ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ ルックバック (2024)

2024年08月09日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

例えば予期せぬ出来事によって「創作」を永遠に絶たれてしまった者、あるいは周囲の無理解によって「創作」を自ら断たざるを得なかった者、そして「創作」を志しながら才足りず、機会得られず、あるいは鍛錬続かず早々に退場してしまった数多(あまた)の者たちへの鎮魂歌。

もちろん、すべての者たちの“生きざま”は肯定されなければならないのだ。

この物語は創作活動がはらむネガティブな「苦しみ」に安易に価値を見いだしたりしない。創作のポジティブな発露としての「喜び」を“何があろうとも”徹底的に描ききる。悲しみの先は「創造する力」によってのみ見いだされるのだ。

ここからは長い余談です。創作に必要なものは「ベースとなる才能」、それを磨く「圧倒的な努力」、その才能と努力を認め合う「同志やライバル」なのだろう。その三つの要素が満たされたとき、彼らを世に送り出す「発見者」が現れるのだ。

京都アニメーションの事件を起こした男の話です。事件に至るまでの男の生い立ちと行動を追った精神科医師の手記を読んだことがある。決して良好とはいえない家庭環境と教育課程を過ごし、その結果として満足のいく職を得られなかった男は、創作活動に最後の望みを見いだしたのだという。そして細々ではあるが人づきあいも保っていたという。だが男はいつしか自分の周りの人間関係を一切たってしまい事件に至ったのだそうだ。男に「ベースとなる才能」があったのか、「圧倒的な努力」をしたのかどうか、私には分からない。だが「同志やライバル」がいなかたのは確かのようだ。この三つ目の要素が加わっていたなら男の顛末は変わっていたのだろうか。

この男の「創作」の意志もまた肯定されるべきだ、と書いたらお叱りを受けるのだろうか。ではこの男の「創作」はいつから、どこから“否”になってしまったのだろうか。この男の挫折と、数多(あまた)の挫折者たちを分けた「何か」とは何だったのだろう。世間、折り合い、紙一重。そんな言葉が頭に浮かんだ。

(8月8日/TOHOシネマズ南大沢)

★★★★

【あらすじ】
東北の小学四年生の少女・藤野(河合優実)が「学年通信」に連載している4コマ漫画は大人気。将来はマンガ家になるのだろうと級友たちからもてはやされていた。その「学年通信」に隣りのクラスの不登校少女・京本(吉田美月喜)のマンガも載ることになった。余裕しゃくしゃくの藤野だったが、京本のマンガを見てその画力にの高さに圧倒され自信をなくしてしまう。時は過ぎ小学校卒業の日、いまだに不登校を続ける京本と藤野は初めて顔を合わせることに・・。自信家で積極的な藤野と人付き合いが苦手な京本。そんな才能に溢れた二人の“創造する力”の物語。押山清高監督・脚本による藤本タツキ原作の読み切り漫画のアニメ化作品。(58分)

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