ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ 夜明けのすべて (2023)

2024年02月20日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

三宅唱は今回も周到に定型を避けながら物語を語る。登場人物たちは何も主張しない。悪人も登場しない、というより人の悪い面を描こうとしない。みんな相手のことをよく見る、が不用意に見つめ合ったりしない。むしろ心理的にも物理的にも同じ方向を向こうする。

冒頭でPMS(月経前症候群)を抱え社会と相いれない藤沢さん(上白石萌音)の生きづらさがたっぷり描写される。しかし映画の中盤以降、その発作は彼女の生活の(自然な日常の)一部として描かれる。山添君(松村北斗)のパニック障害もまた具体的な症状描写は必要最小限に止められ、「生きているのが辛いが死にたくはない」という苦痛は、かつての職場の仲間たちの彼に対する距離の取り方で暗示される。

障害を抱えた人たちの「生きづらさ」を三宅唱は、藤沢さんや山添君(というキャラクター)を使って必要以上に強調したり代弁させたりしない。その三宅の「主人公になりすぎない節度」によって、私たち(観客)の過剰なエモーションは排除され、冷静に彼らの生きづらさに思いを至らせることができる。

クライマックス、二人の主人公を取り巻く人たちがプラネタリウムに集う。みんな心に「闇」を抱えている人たちだ。そう、私たちは生きている限り誰しもが「死者」への思いを心のなかに抱えている。人は闇に包まれてしまうことがある。でも闇のなかにいるときにこそ、私たちには外の世界が見えるのだ、という救いの言葉の説得力。

優等生的な正論主義に陥らず、世間の総体を悪意ではなく善意として描き、それに成功してる稀有な傑作だった。

少し鼻にかかり粘り気を含んだような声音の上白石のモノローグや劇中ナレーション。随所で繰り返される穏やかな劇伴。そんな通底する「音」が耳に心地よい映画でもあった。これもまた『ケイコ 目を澄ませて』と同じだ。

(2月10日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★★

【あらずじ】
すでに映画界を離れていた初老の監督ミゲル(マノロ・ソロ)は、22年前に自作の撮影中に失踪し、いまだに行方が分からない主演俳優フリオ(ホセ・コロナード)をめぐるTVドキュメンタリーへの出演依頼を受けていた。映画はフリオが演じる探偵が老齢の資産家(ホセ・マリア・ポウ)から中国人を母に持つ娘の捜索を依頼される物語だったが、撮影は冒頭と結末部分だけ撮影されたまま未完に終わっていいた。この番組出演をきっかけにミゲルの止まっていた時が動き始めるのだった。当時の仲間や恋人のもとを訪ねるなか、ミゲルはフリオの娘アナ(アナ・トレント)と再会する。ビクトル・エリセの長編としては31年ぶりの監督作。(169分)


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ■ 瞳をとじて (2023) | トップ | ■ 落下の解剖学 (2023) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」」カテゴリの最新記事