしの本質と全く異なる。その理由は、人間の腐敗した本性が全てサタンに由来するからであり、また人間の本性はサタンに取り憑かれて腐敗させられていることにある。つまり、人間はサタンの邪悪と醜悪さの影響下で生きながらえている。人間は真理の世界や聖なる環境で育つのではなく、光の中で生活してもいない。ゆえに、人間それぞれの本性に真理が生来備わっていることはあり得ず、それ以上に、神を畏れ、神に従う本質を持って生まれることもあり得ない。逆に、人間は神を拒み、神に反抗し、真理を愛すことのない本性を備えている。わたしが話したいのは、この裏切りの本性に関する問題である。裏切りは各人の神への反抗の根源である。これは人間だけにある問題であり、わたしには無い。「キリストも人間も、皆人間の世界で生活しているのであれば、あらゆる人間は神を裏切る本性を備えているが、キリストは備えていないのは何故だろうか」といった疑問を抱く者も居る。これは、あなたがたに明瞭に説明する必要のある疑問である。



   人間の存在は、霊が順番に肉体化することに基づいている。つまり、各人は、霊が肉体化した時に、肉にある人間の命を得る。人間の身体が生まれた後、その命は肉の限界、つまり霊が外殻から出る時まで続く。この過程が何度も繰り返され、それと共に人間の霊は往来を繰り返し、全人類の存在が維持されている。肉にある命は、人間の霊の命でもあり、人間の霊は人間の肉の存在を支援する。つまり、各人の命は、その者の霊に由来し、人間の肉に元来いのちがあるのではない。したがって、人間の本性は人間の肉ではなく霊に由来する。人間がサタンによる誘惑、サタンが与える苦悩や腐敗をどのように受けたかを知るのは、各人の霊のみである。人間の肉は、それを知る事が出来ない。よって、人間は無意識のうちに益々汚れ、邪悪で暗黒になってゆく一方、わたしと人間の間の距離も益々広がり、人間の日々も益々暗黒になる。人間の霊は、全てサタンに掌握されている。ゆえに、人間の肉もまたサタンに囚われているのは言うまでも無い。こうした肉と人間が、どうして神に反抗せず、生来神の味方であり得るだろうか。サタンがわたしにより空へと投げ出されたのは、サタンがわたしを裏切ったからであるが、それならば、どうして人間がその影響から解放され得るであろうか。これが、人間の本性が裏切りである理由である。あなたがたが、この理由を理解した後、キリストの本質も信じることを、わたしは確信している。神の霊が纏った肉は、神自身の肉である。神の霊は至高のものであり、神の霊は全能であり、聖であり、義である。それと同様に、神の肉も至高のものであり、全能であり、聖であり、義である。このような肉は、義であり人間に有益な物事、聖なるものであって栄光ある物事、力ある物事しか行うことが出来ず、真理や道義に反する物事を行うことが出来ず、ましてや神の霊を裏切る物事を行うことなど出来ない。神の霊は聖なるものであり、したがって神の肉は、サタンが腐敗させることの出来ないものであり、人間の肉の本質と異なる。なぜなら、サタンにより腐敗させられているのは、人間であって神では無いからである。サタンは神の肉を腐敗させることはできない。したがって、人間とキリストは同じ空間にあるにもかかわらず、サタンにより占有され、利用され、囚われているのは人間だけである。それに対し、キリストはサタンによる腐敗の影響を永久に受けない。なぜなら、サタンは最も高い場所まで昇り、神に近付くことが決して出来ないからである。今日、あなたがたは全員、サタンにより腐敗させられ、わたしを裏切っているのは人間のみであり、この問題はキリストと無関係であることを理解する必要がある。

   サタンにより腐敗させられた霊は、すべてサタンの支配する領域にある。ただし、キリストを信じる者は分離され、サタンの軍勢から救われ、今日の神の国へと導かれている。こうした人々は、もはやサタンの影響下では生活していない。それでもなお、人間の本性は依然として人間の肉に根ざしている。つまり、あなたがたの霊は救われているにもかかわらず、あなたがたの本性は依然として昔のままの姿であり、あなたがたがわたしを裏切る可能性は依然として100パーセントである。わたしの業が極めて長期に及ぶのはそのためである。なぜなら、あなたがたの本性は極めて揺るぎないからである。現在、あなたがたは皆、自分の本分を尽くす上で可能な限りの苦難を受けているが、否定出来ない事実として、あなたがた各人にわたしを裏切り、サタンの領域、サタンの陣営に戻り、従来の生活へと戻る可能性がある。この時、あなたがたが現在のように人間性や人間としての姿を僅かでも持つことは不可能であろう。深刻な場合、あなたがたは滅ぼされ、さらに永遠に罪に定められ、生まれ変わることは二度となく、厳罰に処されるであろう。これが、あなたがたを待ち受けている問題である。わたしがこのように警告しているのは、第一に、わたしの業が無駄にならないようにするためであり、第二に、あなたがた全員が光の日々のなかで生活できるようにするためである。事実、わたしの業が無駄であるかどうかは、重篤な問題では無い。重要なのは、あなたがたが幸せな生活と素晴らしい未来を得られることである。わたしの業は、人間の霊を救う業である。あなたの霊がサタンの掌中に陥ったならば、あなたの身体は平和な日々を送れないであろう。わたしがあなたの身体を護っているならば、あなたの霊は確実にわたしの庇護にあるであろう。わたしがあなたを本気で忌み嫌ったならば、あなたの身体と霊は、即座にサタンの掌中に陥るであろう。あなたは、そうなった場合の自分の状況を想像出来るだろうか。ある日わたしの言葉があなたがたに意味をなさなくなったならば、わたしはあなたがたを全てサタンに引き渡し、わたしの怒りが完全に無くなるまで2倍の苦悶を与えるか、あるいはわたし自らが、救いようのない人間であるあなたがたに懲罰を与える。なぜなら、あなたがたがわたしを裏切る心は変わらなかったからである。

   あなたがたは皆、自分自身のことを出来る限り迅速に検証し、自分の性格のうち、どの程度が依然としてわたしを裏切っているかを確認する必要がある。わたしは性急にあなたがたの答えを待っている。わたしを無視してはならない。わたしは決して人間に対していい加減な態度は取らない。わたしは言った事を必ず実行する。あなたがた全員が、わたしの言葉を真剣に捉え、それをSF小説のようなものであると考えない者となれることを願っている。わたしが望むのは、あなたがたの具体的な行為であり、想像ではない。次に、あなたがたは、わたしの次の質問に答える必要がある。1.あなたは、自分が真に効力者であるならば、おざなりな要素や否定的要素無しで、わたしに忠実に奉仕できるであろうか。2.あなたは、わたしがあなたに感謝した事が無いと知った場合、依然として生涯を通してわたしのところに留まり、奉仕することが出来るであろうか。3.あなたが大いに努力しているにもかかわらず、わたしがあなたに対して冷淡であったとしたら、曖昧さの中でわたしのために業を行い続けることが出来るであろうか。4.あなたは、何かをわたしのために費やした後に、わたしがあなたの些細な要求を満たさなかったとしたら、わたしに失望し、落胆したり、さらには激怒したり罵声を浴びせたりするであろうか。5.あなたは、自分がわたしに対して常に忠実であり、わたしを愛しているにもかかわらず、病の苦痛や生活上の貧窮、友人や親戚に見捨てられること等の人生における不幸を受けたとしたら、わたしに対するあなたの忠誠や愛は依然として継続するであろうか。6.あなたが心に描いている物事のひとつとしてわたしの業と一致しなかったならば、あなたはどのようにして自分の将来の道を歩むであろうか。7.あなたは、自分が望む物事を一切授からなかった場合、引き続きわたしに付き従う者であり続けられるだろうか。8.あなたは、わたしの業の目的や意味を全く理解できなかった場合、勝手に判断したり結論を出したりしない、従順な者となることが出来るであろうか。9.わたしが人間と共にある時に述べた言葉とわたしが行った業のすべてを大切にすることが出来るだろうか。10.あなたはわたしに忠実に付き従う者となり、たとえ何も授からないとしても、生涯を通してわたしのために苦難を受けることが出来るだろうか。11.わたしのために、自分が将来生きる道を検討したり、計画したり、用意せずに居ることが出来るだろうか。これらの質問は、あなたがたに対するわたしの最終的な要求であり、あなたがた全員がわたしに対して返答できることを期待している。これらの質問の中から1件ないし2件を満たすのみであれば、あなたは、引き続き熱心に努力する必要がある。これらの質問の中に実現できるものが1つも無いのであれば、あなたは間違い無く地獄へ落とされる者の部類に入る。わたしはそうした者に、これ以上何も言う必要が無い。なぜなら、そうした者はわたしの味方になれる者では無いことが確実だからである。いかなる状況であってもわたしを裏切る者を、どうしてわたしの家に留めておくことが出来ようか。殆どの場合にわたしを裏切ることが出来る者に関しては、わたしはその者の行動を観察し、その他の処分を行う。しかし、そうした者が状況を問わずにわたしを裏切ることが出来るものである限り、わたしはその者を決して忘れる事が無く、心の中で覚え、その者の邪悪な行いに報いる機会を待つ。わたしが挙げた要求は、すべてあなたがたが自分を検証するためのものである。あなたがた全員が、これらの問題を真剣に検討出来ること、そしてわたしをいい加減に取り扱わない事を期待している。わたしは近い将来、わたしの要求に対するあなたがたの回答を確認する。その時までは、あなたがたにそれ以上の物事を要求することは無く、またあなたがたに深刻な忠告をそれ以上述べることは無いであろう。そしてわたしは、自分の権威を行使する。残すべき者は残され、報いられるべき者は報いられ、サタンに引き渡されるべき者は、サタンに引き渡され、厳罰を受けるべき者は厳罰を受け、滅ぶべき者は滅ぼされるであろう。そのようにして、わたしの日にわたしを侵害する者は誰も居なくなるであろう。あなたは、わたしの言葉を信じるであろうか。あなたは、報いを信じるであろうか。あなたは、わたしを騙して裏切るような邪悪な者を、わたしがすべて罰すると信じているであろうか。あなたは、その日が早く来ることを望むであろうか、それとも遅く来ることを望むであろうか。あなたは、罰を強く恐れる者であろうか、あるいは罰を受けるべきであってもわたしを拒むような者であろうか。その日が来た時、あなたは自分が明るく笑って生活しているか、それとも泣きながら歯ぎしりしているかを想像できるだろうか。あなたは、どのような結末を得ることを望むだろうか。あなたは、自分がわたしを100パーセント信じるか、それともわたしを100パーセント疑うかを真剣に検討したことがあるだろうか。あなたは、自分の行動と態度により自分が受ける結末と最後がどのようなものとなるかを注意深く検討したことがあるだろうか。わたしの言葉がひとつずつ実行されることを本当に望むであろうか、あるいはそのことを強く恐れているであろうか。わたしが自らの言葉を実行するために間もなく去ることを、あなたが望むのであれば、あなたは自分の言葉と行動を、どのように扱うべきであろうか。わたしが去ることを望まず、わたしの言葉が全て直ちに実行されるのを望まないのであれば、あなたは一体なぜわたしを信じるのであろうか。あなたは、自分がなぜわたしに付き従っているかを本当に知っているだろうか。それが単に自分の視野を広げるためであったとしたら、あなたはそのような苦悩を受ける必要が無い。それが祝福を受けて今後の災禍を避けるためであるとすれば、あなたが自分の行動を懸念しないのは何故だろうか。あなたは何故、自分がわたしの要求を満たせるかどうかを自問しないのだろうか。あなたは何故、自分が今後わたしの祝福を受けるに相応しいかどうかを自問しないのだろうか。

 

あなたのために受肉に関するより多くの文章を推薦します


奇跡!医学的に不妊と診断されたあと、彼女は元気な赤ちゃんを産んだ(II)

2019-12-15 22:01:52 | 癒やしと恵みの証し

   ある日、小慧は突然吐き気を覚えました。悪いものを食べたせいでのぼせてしまったためではないかと思い、漢方薬を二種類処方してもらったのですが、それを飲んだあとも吐き気はひどくなるばかりでした。そのとき初めて、小慧はこう考えました。私は妊娠しているのではないか。しかし、次にこう思いました。「そんなことがどうしてあり得るの。二年間も不妊治療を受けて結局だめだったし、どうして妊娠なんてできるの」そうは言うものの、純粋な好奇心から妊娠検査を受けたところ、結果は陽性でした。彼女は興奮のあまり空中に飛び上がりそうになりました。本当にすごい! 妊娠しようと三年間頑張ったのに、結果は失敗だった。妊娠して子どもを授かる計画を完全にあきらめ、すべてを神様の支配と采配に託したところ、本当に妊娠した。これが奇跡でなくて何でしょう。彼女は、アブラハムが百歳で息子を授かったという、祖母が語ってくれた聖書の物語を思い出しました。そして、自分が今日妊娠したのは神様の権威とお力の表われだということに気づきました。小慧は心の中で制御不能な喜びを感じました。神様に感謝と賛美を捧げ、人間の出来事はすべて神様の支配と采配の一部なのだと、これまで以上に確信しました。

   小慧は妊娠の喜びに浸りましたが、新たな問題が次から次へと起こりました。流産の可能性が高く、それを防ぐためにプロゲステロンを経口摂取する必要があると医師から言われたのです。また胎児が正常に成長しているかどうかを観察するために定期検査を受けなければならず、もし正常に成長していなければ中絶する必要がありました。また医師は小慧に、妊娠中に自分の知らないところで飲んだ二つの漢方薬が胎児に影響を与えているかもしれないと告げ、先んじて中絶するよう提案しました。医師の言葉は小慧にとって大きな打撃で、途方に暮れました。自分の状態を考えれば妊娠するのは難しく、この「予期せぬ」妊娠は奇跡だと知っていたのです。彼女は心配しました。中絶すれば再び妊娠することはないだろう。でも中絶しなければ奇形児を出産するかもしれない。彼女は不安でした。病院は子宮収縮抑制薬を処方してくれたものの、それがうまくいくと安心させるものは何もなく、どうすればいいかわかりませんでした。



   ある集会で、小慧は胎児に関する自分の不安と心配を語りました。すると姉妹が神様の御言葉の一節を辛抱強く探して彼女に伝えました。小慧はそれを読みました。「科学は人のために何をしますか。科学が人にするのは、対象物を物理的世界において見ることができるようにすることだけで、単に人間の好奇心を満たすに過ぎません。それは人間に神が万物を支配している法則を見せてはくれません。人間は科学に解答を見出しているようですが、その解答は不可解で、一時的な満足感、人間の心を物理的世界に閉じ込めることだけに役立つ満足感をもたらすだけです。人間は既に科学に解答を見出したと感じているので、どのような問題が起きようとも、科学的意見に基づいてそれを証明したり受け入れようとします。人間の心は科学に取りつかれたようになり、科学に魅惑されるあまり、もはや神を知り、神を拝み、万物は神から来て、解答を得るには人は神に向かうべきであると信じる心をもたなくなります。」

   姉妹はこう語りました。「私たちが科学を崇拝して頼るのは、科学の意見や論法が心に植え付けられているからです。例えば、『科学は万能である』とか『科学は至上である』とかいう考えのために、私たちは病気になったとき、神様の御心を探し求めて御前へ赴くよりも、医者に会って科学に頼るべきだと考えています。科学や医学が問題を解決できないとき、私たちは絶望と苦痛にさいなまれます。それと同じく、あなたは自分の病状を経験する中で、妊娠する可能性はないと医者から言われたとき、義両親が自分を見下すのではないかと恐れて不安になり、そのため苦しみの中で過ごし、あたかも救命具のように医者のところへ行きました。その医者が、あなたの飲んだ薬が赤ちゃんに影響を与えるかもしれないと言って、中絶するよう勧めてきたとき、あなたは神様の御言葉と行ないを心の裏側に置いて、神様から授かった子どもが健康でないのではないかと不安になりながら、不安と苦悩の中で過ごしたのです。事実は、人間は神様によって造られ、各人の身体の欠陥や将来何が起きるかはすべて神様によって操作され、神様は人々のためにとても正確なご準備をなさっているのです。私たちは神様のお言葉から、科学は真理でなく人々を救えないこと、それは人々を堕落させ、混乱させ、誤った方向へ導くだけだということを知るので、自分から苦痛を取り除きたければ、物事を行なう原則として神様のお言葉を受け入れ、科学を正しく扱うとともに、盲目的に従ってはいけません。現状において、あなたは胎児を守るために必要なことを行ない、予定通り検査に行きなさい。でも胎児の運命を神様に託して祈り、子どもが健康に生まれるかどうかにかかわらず、神様の采配に従いなさい。そうすれば、これ以上苦しみのうちに過ごすことはなくなります」

   神様の御言葉を読んで姉妹の話を聞いたあと、小慧の心は明るくなりました。彼女は深く感動してこう考えました。「その通りだわ。私は神様の全能性と支配をわかっていなくて、科学に頼り盲目的に従うことで人生を惨めなものにしてしまいました。でも、おばあちゃんが神様の御言葉を何度も私に読んで伝えてくれたこと、それに姉妹のお話と助けのおかげで、神様が指揮なさることやお定めになることについての認識が得られ、これからは自分が遭遇した問題を正しく扱うようになり、サタンによってもてあそばれたり害を受けたりすることはないでしょう。実際、私はホルモン療法をやめたあと奇跡的に妊娠したことの中に、神様の権威を見ました。そして、神様の権威の前では科学も医学も取るに足りないということを個人的に体験しました。いまお医者さんは、胎児が健康でいられるように薬を飲むことを勧めていますし、異常があれば中絶しなくてはならないと言っています。そうして私はその件で心配と不安を抱えるようになりましたが、そのことは、私がまだ神様の権威を信じていないことと、神様がすべてを支配なさっていることを証明しているのです。私は神様に祈って胎児を託そうと思いますが、それと同時に、胎児が健康でいられるように数週間は薬を飲むつもりです。私は、神様が結果を采配なさるのに任せようと思います」

   その後、小慧の心は穏やかになり、胎児について心配したり不安になったりするのをやめました。病院で行なわれた三度目の検査で、プロゲステロンレベルが正常であることが確かめられ、妊娠中に行なわれたすべての定期検査でも、胎児に関することはどれも正常でした。彼女は神様が自分を守り気にかけていらっしゃることを知り、心の中は神様への感謝で一杯でした。

   2018年1月、小慧は無事に出産し、神様はかわいらしい男の子をお授けになりました。出生後の継続検査で、小児科医はビリルビンレベルを調べ、数値が高いので治療のために病院にとどまる必要があると告げました。状態を改善させられなければ黄疸になってしまい、そうなれば脳に障害が残って知能に影響を及ぼすというのです。医師の診断は小慧にとって非常に深刻に聞こえ、病院にいなければ息子の知能が影響を受けるかもしれないと不安になり、神様に祈りました。「神様、あなたはこの子を授けてくださいました。この子の病気も何もかも、あなたの御手の中にあります。この子のビリルビンレベルが上昇して脳に害を及ぼすかどうかは、お医者さんでなくあなた次第です。結果がどうあれ、私はあなたの支配と采配に従います」祈り終えたあと、彼女の頭に神様の御言葉が浮かびました。「生けるものも死せるものも、ありとあらゆるものが、神の思いによって、移ろい、変化し、新しくされ、消え去るのである。これが、神が萬物を支配する方法である。」神様の御言葉は小慧の信仰を強め、彼女は我が子を神様に託すことに決めました。半月後、検査のために息子を再び病院へ連れて行き、ビリルビンレベルが正常であるとわかったとき、小慧はまたしても、神様の支配とお力がどこにでもあること、神様だけが本当に頼る価値があることを知りました。病院にいた他の母親と話しながら、彼女たちの子どももビリルビンレベルがとても高いために、継続治療のため入院し続けなければならないことを知りました。小慧は神様への信仰の中で大いに喜びましたが、それはこれ以上の出費をする必要がないからだけではなく、我が子が苦しい思いをせず、また自分自身もその不安と心配に苦しむ必要がないからでもありました。

   不妊から妊娠、そして元気な子をこの世に送り出した道のりの中で、小慧は個人的な体験をして、神様の全能性と支配が実際のものであること、神様の御言葉は人々が生き続ける動機であること、そして科学は真理でなく、人々を救うことも個人の運命を変えることもできないと感じました。神様だけが人々のいのちの源であり、人類の運命を定めて指揮なさるのであり、人々が何を持ち何を持たないかはすべて神様次第なのです。いつの日か、神様への信仰と崇拝の光の中を歩き、神様のご配慮と保護の下で暮らすことを小慧は待ち望みました。


神の救い:神は、彼女が夫の裏切りの苦しみから抜け出すように導く

2019-12-14 23:11:24 | 信仰生活

   光陰矢のごとしです。泓(ホン)児(アル)はあどけない少女から優美な若い女性に成長し、恋愛に興味が芽生え、やがて目覚めます。富や地位はどうでもよかったのです。彼女が求めていたのは、どんな嵐を乗り切るときも慈しみと愛があり、困ったときには助け合い、ともに歳を重ねていくような関係だけでした。時が来るのを彼女は静かに待っていました…

   彼は突然泓(ホン)児(アル)の世界に現れました。彼女は彼の端正な顔立ちと澄み切った瞳に胸がときめき、彼もまた彼女に特別な感情を抱いたのでした。そのときから、彼女の穏やかで刺激のない日々は陽光で満ちあふれました。やがて二人の距離は縮まり、彼の優しさと思いやりは、泓(ホン)児(アル)にとって外見の良さよりもいっそう愛しいものでした。

 


   「この人こそ人生を委ねて一緒に歳を重ねたいと思っていた人だわ」と彼女は確信します。また、彼も「一生幸せにするよ」と誓ってくれました。しかし、彼女の両親は彼の家庭が貧しいことに不満を漏らし、彼女に「別れてほしい」と言います。泓(ホン)児(アル)はそれをまったく意に介さずただひたすら「心から愛し合っているし、絶対に一生連れ添えるわ」という気持ちで、両親の反対もむなしく、二人で遠くに引っ越しました。

   やがて子宝に恵まれ、愛らしくぽっちゃりした息子が不自由なく暮らせるように夫婦は疲れを覚えることなく働きました。泓(ホン)児(アル)にとって大変で疲れることでしたが、愛する人と協力して一生懸命働き、家庭を育むことはとても甘美な喜びでした。

   彼女の誕生日には特別に、彼は半月分の給料をかけて、ラジオで彼女のために「風雨に耐えて」というラブソングをかけさせ、曲が始まるなり、泓児(ホンアル)は感極まって涙を流します。その曲の中に、1つになった2人の心の声が聞こえたのです。

   末永く結ばれ、お互いを大切に思い、愛し合っている夫婦よりも尊いものなどあるでしょうか?彼女が求めていたのは莫大な富ではなく、このように仲のいい夫婦生活でした。円満な家庭があれば十分だったのです。

   月日がたち、瞬く間に20年が過ぎました。一人息子はすっかり成長し、2人はかなりの規模の家業を始めるために二人三脚で一生懸命働きました。しかしある時点で、泓(ホン)児(アル)は夫の帰宅が次第に減り、「接待がある」という言い訳が増えたことに気づきました。かつて温かく幸せだった家庭がだんだん冷えていくようで、泓(ホン)児(アル)は気を揉んでいました。会社の建築を準備をしていたときは夫自ら対処しなければならないことがたくさんあり、当時は目が回る忙しさだったけど、いつもできる限り早く家に帰ってくれていた。今は会社の経営がどの面でも軌道に乗って、前ほど忙しくないはずなのに、どうして前よりも家に帰ってこなくなったのかしら」。

   彼女は不安で落ち着きません。顧客の趣向は当然理解していました、「フットマッサージや、サウナ、カラオケ、ナイトクラブとか色んな娯楽のワンストップサービスが業界の暗黙のルールになっているし、色んな娯楽の場に行って一夜限りの関係を持ったり、浮気をしたりすることは男の人の間では流行っている。夫は来る日も来る日も客を接待し、このような誘惑だらけの娯楽施設に出入りしているということは、まさか…?いえ、そんなはずはないわ!」

   この20年間、彼女と夫はどんな嵐も乗り越えて手に手を取って歩んできました。その間に起きたことはどんなにささいなでも夫婦の愛の証だったのです。これほどしっかりした愛の土台がどうしてちょっとした誘惑で崩れるのでしょう。「私たちの愛ならどのような試練も耐えられるはずよ」、泓(ホン)児(アル)は自分を慰めるためにそう考えましたが、現実と直面してみるとそれでも気が気ではありませんでした。

   現実は、泓(ホン)児(アル)が「きっとそうよ」と思った通りにはなってくれなかったのです。夫は高額な使途不明金が続き、家に帰らないことがさらに頻繁になり、言い訳も非常にあいまいになります。こうしたことが重なって打撃を受けた彼女はますます不安で心が押しつぶされそうでした。

   夫の普段と違う行動から、「多分浮気ね」と感じていましたが、その現実を受け入れて認めようとはしませんでした。「一生幸せにするよ」と誓い、20年間もともに嵐を乗り越えてきた夫が、突然自分を裏切るなど認める勇気がなかったのです。「死が二人を分かつまで」という誓いは気休めの嘘にすぎなかったのでしょうか。

   現実が現実だけにこれ以上自分自身を偽ることができなくなった泓児(ホンアル)は夫を尾行し始めます。ある日、尾行するうちに高級住宅街にたどり着き、そこには彼が別の女性と建てた家があることを知りました。その女性が小さな子供を腕に抱いてあやしているのを見た瞬間、凄まじいショックを受け、自分の目を疑います。「夫が他の女性とホテルに出入りしたり、親密な関係ぐらいにはなったりしているかもね」という疑いは何度か抱きましたが、まさか別の家庭を築き、別の女性との間に子供をつくっているとは夢にも思いませんでした。その厳しい事実を前に、それまで彼女の中にあったわずかばかりの慰めも砕け散り、崩れ去りました。瞬く間に、2人の誓いも20数年にわたる支え合いも跡形もなくバラバラに崩れ落ちたのです。なんて薄情な人なのでしょうか。一生幸せにするという約束を忘れることなどできるのでしょうか「風雨に耐えて」の歌で表した気持ちを忘れてしまったのでしょうか。妻が夫のためにすべてを投げ出したたことも、夫婦で様々なことを乗り越えてきたことを忘れてしまったのでしょうか。どうして忘れることなどできるのか。どうして妻にそのような仕打ちをするのでしょう。20年間育んだ愛が、見知らぬ人の誘惑に負けるなどありえるでしょうか。

   その瞬間、泓児(ホンアル)は怒りと悲しみに心をかき乱されて震え、不意に涙がこぼれました。そしてかすれた声で夫に「本気で私と息子を捨てて、この女を選ぶっていうの」と叫びます。

   夫の顔に罪悪感が浮かび、「すまないことをした。家族は今でも大切だよ」と答えてくれることを彼女は期待しましたが、夫は涙を流して問いかける妻を前にしてもすっかり黙り込んでいました。夫の態度を見て、泓児(ホンアル)は打ちひしがれました。どうしてこれほど薄情に裏切ることができるのか、見当もつきません。心の中の憤りを抑えきれず、夫の顔を強く平手打ちしました。

   泓(ホン)児(アル)はその場を去った記憶がありませんでした。すべてが吸い取られてしまったような感じです。黄昏が濃くなる中、海岸に立ちつくす彼女のそばに見られたのは、夕日とその色あせた残光だけでした。

   苦痛の波が、絶え間なく心にこみ上げてきました。共に過ごした20年の場面が次々と目に浮かびます。彼のために家族の反対を押し切り、毅然として2人で遠くに移り住みました。ともに必死で働き、金に不自由することがあってもお互いの気持ちがそげるは少しもありませんでした。手に手を取って酸いも甘いも噛み分け、雨にも風にもめげずここまで来たのです。

   暮らしが豊かになり、子供が成長したというのに、夫は幸せな家庭を捨てて別の女と巣を作るなどということができたのです。泓(ホン)児(アル)は夫の不貞を憎み、薄情さを憎みましたが、「せっかく一生懸命働いて築いた幸せな家庭が消えてしまうなんて」と思うととても諦めきれず、「取り戻すためにできることなら何でもするわ」と思います。どんな幸福も託していた夫であるだけに、戻ってきてくれさえすれば、過去の過ちは赦せたのです。

   帰宅すると、泓(ホン)児(アル)は夫婦仲を救うための計画を立て始めますが、ある友人から、「男は生活のために仕事に行く所で、冷たい表情に嫌というほど出会う」ので、「家に帰ってくる旦那に必要なのは、家庭の温かさ」でそれさえあれば幸せを感じられるという助言を聞きました。また、「男の心をつかむには先ず胃袋から」だと友人は言います。

   泓(ホン)児(アル)は、夫の好物がギョーザであると知っていたので、毎日手間暇かけて何種類ものギョーザを手作りし、さりげなく夫のことを調べる方法を色々考えました。息子を使って帰宅してもらう理由も思いつけるだけ思いつきましたが、どんなにうまいことを言ってもいつも気乗りしないようでした。泓(ホン)児(アル)は「私が年を取って見た目も悪くなったから気持ちが冷めたのかしら」と考え、若く見せることに多大な精力を費やすようになります。夫の心を取り戻すために様々な方法を考えましたが、すべて無駄でした。その時期は本当に大変で疲れ果て、ひどい無力感を覚えていました。

   毎日、涙を流しながら顔を洗い、夜もよく眠れませんでした。壊れた家庭を修復しようとどれほど多くのことを試したかわかりません。万策が尽きた彼女にできたことは、夫が改心してくれるのを苦しみながら待つことだけでした。

   泓(ホン)児(アル)はそのまま3年待ち、その長い日々の間幾度となく自問しました、「20数年もの愛情が、こんなにあっさりなくなってしまうなんて。こんなに苦労してるのにどうして幸せで完璧な家庭を取り戻せないの」

   何度も問いましたが、答えは見つかりません。来る日も来る日も待ちましたが、何も変わりませんでした。それは間違いなく彼女たちの夫婦生活に対する「死刑宣告」でした。悲嘆にくれた泓児(ホンアル)には、そんなショックに耐える気力もありませんでした。もううんざりしており、前進する勇気も精力もなくなった彼女は40錠のジアゼパムを一気に飲みました…

   翌日目が覚めると、病院にいました。息子と夫もいました。悔し涙がとめどなく流れ、心はボロボロで、泣きたいだけ泣きました。このような状況で家族が揃うとは何とも皮肉ですが、彼女にはどうしようもありません。空を見上げてため息をつきました、「夫婦がともに辛いことを乗り越えられるのに、豊かさに負けてしまう理由なんて誰にわかるかしら。20数年愛がこんなにもろいなんて。」

   それから間もなく、息子の姑が神の終わりの日の福音を泓(ホン)児(アル)に伝え、「あなたを救い、苦しみを全部取ってくださるのは神だけよ」と言い添えました。これは、人が神によって創造されたためです。人類は、始めは神の配慮と保護のもとにとても幸せに暮らしましたが、サタンによって堕落させられたために神から離れてしまい、神の存在を否定し、サタンの害毒の中で暮らすようになったのです。人の不満と苦痛は大きくなるばかりです。神御自身が受肉されたのは、真理を表し人類を救い、サタンの手から奪い返すためなのです。

   人は神の御前に立ち、神の御言葉を読み、そこから真理を理解することで初めて、社会にはびこる諸悪の根源を見抜き、サタンの害毒から離れて、神の配慮と保護のもとに暮らすことができます。息子の姑は神の御言葉の一節を読みました。「全能者は、深い悲しみの中にあるこのような人々に慈しみを抱く。同時に、神は何の自覚もしていないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、神は人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならないからである。神は探したいと、あなたの心や霊を探したいと、願っている。神は、あなたに食べ物や水をもってきたい、あなたを目覚めさせたいと思っている――そうしてもはやあなたが渇きを感じないように、もはや空腹でなくなるように。あなたが疲れているとき、この世の荒廃を感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見張る者はいつでも、あなたが来るのを抱擁して迎えるだろう。彼はあなたのそばで見守っている、あなたが引き返してくるのを待っている。あなたの記憶が突然回復する日を待っている――すなわち、あなたが神から来たという事実、ともかくもどこかで道を失った、道端で気を失った、それから知らずに一人の「父」ができたことが意識にのぼる日を。そして全能者がそこで待っていたということ、はじめからずっとあなたが返ってくることを待っていたということを、あなたが理解することを。全能者は苦しげに切望している、そして答えのない応答を待っている。」(『言葉は肉において現れる』の「全能者のため息」より)

   今まで聞いたこともなかったこれらの言葉に耳を傾けた泓(ホン)児(アル)は大変心を打たれ、暖流が心の中で沸き上がって心身が温まるような気分でした。ここ数年、彼女には、心の深い悲しみを分かってくれる人も、苦しみの重荷をともに背負ってくれる人もいませんでした。また、理解して慰めることができる人もいなかったのです。寂しく眠れない夜を何度となく過ごし、明け方まで一人静かに涙を流していました。心の傷が影のように付きまとい、決して忘れることも、振り払うこともできず、「もうずっとこのまま孤独で辛い人生しかないのね」と思っていました。

   しかしその日、その一節が心の扉を叩き、「私が辛くて苦しんで涙を流しているとき、神はそれを御存じでいつもそばにいて、私が気を持ち直すのを待ってくださっている」と悟ったのです。神の親心ある言葉を聞いて、泓児(ホンアル)は涙が止まらず、「神がそばにいてくださる。一人じゃないんだ」と感じました。

   彼女はそれまで神について聞いたことはなく、何も知りませんでしたが、神はいつもそばで見守ってくださっていたのです。間一髪の時に彼女を救い、自殺を決意した彼女の生命を守られただけでなく、人生にすっかり絶望していた彼女に、息子の姑を通して神の声を聴かせてくださいました。

   御自身の言葉を用いて泓児(ホンアル)の心を動かし、温もりを与え、希望をもたらし、絶望と苦痛の人生を好転させてくださったのです。その瞬間、泓児(ホンアル)は神の愛と救いを感じ、傷ついた心が癒されました。心の拠り所を得たのです。

   その後、泓児(ホンアル)は全能神教会に通い、神の御言葉を読み、真理について交わり、兄弟姉妹とともに神を称えて讃美歌を歌うようになりました。彼らが皆親切で、誠実さをもって人に接しているのを彼女は目の当たりにしました。彼らは自分たちの暴かれた堕落について単純明快かつ率直に打ち明け、神の御言葉に従って堕落を分析し、神が好む正直者を目指すことができていました。

   誰も他人を嘲ったりせず、皆互いに助け合い、糧を与え合いました。誰もが幸せそうな、あふれんばかりの笑顔を見せていました。泓児(ホンアル)はこの誠実でうれしい雰囲気が自分にも移っていると感じ、その大家族の中で、今まで経験したことのないような安らぎと自由を得ました。

   久しぶりの温かさと、我が家に帰って来たような気持ちを再発見したのです。苦痛は日ごとに和らぎ、徐々に笑顔が出てきました。長いこと困惑してきた事柄に対する答えを神の御言葉の中に見出し、自分の苦しみの根源がわかるようになりました。神の御言葉には次のようなものがあります。「実は、神の様々な創造物の中で、人間は最も賤しい。人間は万物の長でありながら、そのなかでサタンの策略に影響されるのも、サタンの限りない墮落の道に陥るのも人間だけである。人間はかつて自らを支配したことがない。殆どの人々がサタンの汚れた地で生活し、サタンに嘲笑されている。サタンはあの手この手で人間を悩ませ、人間は死にかけの状態となり、人生の浮き沈みや人間の世界の苦難を経験する。サタンは、人間を弄んだ後、人間の運命に終止符を打つ。」(『言葉は肉において現れる』の「働きと入ること(1)」より)「こうした社会動向には、それぞれに人間を継続的に堕落させ、良心、人間性、理知を失わせ、人間の倫理や人格をますます低下させる邪悪な影響があり、それゆえ現在、大部分の人々に誠実さや人間性、良心、さらには理知さえ欠如している状態にまで達しているとさえ言えるほどです。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)「あなたがたは皆、「裏切り」という言葉を知っている。なぜなら、ほとんどの者たちが、これまでに何かしら他人を裏切ることをしたからである。例えば、夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切る。息子が父を裏切り、娘が母を裏切る。奴隷が主人を裏切り、友達同士が互いに裏切り合う。親戚同士が裏切り合い、売り主が買い主を裏切る等である。こうした例には、すべて裏切りの本質が含まれている。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)「人間の本性とは、その者のいのちであり、それは、生き残るために人間が依存する原則であり、人間はそれを変えることが出來ない。ちょうど裏切りの本性のように――もしあなたが、何か親戚や友人を裏切ることが出来るのであれば、それは裏切りがあなたのいのちの一部であり、あなたの生来の本性であることを証明している。このことは誰も否定出来ないことである。」(『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題──裏切り(1)」より)

   神の御言葉を通して、泓児(ホンアル)は「人間の苦しみは全部サタンによる堕落に端を発しているのね。人々は皆いわば大だるの中で暮らし、邪悪に染まっているのだわ」と理解しました。私たちはサタンの悪しきささやきを浴びています。例えば、「屋敷をしっかり保ちながら自分はその傍らで楽しめ」、「人生は短い。楽しめるうちに楽しめ」、「人生は短いのだから今を楽しめ」、「男は10人中9人は女と馬鹿騒ぎし、残りの1人はただの馬鹿だ」といった格言があります。

   これらは、男性が他の女性と浮気をして、愛人を囲うことは容認できることであり、地位の印であると説いてします。さらに、誘惑が多い娯楽の場は大通りから小さな路地まで至るところにあり、人々が悪しき肉体的快楽にふけるのにとても便利です。多くの人々は恥ずかしげもなく一夜限りの関係を持ち、浮気に興じます。彼らはあまりにも邪悪で堕落しており、あまりにも下劣なため人間らしさを欠いています。

   真理を理解していなければ、人は善悪も美醜も見分けることができず、ポジティブな事柄とネガティブな事柄の区別もできません。そのような人は、物の見方がねじれ、悪事を公正かつ立派な事とみなします。人間が備えるべき人間性も理性も、倫理観も、尊厳も手放し、肉欲を満たすためだけに誓いを破り、配偶者を裏切ります。サタンの支配下で生き、すっかり肉欲に溺れ、悦楽を追求し、自身の見苦しい欲望を満たしているのです。

   泓児(ホンアル)はこの邪悪な社会について一考しました。夫が妻を裏切り、妻が夫を裏切ることはよくあることです。悪しき風潮で腐敗し、真理を欠く人はこのような行為に何の抵抗もありません。知らず知らずのうちに邪悪な考えの影響を受け、つかの間の肉体的欲求を満たすためだけに責任も道徳も正義も良心も無視します。配偶者を見捨て、家族に途方もない心の傷を与えます。それで一生苦しむ人もいるでしょう。

   泓児(ホンアル)は夫もこのような邪悪なサタン的風潮の被害者であったのだと悟り、夫がかつてとても思いやりと愛情をかけてくれた時のことや、2人とも自分たちのためだけに物質的な富を求めたりはしなかったことを思い出しました。ただ互いへの愛と慈しみ、幸福と円満さだけを求めていたのです。

   しかし裕福になった途端、夫は頻繁に顧客を接待し、あちこちで娯楽の場を飛び回るようになりました。悪しき風潮の魅惑に勝てず、放蕩生活を送るようになったのです。肉欲を満たすことだけを考えて、不倫をし、見苦しい欲望のままに生きま、妻の気持ちも、ましてや家族のことも全く考えていません。こうして家庭が壊れ、2人は離別してしまったのです。

   20数年も分かち合ってきた愛も、悪しき風潮の前では、実にもろく見えました。わずかな衝撃にも耐えられなかったのです。それはすべて、サタンが人間を堕落させた結果ではないでしょうか。

   泓児(ホンアル)は、サタンによってひどく害されたことを自覚しました。彼女がいつも求めていた夫婦生活は、円満で愛し合い、「死が二人を分かつまで」ともに歳を重ねるというもので、そのような夫婦生活だけが、人生の幸福だと考えていたのです。

   夫が道を誤った後、彼女は壊された愛を取り戻すために百方手を尽くし、望みが叶わないと苦痛のもやの中に暮らし、抜け出すこともできず、死んで楽になろうとさえしました。それはすべてサタンが人間に吹き込んだ間違った考えや物の見方に過ぎず、彼女をもてあそび、害するものではなかったでしょうか。

   泓(ホン)児(アル)は神の御言葉を読んで初めて、「人間は皆自分勝手で、、自分の都合のために、自分の主義に従って行動するんだわ」と理解しました。2人の人間の間に真実の愛はありません。ロマンティックな愛など存在しないのです。しかしサタンは人が悪を崇め、何よりもロマンティックな愛を追求し、完全な幻想の中に生きるように、あらゆる馬鹿げた観念を利用して堕落させ、そそのかします。人はますます堕落し、下劣になり、神からどんどん離れます。

   そのことから泓児は、「人は真理がなければ善悪や美醜を見分けることができず、ポジティブな事柄についても判断できない」ことを実感しました。これではただサタンにもてあそばれ、害され、終いには飲みこまれてしまいます。神の救いのおかげで、泓(ホン)児(アル)はサタンによる人間の堕落の実態を知り、苦しみの根源がわかるようになりました。神の御言葉のおかげでずいぶんと心が明るくなり、とても気持ちが安らぎました。

   それから泓(ホン)児(アル)はこの神の御言葉の次の節を読みました。「神の本質は聖なるものなので、あなたは神によってのみいのちに通じる明るい正しい道を歩むことができ、神によってのみ人生の意味を知ることができ、神によってのみ真の人生を送ることができ、真理を獲得し、知ることができ、神によってのみ真理からいのちを得ることができます。人間が悪を避けるのを助け、サタンの危害と支配から人間を救うことができるのは神だけです。神以外に、これ以上苦しまないよう、辛苦の海からあなたを救い出すことができる人や物はありません。このことは、神の本質により決まっています。無私にあなたを救うのは神自身のみであり、あなたの将来や運命、人生に究極的に責任を負うのは神のみであり、神はあなたのためにあらゆる物事を手配します。これは、被造物や非被造物のいずれも成し得ないことです。被造物や非被造物に、このような神の本質を持つものは存在しないので、あなたを救い、導く能力のある人や物は存在しません。これが人間にとっての神の本質の重要性です。」(『言葉は肉において現れる』の「唯一の神自身6」より)

   泓(ホン)児(アル)は神の御言葉から、「神だけが人をサタンの堕落から救うことができる人は神の御言葉を通して真理を理解することで初めて、人間を堕落させるサタンの戦術や方法を見極められる」と理解しました。それだけが、サタンの策略を見抜き、害を逃れ、自由に生きる道なのです。彼女は「何年も間違った考えに支配されていたのね。結婚して幸せになろうなんて幻想に過ぎなかったんだわ」と嘆き、ため息をつきました。思えば、夫もサタンによって堕落させられた人であり、ネガティブな悪事ばかり追求してきました。そのため彼女には苦しみと傷しかもたらせず、何の幸福ももたらせなかったのです。

   人に対する神の愛だけが無私無欲であり、神だけがサタンの支配から人を救いたいと心から願ってくださるのです。人を清め、変えるために神はあらゆる真理を表し、あらゆる環境を采配されます。それはすべて人がサタンの悪影響から逃れるように導き、幸福な人生をもたらすためです。しかし堕落した人類というものは、自分の個人的な興味を引くものに出会うとすぐに裏切るのです。神のみがいつでもどこでも人のそばにおられ、あらゆる逆境を切り抜けられるように助けてくださいます。神のみが本当に頼れる存在であり、神の家だけが人の心と霊にとって本当の避難場所なのです。

   以前の泓(ホン)児(アル)はサタンから生じた悪しき風潮を理解しておらず、ただ夫へ憤りを抱きながら、幸福も喜びもない暮らしをしていました。サタンに縛られて害され、惨めな日々を過ごした苦痛は言い表せないほどでした。今では苦しみの根源がわかったため、夫が憎くなくなったのです。

   肩の荷が下りたようで、かつてなかったような霊の安らぎと安心と自由を感じました。真理の理解を通してあらゆる人や出来事や物事を見分けるという経験を得て、ついに苦しみとサタンの害悪という責め苦を逃れることができたのです。

   神の御言葉の啓きと導きを得た泓(ホン)児(アル)は、以前のようにふさぎ込まなくなります。夫が夫婦愛を裏切ったことの執着を手放し、安らぎを得たのです。ついにもやに覆われた日々に別れを告げました。彼女を知っている人たちは、「人が変わったね。もっと頭がさえて快活になってる」と口をそろえて言います。神の御言葉のおかげでこのように変わることができたため彼女は神への感謝の気持ちでいっぱいでした。

   そして数年が経ちました。泓(ホン)児(アル)は神の御言葉を常に読み、教会生活を送り、兄弟姉妹と神の御言葉について交わり、創造物の一つとして本分を尽くすことに全力を注ぎ、とても充実した日々を過ごしています。真理をある程度理解し、「人が地上で生きるのは配偶者や子供のためだけではなく、創造物としてしかるべき本分を尽くすためであり、そのように生きることで初めて神に喜んで頂ける」とはっきり認識しました。ついに人生の正しい道を見つけたのです。それは神に従い、神の御言葉の裁きと刑罰を受け入れ、神の働きを経験し、真理を理解して得るように励むことです。神を畏れ悪を避けることであり、神に従って神を崇拝する者になることです。これが最も有意義で幸せな人生なのです。

   泓(ホン)児(アル)の願いは、神の導きと指導の下でこのような人生の道を歩み、真理といのちを得て、サタンの害から完全に逃れ、意義のある人生を送ること、即ち、真理の現実を生きて神に栄光を帰すことなのです。