賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

聖書には神の御言葉に限らず、人の言葉も記されています

2019-07-19 10:27:03 | 聖書と神

   牧師と長老たちはいつも聖書に記述された言葉は全て神の御言葉であり、聖書は神の霊感を受けて書かれたものであると私たちに言います。聖書にもこう書かれています、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」(テモテへの第2の手紙3:16)。 これ故に、私たちは聖書に書かれている言葉は全て神の御言葉であるという信念を抱いてきている訳です。しかし、今日、今井姉妹と一緒に聖書の勉強をしていた時、私はこの観念に関して新たな知識を得たのです。

   私たちが聖句の中から幾つかの節を読んだ時、今井姉妹が聖書には神の御言葉だけでなく、人、ヘビ、サタン、そしてロバの言葉も記されていると言いました。そして、彼女はこの節を見せてくれました。

 

   

   創世記3:1「へびは女に言った、『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』」。 これはヘビがイブに言ったことです。

   ヨブ記2:2「サタンは主に答えて言った、『地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました』」。 これはサタンが神に言ったことです。

   民数記22:30「ろばはまたバラムに言った、『わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか』」。これはロバがその主人に言ったことです。

   これらの節を読んだ後、私は思わず心の中で混乱してしまいました:「正に、これらは神の御言葉ではなく、サタン、ヘビ、ロバの言葉だ。そしたら、パウロはどうして聖書の言葉は全て神によるものだと言ったのでしょう?どうして牧師と長老たちは聖書の記述は全て神の御言葉だと言うのでしょう?今井姉妹は私の胸中を察したようで、私とある知識を共有してくれました。

   彼女は、「実は、聖書の中で、神は聖書の記述は全て神の御言葉であるとは決して言われていないし、聖霊もその証言はしていないんです。’聖書の言葉は全て神の霊感を受けて書かれている’という言葉はパウロの個人的な認識を表しているだけで、神の御心とは違うんです。そして、牧師と長老が抱く信念も単にパウロの言葉に基づいているものであって、神の御言葉には基づいていません。私たち神の信仰者は全てを神の御言葉に従って捉えるべきなのです。」これを聞いた私はうなずいて賛成しました。

   そして彼女はこう言いました:「これで、聖書の言葉は全てが神の御言葉ではないことが分かりました。そうしたら、聖書のどの箇所が神の御言葉なのでしょう?この疑問をはっきりさせることは必要だと思います。」その後すぐに私たちはこの議論を続行しました。

   今井姉妹は続けてこう言いました、「聖書では、ヤ―ウェ神が仰った御言葉、ヤ―ウェ神がモーゼに言うよう指示された御言葉、神が預言者たちに告げることを要求された御言葉、主イエス様が仰られた御言葉、そしてヨハネの黙示録で神がヨハネに明らかにされた預言の内容のみが神の御言葉で、それ以外の人の伝記や使徒たちの手紙は全て人の言葉です。これらは彼らの個人的な体験や知識を表しているだけで、神の御言葉ではなく、またそれを神の御言葉と言うことはできません。

   神が預言者たちに御啓きになられた御言葉を全部見てみましょう。神の御言葉を預言者たちの言葉と区別するため、預言者が告げた神の御言葉には常に神の御心に合わせて『主は仰りました』もしくは『このように主は仰りました』と初めに印を付けています。例えば、出エジプト記16:23「モーセは彼らに言った、『主の語られたのはこうである…』」。エゼキエル書5:8「それゆえ主なる神はこう言われる…」。エゼキエル書

7:20「それゆえ主なる神はこう言われる…」等です。これらは全て真実ですよね?これに賛成できますか?」私はうなずいて、「はい、てきます」、と答えました。

   主なる神様、有難うございます! 私は今井姉妹と一緒に聖書の勉強をしてこれらの知識を得ることができました。主を信仰する兄弟姉妹の皆さん、これを理解できましたか?

   著者:カリー

 

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ディボーションノート-聖書の中身は全てが神の御言葉なのでしょうか

2019-07-13 22:19:33 | 聖書と神

   聖書はクリスチャンの正典、私たちの信仰の基礎です。私たちは主を信仰しているので、それぞれが聖書を持っています。私たちは頻繁に聖書を読み、宝として大切にしています。また、私たちは生活と仕事における最も重要な基準として、聖書の御言葉に従います。パウロはかつてこう言いました:「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。」(テモテヘの第二の手紙 3:16)。これには、聖書は全て神の霊感を受けて書かれていると、より一層考えさせられます。しかし、聖書にはサタンの言葉や、ロバがバラムに言ったとされる言葉も含まれていると言う人々がいます。明らかに、それらは神の御言葉ではありません。私はこの事柄について、自分の考えを話したいと思います。

   兄弟姉妹の多くがこのパウロの言葉を信じています。しかし、パウロの言葉は単なる人間の言葉であり、神の御言葉を表しているのではないということを私たちは知っておくべきです。聖書には全部で66冊の書が存在しますが、聖書は全て神の霊感を受けて書かれている、もしくは聖書の御言葉は全て神の御言葉である、と神が仰ったという記録はどこにもありません。神はそう仰っておられないので、パウロの声明は神の御言葉に適っていると言えるでしょうか?これを証明する聖霊の御言葉は存在するのでしょうか?パウロのこの声明を支持する主イエス様または聖霊の御言葉があるのであれば、私たちはそれを受け入れて従うでべきです。これは主の御旨と完全に合致しています。彼がどのような人であれ、その言葉が主イエス様もしくは聖霊の御言葉に支持されていないのであれば、私たちはそれをうのみにすることはできません。私たち人間は単なる人間であり、創造物なのです。従い、私たちの心は創造主の御心を表すことなどできません。私たちが信仰する主イエス様は天国の主であります。私たちは神の御言葉通りに実践してこそ、神に認めていただけるのです。



   私たちは皆、パウロは神に抵抗し、主イエス様に反抗していたということを明確に知っています。彼が主イエス様の働きに反抗した者たちのリーダー的存在であったことは一般的に周知の事実です。主イエス様は福音を告げ知らせる使徒としてパウロを選ばれましたが、彼はそれでも創造物のままでした。従って、彼の言葉が人間の言葉であることに疑いの余地はありません。主イエス様は神であり、主イエス様の使徒と弟子たちは全員が人間でした。彼らは主イエス様御自身とは比べものにならないのです。これ故に、人間の言葉の話しになると、私たちはそれをうのみにして、従うことはできないのです。私たちはそれが神の御心に適っているのかどうかを探求するべきで、それは天国に入るためには非常に重要なことなのです。

   「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものである」とパウロが言った経緯とは?

   人々はテモテへの第二の手紙3章16節に書かれている通り、聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれたものであり、聖書の御言葉はすべて神の御言葉であると考えていますから、まず最初にパウロがその発言に至った経緯を調べてみましょう。誰もが知っての通り、「聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれたものである」という言葉はパウロがテモテへの手紙の中で書いた言葉です。彼がこの手紙を書いた時は、まだ旧約聖書しか存在していませんでした。後の新約聖書は教会で保管されていた数多くの手紙であり、未だ書籍としては編集されていませんでした。新約聖書が完成したのは西暦300年以降の話しです。言い換えると、新約聖書はパウロがこの手紙を書いてから200年経った後に誕生したということです。従って、パウロの言葉は旧約聖書の内容を参照しているということが分かります。

   しかし、モーゼが創世記を書いた時期と主イエス様が働きに来られた時期の間には少なくとも1000年の隔たりがありました。パウロは旧約聖書のいずれの著者とも全く知り合いではありませんでした。彼はどうやって旧約聖書が神の霊感を受けて書かれていたことを知り得たのでしょう?旧約聖書の著者が彼に直接そう伝えた、または旧約聖書に「聖書は神の霊感を受けて書かれている」、と明確に書かれていない限り、彼はそれを知ることができなかったはずです。しかし、その著者たちは彼にそう伝えていなければ、旧約聖書にも聖書は神の霊感を受けて書かれているとは記録されていません。これ故に、パウロの言ったことは事実に基づいていないということになるのです。

   ヘビがイブを誘惑した時に口にした言葉や、サタンがヨブを非難した時に言っ言葉、それにロバがバラムに言った言葉などはどうでしょう?これらを神の御言葉とみなすことができるでしょうか?サタンは神を裏切った大天使であり、神の敵であること、そしてロバは動物であると誰もが知っています。これらが神の御言葉であると主張し続けるのなら、神を冒涜していることになってしまいます。これは私たちの本質における深刻な問題です。従って、「聖書はすべて、神の霊感を受けて書かれている」というパウロの言葉は彼自身の想像であり、真理には即していないことが分かります。

聖書に記されたどの言葉が神の御言葉なのでしょうか?

   実際に、神が話された御言葉はすべて聖書の中ではっきりと分かるように記されています。ヤ―ウェ神の霊感を受けた預言者の言葉は常に、「ヤ―ウェ神はこう言われる」と記されています。例えば、エゼキエル書34章11節「主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。」そしてイザヤ書1章2-3節「天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、『わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない』」。これらは、預言者たちが神の御言葉を伝達し、神御自身が仰った御言葉を繰り返し告げていたことを示しています。主イエス様の御言葉は、「イエスは彼らに言われた、」、「イエスは答え、彼らに言われた」および「イエスは言われた」のように記されているか、もしくはそれが主イエス様の仰った御言葉であると聖句の中で端的に記述されています、例えば、マタイによる福音書 4章19節「イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』」、マタイによる福音書 5章1-4節「イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。』」、とマタイによる福音書18章22節「イエスは彼に言われた、『わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。』」ヨハネの黙示録に記述されている神の御言葉は「主なる神が仰せになる、」や「すると、御座にいますかたが言われた、」のように明確に記されています。例えば、ヨハネの黙示録1章8節 「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、『わたしはアルパであり、オメガである』」。とヨハネの黙示録21章5節「すると、御座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』。また言われた、『書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである』」

   これらの聖句より、聖書の言葉はヤ―ウェ神の御言葉、ヤ―ウェ神が預言者たちに言われた御言葉、主イエス様御自身が言われた御言葉、そしてヨハネに明らかにされた神の御言葉のみが神の御言葉であり、それ以外は何らかの歴史的事実や、40人以上の著者が記録した人間の個人的な体験および知識を記した言葉であることが分かります。彼らの個人的な体験と知識は聖霊の御啓示から来るものですが、それを神の御言葉と同等視することはできません。旧約聖書にある通り、聖句が記す内容の殆どは神が律法の時代に働きをされたことを証明するための何らかの歴史的事実であり、それ以外にはサタンが発した数少ない言葉やロバの言葉等が含まれています。新約聖書では、著者たちが引用した神の御言葉を除くと、その全てはペテロ、パウロ、そしてテモテ等が書いた手紙にあるような人間の知識、見識、および理解が記述されています。彼らの手紙は単に人間の働きや各々の体験と知識を表しているだけなのです。彼らは教会の兄弟姉妹たちを助け励ますためにそれぞれの理解を書きましたが、それは主から受けた任務には全く含まれていないことでした。さらに、彼らは自分の言葉は神の御言葉であるとは決して言わず、各々の手紙の冒頭ではっきりとそれぞれの名前を書き記していました。これは事実です。

神の御言葉と人間の言葉の違いとは?

   神は創造主であり、私たち人間は創造物です。創造主と創造物との間には実に大きな違いがあります。この二つは同じレベルに置くことも、混同することもできません。神の働きと御言葉は堕落した人間の働きと言葉で入れ替えることはできません。私たちが神の働きを体験する過程において、私たちが聖霊から受ける体験、理解、および啓示がどれだけ偉大な形で他の人々の役に立っていようとも、それは神の御言葉として扱うことはできず、参照目的で使用することしかできません。当時のパウロ、ペテロ、そしてマタイも同じで、彼らの言葉は有益で建設的ではありましたが、それらが聖霊の御言葉であるとは言えないのです。これには疑う余地がありません。神の御言葉は神の性質の表れであり、神が有する全ておよび神そのものです。これらは肯定的なものであり、人間のいのちとなり得るのです。人間が発する言葉で真理に即しているものは全て人間が神の御言葉と心理を体験し、それを理解することから生まれ、その人のその時点での霊的背丈を表しています。真理に即した言葉は人々にとって多少の助けと利益にしかなりません。それらは人間のいのちにはなり得ないのです。聖霊の啓示と啓蒙を受けた故の言葉であったとしても、それらは依然として人間の言葉であり、神の御言葉とは全く比較できるものではありません。

   以上の交流で、聖書は神の霊感を受けて書かれたものではなく、聖書の言葉もその全てが神の御言葉ではないということが理解できるのではないかと思います。人間の言葉を神の御言葉として扱うということは、人間を神として扱うのを同じことです。それは真理に背き、神を冒涜していることになります。これ故に、私たちは聖書を正しく扱うべきであり、むやみに崇拝してはならないのです。聖書を読む時、私たちは神の御言葉と人間の言葉をはっきりと区別する必要もあります。どのような出来事が降りかかってこようとも、私たちは神の御言葉通りに探求し、実践するべきであり、人間の言葉は参照目的でしか使用できません。人間の言葉が真理に即していれば、私たちはそれを受け入れますが、そうでなければ拒否します。このように信仰を実践してこそ、私たちは神の御旨通りに行動することができるのです。


聖書の言葉はすべて神の霊感を受けて書かれたものでしょうか?

2019-07-11 23:39:21 | 聖書と神

   クリスチャンのリュウ・スンは、聖書は神の霊感を受けて書かれたもので、それに記述されている言葉はすべて神の御言葉だといつも信じていました。しかし、ある日、彼は聖書を読んでいた時、1つのことに関して2つの異なる意見を発見したのです。これは彼を困惑させました。聖書の言葉が神の霊感を受けて書かれたものなら、ほんの僅かの誤まりすら存在しないはずです。後に、兄弟姉妹たちの交流を通じて、彼の困惑はやっと解消されたのです。

   信仰ステーションの兄弟姉妹の皆さんへ:

   最近私はあることに困惑していて、皆さんのご教示をお願いしたいのです。私は何十年も主を信仰してきて、聖書は神の霊感を受けて書かれたものだと常に思ってきました。しかし、最近私は聖句を読んでいた時、聖書の記録に矛盾があることを発見してビックリしたのです。例えば、ペテロが主の弟子であることを3回否定することに関して、聖書の記録ではマタイ26:34にこう書かれています、「イエスは言われた、『よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』。」しかし、マルコ14:30には、「イエスは言われた、『あなたによく言っておく。きょう、今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう』。」と書かれているのです。これらの節はペテロの否定に関することですが、その1つにはペテロは鶏が鳴く前に三度主を知らないと言うと書かれていますが、もう1つにはそれは鶏が二度鳴く前だと書かれています。なので、明らかにこの回数が一致していないのです。また、旧約聖書にはダビデがイスラエルを数えることについて記録してあります。サムエル記下24:1に、「主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、『行ってイスラエルとユダとを数えよ』と言われた。」という記述がありますが、歴代志上21:1には、「時にサタンが起ってイスラエルに敵し、ダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした。」、と書かれているのです。両節ともにダビデがイスラエルを数えることに触れていますが、その1つはヤ―ウェがダビデを動かしてイスラエルを数えさせたとありますが、もう片方にはサタンがダビデを動かしてイスラエルを数えさせようとした、と記されています。この2つは意味が全く逆になっているのです。私はこれを発見した時、ショックを受けました。どうして同じ出来事において完全に対立してしまうほど矛盾した記録が聖書の中に含まれているのでしょうか?聖書の言葉全てが神の霊感を受けて書かれているのなら、ほんの僅かの誤りも存在しないはずです。この疑問に関する皆さんのお考えをご教示いただけませんでしょうか?霊的Q&Aの兄弟姉妹の皆さんなら私の混乱を解消できると期待しています!

   リュウ・スン

   2018年12月13日



   こんにちわ、リュウ・スン兄弟:

   こんにちわ!あなたがお持ちの疑問は多くの兄弟姉妹たちを混乱させています。どうして聖書の中に矛盾した記録があるのか?この疑問を理解するには、先ず最初に聖書はどのようにして誕生したのか、そして、それはどういった書籍なのかを知っておく必要があります。実際、主を信仰する私たちの兄弟姉妹たちの多くは、聖書が預言者たちによる預言書、歴史的記録、ダビデの詩篇、知恵の書、新約聖書の4つの福音書、使徒たちの手紙、そしてヨハネの黙示録で構成されていることを知っています。この中で、預言者たちによる預言書とヨハネの黙示録だけが直接神の霊感を受けて書かれました。その他の書籍、すなわち、モーセの五書、旧約聖書のヨシュア記からエステル記、そして新約聖書の使徒たちによる4つの福音書と手紙は神の働きを体験した人たちが書いた記録です。例えば、旧約聖書に記された律法の時代における神の働きに関する歴史的記録より、神はどのようにしてイスラエルの民を選ばれたのか、彼らをどのようにしてエジプトから導き出されたのか、彼らはどのようにしてヨルダン川を渡ってカナンに入ったのかということが分かります。さらに、サウル、ダビデ、そしてソロモンによる王としての治世を学ぶこともできます。これらの歴史的記録は全て、当時の証人者たち、または後の編集たちの記憶を基に書かれたもので、それらは実際に起こった歴史的事実の記録を書き記しています。これらは神の霊感を受けて書かれたものではありません。新約聖書において、マタイやマルコといった人間が書いた4つの福音書、ならびにペテロやパウロといった人たちが書いた手紙もこの範疇に入ります。福音書は人々が神の信者となった後に見聞きした事柄を書いたもので、その中には教会の状況を基に彼らの兄弟姉妹たち宛てに書かれたものもあります。従って、4つの福音書と手紙もその全てが神の霊感を受けて書かれたものではありません。預言者による預言書とヨハネの黙示録のみが神の霊感を直接受けて書かれたもので、聖書のその他の書籍は全て人間の知識と経験を基にしたものであるということを考慮してみると、これらの内容に矛盾が生じることは意外なことでしょうか?これらが人間の観念によって汚されてしまうことは無いと言えるでしょうか?これは人々が何年も前に起こったことを書き出すのと同じことなのです。以前起こったことを何の誤りもなく、またうっかり書き足したり、書き落としたりせずに書ける人など存在するでしょうか?そんなことは不可能です。だからこそ、マタイといマルコが新約聖書にペテロの拒否について記録した時、そして旧約聖書のサムエル記と歴代志上に、ダビデがイスラエルを数えたことについて記録された時に矛盾が生じていたのです。これを回避するのは困難です。人間による記録は誤まりが付き物ですから、これは容易に理解できることだと思います。

   しかし、聖書の中で預言者による預言書とヨハネの黙示録のみが神の霊感を直接受けて書かれた書籍だと言うのであれば、どうして、テモテへの第2の手紙3:16には、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」、という記述があるのでしょうか? まず第一に、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」、というのはパウロの個人的な見解であることを理解する必要があります。主イエス・キリストは一度でもこんなことを仰ったでしょうか?聖霊は聖書の中で一度でもこの事実の証言をしているでしょうか?聖書を精査してみれば、主イエス様と聖霊は決してこの事実の証言をされていないことが分かります。パウロがそう言ったことは、単にそれが彼の個人的な意見であることだけを表しており、それは真理に即してはいないのです。

   さらに、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」、というパウロの声明を見ても、彼は一体「聖書」のどの部分を指して言っているのでしょうか?パウロがテモテへの第2の手紙を書いたのは主が来臨されてから60年以上も経った後の話しで、当時、新約聖書はまだ書籍として編集されていなかったことは誰もが知っています。存在していたのは旧約聖書のみでした。第1ニカイア公会議の場で各国の宗教指導者たちが4つの福音書と多く存在した手紙の中からパウロ、ペテロ、そしてヨハネといった人たちが書いた手紙を選別し、これらをヨハネの書いた黙示録と共に編集して新約聖書を制作したのは、主が来臨されてから300年以上も経ってからの話です。その後、彼らは旧約聖書と新約聖書を合体させて、その両書から成る今日の聖書を編集したのです。これはパウロがテモテに手紙を書いたのは新約聖書の制作が決定される200年以上も前の話であることを示しており、パウロがテモテへの手紙の中で「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって」、と書いた時、彼の言う「聖書」は新約聖書ではないことを裏付けています。これより、聖書が人間によって書かれた書籍であるにもかかわらず、その全てが神の霊感を受けて書かれたものであるという考えは、人間による事実に即していない不条理な理解であることが分かります。

   私は他の書籍でもこれに関する記述を目にしました、「聖書にあることがみな、神が直接語った言葉の記録だというわけではない。聖書はただ、神の働きのうちの前の二段階を文書で記録しているに過ぎない。そこには預言者たちの預言と、各時代で神に用いられた人々の経験と認識を記したものが含まれる。人間の経験には人間の意見や認識が紛れ込んでいるが、これは避けられないことである。聖書の多くの書には、人間の観念、人間の偏見、人間の愚かしい解釈が含まれている。もちろん、ほとんどの言葉は聖霊による啓示と教えの結果で、それらは正しい解釈である。しかし、すべてが真理を正確に表現しているとは言えない。」「実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。」「実際、預言の書以外、旧約のほとんどは歴史的記録である。新約の書簡のいくつかは人々の経験に基づいたもので、またいくつかは聖霊の啓きによるものである。たとえば、パウロの書簡はひとりの人間の働きから生まれたもので、それはみな、聖霊の啓きを受けた結果であった。また、その書簡は教会のために書かれたもので、教会の兄弟姉妹への勧告と激励の言葉だった。聖霊の語った言葉ではなかったのである。パウロは聖霊の代わりに語ることはできなかった。また、彼は預言者でもなかったし、まして幻を見てもいない。パウロの書簡はエペソ、フィラデルフィア、ガラテヤ、その他の教会に向けて書かれた。だから、新約のパウロの書簡はパウロが諸教会に向けて書いた手紙で、聖霊の霊感によるものではないし、また、聖霊が直接語ったものでもない。…もし人々がパウロの書いたような手紙や言葉を見て、聖霊の言葉として神のように崇めるなら、それはあまりにも分別がないと言うことになるだろう。もっと厳しい言い方をすれば、これは冒瀆以外の何物でもないのではないか。どうして人間が神に代わって話せるのか。また、どうして人々は人間の手紙や語った言葉の記録をまるで聖なる書か天の書であるかのように、その前に額づくことができるのであろうか。神の言葉は人間が何気なく口にできるものなのか。どうして人間が神に代わって話せるのか。」(「聖書について(3)より)。

   聖書には神の御言葉が含まれていますが、教会にいる兄弟姉妹たちが生活の中で抱える苦しみに対処できるようにと、使徒たちが彼ら宛てに書いた手紙も含まれていということをこの書籍は明確に記述しています。これは事実であるため、私たちは見識力をもって聖書を正しくとらえるべきです。聖書の中で、神の御言葉を宣べ伝える預言書とヨハネの黙示録を除くと、神はその御言葉を宣べ伝えることを一度も誰にも指示されたことはなく、使徒たちの手紙も聖書に含まれてはいますが、彼らはそれらが神の霊感を受けて書かれたものであるという主張は一切していません。聖書の中で神の御言葉が記される場合、その直前には「ヤ―ウェがあれこれの預言者の前に現われた、」、「あれこれの預言者はヤ―ウェの霊感を受けた、」「ヤ―ウェは言われた」、「ヤ―ウェは語られた、」、「主イエス様は仰った」、といった記述が分かるようになされています。これ以外の言葉は人間の言葉で、神の御言葉ではありません。もし、私たちが聖書に対して迷信的であることを理由に、または聖書を崇拝しているにも関わらず、聖書の言葉は全て直接神から霊感を受けて書かれたものである、または神の御言葉であるなどと言ってしまったら、それは神を冒涜する不条理な理解をしていることになってしまいます。人間の言葉は聖書に含まれていても人間の言葉に過ぎません。これは厳然たる事実です。

   私たちの交流で、あなたがこの問題をより明確に理解できることを願っています。他にもご質問がございましたら、またお気軽に投稿ください。

   信仰ステーション

   2018年12月18日

 

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クリスチャンが罪から開放される方法は存在します (I)

2019-07-09 03:44:29 | 聖書と神

   私は幼い頃から母に倣って主を信仰してきました。私は成長する過程で、主は私たち人類の罪を贖うために十字架に磔にされたことを知り、私は深く感動しました。それに、私は主を信仰するようになって以来、主の豊富な恵みを授かり、主をさらに深く信頼することができました。これ故に、私は生涯を通して主に従い、主の愛に報えるよう主の証言をする決心をしていました。

   2002年、私はアメリカに移住した後、集会に参加できる教会を見つけ、そこで説教業務に携わっていた兄弟と知り合いました。説教師は誰もが敬虔で、主を愛しているように見えたので、私は自分の抱える問題に関して彼の意見を頻繁に求めました。しかし、驚いたことに、ある夜、彼は私に教会に行って彼への愛を宣言するように言ってから、私を淫らに触ってきたのです。幸運にも、私は素早く逃げ出すことができました。この後、私は、彼は中国で結婚していたにもかかわらず、アメリカでも結婚していたことを知りました。そしてそれにもかかわらず、彼はそのまま同じように私と接してきました。これにより、私は彼の偽善的な本性をはっきりと知りました。私はこう思いました:「彼は説教師なのに、本当にこんなことを犯すなんて、人前と人のいない所では振る舞いが全く違うわ。何て偽善的なんでしょう。これでどうやって主の御名前を讃えるっていうのかしら。」私はこの事態に大きなショックを受け、教会に行くのが嫌になりました。しかし、私は主イエス様に救っていただいたことを考えると主に対する恩義を感じました。この結果、私は時々ながら教会に足を運ぶことができました。

   その後、教会の状態はさらに悪化していきました。牧師の説教は同じことの繰り返しばかりで、私たちに何の喜びをもたらすこともなく、教会への寄付に関することが頻繁にその具体的な内容となっていました。信者たちは集会の最中に居眠りをしているか、携帯電話で遊び、快楽に満ちた人生について話すばかりで未信者のような生活していました。この状態を見ていると、私は増々消極的に、そして弱気になってしまいました。結果的に、私は、毎年、寄付をするために1回か2回教会に行く以外は、大抵自宅で祈りを捧げ、聖書を読むことを続けました。時間が経つにつれ、私は魂の中でどんどん暗さを感じるようになり、祈りを捧げても主を側で感じられなくなり、聖書を読んでも啓蒙が全く得られなくなってしまいました。日常生活において、私は主の教えを実践できなくなり、自分の子供に対していつも腹を立て、夫と子供について口論し続けました。私は腹を立ててしまう度に主の前でそれを悔い改め、告白しましたが、その後も繰り返し同じ罪を犯し、回避不能な罪の落とし穴にはまってしまったのです。それは私を本当に悲しませ、落胆させ、そしてそれは私にこのような疑いまでも持たせ始めたのです:「私の主への信仰はどうしてこんなに弱くなってしまったのでしょう?主はどうして私の祈りを聞いてくださらないのでしょう?私はどうして罪から抜け出して変わることができないのでしょう?私はこのような状態で天国に入ることができるのでしょうか?」



   私がちょうど憂鬱な気分で途方に暮れていた時でした、私は私の母と義理の姉が世の終わりの全能神の働きを受け入れたことを知り、母の神への信仰は更に強まったため、母が私の父と口論になった時、母は騒ぎ立てずに許すこと、そして我慢することを実践できるようになったと知りました。私は彼女の成し遂げた変化にこう考えさせられました:「全能神の働きは本当に神の働きなのかしら?そうでなかったら、母はこんな変化を遂げることはできなかったはずだわ。」これにより、私は世の終わりの全能神の働きを調べる決意をしました。これを受けて、私の義理の姉は私との交流のために全能神教会の兄弟姉妹を招待してくれました。

   集会の最中、全能神教会の張兄弟が教会が荒んだ状態にある理由について交流してくれました:「律法の時代後半において、神殿が荒んだ状態に陥った理由は、一方でユダヤ人の指導者がユダヤ人を神の戒律に従うように導かず、それぞれの勝手な道を歩んだために、神の憎しみと怒りをかってしまったこと。その一方で、主イエス様が新しい働きをされましたが、彼らはそれについて行かず、むしろ彼らは主に反対し、主を非難したことで聖霊の働きの流れから排除されてしまったことがあります。これが、神殿が最終的に家畜を販売し、お金を両替する場へと化してしまった理由です。今日の宗教界が荒んだ状態にある理由もこれと同じです。考慮すべき点の1つとして、牧師と長老たちは、信者たちが真理を理解し、主を知るために主の御言葉を実践して経験するよう導いておらず、むしろ信者を自分たちの前に導こうとして聖書の知識と神学理論を解釈することにしか注目していないということがあります。この結果、信者たちは主を信じていても、主を知らず、主に抵抗してしまう信者となっています。もう1つの点は、神が新しい働きをするために受肉され、聖霊の働きが移行しているということです。子羊の足跡をたどり、神の御言葉の裁きと清めを受ける人のみが聖霊の働きを受けられるのです。世の終わりの神の働きを受け入れない人々は聖霊の働きの流れから排除されてしまうのです。」この言葉を聞いた私は突然光が見えて教会が荒んだ状態にある原因を理解しました。その後、張兄弟は主が再臨される方法についても交流し、主の再臨の預言は既に成就しており、人間を裁き、清める働きをするために700万の御言葉を表された主イエス様の再臨、すなわち肉となられた他でもない全能神を目撃したと言ったのです。これらの交流はとても素晴らしく聞こえ、私は大いに霊的な備えを得ました。私は長年主を信仰してきた中で、ここまで素晴らしい説教は聞いたことはありませんでした。この説教は教会の牧師の説教を遥かに上回っていたのです。次回私はこれを慎重に聞く必要があります。

   そして、張兄弟は私とこのように交流してくれました:「私たちは皆、主を信仰してはいますが、それでも罪を頻繁に犯さずにはいられなくて、罪の中を生きることから抜け出せないということを経験しています。これは何故かと言うと、私たちはサタンによって深刻に堕落させられていて、誰もが傲慢、偽り、身勝手、貪欲等といったサタンのような本性を持っているからです。これらサタンのような本質は既に私たちのいのちと化しているのです。こういったものに指示を受ける私たちはお互いに対して真の辛抱強さや寛容を持っておらず、自分の意図に合わないものがある度に腹を立てる傾向にあり、頻繁に嫉妬と憎しみに悩まされています。自分たちの利益を守るため、私たちは頻繁にお互いに嘘をつき合い、騙し合い、自分たちの信仰の中で神と取引を行うこと等もできてしまうのです。私たちがこのように罪を犯す根源は私たちが持つサタンのような本質にあり、これは、解決しなければ、私たちは罪をお許しいただいているにも関わらず、私たちが罪を犯し、神に抵抗し続けるようにするのです。こんなことをしていて、私たちは天国に行ける何の資格を持っているというのでしょう?これ故に、主イエス様はお戻りになると仰ったのです。実に、主の来臨は人類を完全に清め、救う働きをするためなのです。

   次に、張兄弟は神の御言葉からこの2節を読んでくれました:「当時、イエスの働きは人類すべての贖いであった。イエスを信じるすべての人の罪は赦された。イエスを信じている限り、イエスはあなたを贖う。イエスを信じたなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということで、信仰によって義とされるということであった。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆うものが残っており、それはやはりゆっくり取り除かれなければならなかった。」「人が贖われる前、サタンの毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。サタンによる堕落を何千年も経た人間には、神を退ける性質が既に存在していた。だから、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られた贖い以上のものではなく、人の中の毒を持った性質は取り除かれてはいなかった。あまりにも汚れた人は、神に仕えるにふさわしくなる前に変えられなければならない。裁きと刑罰の働きを通して、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして、人は完全に変わり、清められることができる。この方法でのみ、人は神の玉座の前に戻るのにふさわしくなることができる。この日なされるすべての働きは人が清められ変えられるためである。言葉による裁きと刑罰、また精錬を通して、人は堕落を捨て、聖くされることができる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言った方が適切であろう。」

   張兄弟はこう交流してくれました:「神の御言葉は、主イエス様は当時贖いの働きをされたこと、そして主は十字架への磔によって人間の罪を背負ってくださったため、私たちは又罪を犯すことがあっても、主イエス様の前でそれを告白し、悔い改めてさえいれば、許していただくことができ、律法によって有罪とされ死刑になることはないと示しています。主は私たちの罪をお許しくだりましたが、それは私たちが罪深くなく、汚れていないという意味ではありません。

   私たちは依然としてサタンの堕落した性質をもっており、それはいつでも、何処でも、私たちが罪を犯し、神に抵抗して逆らうようにすることができるのです。聖書にはこう記されています:「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル人への手紙 12:14). お分かりの通り、私たちは罪の中を生きて、清められていない場合は、主を目で見るに値しないのです。それは主が聖なるお方だからです。これ故に、私たちは罪深い本性を捨て、清めを受けた場合に限って神の御国に入ることができます。罪深い本性を捨てるためには、世の終わりの神の裁きの働き、および神の御言葉による刑罰を受ける必要があります。こうしてのみ、私たちは自分の堕落した性質を知り、それを神の御指導の下で捨て去り、そして真の人間らしさを貫いて、神に従い、神を畏れる人になることができます。こうしてのみ、私たちは神の御国に救い入れていただけるのです。」

私はうなずいて賛成し、張兄弟にこう言いました:「兄弟、あなたの仰っていることは真実です。私は長年に渡って主を信仰しているのに、自分が罪を犯すのを止められません。主は私たちに寛容で我慢強くなることを教えてくださりましたが、私は主の御言葉を実践できませんでしたし、いつも怒りを露わにし、その後主に祈り、自分の罪を悔い改めましたが効果はありません。今、私はこれがはっきりと解りました。主イエス様は贖いの働きをされ、私たちは主を信仰すれば罪の赦しを得ることはできますが、私たちの罪深い本性は残ったままなのです。従って、私たちは罪を犯し、神に反対せずにはいられないのです。」「その通りです。」張兄弟は続けてこう言いました:「これで私たちは主を信仰しても、罪を許していただけるだけであるということが分かりました。罪深い本性を捨て去りたいのであれば、私たちは世の終わりに、神に裁きと清めの段階の働きを実行していただく必要があり、その場合に限って私たちは罪から完全に救われることができるのです。」

続く…

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神の御言葉は本当に聖書以外には存在しないのでしょうか?(II)

2019-07-08 23:14:44 | 聖書と神

   彼が交流した後、私はびっくりしてこう思いました:「長年に渡って主を信仰してきたけど、こんな説教は一度も聞いたことがないわ。彼の交流は合理的だし、実情をとらえているわ。彼はどうやってこんなに多くのことを理解しているのかしら?」

   彼は私の心を悟ったかのように話し続けました、「私は神の御言葉を読んでいますから、たくさん理解して、こういった知識を得ることができているんです。神の御言葉がその奥義を明らかにしてくださらなかったら、誰も神の御言葉を理解できないでしょう」そして、彼は神の御言葉のこの段落を読んでくれました、「イエスの時代、イエスは当時、ユダヤ人と自分に従う者みなを自らの内の聖霊の働きに従って導いた。イエスは聖書を自身の行為の基礎とせず、自分の働きに従って語った。イエスは聖書の記述を気に留めなかった。また、自分に従う人々を導く道を聖書に求めなかった。教えを説き始めたその初めから、イエスは悔い改めの道を広めた──その言葉は旧約の預言書ではまったく触れられていないものだった。イエスは聖書に従って行動しなかっただけではなく、新たな道へと導き、新たな働きを行った。イエスは教えを説く際に、一度も聖書に触れていない。律法の時代には、イエスのように奇跡を起こし、病を癒し、悪霊を祓う者は一人もいなかった。イエスの働き、その教え、その権威──律法の時代には、誰一人これをしなかった。イエスはただ、自分の新たな働きを行った。多くの人々は聖書を用いてイエスを罪に定めたが(さらにはイエスを十字架につけるのに旧約を用いた)、イエスの働きは旧約を超えていた。もしそうでなければ、なぜ人々はイエスを十字架につけたのか。それは、旧約ではイエスの教え、病を癒し悪霊を祓う能力について何の記述もなかったからではないのか。…人々にとって、イエスの働きは根拠を欠き、旧約の記述に反することが数多くあった。これは愚行ではないか。神の働きに教義を当てはめる必要があるのだろうか。また、それは預言者たちの預言に合致しなければいけないのだろうか。結局のところ、どちらが偉大なのだろう。神か、それとも聖書か。なぜ神の働きが聖書に沿ったものでなければならないのか。神には聖書を超える権利がないということか。神は聖書から離れて別の働きをすることができないのか。なぜイエスとその弟子たちは安息日を守らなかったのか。もし安息日を守り、旧約の掟を実践するためであったのなら、なぜイエスは現れて以来、安息日は守らなかったのに、足を洗い、頭を覆い、パンを割り、ワインを飲んだのか。これはみな、旧約の掟にはないことではないか。もしイエスが旧約を遵守したなら、なぜそうした教義に違反したのか。神と聖書と、どちらが先に来たかわかっているはずである。神は安息日の主であると同時に、聖書の主でもあるのではないか。」

   そうです!神がどのように働かれるかは神のご自由なのです。神は聖書以外の働きをする権利をお持ちで、神の働きを聖書に制限する権利など私たちにないのです。こう考えはしたものの、私は盲目に聖書を崇拝していたため、すぐには自分の観念を捨てることはできませんでした。後に、兄弟姉妹たちは、神が終わりの日に新たな働きをするために再臨されるということに関して記述した聖句を根気強くたくさん検索し、それらをまとめて終わりの日の全能神の裁きの働きを証言してくれました。彼らの説教を聞いて、私はそれが合理的であると思った上に、心の中で彼らの交流内容に納得していたのですが、自分が間違っていたことは認めたくなかったので、「ひょっとしたら彼らが読んでいる聖書は私が読んでいる聖書とは違うんじゃないかしら?」と考えたりしていました。

   私は帰宅すると、急いで聖書のページをぱらぱらとめくり、彼らが交流していた聖句を注意して読みました。私は彼らが証言した裁きの働きは聖書に記された預言を完全に成就していたことを知りました。私は思わずショックを受けて「全能神が主の再臨だなんてことがあり得るのかしら?」、と考えました。私はこう考えた時、急いで跪いて主に祈りました、「主よ!今日私は全能神教会から来た兄弟姉妹の交流を聞きました。私はそれがとても啓蒙的で、私が長年に渡って聖書を読んで理解していたものではないと感じました。全能神の御言葉は真理で間違いありません。主よ!私は依然として全能神があなたの再臨であると確信しきることができません。どうか私に啓示と導きをお与えください。私はこのまま調査を続けていきます。」

聖書から外れるものは全て異端でしょうか?

   2日目、私の友人と私は一緒に全能神教会に足を運びました。兄弟姉妹たちは私たちを温かく迎え入れたくれると、『聖書の奥義を解く』と題した映画を見せてくれました。主人公は私と同じ考えを持っていたので、私はとても興味を持ちました。彼女も、「聖書以外に神の御言葉は存在しない、聖書に書かれていないものは全てが異端である」、と考えていたのです。この映画の中で私の心を特に動かしたのは、全能神教会の兄弟がこの観点について彼女に話した内容でした。彼はこう言ったのです。「聖書に詳しい人たちには有名なことですが、聖書を編集する過程において、編集者たちの論争や不注意のため、預言者が伝達した一部分の御言葉は旧約聖書に収録されていません。これは公認の事実です。可能性として聖書以外にも神様の働きと言葉はあります。では、収録されていない預言は御言葉ではないと言えますか?そして新約聖書では御言葉のすべてを収録できたのですか?聖書に言われたとおり、『イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。』(ヨハネによる福音書21章25節)これは主イエスの働きと言葉が新約聖書以外にもあるということです。だから、『聖書以外に神様の働き、言葉はない』とは事実に合いません。兄弟姉妹、さらに新約聖書、旧約聖書はともに神様の一段階の働きが終わった、その後に人間が記したもの。最初には旧約聖書しかなく、主イエスの働きと言葉は旧約聖書にはありません。聖書を超えると異端だと言うなら、主イエスもまた異端だということになる。この事実から『聖書以外には神様の働きと言葉はなく聖書を超えると異端だ』という言い方には何ひとつ根拠がないことが分かります。」

   私は観賞しながらこう考えました:「その通りだわ。旧約聖書にヤーウェ神の御言葉全ては記録されていないのよ。だって、ヤーウェ神は何千年にも渡って地上で人類の生活を導かれ、ヤーウェ神が預言者たちを通じて宣べ伝えられた御言葉は旧約聖書に記されたものより遥かに多かったからよ。そして、主イエス様は3年半に渡って宣教されている訳だから、聖書に記述されている御言葉だけを仰せられていたはずがないわ。だから、私は結論を急いだりしないで、全能神の働きを注意して扱うべきだわ。」こうして、私は次の展開を見るのが待ちきれなくなりました。

   「私たちは以前から聖書を読むことに慣れてはいますが、聖書の実相を明確に理解できていませんでした。しかし、今日、全能神のこの御言葉がその全てを明らかにしてくださっています。『 聖書の実際は誰も知らない。つまり、聖書は単なる神の働きについての歴史的記録であること、神の以前の二段階の働きについての証しであること、神の働きの目的については何も教えていないことである。聖書を読んだことのある人はみな、そこには律法の時代と恵みの時代の二つの段階での神の働きが記録されていることを知っている。旧約はイスラエルの歴史と創造から律法の時代の終わりまでのヤーウェの働きを記録している。新約では四福音書に、イエスの地上の働きと、パウロの働きを記録している。これらは歴史的記録ではないのか。過去の物事を今日に持ち込めば、それは歴史となり、どんなにそれが事実で真実であろうと、やはり歴史である。そして、歴史は現在について取り上げることはできない。神は歴史を振り返らないからである。だから、聖書だけを理解して、神が今日しようとしている働きを何も理解しないのなら、また、神を信じていても聖霊の働きを求めないのなら、あなたは神を求めるということがどういうことなのか、わかっていない。イスラエルの歴史を学ぶために、神の天地創造の歴史を研究するために聖書を読むのなら、あなたは神を信じていない。しかし、今日、あなたは神を信じていのちを求めているのだから、神の認識を求めているのだから、また、死んだ文字や教義を求めていないのだから、あるいは、歴史を理解しようとしているのではないのだから、あなたは今日の神の心を求めなければいけない。そして、聖霊の働きの方向を尋ね求めなければいけない。もしもあなたが考古学者なら、聖書を読んでもよいであろう。しかし、そうではない。あなたは神を信じる者の一人なのだから、神の現在の心を探し求めるのが一番だ。』兄弟姉妹の皆さん、全能神の御言葉より、聖書は神が過去になされた働きの歴史的記録であり、人間を救うことはできないということが分かります。聖書を神と比較することは全くできないのです。神はいのちの生ける水の泉であり、神の御言葉には終わりがなく、その流れが止まることは決してありません。しかし、聖書の記録は非常に限られています。これは誰も否定できない事実です。兄弟姉妹の皆さん、神は常に新しく、古いことは決してありません。神は各時代において、新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられます。主イエス様は恵みの時代に新たな働きをされ、新たな御言葉を仰せられました。しかし、当時のユダヤ教の祭司とパリサイ人は旧約聖書の内容に固執し、主イエス様の働きを拒み、非難しただけでなく、主を十字架に釘付けにすらしてしまい、重大な罪を犯しました。今現在、全能神、すなわち終わりの日のキリストは人類を救い清めるための真理を全て表されましたが、それらは聖書に全く記されていないものです。それらは記録されていないので、聖書は終わりの日の神の働きと神の御言葉全てを示すことはできないのです。兄弟姉妹の皆さん、いつまでも聖書に固執していてはいけません。私たちは神の現在の御心と聖霊の働きを探求する必要があります。それのみが、神の御心に即しているのです。」

   そして、全能神の御言葉と兄弟の交流に従い、私は注意深くこのように熟考しました:「神の働きは常に前に進んでいるんだわ。神の働きと御言葉が旧約聖書の内容に制限されていて、神が恵みの時代に贖いの働きをされていなかったら、私たち人類は律法の下に生きて、律法を守れないことを理由に有罪となって、処刑されていたはずだわ。もしそうなっていたら、人類は今日まで発展してくることができなかったはずだわ。今の教会の状態を目前に、主が終わりの日に再臨して人類を裁き清める働きをされなかったら、私たちは罪の中に生きることを余儀なくされて、罪から脱却できなくなってしまうわ。体中が堕落した私たちに、来臨される主の御顔を見る資格なんてあるはずがないわ。」私は熟考すればするほど、心の中で増々啓発を受けた気分になり、以前はおかしな観点に固執していたものだと感じました。

観念を捨て、子羊の足跡を辿りました

   映画を見た後、私の頭にはまだそのストーリーが残っていました。私が以前固執していた観点は全能神の御言葉によって覆されたのです。私は思いました。「神の御言葉はとても明確だわ。頑なに自分の観点に固執していたら、私も当時主イエス様に抵抗し、主を非難したパリサイ人と同じということにならないかしら?私は神に忌嫌われ、退けられ、呪われてしまうわ!」こうして、私は全能神教会に頻繁に足を運んで探求して、調査する決意をし、全能神が主イエス様の再臨であると確信できれば、全能神を受け入れて、以前の教会にはもう行かないことにしました。

   その後、彼らは、『小羊が開いた巻物』と題した本を私にくれました。全能神の御言葉は私たちの考え、誤った動機、そして傲慢さ、うぬぼれ、欺き、身勝手さ、そして卑劣さといった、私たちの堕落した性質を明らかにされるということを私は知りました。私はそれを読めば読むほど、神のみが人類の心の奥底を調べ、私たちの誤った動機と堕落の全てを暴露することがおできになるのだから、全能神の御言葉は聖霊、そして神から来るものであるということを増々認識しました。さらに、聖書の本質と奥義、神の三段階の働き、神への真の信仰、そしてどのような人が天国に入れるのか等、全能神は本当に多くの真理を表してくださっているのです。私は今まで主を信仰してきて、このような真理を一度も耳にしたことがありませんでした。これらは私を完全に目覚めさせてくださり、聖書に記されたこの御言葉を完全に成就しているのです、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。」(ヨハネによる福音書16:12-13)私は全能神の御言葉を読んで、全能神が主イエス様の再臨であると確信しました。私は生きている間に主の再臨をお迎えできるとは思っていなかったので、心がとても興奮しました。私は全身全霊をかけて全能神について行く決意をしました。

   私は神が愛に満ちた心で私を助けるためにたくさんの兄弟姉妹たちを動かして、私が幸運にも神の働きを受け入れられるようにしてくださったことを感謝しました。私は全能神の御言葉を読み、僅か数か月の間に宗教界で10年かけて学んだことよりも多くのことを学びました。神の御言葉は正に生ける水の泉であり、常に絶えることなく私たちを備えくださっているということを私は知りました。振り返ると、私はむやみに牧師の言葉を信じ、自分の観念と想像まかせに神の御言葉を聖書の中だけに制限していました。私は完全に理知を欠いていたのです。私は神が私を救ってくださり、私の誤った観点を覆してくださったおかげで、主の再臨を逃さずに済んだことを感謝しています。神に感謝です!全ての栄光、神にあれ!終わり。

 

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