ぽんしゅう座

映画を観るくらいしか趣味のない男の、雑談です。

■ PASSION (2008)

2018年11月20日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
曖昧な「男と女」たちは「私」と「他者」に引き裂かれ、好意の由来は外見か性格か、選択の根拠は意思か依存か、衝動の原因は理性か混乱か、ずるさは人の良さか甘えかと、互いに自問自答し合い撹拌される。不可視であるはずの「迷い」が確かに“映像”として可視化されるスリリングでエキサイティングな超恋愛映画。

巻頭の、都会の空から地上の人物へのティルトダウンと、地面の穴から人物へのティルトアップの連続カットが意表を突く。これから起こる物語の“混乱”を暗示して不気味だ。次のシーンで自分たちが主役のパーティに遅れそうだと焦るカップル(河井青葉/岡本竜汰)のタクシー内の会話が“混乱”の暗示を現実の世界へと導き入れる。見事な開巻だ。

以降、このいつかどこかで観たシナリオ構造(荒井晴彦の『ダブルベッド』etc)を持ちながら、オリジナリティ溢れる演出がほどこされた「引きずられる者たち」の不倫劇は、その男女の「迷い」に潜む形而上的な抽象概念をスリリングに可視化していく。

たとえば、生徒たちを前に教師のカホ(河井青葉)が「暴力論」を繰り広げるシーン。詰問調で断定的な言葉の連打とテンポの早いカメラの切り替えしによって徐々にシーン自体が暴力性を帯び始め、ついには「人と暴力」の関係に内在する矛盾が映像というカタチとして立ち現われる。

互いの本音を暴き出すためにトモヤ(岡本竜汰)が毅(渋川清彦)と貴子(占部房子)に仕掛ける「本音ゲーム」のシーン。ソファに座った三者の間を、執拗にカメラは切り替えし続け図式的に三角形を行き来する。その単調な視点とゲーム自体のルーズなルール設定が呪術的な緊迫感を生み出してシーン自体が「人の思考」の勝手さと曖昧さを浮き彫りにする。

さらにケンイチロウ(岡部尚)とカホ(河井青葉)の夜明けの超ロングテイク(10分以上ありそうだ)。固定された殺伐とした湾岸の風景に延々と重なるオフスクリーンの二人の他愛の会話は風景と言葉の境界を曖昧にして、あたかも肉体から切りはなされた二人の精神が画面を浮遊しているような錯覚を起こさせる。

実験精神にあふれた、映像研究科の修士生ならではの知的でエキサイティングな不倫恋愛「映画」だ。

(11月12日/イメージフォーラム)

★★★★★
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■ 十年 Ten Years Japan (2018)

2018年11月16日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
この企画は若い作家にとって意義深くとても貴重なチャンスのはず。だからあえて書きますが、がっかりしました。どの作品もアイディアに乏しく、語り口(作法)もありきたり。何よりも、たとえ答えが間違っていようが自分の思いを伝えたいという意志や気迫をまったく感じませんでした。

●PLAN75(早川千絵監督)・・・★★
老人医療と介護と離職、限界集落と高齢ドライバー、認知障害、選択的尊厳死。そして少子社会。作者は姥捨て伝説に始まるコミュニティーと生産と消費という“人が生きる”ための古くからの課題をどう考えているのだろう。感傷的になるだけで何も語らない。この問題は「10年」を待つまでもなく、すでに現実。

●いたずら同盟(木下雄介監督)・・・★
システム化やマニュアル化に対して個性の連帯で抗うことで“何か”が生まれると言いたいのでしょうが、“何か”が抽象的なので何も語っていないに等しい。物語が型式的で退屈なのは作者が「画一化」に対して型式的にしか抵抗していないからだ。怒りや恐怖が足りない、本気度を感じない。

●DATA(津野愛監督)・・・★★
杉咲花、田中哲司という役者の力で「娘と父」の物語を紡ぐ最もオーソドックスな語り口なのだが、いかんせん父も気づかぬうちに「娘」が「女」なるという成長の葛藤が伝わってこない。「DATA」を使った過去と現在の間に存在する「時間」が描けていないからだと思う。

●その空気は見えない(藤村明世監督)・・・★
「見えないもの」「見ることができないもの」を“音”を使って可視化する試みがこの作品の肝なのだから、徹底的に“音”のドラマに収斂すればいいものを(アニメーションなんてあり得ないでしょ!)、あまりにも“音”の扱いが雑。ラストショットは、ありきたりの「画」に逃げず、何とか「見えないもの」を見せないと意味がない。

●美しい国(石川慶監督)・・・★★★
すぐ身のまわりに“事実”がありながら、ほとんど当事者意識の持てない、どこか遠いところで起きている「我が国の」の戦争。集団的自衛権という同調圧力のもとに地球の裏側へ送られる日本の若者たちがいるという想像に難くないお話し。『愚行録』をものした監督にしてはちょっと淡泊な語り口。

(11月15日/テアトル新宿)


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■ 巴里の屋根の下 (1930)

2018年11月14日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
冒頭の大雨から一転、遠くの歌声が重なる屋根の煙突群から建物の谷間の群衆の大合唱へ至る音の立体設計。そして、酒場の喧騒やガラス扉、列車の汽笛に遮られて聴こえない会話や乱闘の騒音。「見せない」と同じぐらい「聞かせない」ことの演出効果を痛感するトーキー黎明期の意欲作。

大雨から一転、遠い歌声が重なる屋根の煙突群から階下の群衆の合唱へ至る音の立体設計。さらに、酒場の喧騒やガラス扉、列車の汽笛に遮られて聴こえない会話や乱闘の騒音。「見せない」と同じぐらい「聞かせない」ことの演出効果を痛感するトーキー黎明期の意欲作。

(11月11日/シネマヴェーラ渋谷)

★★★
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■ 踊る大紐育 (1949)

2018年11月13日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
野暮で無垢な男3人の水兵服の白色に鮮やかに映える、テーマ色を黄(ベティ・ギャレット)、緑(ヴェラ・エレン)、赤(アン・ミラー)に設定した衣装の色彩設計が見事。各カップルが競う歌と踊りも素敵だが圧巻はやはり6人勢ぞろいパートのにぎやかさ。

地下鉄、博物館、音楽堂、エンパイアステートビル、キャバレー、コニーアイランド、最後はカーチェイス! と一夜限りの都会めぐりも、騒々しく楽しい。

(11月9日/シネマヴェーラ渋谷)

★★★★
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■ search/サーチ (2018)

2018年11月08日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
観ている最中は意外と面白かった。説明台詞と同じぐらいPC画面のポインターやウィンドウの動きが饒舌なので、ふと気づくと考えたり感じたりせず「画面」を受け身で観ている自分に気づく。単調で限定的な画づらに慣れてしまうのだ。慣れとは麻痺とも言い換えられる。

だからでしょうか、途中で、何で俺は映画館の大画面でこんなに味気ない“動画”を観ているのだろうと、ふと我に返る瞬間が何度かありました。

最後まで何が何でもPCモニター映像で構成するんだ、というこだわり以外に、この映画の意義が見つりません。たぶんプライベートからオフィシャルまで、動画の意義やクオリティに軽重の境界のないネット映像の特性が、こういう映画(見世物)を可能にしたのでしょうね。ネットという媒体の節操のなさは最強です。

でも、同じプライベート映像の取り込み方なら今年観たミヒャエル・ハネケ監督の『ハッピーエンド』のスマホ画像の不気味な豊穣さの方が、やはり私は好きです。作劇としてリアル世界のスチュエーションをフツーに交えおけば、もう少し奥深いサスペンスになったかもしれません。が、この映画に、それを言っちゃおしまいですね。

限定的な条件のもと、映画の文法は崩さずに巧みに物語を成立させてみせたところは、これも本年話題の『カメラを止めるな』との共通性を感じます。初チャレンジにして成功はしたものの、もう二度と同じ手は使えない。次回作で本当の手腕が試される苦労を背負い込んだのも同じです。アニーシュ・チャガンティ監督、まだ27歳だそうです。次回も(は)期待してます。

(11月7日/TOHOシネマズ)

★★★
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■ ここは退屈迎えに来て (2018)

2018年11月06日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
時間が丁寧に描かれる。時間はときに麻薬のように思考を曇らせ、少しだけ身の丈に過ぎた期待を若者に抱かせる。誰もが抱くあの時の未来への希望、過去の美化だ。その幸福願望の正体が、退屈なモラトリアムが招いた妄想だと気づいたとき、若者たちの青春は終わる。

彼らは、やっとそこから「何者かに成り」始めるのだ。だから若者にとって時間は、とても退屈で、たいていは残酷で、少しだけ優しい。

2004年から2013年までの10年の「時間」を、自在に行き来する櫻井智也の脚本が巧みで観る者の思考を刺激し続ける。さらに、それなりに整備されつつも、どこか閑散とした半都会の情景のなか、ゆったりと走行する自動車やゲームセンター、ファミレスが漂わせる地方の空気感。そして、田園を疾走する高校生の自転車群や、夏服姿の生徒たちが三々五々たむろする放課後のプールの輝き、10年ぶりに訪れた母校の校庭でみせる私(橋本愛)とサツキ(柳ゆり菜)の解放感。ときおり、はさみ込まれる人物の顔のアップに浮かぶ感情の揺れ。

すべてが相まって、何者かに成りたい、成ろうとした、そして成れないことを“退屈”だと誤解してしまった若者たち(私を含め、たいていの若者はそうだったはずだ)の「時間」が見事に描き出される。時間が丁寧に描かれた映画は、それだけで面白い。当たり前だが、時間とは人にとって人生のことだからだろう。

(11月2日/新宿バルト9)

★★★★★
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■ハナレイ・ベイ(2018)

2018年11月04日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
掛け替えのない者の死と向き合うためには時間が必要だ。後ろにも前にも進めなくなってしまったサチ(吉田羊)にとって、流れた去った10年は短くも長くもない、ただ必要な心の解凍時間であり、向き合うべき対象は死者ではなく自分だと気づくための時間なのだ。

サチの目は決して笑わない。もはや“悲しみ”という感情すら表出しない。吉田羊の端正な顔立ちとぶっきら棒な男性的な身のこなしが、総てを拒絶するリアルを醸し出して息苦しい。その拒絶こそが悲しみなのだ。

そんな拒絶の悲しさに対して、クライマックスのサチの海岸の彷徨が型式的なお約束に見えてしまう。おそらく「拒絶」の強度と対を成して物語(映画)のもう一方の核心となるはずの、費やされた「時間」の量が伝わってこなかったからだろう。

(11月1日/イオンシネマ)

★★★
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■ 四十二番街 (1933)

2018年11月03日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
ミュージカル部は全編89分のうち最後の20分弱のみ。劇場の幕が開き、まず舞台上の新婚カップルと列車の乗客たちの歌と踊りが中継のようにカット割りされ描かれる。そして、群衆の乱舞はいつしか舞台上の街並を飛び出し、リアルな屋外(セット?)を経て緻密で華麗なあの「万華鏡ショット」へ。

この「劇場」から「スタジオ」への変遷こそが、まさにミュージカル映画の歴史。

(10月31日/シネマヴェーラ渋谷)

★★★
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■ 嘆きの天使 (1930)

2018年10月30日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
授業まえに必ず鼻をかむ無粋に気づかず、生徒の顰蹙と蔑みの視線を薄々感じつつ、八つ当たり的厳しさでそのコンプレックスを癒すしか術のない威厳なき裸の権威主義男は、艶麗な罠に自ら進んで堕ちた。何故なら男は小鳥のさえずりに心和ませる優しく無防備な男でもあったのだから。

冒頭のラート(エミール・ヤニングス)の口笛と声なき小鳥の挿話が彼の運命の総てを象徴する。以後、教師ラートは音(歌曲=和みや娯楽)と遮断された状態としてディフルメされ描かれる。彼の心から“安らぎ”が消えたのだ。

ラートが踊り子ローラ(マレーネ・ディートリッヒ)の写真を見つけた教室のシーンでは、窓を開けた瞬間に女学生の合唱が聴こえ、窓が閉じれるとともに歌声は聴こえなくなる。さらにローラの楽屋では、扉が開くと舞台の歌曲が部屋に流れ込み、閉じられると歌も音楽もピタリと遮断されてしまう。この扉の開閉と歌曲の流入/遮断は繰り返し執拗に描かれる。ローラの魅力に揺さぶられるラートの心の象徴なのだろう。

そして、ラートがローラと初めての朝を向かえたとき、二人の部屋は小鳥のさえずりに満たされる。ついにラートは“安らぎ”をとり戻したのだ。そして、芸人たちに祝福される宴のなかラートの幸福は絶頂に達し、おどけて雄鶏の鳴きまねに興じてみせる。数年後、その鳴き声が喘ぐような「泣き声」に変わることも知らずに。

男の心情と運命を音声演出に託した、トーキー初期らしい実に巧みな「音」の映画だった。

(10月29日/シネマヴェーラ渋谷)

★★★
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■バトル・オブ・ザ・セクシーズ(2017)

2018年10月28日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
ジェンダー、セクシャリティ、依存症。そんな現在進行形の深刻な話のキモを保ちつつ、恋する乙女なエマ・ストーンの戸惑いアップ顔と、お騒がせ躁男、スティーヴ・カレルの空騒ぎのデフォルメで“マジメ”に戯画化して“滑稽な史実”として描く大らかさが心地よい。

コダックフィルム(懐かしい!!)の「あの時代のカラー」の採用で、70年代の空気を一瞬にして呼び覚ます奇策にもびっくり。映画好きにとってはタイムマシン効果、抜群。

(10月25日/イオンシネマ)

★★★
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