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クールな生活

日々の雑感と意見

花粉症と三十年(その6)

2008-04-26 15:22:29 | 花粉症
花粉症はどんな人が罹るのだろうか?すでに研究している学者か医者がいるだろうが、専門書を見ていないのでよく分からない。自分ことを書いてみる。
自分の親族では、三親等くらいまでしか分からないが、あまりいない。祖父母両親には無かった。兄弟姉妹では六人いるが自分も入れて二人が発症する。自分の子供には無し。甥姪は十人余いるが一人のみ。〆て、二十七分の三である。十二パーセント。多くはない。遺伝的なものではなさそうである。したがって血液型も因子にはないだろう。親族には、アレルギー症状を示す人も自分以外に知らない。花粉症を起こす他の二人に杉花粉以外のアレルギーがあるかどうかはよく知らないが、自分が特異体質なのか?血液の質の問題だろうか?
食べ物を考えてみる。発症する三人は年代が七才、十五才と違うのと家族が異なるから、食べ物にあまり共通性はないと考えてよいだろう。魚系と肉系あるいは野菜系かとみると、大体魚系のようで、野菜が嫌いなわけではない。三人以外の人も同様である。自分は酒を好む。よく飲む。他の二人は女性で酒はほとんど飲まない。酒を飲んでいても花粉症になっていない兄弟はいる。自分が発症したのは三十代前半である。二十代の頃から酒はよく飲んでいた。花粉症と酒の関係を知るために、十二月から二月まで禁酒をしたことがある。効き目は無し。三月に見事に発症した。
自分はいわゆる生活習慣病には罹ったことはないし、今でも罹っていない。世の中の人を見ても、花粉症と生活習慣病との関係は直接はないとみてよい。
結局分からない。

会社でも何人か罹っている人を見た。ひどい人と罹らない人がいた。デリケートな人が罹るかというと、必ずしもそうではなさそうである。痩せ型がなるかというと、その傾向はあるが、がっちりした人でも小太りでも罹っていた。
体格の面でも類別する決め手がない。

今年、平成二十年は花粉症がひどい年であったという。まだ完全に完了はしていないが。ただし、自分にはそれほどひどいとの実感がない。平年並みであったと思っている。平成十七年は大変であった。目が痛くなって一日中、目を冷やしたまま臥床していた日があった。平成十八年と平成十九年は花粉症の時期に中国にいた期間が多く、花粉症の自覚がなかった。
今年、自分がひどくない理由を二つ考えている。ひとつは、体の活性である。加齢とともに体は活性的でなくなっている。特にトレーニングをしていないからなすがままに衰えるわけである。致し方なしである。体が活性的でなければ、花粉症を起こすアレルギーが活性的でなくなってきていると考えられる。これと同様の考えを自分以外にももっている人がいて、ああ、さもありなむと感じた次第である。花粉症の程度と年齢の関係、体の活性度の関係は、あるとみている。そうなれば、加齢とともに花粉症の程度が弱くなると言えてくる。今年、自分はひどくないという理由でもうひとつ考えていることは、健康サプリメントの使用である。前にも述べたが、まだ効果のほどは見られない。効いているかどうか分からないが、いつもの年と変わった対策を採っているのは何かというと、そのサプリメントである。摂取の出だしが今年の一月だったので、体質改善まで至っていないと、このサプリメントの効果を善意にというか少し贔屓目に見ている。今、対応していることは、目ではAG EYES 目薬の使用であり、鼻では紙縒りとマスクの使用である。他に新しい手段を見つけることができなくて、講じていない。藁をも掴む思いで、インチキかもしれないと疑いながら新しいサプリメントを服用しているのである。今年もまた無駄だった、ということも十分ありうることは知りつつも、来年には体質改善になっているかが分かると期待しているのである。

自分の今年の花粉症は、今週の火曜日(4月22日)で終了した。以後、目薬無し、マスクの着用無しで外出できている。

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花粉症と三十年(その5)

2008-04-25 10:18:56 | 花粉症
花粉症は2月から始まり、3月、4月と続く。ゴールデン・ウィークに入るとぴたりと止む。杉だけならば、3月で終わるようで、4月でもまだ花粉症が続いているというのは、杉に続く檜の花粉であるといわれている。自分が罹っている花粉症は、5月連休まで引張っているから、檜も入った花粉症らしい。風の強い日は目が腫れ上がってしまうようなときもある。
花粉症のときの外出は禁物である。しかし、春爛漫の頃になるのでじっとしてもいられないときがある。花見があり、散歩、散策、ハイキング、子供が小さいときはどこかに連れて行ってやらなければ、という思いが強く出かけることになる。当初は花粉症という症状を十分把握していなかったから、外出も意に止めなかった。奥多摩、新宿御苑、井の頭公園、草木のあるいろいろな所へ行った。そして家に帰って来ると目がざわーとした感じになって、大急ぎで洗眼する。当初は、多分風に当てられて、あるいは日焼けで、体全体が火照ったせいだろうと思っていた。花粉症と知ってから、風の吹く日の外出や奥多摩のような杉林を避けるようにした。花見は桜だから大丈夫だと思っていたのだが、そこかしこ花粉が飛んでいるようで、花見から帰った後の目の腫れ具合もしゃれにならないくらいのときがままあった。あまりにも好天の花見日和に妻からお花見でも行きましょうかと言われると、決死の覚悟をしなければならなくなった。だんだん花粉の量が年々多くなってきているようで、この十年くらい花見に行くというのは自殺行為だと思うようになってしまった。外出自体が支障ありなのだ。

杉の花粉症は日本だけであろう。他の国で杉の多いと言われるところに行ったことがないのでよく分からないが、自分の症状で判断すると、花粉症に罹っているときに国外脱出をすると直る。3月にアメリカに出張に行ったときがあった。例年通りの花粉症でマスクと目薬を離せない日々が続いていた。空港ではまだ花粉症の症状を呈していた。機内でもずっとマスクを着けていた。マスクをはずすと、くしゃみが出る。眠るときもマスクをかけたままにする。翌日ニューヨークに到着した。日は明るい。機外に出た。それにしてもなんという明るさだろう。アメリカこんなにも明るい世界なのか。さすがアメリカ。気持がよいので鬱陶しいマスクをはずしてみた。くしゃみは出ない。あっと気が付いた。花粉症がないのだ。そう、ここはアメリカ。日本の杉の花粉症がない世界だ。明るいアメリカではなく、自分の目がすっきりしただけであった。我ながらバーカと言ってしまう。ホテルに行く。鞄を開ける。スーツを洋服箪笥にかけた途端くしゃみが出る。あれっ、まだ花粉症が治らないのか?独り言を言う。おかしいな、さっきはあんなに具合がよかったのに。どうしたのだろう?やっぱり駄目か。根本的に治っていないからなあ。でも、待てよ。鞄を開けて洋服を取り出してからおかしくなった。ああ、そうだ。洋服に花粉がまだ付いているのだ。ずっと着ていた洋服は戸外のアメリカの風に吹かれて花粉も飛んでいったのだろうが、日本から鞄に入れて持ってきたのはまだ花粉が付いたままになっている、おそらくそれが理由だろう。
その後も二月、三月、あるいは四月にアメリカへ行き来したことがあったが、必ず同じ現象に遭遇する。機内ではまだ花粉を衣服につけたりして運んでいる人がいるから、花粉症の症状が続く。機外に出て初めてほっとする。ホテルで鞄を開けるときは注意である。アメリカばかりでなく、中国に出かけたときもそうであった。この時期に海外出張があればよいと願っていた。
アメリカに二年余赴任したことがあった。アメリカ生活は花粉症とは縁がない二年であった。花粉症の時期に日本に戻ったときには成田から家への帰り道で、空港バスを降りたところでもう必ず発症する。中国にも三月、あるいは四月の一ヶ月近く滞在したことがあったが、花粉症とは無縁の世界であった。

アメリカにも植物アレルギーの人がいる。ある特定の植物でなんとかという名前を聞いたが忘れた。そのアレルギーをもつアメリカ人とアメリカの会社で一緒になった。自分が赴任になったアメリカの会社は東海岸と西海岸にひとつずつ工場があった。そのアメリカ人は当初は東海岸の工場にいたが、あるときから西海岸に移っていた。東海岸の工場ではアレルギーになる植物があって毎年毎年大変であったようだ。それが西海岸に来てすっかり治ったと言う。もう東海岸には行きたくないと言って、東西工場が一年に二度大きな会議を行なうときも、東海岸への出張を極力避けていた。
日本でも、杉や檜の花粉症のほかに、ブタ草の花粉症をもつ人がいる。秋に症状が出る。あまり多くはないのか、日本では今の杉花粉症ほど大げさには騒がない。
沖縄は杉がないから花粉症がない、北海道は杉が少ないから花粉症の人が住むには楽である、と言われているようだが、自分には体験がなく、コメントできない。今年は三月に沖縄に滞在しようかと計画しかけたが、今年の三月は、中国に行く機会があり、また日本でも仕事をしていたので、中国では花粉症のない生活をし、日本ではマスクと目薬の生活をしていたことになる。

アレルギーの話をすると、自分には「マンゴ・アレルギー」がある。日本で一度マンゴをもらって旨かったので行儀がよくないが種の部分まで口にくわえてしゃぶった。それまではシンガポールとインドネシアに出張で行ったとき食べたことがあるくらいで、あまり食べたことがなかった。シンガポールとインドネシアで食べたときは何の異常も感じなかった。しかし、この行儀のよくない食べ方をしたときは、翌日、顔に赤い斑点が出てきたと気が付いてきているうちに、みるみる顔全体に拡がるくらいに腫れてきた。一体何事が起こったろうとびっくりした。マンゴのせいと気が付くまでには数時間もかかったかと思う。痒いということも痛いということもなく、顔全体が腫れぼったい感じで、実際ひどく腫れて、鏡を見るといつもの顔とは似つかない顔になっていた。家族も顔が変わってしまって驚きであった。腫れが引くまでは三、四日要したであろうか。ともかく原形に戻れたわけである。その後、数年経ってから、そんな腫れのことなどすっかり忘れてしまっていたが、アメリカに駐在員で生活していた。単身で赴任していたのだが、正月に家族をアメリカに呼んでアメリカで正月を暮らすことがあった。そのときスーパーマーケットでマンゴを買ってきて皆で食べたのだ。翌日、自分だけが、顔をすっかり腫らしてしまった。ああっと、何年か前のことを思い出して、馬鹿をしてしまったと後悔した。もはや遅し。痛くもひどく痒いとも感じなかったが、腫れのために顔が火照っているのと引きつった感じがして、気持が悪かった。その回復にもやはり数日かかった。もうマンゴはやめよう。しかし、馬鹿をもう一回やってしまった。もっとも三回目のその時は症状が軽く、自分にだけ気が付く程度であった。それは、アメリカから数年後、フィリピンの工場に行く機会があった。フィリピンの工場では食事の賄婦がいておさんどんをしてくれた。フィリピンゆえだろう、毎食にマンゴが二切れほど出た。さすがにこのときはアメリカの失敗を記憶していて、食べるのをやめようかと思ったが、食べないんですかとかなにか言われるのがいやで、ちょっと試してみるかという気になってしまった。おそるおそる食べたわけである。二、三日は異常が出なかった。これはいけるかな、と自信をもち出すといけない。三日後あたりから顔に腫れぼったさを感じるようになった。即日中止とした。案の定、マンゴは嫌いかという質問が出てきて、その説明をしなければならなくなった。腫れがひどくならないうちに撤退したので、大事にはならなかった。
マンゴはうるし科の植物である。そういえば、子供の頃、山で半ズボンの脚がうるしに触れたのだろう。翌日、赤く腫れてひどく痒い思いをした。うるしかぶれ、といって何人かの友達が同じかぶれを呈していた。国内外の植物園に何回か行ったことがあり、うるしやマンゴをまじかに見ていたのだが、かぶれを発症したことはない。そんなことがうるしには免疫になったのかという錯覚を起こさせたのかもしれない。

花粉症と他の植物アレルギーの関係は分からない。一般にアレルギーの人は複数の原因に反応するとも言われているようだから、体質的になにかに負けるようになっているのだろう。

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花粉症と三十年(その4)

2008-04-24 14:17:04 | 花粉症
花粉症は、目、鼻の粘膜を刺激する。鼻から嵩じて喉の奥、咽頭というところまでいくこともある。自分の場合は、目が一番辛いところで、鼻はくしゃみと鼻汁を出していればまあ何とか我慢できる。
目の痒さは、朝は目やにを抱え余計鬱陶しい。洗面と同時に洗眼をしなければ収まらない。洗眼の後、目薬を注す。

鼻の方の症状はもう少しダイナミックである。朝はくしゃみともに起きる。くしゃみが三回では終わらない。それもクシュンというかわいらしいものではなく、大仰にしなくともなってしまうくらい大きなくしゃみである。体を構えてやらないといけない。下手をすると腰を痛める。くしゃみでぎっくり腰になる人がいると言われるが、まさにそうなる思いがする。それでもくしゃみを何回かすると止まる。鼻の中の異物がくしゃみで吐き出されるためか、温度差がなくなるためか、やれやれという思いとともにくしゃみが終了する。鼻をかむと鼻血が混ざる。鼻血の他に黄色っぽいやにのようなどろりとした液体が出てくる。この中に花粉症を戦ったリンパ液でもあるのかなあと素人は考える。鼻水の処理はティッシューで二回くらいシュンシュンとやる。時には鼻水の中に血が混じったり、黄色のやにのような物質が混じるときもある。これらを取り除くと少しよくなるかというと決してそうではなくこれからが始まりと言う覚悟をしなければならない。マスクは家の中でも食事以外にはたいていしたままである。食事の前からマスクをして食事になってもとるのを忘れたりして、牛乳をマスクの上から飲む仕種をしてしまい、セーターの胸の部分をびしょびしょにしたこともある。妻に馬鹿ね、と言われるのがオチである。その馬鹿を二度もしている。

マスクのことを言うと、マスクは通常は鼻と口とを隠す。食堂などでは時に鼻を出して口だけを隠しているちょっとだらしないのもいる。鼻も口も長時間隠していると鬱陶しくなる。自分の場合、鼻だけは防御しなければならないので隠して、マスクを半分にした形で口を出すスタイルにすることがある。このときはマスクをしたままの飲食ができるといえば、無理にできる。しかし、あまりままにはならない。それに味覚の分別が半減するような出来にくい状態になる。口に入れば確かに味が分かってくるが、口に入れるまでの過程での味、おそらく鼻でにおいをかいで味わっているのだろうと思うが、それがなくなり飲食の楽しみが味わいにくいと感じる。

目には水泳のゴーグルがあるが、自分のように常時眼鏡を着用する者には、そのゴーグルは使えず、マスクのような外界と隔絶するのに効果的な器具がない。眼鏡着用者用の保護眼鏡で、大きなゴーグルがあるがあまり効果的でない。縁から空気が入ってくる。顔の輪郭にフィットしないせいだろう。フレキシブルな素材を使ったゴーグルにすればもう少し顔に密着して空気のシャットアウト効果が出るかもしれない。しかしそうなると目が外界を見えるようにする透明板を固定するのが難しくなる。目の片方ずつを保護する形式にするのがよいか、いずれにせよもう少し工夫が要る。オートバイに乗るときに使うヘルメットにゴーグルがついている。これは効果的に思えている。ただ、ヘルメット付きなので、大げさすぎる。ゴーグルだけ切り離されたのはないかと探したが、見つからなかった。花粉症用の保護眼鏡で眼鏡着用者用のスマートなものを開発すれば一儲けできるだろう。

症状がひどいときは、鼻は蒸しタオルを鼻に被せておくと楽である。鼻の中に少し湿気をもたらすよく、紙縒り(こより)に水を含ませて鼻の穴に差し込んでおくと外界との隔絶にもなり、有効な手立てである。そんな格好をしているとアフリカやあるいはどこかの南の島の土人のような鼻輪をしているように見えて、人前には出られない。家の中でも家族に奇妙なことをしていると笑われる。これにマスクをかけておくばよい。ただし、人前でそのままマスクをはずすことをしないように注意する。こんなことがあった。ある年の3月に海外出張がありそのスタイルで空港に行った。空港は混雑しているのでマスクをはずすことは先ず思い当たらない。出国審査もそのままマスクをかけたままにしてしまった。その時はたまたま女性審査官に当った。マスクをとってくれませんか。はっと思った。そう、マスクははずさなければいけない、帽子はとらなければいけないのだ。なにも気をつけないままマスクをはずしてしまった。紙縒りの鼻輪がついたままであったのを忘れていた。女性審査官が噴出すのをこらえている顔が目に入った。あっと思って、あわてて紙縒りをはずして、にやりと苦笑せざるを得なかった。

眼の症状がひどいときは、風邪などでの高熱のときに額を氷で冷やすように、目頭を氷で冷やすのが効果的である。目の症状でひどいときは目を開けているのが辛く、しようがなく病人よろしく寝込んでしまう。そして氷枕ならず、氷目頭にしておく。どうにも辛くて会社を休んでしまったことがある。花粉症がひどく休みます、と言ってもなかなか理解されない向きがあったが、最近は一般化した「病気」になって、程度の問題の理解はともかく、今は花粉症という名目で休暇をとる際でも話は通じるようになっている。

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花粉症と三十年(その3)

2008-04-23 15:20:03 | 花粉症
漢方がよいという話を聞いて、漢方薬もトライした。小青竜湯という名の鼻花粉症用の漢方薬である。効果があるという人がいるので、早速飛びついて、粉末をお湯に溶かしてせっせと飲んだ。昭和57、58年くらいだったろうか。半年も続けて、さあ今度の春はどうかと思いきや、効果無しであった。なぜか体がだるいような思いが残った気がしている。他の漢方でもう一つ試したのがあった。名前は忘れた。少し強いと言うふれこみのであった。その通り、強い感じがした記憶があり、自分の体には合わないようで、なんとなく体全体が調子が悪い。花粉症への効果を見る前に体調芳しくならずとの思いで直に止めた。漢方の話になると、平成になってからであろうか、甜茶がよいとか、ナントカ茶がよいとか、巷の噂を聞き、実践してみたが自分には全部効果なしであった。

漢方薬以外に、体質改善ということでいくつかの対症療法をしてきた。
いわゆる食品選択と健康サプリメントの服用である。
ビタミンCは20才台の前半から、ビタミンCの大量療法が癌に罹りにくいというアメリカの医者の話を本で読んで、早速粉末を購入して一日一匙を服用していた。ビタミンCは花粉症になる前から飲んでおり、これを服用していても花粉症に罹ったのだから、ビタミンCで回復するとか、治るということはない。癌にはまだなっていないからその効用はまだ捨てていない。
食べ物では、ヨーグルトやにんにく、しょうが類が花粉症によいとされ、辛いものがよくないと言われている。ヨーグルトは適当に断続的に採っている。しかし、これでよくなったという実感はない。にんにくもよく採る。にんにくスープは自分でも作る。味噌汁に一粒入れるときもある。摂取量が足りないといわれれば確かにそうだが、体質が改善されているとは思わない。辛いものは、唐辛子でよく採る。しかし、花粉症がひどくなったとは思わない。いずれも胃に負担がかかるのに、なぜこれらを採るようにしたか?花粉症のためもあるが、それだけではないではない。体を温めると動きがよくなると思ったのである。確かに摂取して悪くない。最近中国に行く機会が多いが、中国人は若い女性も、特に麺類を食べるときにはにんにくを生でかじる。小さいときからの習慣なのであろう。中国人に長寿は多い。食べ物で体質が作られているのであろうが、花粉症に限って良し悪しをみると、自分の場合、あまり関係してこなかったという結論である。
のど飴、チューイングガムはそれなりに効果的であると思う。気をそらす意味も含め、それなりに、という表現になる。習慣になる傾向がある。常用しなければそれでも済む。自分は一時期ガムを四六時中噛んでいたことがあった。今はしていない。しなくとも済むからである。嗜好品としてのものに過ぎないと言う見解である。

数年前、真菰(まこも)がよいということを聞いた。まこもは、古くから伝わる稲科の野菜である。因幡の白兎が大国主命に助けられて寝かせてもらったのがまこもの上で、白兎はそれで回復したという伝説のものである。これを粉末にしたものが健康サプリメントで市販されている。体質改善用といわれる。半年くらいかけて服用した。効用があったという人がいるが、自分には効き目がなかった。
食品にしろ、サプリメントにしろ、効用が現れるには時間がかかるの、一年がかり様子をみることになる。一年経ってああやっぱり駄目だった、で終わってきた。一年では駄目ですよ、服用量も半端じゃ駄目ですよ、と言う人もいる。そうかもしれない。サプリメントは比較的高価であるから、半端ではない量すなわち金をかけることはしにくい。そうはいえ、今はまた、別なサプリメントをこの一月から使っている。効果のほどはまだ出ない。来年のお楽しみになる。花粉症防御にかける費用は、一シーズン、一万から一万五千円くらいならやると言う人が多いという統計を最近どこかの新聞で読んだ。

薬の他に、花粉症の治療法のひとつにペインクリニックがある。腰痛にでも顔面神経痛にでも行われている療法である。痛みの原因を取り除くと言う考えではなく、神経を刺激し、痛み自身を取り除くという療法であるという。五反田の関東逓信病院(今のNTT東日本関東病院)の先生が行なっていた。今でも有効な治療法であると言う人はいる。自分はこれをトライしていない。一度やってみようかと思ったことはあったが、一種の手術だから後遺症みたいなことが起こりそうでびびっている。痛そうなのも敬遠の理由である。

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花粉症と三十年(その2)

2008-04-22 17:23:22 | 花粉症
花粉症は、目と鼻がやられる。自分の場合、鼻の方は、くしゃみと鼻水の垂れ流しが症状で現れる。目薬のインタールがあるように鼻用のインタールもあると聞いた。昭和55、56年の頃で、まだ花粉症という症状が一般に知られていない頃だったと思う。子供が扁桃腺を腫らせて耳鼻咽喉科に罹ったことがあった。自分はすでに花粉症なるものを知っていた。子供の診察といっしょに、今日は私もお願いします、と言って自分の鼻の症状を医者に話した。
「へえーっ、そんな病気があるんですか?」
「インタール?その薬も知りません」
やっぱり分からなかった。町医者というのは案外新しいことを知らないのだろうか、あるいは、鼻用のインタールがまだ出ていなかったのか。
このときはこれで終わった。

目薬のことと眼科医のことの記憶をたどってみる。目薬で、インタールを花粉期間中常時使用するとどうも副作用的なぼんやりする症状が出るので、適当に用いることにして、基本は我慢に頼るという日々が続いた。
自宅が引越しをしてから比較的近くに大きな病院があり、そこの眼科に行き診察を受けた。女医であった。もはや花粉症の名が出回っている頃である。インタールはちょっと副作用のようなものを感じると医者に伝えると、その医者はフルメトロンという薬を処方してくれた。これは効いた。フルメトロンのほうがなんとなく楽な感じがした。10mlくらいの量を2ヶ月くらいで使い切る。病院には薬を取りに行くだけだから一年に一、二回行けばよい計算になるが、我慢して大体一回で間に合わせていた。はっきりした記憶がないが、数年は、この病院に通ったと思う。この病院での結末はよく記憶している。

大きな病院と言うのは、「一時間以上待って、三分の診療」、は本当である。自分はあまり医者にかかったことがないので、医者と話が出来ただけでもラッキーであるということが本当であるという思いをするときがある。待合の間に、何のためかよく知らないが、目薬を点眼する。その後、自分の順番が来ると診察に入るのでなく、まず視力検査をする、眼底を覗く、ということを助手なのかよく分からないおばさんがやる。眼鏡屋が待機していて、眼鏡の処方になると、はい当方で行いますというシステムになっている。自分の場合は花粉症であるので、薬をもらいたいだけなのだといっても、それを決めるのは先生です、とおばさんに言われ、視力検査のコースに入る。診察は簡単、フルメトロンで調子がいいですか、それではフルメトロンを続けましょう。大きな病院は何人かの医者が交代で曜日を決めて担当している。担当医の名前が出ているのでそれを見て同じ先生に見てもらうという人は多いようである。自分の場合は、自分から選択するわけではないが、病院にいける曜日が土曜日と決まっているから、必然同じ医者に当たる。一年に一度か二度しか行かないにしても三、四年はそのローテーションが続くようで、毎回同じ医者に当たっていた。その年はたまたま医者の都合でローテーションが臨時体制になっていた。それでもカルテがあるからいつもと異なる医者でも以前の状況が読み取れる。そのときも例によって視力検査から始まる。花粉症でカルテもあるはずだから視力検査は不要だ、と駄々をこねた。いつものおばさんは、今度は、先生と相談します、などと言ったが相談もせずにいつものおばさんのコースに乗せられてしまう。いつもと違う医者は、フルメトロンよりもよい薬がありますよ、と言ってなにか処方してくれた。後で見るとインタールに似た成分でインタールの発展系らしい。この年からベッド数がいくつか以上の病院にかかると初診に何百円かを徴収されるシステムが導入されている。勿論自分はそんな病院会計システムなど知る由もないので、会計に呼ばれて請求書をみていつもの年よりも異常に金額が多いのに気が付き、会計にその旨を伝えた。会計の係りの女の子と押し問答しても埒が明かず、事務の責任者のお出ましを願った。男の説明を聞くと相応の金額にはなる。検査料も結構な金額になっている。
「これは何だ?」
「検査の費用です」
「検査なんかしてもらっていない」
「何の検査か眼科に聞いてみましょう」
男は一度事務室に入り、戻ってきた。
「視力検査と眼底検査が入っています」
「俺はそんな検査を頼んではいない」
「先生が必要としたからしたんでしょう。こちらでは分かりかねます。先生と話してくれませんか」
「やってしまってから、いくらですなどと言わないで、やる前に検査はいくらかかります、実施しますか、という聞き方があってしかるべきだろう」
「ですから、そういう話は先生としてください。会計はただ眼科から回ってきた点数で計算するだけですから」
「会計だから、始めにかかる金額を明示すべきだろう」
「当方はそういうシステムになっていません」
「今さらまた眼科に戻って話したって埒は明かないんだろう?しようがないよ。払うよ。ただもうこんな病院には来ない」
啖呵をきった以上、本病院とおさらばにした。インタールの改良品を手に、来年はまた別の目医者にするか、薬局の売薬に頼るか、そんな思いを馳せた。

この病院では眼科のほかに耳鼻科の診察も受けて、鼻用のインタールを処方してもらったことがある。鼻には吸入用の小さな器具がある。器具を用いて液体薬を鼻の穴に吸入する。これは効果が少なかったので、一、二年続けたろうか、自然にやめてしまった。おそらく自分の症状は鼻を詰まらせるのでなく、鼻水の垂れ流しの症状であるので、薬を入れても鼻の中にうまく固着されず、直ぐに流されてしまうからではなかったかと思っている。
医者には、これ以来、目医者にも、鼻医者(という言葉はなさそうで、耳鼻科になるか)にも、かれこれ二十年も経つが、行っていない。

目薬の売薬は三種類くらい試した。平成十二年の頃から、目には藤沢薬品のAG EYESを使っている。目薬のわりには値段が高かったが、当時奮発して買ってみてよかったので続けている。この目薬はインタールの派生系のようだが、以前のどろりとした感じはまるっきりない。副作用も感じていない。藤沢薬品は外資と合弁を組んだが、その後、一般医薬部門が山之内製薬と事業統合しゼファーマとなった。ゼファーマがその後さらに、第一三共に売却されて第一三共ヘルスケアになっている。ドラッグストアでは店員が製薬会社まで十分な知識を持っていない。藤沢薬品ではいつまでも通じないようで、今年新たに購入した際は、薬屋に空になった目薬ケースをもっていって、これと同じものと言って買ってきたくらいだ。幸い、製造会社名は変わっても処方、製法は変わっていないようである。効能も変わらない。この目薬で花粉症が治るわけではないが、楽にはなる。
鼻用には現在は薬を用いていない。

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花粉症と三十年(その1)

2008-04-19 14:27:37 | 花粉症
目が痒いような、痛いような、北海道の言葉では、イズイと言うんだけれど、なにかが目の中に入っているような調子のよくない思いが何日も続いた。目を水で洗ってみるとかゆみは少しやわらぐ。目医者に行ったほうがよいだろうか。家の前の通りに眼科の看板が架かっているのを見ていた。今日は思い切って目医者に行ってみるかという気になって、休みの土曜日の午前中を利用して医者の診察を受けに出かけた。住んでいるマンションの通りをはさんで一本向こうの細い住宅地の路地にその目医者があった。名前は忘れた。順天堂大学の出身の医者であった。何故順天堂大学とわかったかって?診察に行ったときに診察室に学位受領記が掲げてあったからだ。代々目医者で跡継ぎという感じであった。というのは旧い家で医院であったから。
昭和51年の春だったと記憶している。

お婆さんが一人、患者で診察を受けていて、他には誰もいなかった。背の高い若い医者と細身の看護婦がいたことを覚えている。
「内的なものですね」眼科医が言う。
「えっ?内的なものと言うのは何ですか?」私が聞く。
「体の内部から来るものですね」
「ばい菌ではないということですか?」
「そうです」
「腫れているのでしょうか?」
「いいえそんなことはありません」
「酒を飲んでも大丈夫でしょうか?」
「あまり飲まない方がよいでしょう」

診察を受けたが、結局はなんだか分からない。まあ少なくともばい菌でないから体調を整えればよくなるのだろうと思った。何の薬かは知らないが、点眼剤をくれた。原因不明にもかかわらず何故薬を出せるのか、出す薬はどうせ気休めではないのか。目医者と論争するつもりはさらさらないので、素直に受け取った。帰り道、ぼんやりした目を抱えながら思った。しばらく我慢して様子をみることにしよう、他に出来ることもなさそうだ、酒を飲むのも控えよう。目薬は、点眼して悪くなることもありうるとあらぬ心配まで働いて、これ以上痒い思いになるのはもういやだ、という思いが強く働いて、気休めでも注す気にはなれなかった。
家に帰ると妻が聞く。
「何が元でしたか?」
医者での会話を伝えた。
「行かなかったのと同じってわけでもないわね。ばい菌ではないことが分かっただけも良かったではありませんか」
「まあそうだな。こんな目に合うのは、俺は結婚してからだから、お前に何か移されたかと思ってもみたよ」
「まあ、でも私はなんでもありませんよ。あなたこそなんかやましいことでもあるんじゃありませんか」
「何があるだろうかなあ。ばい菌ではないから、体調変化を起こすものだよなあ。なにかなあ」
険悪な状況にはならなかったようであった。
その後も目の痒いのは直らない。耐え切れないようになると洗眼で切り抜けた。そのうちにからりとその痒みが消えてしまった。一過性のものか。体調不良だったか。

翌年も同様の症状が出てきた。そういえば去年もあったなあ、あれと同じかなあ、あれは去年のいつだったかなあ。忘れていたことを思い出そうとしたが、思い出せない。
「また医者に行ってみよう」
妻を相手に言う。
「行っても無駄でしょう。原因が分からないのだから」
投げやりの答えが返ってくる。
「目薬でも注せば少しは楽にならないかと思って、害にならない薬をもらってこよう」
目医者に行こうとする自分をなぜか弁護する。
「行って少しでもよくなりそうでしたら、行ったほうがいいわ」
今度は家からかなり遠い医者を電話帳で探して出かけた。この医者は繁盛していた。まだ小学生になっていないような子供から腰の曲がったお婆さんまで、何人かが順番待ちをしていた。待合室も明るい。
診察の結果は昨年と同じであった。医者は内的なものが原因であると言わないが、特に異常はないと言う。そのような意味では去年の医者の方がまともであったと解している。

三年も続けて起こると目の痒みが毎年春に起こることが分かってきた。この年であったろうか、この前年であったろうか、よく覚えていない。何かの雑誌に自分と同じ症状の例があった。東京医科歯科大学の斉藤先生という方の記事で、そこで花粉症という名をつけて、杉の花粉で発症するアレルギーであると解説していた。斉藤先生の名前とインタールという目薬も開発されていることを知ったわけである。これだ、これだ、俺の病気は。アレルギーか。アレルギーと言えば、蕁麻疹くらいしか知らなかったので、自分がアレルギー性であるなどとつゆほども思わなかった。妻を疑うなどというのはもってのほかであった。同病者がいるのを知って、なぜか安心したような気になった。早速薬局に行って、インタールなるものを所望したが、処方薬は薬局にはなく、薬局のおばさんから、医者の診断を仰いで医者に処方してもらわなければならないと言われた。しようがなくまた目医者に行くことにした。これまでに行った目医者とはまた別の医者と探した。大きな病院の眼科にした。
「花粉症? インタール? さあ、最近の特殊な薬ですね。試験段階かもしれませんね」
「雑誌に載っていたんですが」
「そうですか。こちらではちょっと手に入りませんね」
そんな会話だけを記憶している。確かに特殊な「病気」なのだろう。

その翌年であったろうか、また別の目医者を探して診察を受けた。
「インタールがいいですか、じゃ、出してあげましょう」
いとも簡単に話が通じてやっと希望の薬が入手出来た。眼科医の間では知れ渡ってきた「病気」になったのだろう。
望みのインタールを早速点眼した。どうも調子がよくない。痒みは何とか取れてきた感じはするが、目になにかどろりとした粘度の濃い液体を入れたかのような感じがして目全体がぼんやりしてきた。どうしたんだろう。直ってきたのだろうか?まあ、少し様子を見てみよう。目をつぶって休むことにする。副作用なのかなあ、という思いはこのときはなかった。翌日も同様にインタールを注す。翌日も同様に目がぼんやりした感じになる。目を洗ってみるとそのぼんやりは少し和らぐ。副作用だろうか、と思い始める。

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