ぽんしゅう座

映画を観るくらいしか趣味のない男の、雑談です。

■ 日日是好日 (2018)

2018年10月19日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
茶室に漂う二十四節季にまで細分化された四季の空気感。その微妙なニュアンスは草木、光線、天候、掛け軸、茶菓子、衣服の丁寧で繊細な描写から立ち上がる。微細だが確実な変化。この人智を超えた自然の摂理に同化するために、凡人たちは日々ともに輪転を繰り返す。

同じことの繰り返し。それが何か特別な「意味」を生み出すのではなく、その“当然さ”のなかに「意義」を感じるということ。なるほど「日日是好日」に意味(理屈)はなく、その文字(カタチ)に託されているのは生きていることの意義(価値)なのだ。この映画から、それがしっかり伝わってくる。

地を打つ雨音。風向きや強弱。空気の硬軟。日差しの肌感。確かに以前は、もっと四季の移ろいを、言葉ではなく感覚として意識していたような気がする。近頃、めっきりそれが減った。そんな変化を、メディアの受け売りで気候変動のせいだと決めつけて嘆いてみたりもしていた。

それは私の怠慢さへの言い訳なのかもしれない。何でも理屈でかたをつけようとして、私の頭が固まってしまったのだ。「意味」ではなく「意義」を感じること。感じるためにも努力は欠かせないのだ。そして、苦になる努力はきっと努力ではないのだろう。そんなことを考えた。

(10月17日/イオンシネマ)

★★★★★
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■ バッド・ジーニアス 危険な天才たち (2017)

2018年10月15日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
たかが娯楽映画とはえカンニングに挑む若者たちの「良心」について、肯定的にせよ否定的にせよ説得力が足りないので、彼らの動機と行為にまったく共感がわかずスクリーン上の狂騒にサスペンスを感じません。製作者たちによって人格を無視された若者たちが哀れ。

始めから終わりまでこんなに不快な映画は久しぶりに見た。作り手たちが登場人物をゲームの“コマ”程度にしか思っていないからだろう。この映画の製作者や脚本家や監督には、そもそも拝金主義や富裕格差や権威主義教育について、何か語ろうなどという気は(そぶりはするくせに)さらさらなく、ひたすら観客ウケしか狙っていない。そんな底の浅さが透けて見えるのだ。

若者たちのルール違反の背景として、家庭環境や境遇への不満や鬱屈が描かれるのだが、その扱いはおざなりで、とても「良心」に反してカンニングという不正に手をそめる動機として機能していない。それどころか、作り手たちの脳内に(自分を含めた)人が人としてあるための拠り所である「良心」に対しての敬意がまったくないのが、この映画の不快さの原因となっている。

嬉々として不正に走る若者たち全員が、ルール違反に対する良心の呵責や葛藤など微塵もないプライドなきただのアホどもに見えてしまうのだ。可哀そうに当然、若い役者さんたちに罪はないのに。

この「良心」への無関心ぶりは、必然的に映画の良心の欠落へと連鎖する。その罪に気づかないまま、TVバラエティの再現ドラマのような大仰な芝居と音で“サスペンス”を演出したような気になっているカンニングシーンや、どこまでが本気か分からない『ターミネーター』のパロディみたいなハリウッド映画の焼き直しクライマックスにも、辟易。

うわべのカタチのかっこ良さだげで、観客を共感させた(誤魔化せた)ような気になっているところに、作者の浅知恵と傲慢さが溢れだしていてる。

2Bエンピツ握りしめ、一心不乱にマークシート用紙を塗りつぶす、若い頃の檀ふみさん似のサウスポー娘チュティモン・ジョンジャルーンスックジンちゃんの生真面目な仏頂面と長い脚は、素敵でした。

(10月12日/新宿武蔵野館)

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■ レ二 (1993)

2018年10月13日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
根っからの表現者なのだろう。レニの言葉を信じれば、彼女が生きる世界に「政治」という概念は存在しない。彼女のなかにファシズム性を見出そうとする人々は、美しさを正当に賛美し、唯一無比の美を自らの手でこの世に生み出す彼女の才能に嫉妬しているのだと思う。

確かに凡人にはレニ・リーフェンシュタールがファシストに見えるかもしれない。純粋に美しいと自らが納得できる創造物を生み出すためには、美に属さないすべての「その他」を排除する冷徹な意思が必要だから。

一点に向けて突き進む美の「独裁」者。凡人はその才能に嫉妬する。

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作中で女優としてのレニの人気を確立したアーノルト・ファンク監督の山岳映画群が紹介される。ファンクの見事な雲海シーンはオリヴィエ・アサイヤス監督の『アクトレス ~女たちの舞台~』(2014)でも重要な隠喩として流用されたいた。機会があればぜひスクリーンで見てみたい映画群です。

それと『意志の勝利』は製作から70年近くを経て2000年代になって、やっと日本で上映されたと記憶しています。今更ながらに、この機会を逃して未見なのが残念です。いつかどこかで再映されることを切に願っています。ああ、観てみたい!!

(10月4日/K's cinema)

★★★★
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■ ゾンからのメッセージ (2018)

2018年10月11日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
一歩踏み出す決意ができなかった者。なんとなく留まってしまった者。邪悪を恐れ成長を規制された者。外界への憧れや恐れは若者だけの特権ではない。時間は外でも内でも、すべての人に平等に流れているのだから。モワモワ、ガサガサ、ザラザラ、チカチカと、心の“わだかまり”が“ざわめき”となって彼らの世界にバリアを張り巡らせる。

2014年2月の大雪でビニールハウス倒壊などの農業被害がでた深谷市で撮影されているのだが、あえてこの被災地をロケ先に選んだのだろうか。それとも偶然ロケ地が被害にあったのだろうか。いずれにしろ、この現実の農家(作中にもドキュメンタリーとして登場する)の方々は、この地を離れることなく、この地に再び生活の基盤を再建して、一生をこの地で終えるのだろう。

そんな彼らとの対比が、ゾンに閉ざされ止まった時間を生きる作中の人物たちの“何もなさ”を良くも悪くも引き立てる。現実的でありながら観念をカタチにする映画実習と、自然という偶然がもたらした現実を克服する復興作業。この正反対の「事実」が同じフィルムに定着されたことで、先のモワモワ、ガサガサ、ザラザラ、チカチカの顛末が、作為以上のよりリアルな爽快さを生み出している。

計算されざる「効果」もまた映画の醍醐味。

(10月3日/ポレポレ東中野)

★★★★
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■ アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル (2017)

2018年10月10日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
トーニャの夢とアメリカの夢のギャップ。その狭間には、猛母や暴力夫、妄想男やゴシップメディアが蠢く。社会の主流から外れているように見えて、実は社会の大多数かもしれないこのチンケ者たちの話は「アメリカは、愛する仲間たちと、敵を作りたがる」というフレーズで、さも鬼の首でもとったように締めくくられる。

では、アメリカという主語を入れ替えてみる。例えば、世界は、日本は、国家は、宗教は、民主主義は、独裁は、金融は、教育は、富みは、貧困は、あなたは、私は、愛する仲間たちと、敵を作りたがる。どう言い換えてもこのフレーズは成立する。

同じようなテイストの『誘う女』の主人公スザーン(ニコール・キッドマン)が美貌と色気でひとり相撲をとった女の話しなら、トーニャ(マーゴット・ロビー)は才能と実力で上昇しようとして、世間(アメリカの理想)に梯子を外され、身内(アメリカの本音)から足を引っ張られた女の話しだ。

だからトーニャ・ハーディングに同情したり、ましてバカにしている場合ではないのだ。これは、私(たち)がいつ当事者(梯子を外す側、足を引っ張る側、引っ張られる側)になるかもしれないという話しなのです。

(9月30日/下高井戸シネマ)

★★★★
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■ モアナ 南海の歓喜 (1980)

2018年10月06日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
心やすらぐ鳥のさえずり、虫の声、波のざわめき、風にそよぐ葉音。西欧にはない打楽器音とプリミティブな現地語の歌唱(心地よい男性ハーモニー!)が昂揚感をあおる。この映画、学術的な価値は高かったのかもしれないが、確かにサウンドがないとかなり退屈だろう。

そのなかにあって、モアナ青年と婚約者フォアンガセが他者や背景を退けて画面を占拠したとき、俗な言い方だが二人が発する“幸福感”が、これでもかというほど伝わってくる。新たな営みを向かえる若者の生と性のオーラだろうか。

あと印象に残ったのは、ふたり達がヤスを使って岸辺で魚を捕るシーン。水面に揺れる波紋の輝きが筆舌に尽くせないほど美しい。こんな眩い光(自然光の強さのせいだろうか、色を感じる)を放つモノクロ映像を観た記憶がない。

その意味でも50数年を経て、この映画を現代の興行に耐えうる作品として甦らせたモニカ・フラハティの功績は大きいと思う。

(9月28日/岩波ホール)

★★★
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■ 極北のナヌーク (1922)

2018年10月05日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
純粋ファミリー・アドベンチャー映画。一家は食べるため、すなわち生きるために極寒の地を移動する。狩猟の達人ナヌークは、家族(妻2人、子供3人)のためにひたすら“仕事”にはげむ。彼の“命”は一家に連なる子孫の命なのだ。だからナヌークの笑顔はあんなに誇らしげなのだ。

ロバート・フラハティがこの一家を通して描きたかったのは「働く」「食う」「生きる」という“生命”のサイクルの尊厳。

(9月28日/岩波ホール)

★★★★
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■ 響-HIBIKI- (2018)

2018年09月25日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
何と心地の良い106分間だろう。響のようなキャラは精神のリハビリに最適である。いかに私たちは、妥協し、折り合いを付け、我慢することを強いらえれ、日々をやり過ごしているかを痛感させられる。現実からの“逃避”という映画の効用を久しぶりに思い出した。

あり得ない響というリトルモンスターの突飛な言動が、コミカルにもファンタジックにもならず、本来の理想の姿として爽快に感じるのは、平手友梨奈のどこか作り物めいたマンガ的容姿が醸す潔癖性と月川翔演出の「嘘」を嘘に見せない疑似リアルの絶妙なサジ加減のたまもの。

端的に言ってしまうと一滴の血も流れないこと。

(9月22日/TOHOシネマズ)

★★★★
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■ 愛しのアイリーン (2018)

2018年09月23日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
復元能力なき過疎化。青息吐息の地縁神話。歪に肥大化した母性愛。困ったときの金権発動。婚姻名目の性欲処理契約。潜在的な異物排他の露見。フィリピン娘は異国の僻地で制度(公)と心情(私)の矛盾のはけ口となり、手作りの十字架を握りしめ一心に般若心経を唱える。

彼女が願った“浄化”をニッポンはかなえることができたのだろうか。

以前、日本の過疎地の農家に嫁いだフィリピンの花嫁たちのその後を追ったドキュメンタリーを見たことがある。ほとんどの嫁は子育てが終わった後、離婚して村を出て自活していたと記憶している。

原作のコミックは1995年の作だそうだ。2018年の現在、厚生労働省が実施している技能実習制度や外国人研修制度、外国人福祉士の学習支援制度も、一時的な労働力として彼らを使えばペイするが、移民として定住されると社会的コストが増加して割に合わないという前提にたっている。

公の制度と言いながら、発想は金で当面の労働力を確保し、その後の個人の意志や生活はなし崩しでウヤムヤにという点で、結果的に嫁たちが日本の家族制度から離反してしまった東南アジアの嫁探しツアーと発想は五十歩百歩だ。

母国に残した家族の幸福と、異国での自らの幸せを夢みたアイリーン(ナッツ・シトイ)が祈った“浄化”は、いまだかなっていないのだろう。そんなことを考えた。

(9月20日/TOHOシネマズシャンティ)

★★★
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■ SUNNY 強い気持ち・強い愛 (2018)

2018年09月18日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
一見、“感動”の安易な再生産に見えながら、出しゃばらず狂言回しに徹した篠原涼子の善良ぶりと、オーバーアクトでケレンに徹する広瀬すずのウブという時空を超えた奈美の「生真面目」の軸が、客観的で冷静な視点となって過剰な“感動”のぜい肉を上手く削いでいる。

そもそも、おばさんたちの話は本家韓国版『サニー 永遠の仲間たち』(2011)から大きく改変するのは難しく、その部分に仕込まれた“感動”のレベルはすでに織り込み済み。あの摩訶不思議なの女子高生の90年代の狂騒にスポットを当て、青春映画としての華やぎと、躍動と、非理性を戯画化したところに「日本版アメリカン・グラフティ」とでも言いたくなるクロニクル的意義を感じる。

1990年代、特に後半の5年間は大人たちにとって決して良い時代ではなかった。少し前に「日本のどの時代に行ってみたいですか?」というアンケートを見かけた。1位は高度経済成長期(1955~73年)。2位は僅差でバブル期(1987~91年)。20位まで挙げられたリストには幕末やら奈良時代や旧石器時代まであるのに、1990年代は影も形もなかった。

バブル経済崩壊で抱え込んだ多額の不良債権に、日本社会全体が身動きがとれず、戦後の成長神話を支えてきた大手金融機関が成すすべなく破たんした。神戸の震災。松本、地下鉄サリン事件。酒鬼薔薇事件。東電OL殺人事件。和歌山カレー殺人。池袋通り魔や桶川ストーカー殺人。そんな不穏きわまりない事件がこの時代の年表に並ぶ。映画ファンなら記憶にあるだろう『もののけ姫』の大ヒットや『HANA-BI』のヴェネツィア受賞と渥美清や黒澤明の死去なんていう新旧交代もあった、あの世紀末だ。

そんな時代、確かに女子高生たちは異常にはしゃいでいた。茶髪、ルーズソックス、超ミニスカート、プリクラ、ガングロ。彼女たちの「風俗」をメディアはさかんに煽った。煽られた彼女たちもタガが外れたように、頭に乗った。ブルセラショップだ、援助交際だと始めは興味本位に取り上げられた(たぶんほんの一部の)彼女たちの不道徳を、社会学者や宗教家がしたり顔で論じ合っていた。いったい、あれは何だったのだろう。

世紀末の気配に無意識に反応した10代の少女たちの陽性の集団ヒステリー。町の住民に裏切られた笛吹き男の笛の音に、100数十人の少年少女たちが夢遊病者のように導かれ姿を消してしまったという、ハメルーンの笛吹き男の話しを思い出した。

あの女子高校生たちも、時代の節目の見えない不穏な気配に導かれ、思わず踊りだしたのかもしれない。不穏な気配から逃避、あるいは反発する少女たち。そんな不穏な気配は、大人たちが作りだし、右往左往し、増幅させたのだが・・・。そういえば「ええじゃないか」の騒動が発生したのも江戸時代が幕を閉じようとする時期だった。そんなことを考えた。

あと、大根監督、とりあえず淡路島の人たちには謝っておいた方がいいと思う。

(9月15日/TOHOシネマズ)

★★★★
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