最終章だけど、、、

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10年以上ぶりに、実家を見る

2024-01-10 18:20:00 | 日記
さきほど、学校の帰りに思いきって、実家を裏側から見に行きました。
といっても、実家の後ろの塀越に、新しい家が何軒も建てられていてどこから裏側が見えるのか見当もつきません。
母が七十代でわずか2か月余りの闘病を経て鬼籍の人になった5年後、父が逝きました。九十歳くらいまで実家でひとり、空閨をかこった父は、最初こそ、長男夫婦(東京在住)が月のうち半分くらいは離れに住まってくれて、父の世話や家の管理(季節ごとの家の設えをするなど)そんなに不自由していない様子でした。一年半ぐらいたったころに、長兄のところで思いがけない事故があり、その結果、長兄のつれあい(そのころは入籍していなかったかもしれません)の背後に恐ろしい事実があるのが露呈。父は恐怖のあまり、正式に遺言書を作成しました。そして以後は次兄夫婦(千葉県在住)が時折実家に来て、父の世話をすることになりました。次兄たちがいないときは、私が夕方に必ず父の顔を見て魚屋さんから届く仕出のチェックをしてきちんと食べているかなど、話題のひとつにしていました。そのころの私は玄関鍵も持っていたのですが、決してキャッシュカードの番号や金庫の番号を父から聞こうとはしませんでした。父は私に知らせたかったようでしたが。
五年の独居生活を経て父が他界。遺言書には一切を(祭祀権も含め)次男に残すという内容でした。そのころ、事故の後遺症で健康を損ねていた長兄には、すでに、法事など主宰する体力がなく、以後、次兄が取り仕切りました。しかし、一周忌までで、三回忌以降は、父の御霊を供養することがありません。
母が、福井のお寺の孫として生まれ、母の実家で蓮如上人が修業されたとかで、とても仏心に厚い家だったせいで、私の実家も等身大の親鸞像が庭にあるなど、日常的に線香くさい家風でした。そんな両親の供養をしないでいるのが、全く不本意ですが、私にはどうすることもできません。

今回の地震で、恐らくその親鸞像もお倒れになっている、と覚悟して何とか後ろ庭の一部を垣間見る細い通路に到達できました。

蹲は、大丈夫みたい。簾の向こうはお風呂場のはず。

だいぶ濡れていますが、向こうに見えるのが木の戸で、ここを開けて茶室の躙り口へ、と行く構造だったのを思い出しました。濡れ縁の端っこに乗っかっているのは、石臼、お茶用です。茶臼といったかしら。お抹茶のために使いました。特に、お茶のお正月と言われる十一月ころの口切の茶事、または、新年早々の初釜の時は必ず、茶壷から香りも高い新しいお抹茶を出して茶臼をゴロゴロさせました。その音や石の上で挽く感触をまざまざと思いだしました。間もなく母が逝って20年ですが、ああ懐かしい、鮮明に何もかも蘇ってまいります!ぬ防備に濡れ縁に置かれているのに、よくぞ、あの揺れの中、鎮座していたものだわ!さすが、わが母の「気」があったのね、そこには。もう末期になって入院した病室に母のお茶の関係の知人友人がお見舞いにきてくださいました。ひきも切らさず、多くの方々が。そのおひとりおひとりにお抹茶をたてて(もちろん仰臥の母にはできないこと、私が代わって何十客ぶんをたてました)作りたての和菓子でおもてなししたのを思い出しています。ずっと忘れ去った図でしたが、今は、はっきりと蘇ってまいります。

小さい屋根が葺かれて、お上人様の修業姿の銅像がお堂の中に見られました。
古びていますが、十数年ぶりに、会えた実家の一部でした。

無関係の関係ですが、たまたまダウンロードできたので、

四十二の厄払いに行った上賀茂神社の神馬です。嬉しそうに(たぶん)手を伸ばしているのが、ムスコ。まだまだ若いです。

陋屋の茶室もどきの小間。地震のあとも平和です。亀の掛軸が掛かっています。
備前焼の茶壷。
備前の窯元さんから、お見舞いのお電話をもらいました。最近は、達筆の年賀状ではなく、どなたかの代筆らしかったのが、お元気で変わらぬ優しさが溢れるお声でしたので、地震のおかげで福音をもたらされたように感じています。
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4 コメント

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誰も住まぬまま (すらいむらいだー)
2024-01-11 20:21:27
タマに所有者の次男さんが来るも。10年が過ぎてる空き家。と言う事でしょうか?
さすがは親鸞上人。霊験あらたか。無事だったのですな。
息子さんの写真に写ってる子供は。無関係。なのですよね?
孫はおらないハズなのにまるで身内のように写ってますね。
誰も住まぬまま (ぽこ)
2024-01-11 20:43:41
正確には、14年は経ちました。最後に父が入院した時間を含めたら15年。
この5年くらいは、一度も誰も足を入れていないかも、です。
私自身は、この15年で一度しか、入ったことがありません。お仏壇を開けてもらってお参りしました。
一度だけ、実家を買ってほしい、と申し出があった時、それだったら、長兄さんに買ってもらった方がいいのでは?喜んで住んでくれるでしょうから、と辞退。私の提案は長兄には届いていなかったようでした。。。
実家に思い入れがないわけではないのですが、どこかで心を鬼にしました。世界で一番遠い場所だと割り切りました。
馬の写真の人たち、家族のように見えますが、たまたま、ご一緒した赤の他人でしょう(笑)
こんな小さい人がいてくれたらどんなにいいでしょうね。ちょっとだけ夢見てしまいました。
なんか・・・・・・ ( madonna)
2024-01-14 17:37:32
冷静にしてはおられますが、ぽこさんのお気持ちを思うととても哀しいです。
お母上を敬愛しておられるぽこさん、どんなにご実家に入られてお母上の残り香を胸いっぱいに吸い込みたいかと。
長い間、足を踏み入れられることがないのは、どんなご事情があるかは分かりませんが、ぽこさんの真面目なご性格故でしょうね。
ご実家が無事で良かったですね。
ちょっとでも垣間見ることが出来て、地震も悪いことばかりではなかったようで。
さすがはぽこさんの息子さん。
白馬がよくお似合いの端正な横顔の皇子さまのようです。
母が恋しい (ぽこ)
2024-01-15 01:41:51
Madonnaさん、こんばんは。
お見通しですね。
さようでございます。
仰せの通りでございます。

20年近く前に母を病気で失った時に、その2日後に義父も逝去した、入院していた病院も同じ、同じセレモニーホールの同じ場所で、斎場も同じ場所で、という劇的な現実、殊に義父の場合は喪主の妻として崩れることができなかった、そんな稀有な経験を、母が与えた、と私は思い込み、それを恨むどころか、母らしい、私を泣かさないように、いっぺんに大人にしようという最後のプレゼント、と思いましたし、今も何故かそれを感謝しております。
ただ、泣き悲しむ、人に頼って慰めてもらう というのは必要でした。大変だったね、涙が枯れるまで泣くといいね、という状態がないまま、事後の忙しさに紛らわせたのが失敗だったと思います。
母の生前、何かにつけ母に依存していた私が急にしっかり者になれるはずがありませんでした。でも実生活はそれを余儀なく演じることになりました。

ただその時は父が元気で生きていたので、父がいる、というのは慰めでした。父も独居にだいぶ心を弱めた頃に事件といいますか、事故があり、父の老後の心配がどっと増しました。幸い国家公務員だった父の年金は当時は十分だったようで、生活の心配はありませんでしたが、長兄の嫁さんに関わる親族があの手この手で強請にくる不安もありました。警察に保護を求めに父が行ったこともありました。肝心の長兄は生死の境にいましたし、次兄も甥っ子のおこした交通事故で悩んでいるころでした。
勢い、私が父の話し相手として必要な存在となりましたが、父亡き後は、一切ノータッチで今に至ります。
私は物質にあまり執着しない方だと思いますが、長兄、次兄のお嫁さんたちはそうとも限らない、私が次兄の家になった実家に入って何か物色するとでも思うのでしょうか?わかりませんねぇ。両親の愛を無限に受けて育った私はそれで十分です。

でも今度のことで、急に母が恋しくなりました。
おかあさーんと抱きつきたい気持ちでいっぱいです。
自分には自由な時間と空間があります(こうしてブログで気持ちを漏らすことも含めて)遅きに失しましたが、お母さん、と泣いたり語ったり、誰にも遠慮なく今度こそ、母を独占して自分を解放させたいです。
Madonnaさんにはお見通しでした。以上のことが。

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