ねうねう句日記

いつか秀句をはきたいと、ねうねうとうち鳴きながら、より所なげに春の夜を・・・
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覚書・生活保護という福祉

2012-03-30 14:01:31 | 日記
無知だからこそ、善意だけで「手伝いましょう」と言えるのだなあと思うことがある。
というよりあまりに無防備だった。しかし人には切り捨てることもできない肉親とシガラミというヤツがあるので、今後のためにも私以外の人のためにも記録しておこうと思う。

2011年12月25日 世田谷の従妹Tより、川崎の叔父Mが倒れて川崎S病院へ運ばれたと連絡受ける
        以下その日の経緯

Tはケアマネージャーから、「叔父さんを訪問したらひどく具合が悪そうだ」、と連絡を受ける。
Tは「明日もう一度見に行って、やはり状態悪ければ救急車呼んでください」と依頼。
その夜Tは叔父に電話してみるとまともに話ができない錯乱状態。
急いで車で叔父の家に行くと、受話器を放り出したまま仰向けに倒れていた。
救急車で病院へ搬入。医師にはよく生きてましたね、といわれたという。重度の肺炎・気管支炎だった。
2011年12月26日 従妹Tと戸塚の従妹E 病院へ。危篤と言われ私も呼び出される。
        少し安定し、そのまま年越し。

叔父は早く妻を亡くし、子も無くずっと独り者だった。大正14年生まれの86歳。そして初めて知ったことだが、叔父は生活保護受給者だった。川崎の工場で働いて、俗にいう川崎病(川崎公害病)の「公害医療手帳」を持っていることは知っていたがいつの間に生活保護を受けるはめになっていたのか。
アパートを借りる保証人になっていた従妹Tによれば、最初のアパートが取り壊しとなり、新しいアパートの家賃は払えず、家賃扶助を受けることになったという。これも後で知ったことだが、生活保護には生活扶助や住居扶助、医療扶助など七項目くらいあり、一つの扶助でも生活保護認定者である。叔父はわずかな年金と公害保障費があったため、家賃部分の足りない分と思われる1万8千円が毎月入金されていた。

さて救急車による搬入、救急医療、莫大な医療費はどうなるのか?
一月に入ってS病院のケースワーカーに面談。
「医療費は生活保護費から支払われます」「みなさんは扶養義務のない方なので、金銭的援助を無理をされることはありません」この言葉にどれだけ気持ちが楽になったかわからない。

しかしほっとしたのも束の間、「福祉」という名の生活保護制度に無知な私達は「臍」を噛むことばかりが続いたのだった。

続く・・・次回「2月~3月まで」

 
     
 

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