ねうねう句日記

いつか秀句をはきたいと、ねうねうとうち鳴きながら、より所なげに春の夜を・・・
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景観画像・星野聰・磨針峠

2012-07-25 11:53:23 | 文学

ご近所でもある「文学堂」さんの奥様は「断捨離」をはじめられたようだ。それもご自分の研究のためにに集めたりもらったりの書籍から。「もうそんなに長くありませんのでね、若い方に使っていただけるなら。」小柄できれいな方である。江戸の昔から今に至るまで「文読む」乙女や刀自はいるんですよね。日本の古典文学の裾野は女性に支えられているんだな、と思います。

第一弾は文学研究の機関誌、学術誌である。とはいえ彼女の知己から「こんどこういうものを書いたので」と贈られた大学の学術誌、種類はさまざま、号数はとびとび。こちらも団舎利推進中であるし、ここが思案のしどころである。ミイラ取りがミイラになるのは必定ということ。読んでもすぐ忘れる、でも読みたい。

1)種類別におおまかにわける。目次から俳諧・和歌関係をピックアップして読む。ブログに書く(書誌だけでも)。  2)大学の院生図書室に並べる。誰かが手に取って利用してくれていいし、完璧に揃ってなくてはイヤ!本棚をふさぐな!という潔癖な図書委員の目に止まったら廃棄していただく・・・。

ことにしよう

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「景観画像の文学」  国文学資料館講演集14 ―国文学研究・資料と情報―平成4年

 星野聰 京都大学大型計算機センター教授 主著『続日本紀総索引』他 

 平成4年当時人文科学へのコンピューター応用を研究されていた方の講演。 この先生は文学部に入った経歴はないがとくに「歴史や文学に関係があって興味深い地域の景色」を長年ハンディカメラやビデオで写してきた。

ここでいう「景観画像」はそれらをはじめフィルム資料などを、コンピューターにとりこんで保存し、膨大な画像を能率よく検索できるシステムを構築すること、さらにどのように文学に結び付けて実用化していくか、が課題であるという。 画像をたくさん入れておく安価な媒体としてCD-ROMが有望です。一枚で900コマくらいの画が格納できます。なーんて言ってる。10年前はみんなで感心したに違いない。

実用化ねー。平成24年の今、博物館や資料館は、展示企画において画像をふんだん保存された画像を探したり使用できることは大助かりであることは想像に難くないが。景観ではないが絵画で著名な画題のものを時系列にならべてみれば、いままで指摘されてこなかった比較による新しい見解もでてくるだろう。研究集会では花盛り傾向になってくるだろうなー。しかしここでいうのは「景観」。私がこの論文に関心をもったのはほかでもない、二か月ほど前にブログに書いた三河湾の竹島付近の景観と万葉集という文学に結び付けられた記事があることだ。さらに彦根ー米原間にある磨針峠から見る琵琶湖の景観の変遷を推理している箇所があること。

1)万葉集272番「四極山(しはつやま)うち越え見れば笠縫の島 漕ぎかくる棚無し小舟」  高市連黒人

大宝2年に持統太政天皇が(すでに文武天皇に譲位)三河のくにへ行幸され、その時随行した高市連黒人の歌について次の地理的解釈。

  さてここにお鍋をひっくり返したような形の島があります。これは笠の形をしていると思いますが、竹島とい う小島でこれが笠縫の島だと思っています。この島は蒲郡の海岸からごく近くにあっ  て、今は橋で渡れるのです。またこの島に向かい合って海辺に低い山があり、今は蒲郡プリンス(クラッシック)ホテルがその上にたっています。(私は)これを四極山にあてています。

持統太政天皇の行幸した大宝2年といえば大宝元年(701年)に大宝律令が完成した翌年である。そんなころから竹島は蒲郡の海辺にあって、すでに竹生島から弁天様を勧請していたのだ。蒲郡ホテルのあった四極島には今でもなにか遺跡が眠っていそうな気がする。

2)270番歌 「旅にして物こほしきに山下の 赤のそほ舟沖を漕ぐ見ゆ 」 高市連黒人

  黒人はこれをどこで詠んだものか、実は米原と彦根の間にある磨針という峠でございます。こういったことを説明するにも景観表示を使いますと、人を納得させる手段としてあるいは一般研究  支援のために役立つと思っているわけです。ここが米原です。その南西に大きな入江がありました。ところが戦争中食糧難のため干拓し、今は農地になっています。しかし、ここに入江がありますと、黒人の歌を磨針峠で詠んだとしても矛盾がないのです。・・・東の方から来ると磨針で初めて近江が見渡せるのです。もうすぐ都、そこで本当に嬉しそうな詩を詠んだ義堂(義堂周信か)という僧がいます。逆に峠を東に越えますと、もう琵琶湖はみえません。東に行くときはここで旅装束に変えていく、ここで見送る。そこで磨針峠はさびしい270番歌とよく合うのです。

かつて磨針峠には望湖亭という茶屋があってそこからの眺望は素晴らしく、往来の人々は感慨ひとしおであったという。竹島にしろ、磨針峠にしろ、現地を知っているのでやすやすと星野先生のお説に納得してしまう。次は星野先生の結びの言葉。

「そういうわけで景観表示にコンピューターを利用すると文学だけとはいいません。歴史、地理その他、ひろく人文科学への研究に大変役立つものと考えています。」

 

 


従姉のたかちゃん・宙に浮いた叔父の年金

2012-07-14 01:03:11 | 日記

たかちゃんは父方の従姉である。

生まれたのは昭和19年。召集されこれから戦地に行く叔父と、上官の特別なはからいで叔母とともに鯖江で面会。0歳。だからたかちゃんは戦死した父親の顔を写真でしか知らない。

叔母は夫なきあと家業の茶の卸商を切り盛りしてたかちゃんを育てた。親戚中の涙を集めた女子である。大学には行けなかったが、一族中で一番頭のいいのは彼女だった。

わがままなんて言ったことなし、小っちゃいころからお母さん思いの子供だった。小さな子にはわけへだてなく優しく、遊んでくれた。

親に逆らってばかりの私をいつもさとしていた。私の母はい涙ながらに私にいう。「お前はなぜお父さんに逆らう!悪口をいう!たかちゃんにはお父さんがいないのだよ!」 私の父は傲慢で子どもに威圧的だったから子どもに反抗されるのは当然なんだけど、たかちゃんのことを思うと私もションボリしたことだった。

父には兄弟が多くて、5月に亡くなったM藤叔父も弟の一人。奥さんを早く亡くし、子供もいなかったM藤叔父を気にかけてなにかと力になってあげたのもたかちゃんである。

たかちゃんは叔父が亡くなったあとのもろもろの役所の手続きも嫌がらないでやってくれた。

年金手帳を年金機構に返しに行ったのだが、そこでわかったこと。

応対してくれたまだ若い女性がパソコンを見て、「この方には宙に浮いてる年金があるようです・・・」と言ったのだ。

ええ~~ ひどい~

2、3年前の年金問題華やかな頃なら、叔父の書類預かった私たちも、「おじさんのことだから年金のモレもあるに違いない」くらいは考えただろうが。さすがに危篤の繰り返しと転院、施設探しに追われた2012年の私やたかちゃんは思いつかなかった!

「30か月分くらいある」鳶をしていた叔父さんは長く務めた会社はなかったと思うが、長い人生正社員していたこともあるだろうし、鳶なんて危険な仕事は給料が良かったかもしれない。この年金を請求できるのは存命の兄弟だけという。そんなこといったら95歳の伯母さんだけだ。手続きの煩雑さをたっぷり聞かされ、書類はもらってきたが、今は保留状態。8月になって、少し気をとりなおしたらもう一度書類を見ることにする。

叔父さんを経済的にも支えてきたのはたかちゃんなのに、たかちゃんの叔母さんは亡くなってるからなー。