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クールな生活

日々の雑感と意見

小説フリージア ―乳がん治療日誌― [第2部](5)[完]

2015-12-20 09:09:45 | 小説乳がん治療日誌
(5)薬物療法
前回の診察から1週間後、華絵は、悠治に付き添ってもらって病院に行った。メンタルヘルス科が先だった。初診の医師から変わって、少し若い医師が担当してくれた。初診の医師との連携というのか申し送りが上手くいっていないようで、初診と同様の説明をしなければならなかった。華絵があまり口を利かないので、悠治が替わって説明をした。前回は睡眠剤と抗鬱剤をもらって、医師から言われたことは1週間後に様子を聞かせてほしいということだった、と悠治が言うと、
「大病をすれば誰でも鬱になりますよ。1週間くらい服用してその薬が適当かどうかは、決められませんよ」
と今度の医師が言う。
「それじゃ、同じ薬でもう少し様子を見るということになるんでしょうか」
「ええ、そうしましょう」
あまり診察にならない診察だったが、精神科というのはこんなものかと思えば、悠治は気が楽になった。薬を処方してもらって、2週間後に今度は同じ医師の予約を入れた。
午後は、乳腺科のKY医師の診察で、華絵はまた悠治について行ってもらった。
「先生のおっしゃる、抗がん剤とホルモン剤の併用にすることにいたしますわ」
華絵は、やっとのことで言った。
KY医師は、華絵と悠治に抗がん剤の副作用について説明するように、薬剤師を診察室の隣の小部屋に呼びよせた。抗がん剤はTS-1といい、乳がんばかりに使われるわけでなく、というよりも臓器がんによく使われる薬である。TS-1服用の手引には、TS-1の副作用には、白血球減少、貧血(ヘモグロビン減少)、血小板減少、食欲不振 、 吐きけ 、下痢 、口内炎 、色素沈着、発疹 、間質性肺炎 が挙げられている。しびれという項目は出ていなかった。

華絵は、翌日から抗がん剤TS-1とホルモン剤ノルバデックスの服用を開始した。TS--1は、2週間服用して1週間休むという3週間周期とする。まず、最初3週間の様子を見てから、続けるかどうかを決めるという処置にしてもらった。TS-1は朝晩の1日2回、ノルバデックスは朝食後の1日1回である。薬は2種類の他に以前から飲んでいたしびれ対策用の漢方薬牛車腎丸の顆粒を毎食後1日3度服用する。華絵の薬物療法生活が始まった。

抗がん剤の服用は特に抵抗なく受け入れられたが、華絵は鬱から抜け出せなかった。鬱が始まったのは、がんが悪化して手術が必要と診断されたときで、そのときに肺に転移の徴候があるということがショックであった。手術後もまだその観念が払拭されていなかった。手術後のCT検査で、肺やその他腹部の臓器への転移はなかったが、リンパ腺への転移があったことから、今後の転移が心配だから薬物療法を続けると言われたとき、今度はリンパ腺から血液で全身に回っていることに対する心配のために、参ってしまった。メンタルヘルスの医師に処方してもらった抗鬱剤は、三、四度飲んだが効き目がなく、その後は飲まなかった。むしろ乳腺科のKY医師からもらった精神安定剤デパスのほうが気を落ち着けさせるので、以前の残りを時々飲んでいた。

メンタルヘルス科の予約は前回から2週間後で、その日が来たので、華絵はまた悠治に付き添いを頼んで病院に出かけた。メンタルヘルス科の医師は前回診察してくれた医師と同じ人で、饒舌だった。症状により薬をどのように選択するかが精神科の医師の仕事であるようなことを話していた。華絵が、薬を飲みたくないというと、その医師は怒りだして、ここでは薬でしか治療ができないという言い方をした。悠治はやむを得ず、もう少し今の薬を続けさせます、おかしなことを言うなら、入院も考えます、と応じた。悠治には、華絵に家で鬱々とされるのにはもううんざりしていた。メンタルが治るには時間をかけて何とか待つしかないと思っていたが、環境の変化があればよいとも感じていた。華絵には、田舎の実家に行ったらどうかと勧めたことがあるが、華絵は、年老いた母親の面倒を見なければならず、家にいるより忙しく、静養にならないから、田舎に行くのはいやだと拒否していた。華絵の手足のしびれのために、悠治が買い物や炊事をするのが、すっかり日常になっていたので、華絵は元のように動けないと感じていたのだった。入院は、隔離になりますよ、と医師は言う。華絵は何も言わないので、悠治が、一応次回の予約を入れて、退出する。薬局で薬を受けとり、支払いを済ませた。抗がん剤と違って安く、華絵は健康保険の3割負担であるが、3週間分でも2千円に満たなかった。薬はもらったが、華絵は、悠治の勧めで抗鬱剤を3日ほど飲んだあと、あまり効き目がないと止めてしまった。薬なしでなんとかしてみようと思うと、もやもやが少し晴れるような気がしてきた。睡眠剤も飲まずにいても眠れる日が増えた。メンタルヘルス科には、次回は行かなくともいいかなあと思い始めた。

華絵は、抗がん剤TS-1の服用を2週間行ったが、特に副作用を感じなかった。消化器系の障害はなく、食欲も減じることはなかった。手足のしびれは依然として残っているが、TS-1のためにひどくなることはなかった、しびれの薬の効果はほんの少しずつではあるが、効果があるようであった。前回の診察から3週間後、華絵は、乳腺科のKY医師の診察を受けに病院に出かけた。悠治にまたついて行ってもらった。抗鬱剤には頼らないが、まだ、不安から抜け出せない。血液検査の後、その結果が出てから看護師に呼ばれて、診察に入った。華絵と悠治が診察室の入るとすぐに、KY医師は、パソコンの画面を見せて、笑顔で、腫瘍マーカーCEAが大きく下がったことを伝えてくれた。5以下が正常値といわれるがその範囲に入って4.7の値を示していた。前回は7、その前が12という数値であったから、劇的な下がり様である。悠治も思わず感心した。華絵は、どれくらい意味があるものなのかぴんと来ず、よくなったのかと思いはしたが、悠治ほどの感動がなかった。手足のしびれがずっと残っているので、それが取りきれないので病人という思いが続いているのだった。KY医師は、自分が勧めた抗がん剤とホルモン剤の併用の効果があったと思ったのだろう、終始にこにこ顔で対応してくれた。今回は副作用をあまり感じないと、華絵が言うと、KY医師は安心して、抗がん剤TS-1とホルモン剤ノルバデックスを続けることにしましょうと言い、今度は6週間分を処方してくれた。

5月になって、華絵はあのひどい鬱状態から脱したように感じた。どうしてよい方向になったのか自分でもよく分からないが、もう精神安定剤デパスにも頼らなくてすむようになった。明るくなったわね、あなたは笑顔がよいのよ、電話で話す友人から、そんな声を聞いた。5月の2週目にメンタルヘルス科の予約を入れていたが、悠治から行かなくとも大丈夫だろうと言われると、大丈夫よ、と答えられるようになっていた。
6月の初めになって、華絵は、KY医師の指示に従って、1年ぶりに骨のCTを撮ってもらいに病院に行った。9時半に造影剤の注射をうった後、一度家に帰って洗濯と食事して、午後から再び病院に行って撮影をしてもらった。この日悠治は知り合いの葬儀のため朝から家を出たため、華絵は一人で行かざるを得なかった。薬の副作用を特に感じない状態が続いている。けれどもがんが治っているかという認識もない。華絵にすれば、がんが治るという認識は、どんなものかは知らないが、しびれが残っているから、いつまでも病人でいる気持ちなのであった。
それから1週間後、前回の診察から6週間目、華絵はこの日も悠治に付き添ってもらって病院に行き、KY医師から骨のCT撮影の結果を聞いた。KY]医師は、二人にX線の写真を見せて、1年前の状況と同じであると言う。良くはなっていないが、悪くもなっていない、骨のがんが致命的なることはない、臓器転移がないから、今は心配することはない、というのがKY医師の診断であった。

華絵が乳がんを宣告されてからまる2年経った。手術で乳がん部分は切除された。リンパ腺のがん部も切除されたが、リンパ腺転移があったために骨にがんが転移されている。他の臓器には転移がない。今は再発と転移に気を付けるという状態である。一番初めの抗がん剤の副作用による脱毛は完全に戻ったが、第二段階の抗がん剤による、しびれと足の爪の黒ずみはまだ治らないままになっている。転移を抑えるために、術後に抗がん剤TS-1とホルモン剤ノルバデックスを服用している。TS-1は、通常4週間28日連続服用し、次の2週間14日は服用を休むというのを1クールとしているようであるが、華絵の場合、2週間14日連続服用し、1週間7日休むという形を1クールにしている。それが、3クール9週間が終了したところだった。華絵は、がんとの闘いというより、抗がん剤の副作用との闘いを感じている。幸い、抗がん剤TS-1の副作用は出ていないので、あまり抵抗なく服用している。TS-1の副作用がひどいという人もいるようだが、華絵は同時に飲んでいる体力増強の核酸飲料のサプルメントが副作用の抑止になっていると思っていて、このサプルメントが止められなくなっている。

華絵の退院後3カ月経過した。メンタルの方はなんとか回復したようだが、日常生活がまだ元通りになっていない。手術で突っ張った右腕がまだ回復していない。リハビリをあまり一生懸命はやっていないせいもある。抗がん剤の副作用による手足のしびれは2年越しになる。足のしびれのため、遠出ができない。歩きのリハビリもやろうとしてもなかなかそんな気になれない。道路をまっすぐに歩けないで、自転車にぶつかりそうになったこともあった。買い物は近くでも自転車で行く。自転車乗りは全然問題ないから助かっている。手のしびれでは、包丁を上手く使えないことがある。二、三度指先を切ってが、痛みをほとんど感じないくらいであった。
 毎日、薬手帳に薬の服用具合の他に、体温と体重を記入している。体温も体重も、特に目立って上下することはない。食欲も問題ない。そんな意味では体調は悪くないということになる。元々早起きは苦手だったが、一層苦手になった。怠惰のせいと悠治に言われるが、一向に改まらない。睡眠は、床に入るのが夜11時すぎで、起きるのが朝8時半だから9時間は十分にとっている。睡眠薬を使うこともなくなった。病院に行く日が、少なくなったので、朝7時過ぎに起きるということはほとんどなくなった。悠治はもう起きて食事も済ませているところに、のこのこ起きていくのが心苦しくもなくなってしまっている。そんな気持ちを持つのであるが、体がどうしても正常な動きをしてくれない。なんとかしなければいけないと思うが、まだ鬱状態を引きずっているかのような力が入らない日が続く。

前回の診察から6週間後、華絵は悠治の付き添いなしで病院に行けるようになった。KY医師も笑顔で、今日はご主人が来ませんね、と言ってくれた。診察の前に行った血液検査の結果が1時間後の診察の時には出ていて、腫瘍マーカーが前回の下がった値のままキープして、正常値を示しているというグラフを見せてもらう。華絵からは特に質問することもなく、次の6週間後の診察には、血液検査がないことと、抗がん剤TS-1とホルモン剤ノルバデックスの服用の継続を言われ、6週間分の薬3種の処方箋をもらって、診察が終了する。

夏が過ぎる頃になった。昨年の秋は球根植えをさぼってしまったから、今年は華絵は好きなフリージアの花を見ず仕舞いであった。君子欄の橙色の花がひと月くらい咲いてくれたのが慰みであった。6週間毎の診察と薬の受取りの5回目は、10月に入ってからになった。華絵は、病院の乳腺科の待合室で診察の順番を待つ間、隣に座った女性と話しをしたときに、その女性からしびれにビタミン12がよいわよと聞かされ、早速診察時にKY医師にビタミン12の薬剤を下さいと頼むと、KY医師はすぐに対応してくれた。メチコバールという錠剤である。しびれには、牛車腎丸の顆粒とビタミン12で対応することになった。この月は血液検査を行って、腫瘍マーカーの値を教えてもらったが、異常なく、正常値を保っていて、華絵はほっとした。
「薬はいつまで飲むのですか」
華絵が尋ねると、KY医師は、
「1年は続けなければならないですね」
「そんなにですか」
「3年、4年、続ける人もいます」
華絵はしようがないという思いを持ったまま、診察室を出た。

しびれは、漢方薬牛車腎丸の顆粒の服用で、悪い方向に行かないにしてもなかなか治る気配がなかった。もう一つの悩みの親指の爪の黒ずみは、灰色になっては来たが、つめが剥がれそうになってきて不安になっている。11月中旬の6週間毎の診察のとき、華絵が靴下を脱いでKY医師に見せて聞いてみると、皆さんこんなものです、時間を待つしかないです、というだけであった。この副作用については、華絵が悠治にインターネットで調べてもらうと、抗がん剤により皮膚の基底細胞の細胞分裂や増殖が障害されたり、皮膚の基底層というところにあるメラニンを生み出す細胞が刺激されてその活動が亢進したり、爪の成長が障害されることにより起こると考えられているという。パクリタキセルの影響という。これを防ぐには、パクリタキセルの点滴中に凍結手袋で手を低温に保つと、手の皮膚や爪へのダメージが顕著に少なくなるという。抗がん剤は血流に乗ってがん細胞に届けばいいので、指には不要である。そこで手足の先の血管を冷やして収縮させ、血流を減らすことで抗がん剤の影響を抑えようというわけであるという。フランスの実験で、まだ一般的ではないようだが、華絵にとってはもう遅すぎた対症療法である。今や、じっと回復を待つしかない。

抗がん剤TS-1の服用は、華絵の場合、3週間を1クールとして、今年一杯で9カ月、13クールが終了することになる。来年の3月までで術後の薬物療法1年になる。それまで、抗がん剤TS-1とホルモン剤ノルバデックスの併用としびれ取りのために漢方薬とビタミン12を服用するということで進むことになる。華絵のがんとの闘いは、転移しないことと、抗がん剤の副作用のしびれが取れることになっている。まだ掲げるには大分早いかもしれないが、それが来年の華絵の夢になる。今年は大分遅くなったが、フリージアの球根を植えて、来年の春には花に慰めてもらいましょう、華絵には少し余裕ができたようだ。
[第2部完]
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小説フリージア ―乳がん治療日誌― [第2部](4)

2015-12-19 07:50:57 | 小説乳がん治療日誌
(4)手術
1週間後、華絵は予定通り、手術のために入院した。総合病院なので、入院する人はかなり多く、入院受付の待合室は混雑していた。それでも事前に連絡していたのでスムーズに、受付を終え、すぐに病室に入ることができた。標準は6人部屋であるが、少しゆったりした方がよいということで、華絵は4人部屋を選んだ。4人部屋でも差額ベッド代金を支払う。担当は女性の若い医師であった。その医師は、華絵に現在使用している薬のことを聞いた。華絵は薬を持ってくるつもりだったが忘れてしまったので、悠治が取りに戻ろうかと言い、そのことを医師に告げると、医師は、取りに行く必要はなく、調べますと言ってくれた。手術前まで、従来通りの薬を服用するように言われた。華絵は、看護婦から手術の後に使う衣類を教わると、悠治に頼み、病院内にある売店で買ってきてもらった。悠治は、5時半の夕食がまじかになるまで、病室のベッドのそばで華絵に付き合った。

翌々日午後3時から手術であったが、少し早まって2時半過ぎ、より正確に言うと2時45分に華絵は、手術室に入った。病室から手術室まではベッドで寝たまま移動させられた。悠治が来てくれて、手術が終わるまで立会いとなってくれた。手術室で、華絵は麻酔注射を打たれた後眠ってしまって、手術が終わるまでの記憶がまるでない。後で悠治から話を聞くと、4時半過ぎに待合室で待っていた悠治に看護師から手術が終了した旨の連絡が入り、手術室の隣の部屋で、KY医師から手術の状況を教えてもらったという。KY医師は、悠治に、切除した右乳房全体とリンパ腺部の手術片を示して、手術は成功した、乳房は予定通り下部の方に至るまで全摘を行った、リンパ腺部は血管が密集しているのと患部がくっついていて非常にやりにくかった、でも何とか悪い箇所は全部摘出できた、と笑顔で語ってくれたという。手術がうまくいってKY医師は喜んでいたようだ。悠治はKY医師に何度も礼を言った。華絵がベッドに寝たまま病室に戻ってきたが、特に問題はないようであった。華絵自身はまだ肺の転移を気にかけていて、喉の具合が悪いのが肺のせいよと悠治に訴えていた。華絵は、入院担当の女医にも、肺の心配を言うと、KY医師からの指示ということで、メンタル医療を受けた方がよいと言われた。メンタル医療と言っても、薬を飲まされるだけから、その場限りで治るものでないし、もう薬はたくさんという気になって、華絵は断ってしまった。担当の女医からの伝え聞きではあるが、KY医師は気を悪くしたようであった。

手術後の容態は問題なかった。手術した部分に液が溜まり、それを抜くと退院と言われたが、なかなか抜けきらず、入院が1週間を超えてしまった。華絵は4人部屋にいたが、話し相手がおらず、カーテンで仕切られた空間で一人寝ているか、本を読んでいるか、運動のために病室の外の廊下を歩きまわるかしかなかった。テレビは見舞客の待合室のようなところで何人か人がいるところにあり、そこは見舞客の話声が多くてあまり居心地のよいところでなかった。4人部屋に入った時から大部屋の方がいいと思い始めて、フロアーの婦長に大部屋である6人の部屋に移してくれないかと頼んでいた。大部屋は差額ベッド代が不要なため希望者が多いようで空きが無かったが、婦長がたまたま空いたと華絵に告げに来た。退院の予定日が延びていたので、華絵はすぐ移る旨を伝えた。翌日、移動を行った。大部屋は一人当たりのスペースはもちろん狭くなっていたが、それほど気にすることはなく、華絵の期待通り、仲間がすぐ作れ、共通の休憩室で談話もできた。少し滅入っていた気分が、同病の人と話すことで、よくなってきた。入院11日目、大部屋に移ってから3日目で、折角親しくなった同室の3人とお別れになる。華絵を元気づけてくれた人は、見かけは元気ではあるが、必ずしも快方に向かっていないようで、まだしばらく入院が続くと言いながら、笑顔で華絵の退院を送ってくれた。悠治が迎えに来て、帰りしなに予備の傷口用の絆創膏を売店で買った。支払いは悠治が自分のカードで行なった。高額医療費の申請のおかげで、差額ベッド代も入れて11万円少しですんだ。

華絵は、悠治とともに家に帰ると、今日は何かしっかりしたものを食べたいと思った。病院食は健康に良いのだろうが、どうしても病院食と言ってしまうような献立であった。
「アナゴがあるよ」
という悠治の言葉に
「夜は天ぷらにしましょうか」
「作れるのか。病み上がりで」
「作れますわよ」
「自分で食べたいものは、元気が出るのだろうな」
「いいじゃない、それで」
「なんでも元気ならいいよ」
たわいのない会話だったが、1週間余ぶりの我が家で、華絵は少し気が楽になった。それでも、肉体的には手足のしびれが治らないので、ふわふわした状態であるのと、精神的には転移は大丈夫だったろうかという心配が残っていて、鬱であった。退院したばかりなのに、胸に水がたまった感じがするので、華絵は電話で病院の予約をした。

翌日の午前、華絵は胸の水抜きに病院に行ったが、一人で外出するのが不安で、悠治について行ってもらった。注射器で胸の水を抜くだけなので、ものの5分とかからない処置であった。華絵は、その後3日毎に二度、水抜きに出かけた。悠治も毎回付き添いで同行した。三度目の水抜きの前の日にKY医師から華絵の自宅に電話があり、翌日の水抜きの際にCTをやって肺の検査をしたらどうかと勧めてきた。華絵はKY医師が心配してくれるのを知って、快諾した。

退院後約2週間後、KY医師の診察を予約していたので、華絵は、今度も悠治に病院までついて行ってもらい、乳腺科に入った。KY医師は、まず、切除したがんの病理の結果を話した。病理の結果により今後の治療を決めるということであった。切除したがん片には、がんがはっきりとあった。華絵のがんの特徴としては、ホルモン受容性はあるが、ハーセプチン受容性はないということであった。CTの結果は、肺その他の腹部臓器への転移は見られなかった。今回の手術でがんは全部取りきれたが、リンパ腺部への転移がひどく多かったので、血液によりがん細胞が運ばれている可能性があり、今後転移する心配があるとのことだった。転移の抑制のために、薬物療法を行うのがよい、というのがKY医師の結論であった。薬物療法は、KY医師は抗がん剤とホルモン剤の併用を勧めるが、他の医師でホルモン剤だけでよいとする人もいたという。華絵にどうしますかと問いかけてきたが、華絵にも悠治にも答えられるだけの知識はなかった。華絵は、抗がん剤はもうこりごりと言ったが、KY医師は次回の診察までに決めればよいですよ、と言って、次回を1週間後に予約してくれた。華絵は、転移の心配を言われたので、また不安になって鬱に襲われてしまった。KY医師は、その様子を察して、かねてから勧めていたメンタルヘルスを受けたらどうかと言ってきた。KY医師からもらっている精神安定剤デパスを飲むと少し休まるようだと、悠治が言うと、自分はメンタルヘルスの医者ではないので、専門の医師から症状に見合う薬をもらうのがよいという。華絵はすぐには答えなかったが、悠治がそうしましょうと言って、メンタルヘルス科への紹介状をお願いした。悠治は、家で華絵がぐちゃぐちゃするのに耐えられなくなっていた。KY医師は、メンタルヘルス科に電話をしてくれ、午前遅くの時間にアポイントとってくれた。メンタルヘルス科の待合室で1時間くらい待った後、インターンのような若い医師がアンケートというのか、華絵に状態をいろいろと聞いて用紙に記入してから、初診の医師の診察になった。診察の医師は、簡単な問診をして、これまでより少し効き目の強いという睡眠薬と精神安定剤ではなく抗鬱剤を出しましょうと言って薬の処方箋を渡してくれた。

KY医師は、薬物療法で、ホルモン剤だけにするか抗がん剤も併用するかの選択を宿題にしたのだが、華絵はどういうふうに考えて決めればよいか分からなかった。悠治に聞いても、よく分からないよ、というだけだった。それでも悠治はインターネットで術後の治療について検索してみた。やはり担当の医者の判断によるしかなさそうだという結論で、
「担当の医者は、抗がん剤の併用を勧めたのだから、それでよいのだろう」
という。
「薬は飲まない、という選択肢もあるんだぜ」
とも言った。
「転移が心配だから、やはり薬は飲むわ。抗がん剤は、副作用のしびれでこりごりなのよ。それでなかなかうんとは言えないのよ」
華絵は、2年前になるが、最初に服用した抗がん剤パクリタキセルの副作用のしびれが、今なお残っていて、手足の感覚が普通でないことにうんざりしていた。
「今度の抗がん剤は注射でなく、飲む薬だから、効き目がマイルドで、副作用がそれほどでないようなことをKY医師が言っていたよな。抗がん剤を併用して、今度の抗がん剤がまた副作用があるようならそこで止めればよいだろう」
「そうね、そうするわ」
華絵は意外に早く折れた。しかし、抗がん剤をまた服用すると決めても、華絵の鬱は治らなかった。華絵は、まだ肺への転移を心配していた。肺に転移するのは、先が短いということだと思い込んでしまうからである。
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小説フリージア ―乳がん治療日誌― [第2部](3)

2015-12-18 08:28:38 | 小説乳がん治療日誌
(3)鬱状態
華絵はひどい自己嫌悪に陥った。手術を拒否してきた自分はばかだった、ホルモン剤を飲んでいればこれほど悪くはならなかったのだろう、そんな思いになって、後悔先を立たずという言葉を頭に浮かべた。今は手術するのだと思う一方、今まで自分は何をしてきたのだという自責の念に襲われた。特に、メシマコブというサプリメントにお金をかけてよくならなかったことで、お金が続かなかったから駄目だったのかという思いにかられていた。知人で以前がんを患っていたという人に電話してみると、メシマコブでは治らないよう、手術するのがいいんだよう、と言われて、また自分の考えに自信が持てなくなってしまった。単純なことに、メシマコブのことは、その人の電話で少し落ち着いた。よいという人がいたと聞いていたが、実際に効かないという人がいたことで納得できた。それでも華絵の頭の中はまだもやもやが取れなかった。KY医師の診断で、肺になにか徴候があるといわれたのをひどく気にしていた。肺は気にししなくてよいですよ、とKY医師は言ってくれたが、一般に肺に転移したら、もうほとんど駄目だといわれているので、肺の検査が必要ではないかと思うようになった。悠治にそのことを言うと、悠治は、
「まずは乳がんの手術で、その結果から、転移状況を見ることになるのだから、今心配しなくてよいだろうよ。とにかく手術に耐える体力作りをしておくことだ」
とあまり取り合ってくれなかった。それでも、
「手術前検査までもう少しだが、それまで待てないというのなら、一度KY医師に相談に行けばよいだろう」
と言って、病院に電話して、KY医師の相談のアポイントを取り付けてくれた。

数日後、華絵は悠治の付き添いで病院に行き、KY医師に相談をお願いした。華絵はきっちり話すことができず、悠治が替わってKY医師に尋ねた。
「先日のCTの結果で、肺になにかの徴候があると言われ、気にするほどではないということでしたが、本人がひどく気にして、肺の検査をしてほしいというのです。いかがなものでしょうか」
「心配ありませんよ。徴候があるかないかくらいのものですから、もし何かあるとしたら、私から言いますから。今は、乳がんの手術を第一に考えてくれればよいのですよ。乳がんの手術の後で、転移状況を見直せばよいですよ。ともかく、悪いところを手術で取ることでよいんじゃないですか」
「ええ、分かりました。いいんだろう、お前」
悠治は、うつむいている華絵に、納得したかどうかを聞いた。肺に転移していると思い込んでしまっているので、そうではないと説得するには、それなりのデータが要るのであろうが、そんなことを今する必要はないと、先生が言っているのだから、分からなければならないと悠治は華絵を説得した。とにかく他の患者さんの診察もあるので、もうこれくらいで終わりにしましょう、とKY-医師が閉口して終了を促した。

家に帰ってからも華絵は、肺に転移しているから早く死ぬのではないかという観念に駆られてしまって、ぐちゃぐちゃしていた。悠治はどうしようもないので、放っておくしかなかった。死を恐れるとはこういうことなのかなあというのが悠治の思いであった。一昨年、乳がんと言われ、リンパ腺に転移があるという診断をもらった時でも、これほど落ち込んでいなかったのだが、今回の塞ぎこみようは異様であった。悪化したということのためであろうか。悠治が華絵にこの点を質すと、肺への転移が大きなショックであったようだ。肺がんは致命的であると考えているからであった。肺は、はっきりと転移になっているわけでないとKY医師が言っていたではないか、と悠治が説得しても、華絵の凝り固まった観念をほぐすことができなった。悠治にとっても、華絵にとっても、日が経つのを待つしかなかった。華絵は、友人の何人かに電話して、手術をすることになった、肺の転移も考えられて不安になっていると伝えていた。詳しい事情を知らない友人たちはみな同情してくれて、頑張ってとは言うがそれ以上はどうしようのない様子であった。心配してわざわざ自宅に来てくれる友達もいた。医者の指示に従っているのがよいでしょうと言うだけだった。華絵は、それで気が晴れることはなかった。どうしよう、どうしようとおろおろするだけだった。華絵は、恐ろしいと言って、外出も一人で出かけることができなくなって、ウィッグの調整に行かなければならなくなった時も、悠治にいっしょについて行ってほしいと頼んだ。精神安定剤のデパスは意外と効力があって、眠る前でなくとも、朝でも不安がつのってくるようなときに服用すると少し落ち着くようであった。

そうしているうちに、手術前検査の日が来たので、華絵は事務的に病院に行くことになった。検査だけであるが、一人での外出がどうしてもできず、悠治について来てほしいと乞うた。悠治は、朝いっしょに出掛けたが、検査に時間がかかるので一度家に戻り、午後終わるころになって再び病院に赴き、華絵を迎えに行った。検査は、採決、尿、肺活量、心電図、マンモグラフィが行われた。華絵は、まだ肺のがんを気にしていて、肺活量が十分でなかったと悠治にこぼした。

1週間後、華絵は、この日も悠治に付き添ってもらって、手術前の検査結果と手術の詳細説明を聞きに、KY医師を訪れた。KY医師の診察は立て込んでいて、予約時間より2時間、ずれこんだ。もっとも前回予約をとるとき、KY医師は予想していて、診察の約束時刻は午前ですが、実際は午後になりますから、そのつもりで来られたらいいですよ、と言っていた。その通りであったから、特に遅いなあという思いは、華絵も悠治も持たなかった。KY医師の説明では、手術前検査では異常は見られず、予定通り手術ができるということであった。手術の内容の詳細で、右乳房の全摘とリンパ腋窩手術を行うと説明してくれた。リンパ腋窩手術は厄介だが、何とかやってみるとKY医師は自信を持って話してくれたので、二人はお願いしますと頭を下げた。ただ、華絵はまだ肺への転移を気にして心配の様を言うので、KY医師から、メンタル医療のセクションに行った方がよいとまで言われた。
「手術までは、皆さん、心配でいろいろなことを言うのですよ、手術が終われば、ほっとして、心配事が消えますよ」
と多くの患者に接してきたKY医師は、何でもないことを強調した。
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小説フリージア ―乳がん治療日誌― [第2部](2)

2015-12-17 08:27:46 | 小説乳がん治療日誌
(2)手術前
年が明けて1月の下旬、予約の月曜の診察の日に、華絵はいつものように診察室のカーテンを開けて入り、KY医師の診察を受けた。12月のマンモグラフィとCT撮影の検査結果が出ていて、KY医師は、暗い、厳しそうな顔をしていた。
「乳がんが大きくなっていますね」
「ええっ」
「7月には小さくなっていたのですが、今度は初期の頃よりも大きくなってきましたね。手術しなければならないですね。手術は、もう避けれませんね」
華絵は、がんが進展したことにショックを受けて、言葉が出なかった。
「手術を考えなければなりませんから、旦那さんと一緒に来てもらえませんか。私は、月、水、金が担当ですから、今週の金曜日はどうですか」
「早すぎますわ」
「では、来週の月曜ではいかがですか」
「来週は、ちょっと」
「では再来週の月曜にしましょう」
KY医師は、華絵が混乱するのを見透かして、なんとか家族の同意を得ようとしているように華絵には思えた。華絵自身、すぐ手術を承諾する気持ではなかった。手術はしない方がよいという人たちの話を聞いてきたから、そして民間療法でもそれなりの方法で小さくしてきたのではないかと思っていたから、まさかがんが進行していたとはすぐには信じられなかった。しかし、写真データが示す以上、がんの進行は事実であったのだ。KY医師は、華絵があくまでも手術を敬遠するようなので、
「手術が嫌でしたら、ここではもう何もできませんので、緩和ケアの方にいってもらうことになります」
華絵は、緩和ケアが何であるかもわからず、といって質問することもせず、ともかく悠治に相談してみることにして、
「再来週に返事することでよろしいですね」
と言って診察室を後にした。華絵は、頭の中がぐちゃぐちゃになってきて、会計でもぼんやりして、事務員に大丈夫ですかと声を掛けられるほどだった。

家に悠治がいたので、早速KY医師から言われたことを悠治に話した。
「小さくなったと喜んでから、半年くらいだろうか。変わるものだなあ。薬は効かなかったのか」
「薬は、ホルモン剤はいやで飲んでなかったのよ」
{えっ。捨てていたのか。ただじゃなかったんだぜ}
「すみません。飲まずに、貯まっているわよ」
「驚いたなあ。医者には何と言っていたのか」
「飲んでいます、と言っていたわ」
「嘘つきじゃないか。それを医者に言ったら、もう相手にされなくなるぞ」
「もう相手にされなくなっているのかもしれないわ」
「もう手術しかないと言われたなら、手術すればいいじゃないか」
悠治は、元々手術をしたらよいという人だから、何の躊躇もない言い方をする。
「緩和ケアって何かしら」
華絵は、KY医師から緩和ケアに行きなさいと言われたことを口に出した。
「医者に聞いてみなかったのか」
「聞く気分にはとてもなれなかったのよ」
「調べてみよう」
悠治はすぐにパソコンを使ってインターネット検索を始めた。
「ホスピスみたいなもんだな。末期がんの患者を対象にして、心のケアを施し、患者の苦痛を和らげる、ということだね。ホスピスとの違いは、よく分からないが、似たような感じだなあ。緩和ケアの病棟が、あの病院にもあるよ。薬とか手術がもう使えないという人のためのものと理解するなあ」
悠治は、解説が書いてあるというページをプリントして、華絵に渡した。華絵は、読もうともしなかったが、
「分かったわ」
と言った。
「分かった、というのは、緩和ケアということが分かったということか。手術するか、放置でじわじわ悪くなるのを待つか、それとも緩和ケア病棟に入ってメンタル面を癒してもらうかの選択になったんだよ。一晩考えてみたらいいよ」
「手術は、1週間入院しなくちゃいけないって」
「別に問題ないだろう。この間だって入院したじゃないか」
「1日でしたけどね。それまでは、盲腸で一度入院したっきりだったわ。あのときは昔だったから、1週間かかったわね」
華絵は、手術をするということよりも、手術をしなくともよいと思って摂取していたメシマコブの威力がなかったことにショックを受けていた。まさかこんな結果になろうとは、という思いであった。たしかにお金が続かなかったから、メシマコブは半年前にやめた、それがよくなかったのか、もっと続けるとよいのか、そのことにさいなまれ、すっかり落ち込んでしまった。もう一度、メシマコブに挑戦してみよう、そんな思いをもったが、もう一方では、手術をしようという気にもなった。とにかく治したい、治りたい、華絵は他に何も考えることができなかった。

2日後、華絵は手術をしてもらうことにすると、悠治に告げた。再来週の月曜に、悠治を連れてKY医師のところに行くことにしていたが、KY医師は、今週の金曜でも、来週の月曜でもよいようなことを言っていたから、早めにしたいと思い、悠治に頼んで、病院に電話をしてもらい、KY医師の都合を聞いた。華絵は、自分で何かをする気には、電話ですら、起らない状態だった。悠治は、看護師にKY医師の予定を調べてもらって、KY医師との面談日を1週間早めて来週の月の午後に決めてもらった。看護師に、今手術を申し込んだらいつ頃手術予定になるかも聞いた。2月はもう一杯で、3月になりますとのことだった。手術日は毎日でないから、待たなければならないことはわかるが、1ヶ月も先になるとはずいぶんと手術をする人がいるものだと悠治は、あらためて乳がん患者の多さを知った。別な見方をすれば、1ヶ月も待てる手術であるので、緊急性がないということで安心できた。

翌週月曜日、華絵は予定通り、悠治を伴って、病院に行った。予定時間より20分遅く呼ばれて診察室に入った。
「お世話になっています」
悠治は、KY医師とは初めて会うので、それなりの挨拶をした。KY医師は早速コンピュータの画面を出して説明に入った。画像を二人に見えるようにモニターの位置を調整してくれた。まず超音波画像を見せ、乳房の黒い部分が以前より大きくなった、腋窩リンパ腺への転移も大きくなっている、肺にわずかだが結節が見られる、と話した。さらに、CT画像を見せて、X線では白くなるのが患部で、その大きさを測ると乳房部で4cm、リンパ腺部でも3cmくらいあった。一昨年5月に初めて診察を受けたときは、2cmくらいで、その後、抗がん剤治療を半年行った後の昨年3月の検査では1cmくらいに小さくなっていたが、ここにきて大きくなったというわけである。抗がん剤治療の後は、手術を見合わせていたので、ホルモン剤治療を続けていたが、その効果がなかったというのが、KY医師の診断である。華絵の実際は、昨年3月からのホルモン剤の服用は1週間しかしなかった。1週間の服用で、以前に飲んでいた抗がん剤による副作用のしびれが継続していて、さらに新しく服用し始めたホルモン剤によると思われるしびれが加わった感じがしたため止めていた。もちろんそんなことは医師には言わず、しびれがあるという症状だけを訴えていた。KY医師は、前任のHK医師からの引き継ぎのことにも触れ、状況はすべて把握していると話した。華絵がこれまでずっと手術を拒否してきていたので、KY医師は、その日説得する姿勢であったが、華絵からも悠治からも手術をしてもらうという気で来たことを告げられ、気をよくして、話を速めた。直近で手術の空きがある日が二日あった。直近といっても1カ月先である。早い日と遅い日の間は、2週間あった。
「どちらでも好きな日を選択してください」
とKY医師が言った。
「緊急性はないんですね」
と悠治が問いかけると、2週間の差は問題ないという答えであった。手術のための入院日数は、1週間余りをみておく必要があるといわれ、健康保険の限度額適用認定申請の関係から月をまたがらない方が金銭支払い上有利なので、2月末の日は止めて3月の初旬の日にしてもらった。悠治のざっくりした計算では、月をまたがることで5万円くらい多く支払うことになるようだった。華絵は2週間の遅れなら問題ないと納得した。入院は手術日の2日前である。手術までに1ヶ月余あるので、再びホルモン剤を服用するよう指示があり、薬の処方箋が与えられた。これまでのホルモン剤であるアクロマイシンは効き目がないことにされ、別のノルバデックスという錠剤が割り当てられた。飲まなければどれをもらっても同じことだが、華絵は、今度は心を入れかえて飲むことにしていた。華絵は、先週病状が悪くなったと告げられてから、それまで捨てるがごときであったホルモン剤をかかさず服用していると悠治は聞いていた。手術前に検査が必要で、心電図などの他、乳房のMRIを行うことになっているが、その日が2月下旬の日しかないということであった。2月下旬を手術日にしたら、入院前検査のMRI日程はどうなったのだろうか、悠治はそんな疑問を持ったが、特に何も言わず、KY医師の日程の確認の話にうなずいた。診察室での用を終えて、華絵は、その後、入院受付で事務手続きを済ませた。会計で支払いを行い、病院を出た。病院のすぐ向かいの調剤薬局に行き、薬を受け取る。薬は、ホルモン剤であるノルバデックスとしびれ軽減用の薬である牛車腎気丸、眠れないという華絵の訴えに沿った睡眠薬、それと精神安定剤の頓服としてのデパスの4種類である。家に戻ると、もう辺りは暗くなっていた。
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小説フリージア ―乳がん治療日誌― [第2部]

2015-12-16 08:35:38 | 小説乳がん治療日誌
(1)治療2年目
華絵が病院で乳がんの診断をもらってから2年目に入った。昨年5月に乳がんであると診断結果を言われ、6月から、3週間毎の抗がん剤エピルビシン塩酸塩にシクロホスファミドを組み合わせたECの点滴を4回受けた後、9月から第2段階に入り、1週間に1度の抗がん剤パクリタキセルの点滴を3か月12回続けて受け、11月の終わりに終了した。抗がん剤パクリタキセル終了の後は、12月に手術が予定されていたが、華絵は手術に踏み切れず、しびれがひどいので体力が回復してからにしてほしいと手術の延期を医師に頼んだ。医師は案外あっさりと、では、ホルモン剤を服用して様子をみましょう、と言って、一般名エキセメスタン、製品名アロマシンを処方してくれた。白色の錠剤で、悪い細胞が増えすぎるのを抑えるという効用があると説明されている。薬は、ホルモン剤の他に、鉄欠乏性貧血治療剤であるフマル酸第一鉄除放カプセルで、製品名がフェルムカプセル、コレステロール及び中性脂肪を下げる、オメガー3脂肪酸エチルカプセルで、製品名ロドリガ、それに骨粗鬆症の治療薬であるエルデカルシトールで、製品名エディロールカプセルの3種類、計4種類が1ヶ月、すなわち4週間単位で、12月から支給された。華絵は、4週間に1度、病院に行くことになり、その際に、骨粗鬆症を抑止するゾメタの点滴を打ってもらうことにした。12月の診察の際に血液検査とMRI検査を受け、その結果が1月と2月の診察の時に告げられた。腫瘍マーカーCEAの数値が一度増加してがんの数が増えているという診断があったが、12月の検査でまた元に戻り、MRIの画像からはがんの大きさが小さくなったことが分かり、HK医師は喜んでくれた。HK医師の診察はここまでであった。医師は関西に移動することが定まっていた。3月末からは後任のKY医師が担当になった。

抗がん剤ECと抗がん剤パクリタキセルの副作用は強く、抗がん剤ECの投薬後しばらくして脱毛が始まった。脱毛は、文字通り頭髪が完全に抜けたが、抗がん剤パクリタキセルの服用を終わってからは、徐々に発毛し始めた。抗がん剤パクリタキセルを点滴してからすぐに、手足の末端部のしびれが顕著に現れた。幸い、食欲の減退まではなかったので、華絵は、半年間を何とか痩せ衰えることなく、凌いで来ることができた。手足の末端部のしびれは、抗がん剤パクリタキセルの服用を終えた後も一向に治らず、依然としてふわふわとしたような、針のむしろを歩いているような変てこな様子が続いている。華絵は、抗がん剤パクリタキセルの服用中の昨年11月初め、悠治と列車を使っての1泊の小旅行をした。そのときもふわふわした足取りではあったが、なんとかこなすことができた。その後、11月の中旬に悠治の姉の旦那が亡くなって、葬儀に参列したとき、火葬場で立っていることができず、早めに失礼してしまった。ホルモン剤に切り替わってからも、華絵は、朝は、病院に行く予定のある4週間に1日だけは、7時になんとか起床するが、普段は10時近くまで寝床にいる。眠っていることもあるが、手足のしびれのために起き上がるのがひどく億劫なため横たわっていることが多い。おまけに昼寝もするので、1日12時間近く寝ていることになる。散歩に出なければ足が衰えてしまうと思っても、しびれのためにとても出かける気にはなれなかった。それでも、ベランダでの花の世話はできるようになった。フリージアは昨秋遅く球根を植えたので、やっとつぼみが出始めた。せっせと水をやるのを日課にしている。

HK医師はパソコンに映し出される画像だけでがんが小さくなったというが、実際目に見える乳房の下の部分の様子も変わってきて、塊が凹みに入っていく様相を呈してきた。
「小さくなったでしょう」
華絵が悠治に衣服をめくってみせると、
「あっ、変わってきたなあ」
と、悠治が頷いた。
「黒ずんでいた、塊が小さくなったようだ。それが奥に入って行っている。それで、なんか引きつってきたような気がするが、そんな感じはないのか」
「いいえ、ありませんわ」
「痛みはないのか」
「ないわよ」
「そうだったなあ、あのHK先生が言っていたなあ。乳がんは痛みがなくて、じわじわ進行するって。じわじわ進行は、乳がんばかりではないだろうが」
「今は進行していないということなのよ」
「そうであればよいが。まあ、自分で自信を持っていれば、病気はすっ飛ぶと」
「そう思うわ」

5月になって、華絵は骨のX線撮影を受けた。朝、造影剤を静脈注射した後、4時間後に撮影となるため、一度家に帰り、昼過ぎにまた病院に出かけ、X線撮影の後、夕方家に帰るという一日であった。2週間後、定期の通院日に診察とゾメタの投薬を受けた。診察では、KY医師から骨のX線撮影の結果を聞き、少し転移が見られる、昨年と変わらない、と言われた。ゾメタを続けるように指示された。乳腺科は、有名な先生が去った直ぐ後だったので、なんとなく、患者が少なくなったような気がした。華絵の担当となったKY医師は手術が得意なようで、華絵はいつ手術をすると言われるのかとびくびくしていたが、HK医師と同様の、というよりもHK医師のそのまま延長の形で対応してくれ、ほっとした。

6月の通院日で、血液検査とCTの後に診察を受けた。腫瘍マーカーCA15の値が高くなっていないので、手術を急ぐことはないとの診断をもらった。ゾメタ投薬は、これまで化学療法の部屋で行っていたが、どういうわけか今回から診察室で行うことになった。

月1回の診察が続き、7月の診察では、前月行ったCT検査の結果を教えてくれた。KY医師は、パソコンで映像を見せてくれたが、華絵は見てもよく分からなかった。乳がんもリンパ腺転移も小さくなったという。骨への転移の影がまだ残っているということだった。写真かデータを欲しいと言ったが、これまでと変わってデータには5000円がかかると言われ、やめにした。世智辛くなったのは、消費税増額の影響の一端だろうか。手術については、華絵が嫌っていたのをKY医師は知っていて、手術をしないでしばらく様子見にしてよいでしょう、と言ってくれた。
「薬は飲んでいますか」
「ええ」
「続けてください」
薬は毎月4種類出る。ホルモン剤、鉄分補給剤、ビタミン補給剤、それにカルシウム剤である。華絵は、抗がん剤の副作用で生じたしびれがなかなか治らないので、ホルモン剤でしびれが増すのを恐れて、実際はホルモン剤を飲んだのは、もらい始めた1週間で、その後はホルモン剤以外の3種類しか飲んでいない。がんが小さくなったと言われたから、華絵はホルモン剤をこのまま飲まずにいられそうではないかと思った。民間療法と言われる、びわの種を瀬戸物のおろし器で粉にしたものをオブラートに包んで水で服用するということをしている。案外効いているのかなあと思ったりする。サプルメントでは、核酸飲料を飲んでいる。体力維持の働きがあるから、がんの拡大を防げると思っている。診察の後、ゾメタの投薬に入る。ゾメタはずっとやるのですか、と華絵がKY医師に尋ねると、骨の転移には薬がありませんから、骨粗鬆症にならないようにゾメタで補わなければならないと説得された。ゾメタの投薬は診察室でできるようになり、診察の延長でできることで楽になったので、華絵は医師の指示に従った。

8月の診察は、簡単な会話だけであった。
「変わったことはありませんか」
「いいえ、ありません」
「では、ゾメタの投薬をしましょう」
ベランダのフリージアは、春遅くいつも通り黄色の花をつけてくれた。しかし、華絵の目には、なんとなく可憐すぎて、力なく咲いているかのようであった。それも夏には姿を消した。

華絵が9月の診察で、手足のしびれがなかなかとれないで、ふわふわしたような動き方を感じているとKY医師に訴えると、しびれとりの薬を処方してくれた。しびれの他に足の特に親指の爪が黒くなっていたが、抗がん剤を止めてからはほんの少しずつではあるが、黒が濃い灰色になってきていた。しびれの薬でそれも治るだろうと華絵は期待をしている。時間の経過の方しかないと思っていたが、薬にも頼ることにした。しびれの薬は漢方薬で、牛車腎気丸という名の顆粒である。血行を良くし、体を温める作用があると能書に書かれている。

10月の診察では、特に変わったところはなかった。11月の診察もこれまでと同様にゾメタを投薬し、薬をもらうというだけであったが、12月に検査を入れましょうと言われた。検査は、乳房のX線撮影であるマンモグラフィと臓器のX線撮影になるCT撮影、それに超音波診断である。華絵はこれまでどういうわけか、マンモグラフィは一度も行っていなかった。そのため12月の診察の日は、盛りだくさんのメニュ―であった。ゾメタの点滴注射の後、超音波撮影があり、その後画像診断の部署に行って、マンモグラフィとCT撮影を受けた。マンモグラフィは、乳房を少しつままれて器具を押し当てるので、痛がる人がいると聞いていたが、華絵には痛みは感じられなかった。CT撮影は二度目であった。背と胸、それと骨盤部を撮影してもらった。
家に帰って、あらためて患部を鏡に映した。色が黒ずんでいる。毎日風呂で見ているのだが、あまり変化には気が付かなかったが、ちょっと変わったのかなあという思いがした。悠治を呼んで、悠治にも見てもらった。
「この間はいつだったっけ、秋ごろかなあ、それに比べたら、色が黒くなったのと少し大きくなったような、形が変わってきた感じだなあ。写真を撮っておけばよかったな。写真があるのは、半年も前のだからそれと比べてみようか」
と言いながら、写真をパソコンから取り出した。小さくなったと言われた、2月頃の写真だったが、それと形の変化があった。色はあまり鮮明には差を区別できなかった。

華絵のこの年の医療費は、3割負担だったが、診察で約20万円、薬で9万円だった。診察では、ほとんどが検査と画像診断の費用であった。合計で30万円になるので、悠治は、所得税の確定申告で医療控除の申請を行うことにした。費用のことをいうと、前年は、高価な抗がん剤パクリタキセルの投薬代が大きく、入院が2日あったせいもあり、医療費総額は50万円を少し超えていた。この年は、高価な抗がん剤がなくなった分安くなった。
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トヨタ前常務の起訴猶予は寛大措置ではないか

2015-07-15 17:23:45 | 小説乳がん治療日誌
前にも同様のことをやっていた、と本人が言ったようである。本人にすれば、以前は逮捕されないで、なぜ今度は逮捕なのか、と言いたいのだろう。日本の法律を知らなったとはいえ、知らなかったらそれでも法律は守らなければいけませんよ、と検察は教えなかったのだろうか。二度目であることを告白したことについて、検察は何のお咎めをしなかったのだろうか。日本を馬鹿にするな、言いたい人もいるだろう。中国では死刑もあり得る。麻薬なのだから、起訴で執行猶予が適当かと思ってみていたら、さすがトヨタ自動車と言わせるのだろう、検察を金で動かした、と見られても仕方がない検察の動きであると感じる。トヨタは、前常務をアメリカに帰し、相応の待遇でも用意するのかはどうでもよいが、過去のことにしてしまうには、なにか後味の悪い気がする。
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小説フリージア -乳がん治療日誌― [第1部] (6)(第1部完)

2014-05-12 07:58:37 | 小説乳がん治療日誌
手術の見合わせ
 11月の最終の週に、華絵は12回目のパクリタキセルの点滴をいつものように受けた。華絵は、HK医師の診察で、次週にMRIの検査をしましょう、抗がん剤投与は骨用のゾメタを1ヶ月単位で続けましょう、と言われた。手術は12月に予定されたようで、12月の2週目に別の医師の予約を取りましょう、ということだった。華絵は、事情がよく分からなかったが、言われるままに、12月第1週の月曜日に骨への薬剤ゾメタの点滴予約と、その週の木曜日にMRIの予約を取ってもらった。手術の予約はまだしないままにした。華絵はどうしても手術を受ける気にはならず、悩んで、悠治に相談してみた。
「手術するかしないかは患者が決めることだから、体調がよくないことを医者に話して延期してもらうなどを相談するといい」
「ええ。そうするわ」

 12月の第1月曜日に、華絵はゾメタだけの点滴を行いに病院に行った。8時半からHK医師の診察があった時、華絵は、しびれがひどくて体力的に自信がないので、回復するまで手術は見合わせたいと申し出た。HK医師は、特に訝るわけでもなく、
「じゃ、12月の手術は取りやめにしましょう。ゾメタの投薬は月に1回続けることにしましょう」
と言ってくれた。
「何年生きたいですか?」
医師は、ふとそんなことを口にした。
「ずっと生きたいですわ」
華絵が微笑みながら答える。会話は、それ以上は続かなかった。
家に帰って悠治が戻ってきたとき、華絵はその日のHK医師とのやりとりで、手術を当座見合わせることができたとほっとしながら話した。
「3月ごろには決めないといけなくなるかもしれないだろうよ」
と、悠治は言う。華絵は、
「それまでには何とか治らないかしら」
と言いながら、なんとか手術から逃れたかった。
「あと何年生きたいかって聞かれたのよ」
華絵は、HK医師の言葉を思い出して、悠治に告げた。
「お前は何と答えたんだ」
「ずっとって言ったわ」
「それだけか」
「そうよ」
「HK医師は何と言ってきた?」
「それっきりよ」
「おれだったら、もういいやと言ってしまいそうだな」
「そんなことを言ったら、ずっこけてしまうわ。折角治療しているというのに」
「そうだな。初めから、来ないでくださいと言われるな」
「そうよ」
「手術の有無と寿命が関係するんだろうな」
「治したら手術は要らないわ」
「治るかな」
「なんとかするのよ」
翌日は、MRI検査の日で、この日は検査のみで診察はなかった。9時の予約で、10時には検査を終えた。

 華絵は、パクリタキセルの点滴を医師の処方通り12回行った。治療を開始してから、半年が経過した。がんはよくなったのだろうか。右の乳房の下にあるできものは、当初より凹んできて小さくなっている。硬さは変わらない。症状的には特に治療を受ける前と変わっていないような気がする。悪くなったという感じはしない。ただ、病院にせっせと通ったので、悠治の言葉を借りれば、すっかり病人になってしまった。抗がん剤の副作用では、脱毛と手足のしびれが依然として残っている。脱毛は、投薬を止めると回復すると言われ、手足のしびれは、人によるが、1年続くと言われていた。華絵は、しようがないが我慢するしかなかった。
華絵は、がんが小さくなったとみているが、小さくなったのは、抗がん剤の他に、サプルメントのメシマコブの力もあったと思っている。もう一つのサプルメント飲料は、増殖の防止と体力の維持にたいそうな効果があったと信じている。

 病院通いと手足にしびれで、華絵は、遠出外出を11月の野尻湖以外はしなかったが、毎週の病院通いから解放されたので、年老いた母親のところへ久々に、7月以来5ヶ月ぶりで、出かける気になった。幸い悠治も行ってくれるというので、年末になったが、二人で出かけた。地下鉄と小田急で2時間を要し、その後タクシーで10分かかる行程であったが、しびれに耐えられて、この時の外出は苦にならなかった。電車の乗り換えの階段はエレベーターを使ったので、クリアできた。

 年が明けて仕事始めの週の月曜日に、華絵は病院に行き、月1回の医師の診察とゾメタの点滴を受けた。先月の検査結果がまだすべて揃っていなかったが、HK医師は、腫瘍マーカーCEAの値が大きくなった、がんが増えているという言い方をした。MRTの画像は来月になるから、来月詳しく話しましょうということで、この日はちょっと心配のまま、1時半で治療を終えた。

 華絵は、昨年6月からメシマコブを適時服用していたが、他にも何かないかといろいろ調べを続けた。そんなうち、がんの友の会のような組織の存在を知り、パンフレットを手に入れて読み、そこで、びわ療法を知った。びわの温灸とびわのエキスを飲む療法が載っていた。びわの温灸は、びわの葉をお灸にするわけだが、素人がやるとやけどをする危険もあるので、相応のヒーターの付いた器具と器具につけて加熱されるびわの葉の粉末が固められて入っているカセットが売られている。華絵は通信販売でその器具とカセットお灸を購入し、実施し始めた。加熱するとびわの特有の臭いが室内にこもる。悠治にこの臭いはなんだと追及され、本を見せて説明すると、悠治はインターネットで調べ出した。アレルギーにもいいんだなと悠治は言い、またおかしなものに手を出しているなどという反対意見は特に言わなかった。びわのエキスを飲む療法は、びわの種あるいはびわの葉を焼酎につけて3、4か月ねかせた後、薄めて飲むというものである。3、4か月ねかせるので、これから作り始めても3、4か月待たなければならないが、とにかく始めることにした。そんな話を近くに住む友人に華絵がすると、その人も子供の病気のために作っていたが、結局飲まずにいて4か月もたっているからから差し上げますと言ってきた。苦くて飲めなかったので梅酒を加えたということだった。華絵は、早速お猪口で1杯分を3倍に薄めて、1日に2回飲むことにした。自分からアルコールなどに手を付けたことのない華絵を見て、悠治はへぇっという顔をした。

4週間後の2月の初め、いつものように、華絵はゾメタの点滴を受けに病院に行った。HK医師の診察で、12月に受けたMRI検査の結果を教えてもらう。HK医師は写真を見て、リンパ腺のがんが小さくなった、と言う。医師自身が、薬が効いたと喜んでくれた。もちろん華絵の顔から笑みが出て、よかったです、と言った。また、腫瘍マーカーの数値は、先月は高く出ていたが、今月は回復している。華絵には、小さくなったのは抗がん剤の他に、サプルメントの影響のあると思っている。抗がん剤の副作用の一つであるしびれはまだ残っているが、脱毛はなくなって、髪の毛が回復し始めた。髪の毛の回復は非常に速いと感じる。しびれはまだまだ続くものと、しようがないと覚悟している。

 3月になってからも、華絵は医師の勧められるままにゾメタの投薬を続けた。主任医師であるHK医師がTM病院を辞めるということを告げられた。後任は決まっていて、次回からはKY医師になり、治療は引き継がれると伝えられた。手術は華絵の希望でしばらく見送ってもらっているが、とにかく一度検査をしてもらって現在の症状を見てもらう必要があると華絵は思った。華絵は、家で悠治にHK医師が辞めることを告げた。悠治は、いつまで今の投薬をするのだ、小さくなったのは分かったことで次いでどうするのだ、と問いかけてきた。
3月末、ゾメタのみの投薬の5回目で4か月が終了する。医師は予定通りKY医師になり、この日はエコーの検査をしてもらう。結果は次回になる。次回に、検査の結果を踏まえて、この後の対処をよく話そうと華絵は決めている。

 華絵の1日は忙しい。悠治に言わせれば、病気の治療の毎日になる。朝、早くは起きられない。元々朝の早起きは苦手であったが、抗がん剤の副作用による手足のしびれにより一層億劫になっている。8時から10時の間でばらつきがあるが、目が覚めたときに起きる。朝食にテレビのドラマをビデオで見ながら、バナナジュースを飲み、玄米ご飯でのちりめんのお茶漬けを食べ、柑橘類をとる。洗濯を隔日に行う。洗濯のない日は、掃除をする。昼食は白身の魚を一切れの半分と野菜の煮物をおかずにする。食事の後、赤外線温浴器に30分入る。本を読んだ後、びわ温灸を30分する。昼寝を1時間する。買い物は、足のしびれでままにならないので、悠治にほとんど頼んでいるので、週に1度くらい自分で見つくろうものを買いに出る。ネットビジネスの付き合いのところに顔を出すこともある。それから、夕ご飯の支度を1時間半かけて行う。夕食は、基本的に悠治の献立に従う。魚類であれば付き合うが、悠治が肉を選ぶときは、昼の残り半分の魚をおかずにして、悠治らと別にする。食器の片づけをして、テレビを見、赤外線温浴器に30分入り、その後お風呂に入る。びわ温灸を30分した後、寝床に入る。治るまで続けることになる。治ったらどうするのか、という悠治の問いには、まずは治すことなのよ、と答える。

 華絵は、11月末でパクリタキセルを終了した後、しびれがほんの少しずつではあるがやわらいできて、1月からは、ベランダの花の手入れができるようになり、鉢に花の球根や種を植えた。チューリップは、背丈は小さいながらも、3月に赤と黄色の花を咲かせてくれた。ペチュニアもベランダを色づかせてくれている。華絵は、黄色のフリージアを摘んでガラスの花瓶に入れて、居間のテーブルに載せた。華絵の抗がん剤の副作用のしびれとの闘いは今なお続いている。がんそのものとの闘いはまだ続く。

[第1部完]
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小説フリージア ―乳がん治療日誌― [第1部] (5)

2014-05-11 09:51:04 | 小説乳がん治療日誌
10月に入って、第2段階の5回目の投与になる。1回目から4週間経ったので、今回はゾメタを加えられる。11時ころから投与が始まり、1時間半強、要した。華絵は、12時半過ぎに一度起き上がってトイレに行ったが、その後またベッドについて延々と眠ってしまった。4時過ぎに目覚める。足がふらふらする状態だったが、会計を済ませて、なんとか電車に乗り、家に戻れた。副作用の足のしびれは、風呂で温めると少し楽になるといわれるが、華絵の場合、このかたほとんど楽になったという感じがしたことがない。自分の足でないような、浮いているような、へんてこな気持ちである。自宅に遠赤外線のヒーターを有する簡易的なサウナもどきの温浴器がある。華絵が友人の勧めで体が温まって老廃物が出やすくなるといわれて、もうずいぶんと前に買わされたものだが、それをせっせと活用して体を温めるようにしているが、しびれがよくなることはない。それでも体を温めると何となく楽になり、お通じがよくなるので、1日に2度はサウナもどきに入ることにしている。

第2段階の6回目の点滴は10月第2週になり、前日が祝日だったため、火曜日になった。予約時間は10時半で、点滴が始まるのが11時半で遅かったため、終了は5時近かった。華絵は、足がまだふらふらしていたが、病院の閉室時間になっていたため追い出されるがごとくに病院を出た。

7回目の点滴は、10月第3週の月曜日のいつもの8時半の予約であった。華絵は、HK医師から、手術の話が出て、11月末の12回目の最終点滴の後に、X線CTを撮り以前の写真と比較し、そこで判断しましょうということを告げられた。いよいよ手術が近づくが、華絵は、何とか回避したかった。藁をも掴むように、サプルメントのメシマコブ粉末とサプリメント飲料を続けることにしている。この日の点滴では、どういうわけかいつもと違い、静脈の太いところがなかなか見つからず、腕のあちこちに針を刺されて、一部は腫れてしまったところも出てくる始末であった。針を刺す位置を決めるのに時間を要して、ようやく点滴が始められ、おまけに静脈が細かったので点滴速度を遅くしたため、点滴に3時間近く要した。1時に点滴が終了したが、その後、眠りに入って目覚めが2時半で、華絵は、またふらふらする中を帰途に就いた。
悠治が帰ってきてから、華絵はHK医師の診察の様子を告げた。
「小さくして手術をするというのが、方針なんだろう」
悠治は手術が当然なことをいう。
「そうなんだけども、手術は嫌なのよ」
「手術を好きな人はいないよ」
「手術をしても治らないで、また抗がん剤治療に入ったり、手術のために体が張ったりで大変そうよ」
「手術で体が一時的にせよ、張るのはどの手術にも言えるだろうよ。問題は、手術をした場合としない場合の違いだよ。手術をすれば、少なくとも一時的にせよ、治まって、再発するなら再発まで、よくない表現だが、時間稼ぎになるわけだろう。再発したら、また治療するしかないだろう。手術しなかったらどうなるか、医者に聞いたか?」
「ええ。患部が膿みを持ち始めて臭くなるって」
「その方がよいって、お前は言うのか?」
「いいえ。その前に何とか治したいのよ」
「治ればいいけれど、そんな簡単に治るわけではないし」
「手術をしても治らないのよ。病院で周りの話を聞いていると、再発する人ばかりなのよ。手術したけれども、取りきれないで、また抗がん剤をうちにきているのよ」
「病院に来るのは、具合のよくない人だよ。具合がよくなったらもう来ないよ。病院ではよくない人の話ばかりになるよ」
「お前はどうしたいんだ」
「分からないわ」
「勝手なこと言っているだけか。具合が特に悪くならない限り、ともかく12回の点滴は続けようよ。手術はまだ先のことにしてよいだろうよ。点滴が終わってすぐ手術にしなくってもよいだろう」
「終わったらすぐ手術なのよ。それがコースなのよ」
「選択は患者が決めることだろうよ。そのとき医者とよく話し合うことだよ」
「そうねえ」

華絵の副作用の新しい症状として、痰が出てきたことと、のどの調子が悪く声がかすれることが現れてきた。風邪なのかと思ったが、熱とか寒気とがなく、頭痛もないことから副作用なのかもしれないと思い、もう少し様子を見ようということにした。
10月の最終の週、華絵は、8回目の点滴から診察日を火曜日に変更してもらった。生協の購入をグループ購入から個人購入に切り替えたところ、配達が月曜日になったので、冷凍品をも購入する故、在宅が必要になったのである。火曜日は、8時半の予約が取りにくく、この日も11時の予約になった。喉の具合がよくないことを医者に言うと耳鼻咽喉科に診てもらいなさいという指示が出て、すぐに紹介状を書いて電話で明日の耳鼻咽喉科の予約を取ってくれた。総合病院の利点である。華絵の点滴の開始時刻は午後2時になり、ゾメタの投入がなくとも眠ってしまって5時に看護婦に起こされる始末であった。
翌日、華絵は約束通り耳鼻咽喉科に行き、診察を受けた。喉に特に異常はないという診断であった。多分抗がん剤の副作用の一つでしょうということで、今はなすすべはない状態だった。副作用の注意に喉の具合まではなかったので、華絵がそれを質すと、耳鼻咽喉科の医師は、抗がん剤の副作用は人によるので、抗がん剤の注意の一般的な書き方では記載されないものがあることを指摘した。特に異常ではないことでよかったのだが、新しい知見は得られず、華絵には副作用を堪えるしかなかった。

11月の1、2日と、華絵は悠治と野尻湖に1泊2日の旅行に出かけた。娘から宿泊券をもらったので、頑張って出かけたわけである。宿泊券をもらった時、折角だから行きたいと思ったが、副作用の手足のしびれを抱えたまま、行けるかなあと心配した。前日に調子悪ければ止めるという悠治の言葉で、様子見していたが、意外と歩けるようなので、出発にした。特急あさまで黒姫まで行き、そこからホテルの送迎バスが来てくれたので、歩くところは最寄りの駅に出る所までで、いつもの病院行きと変わらず、問題なかった。ホテルに着いたのは午後4時少し前で、悠治はそれからホテルのバスで近くの妙高温泉に出かけたが、華絵はホテルのベッドにもぐりこんでいた。ホテルの夕食はご馳走であった。華絵は口内あれのため食欲がそれほどないにもかかわらず、出されたコースのものはすべて食べた。おいしいものだから食欲が出たのか、と悠治にひやかされたが、食事の前によく眠ったせいよ、と返した。翌朝、悠治は相変わらずだが、早く起きて散歩に出たが、華絵は悠治が出て行ったのも戻ってきたのも知らず、眠りこけていた。移動の疲れだろうか。がん患者の疲れではないと自分では思っていた。8時に朝食を摂った後、悠治に誘われるままに、華絵はホテルの下にある野尻湖のすぐ畔まで散歩道を下り、戻りは上るという歩行を小1時間した。こんなに長い時間歩いたのは抗がん剤によるしびれが出てから初めてだったが、大丈夫か、と何度も尋ねる悠治に、華絵は、何とか頑張ればできたわ、と答えた。その日の昼の列車で帰途につき、日が暮れてから東京に戻ったが、しびれを抱えながらといえ、普通に動くことができたと華絵は安堵した。

第2段階の抗がん剤投与は、11月に残りの4回を毎週行うことで終了する。悠治が10月一杯で勤めを辞めたため健康保険証の変更が生じた。悠治は、健康保険証を同じ健康保険組合で任意継続を行うことにしていた。新しい健康保険証を手に入れるには、まず勤めていた会社から所轄の年金事務所に悠治の移動申請を出してもらう。悠治は、悠治の場合の健康保険組合である組合健保に任意継続申請書を提出する。組合健保が所轄の年金事務所から悠治の移動を受理して審査し、悠治に任意継続を可の通知をする。手続きには、2週間から3週間を要するといわれた。その間、華絵は健康保険証がない状態を続けることになり、その対処法を悠治は病院に電話で相談した。健康保険証がない場合、病院は基本的には10割負担で支払ってもらうという。悠治は、1回の支払いが2万円から3万円近くなり、3週3回分では3割負担で7万円になるから、10割負担にすると20万円近くになる旨を病院の会計に伝えた。会計のお姉さんは、支払いも大変だろうが、新しい健康保険証が来たときに清算して返金処理をするのに多額になるのは病院側も面倒なので、新しい健康保険証が手に入るまでは請求金額の内金支払いで対応することにできるということであった。9回目の点滴に当たる11月第1週の火曜日に、その話をするために華絵は悠治に病院に来てもらい、会計のお姉さんと話をつけてもらった。この日は、骨への薬剤であるゾメタを点滴メニューに加えたため、点滴開始が10時だったが、目覚めて終了したのが4時を過ぎていた。請求金額は9万円だったが、内金で3万円にしてもらった。10回目の点滴でも、華絵の支払いは10割請求で内金対応を行った。11回目の点滴の日の前日に、任意継続の健康保険証が届き、華絵はその日に清算を行うことができた。

華絵は毎日、右の乳房の下にあるできものに触ってみるが、この頃そこはできものというよりも凹んできて明らかに抗がん剤の影響が現れた様相になった。小さくなったようであった。悠治にそう告げると、悠治も触って、硬さは変わらない感じだが、凹みになったと言う。
「医者には見せたのか」
「医者は見ないわよ」
「医者は何で判定しているのか?」
「写真よ。最初の若い女の先生は見たけど、それっきりよ」
「写真の方が中の状態を見られて、よく分かるわけだなあ」

華絵の副作用は、相変わらず、口内炎と手足のしびれで、毎日朝寝と昼寝をしてしまう。体を休めるとよいというより、眠ってしまうわけである。足のしびれはふくらはぎとつま先が特にひどく、自分の足でない感覚である。足がふらふらして歩きが覚束なく、あまり歩きたくない。買い物はほとんど悠治が対応してくれる。悠治の買い物は必要なものをメモにして余計なものはほとんど買ってこない。華絵は、たまに自分で八百屋に行って見つくろいたいとき、自転車にする。元々近くのスーパーに行くにも、帰りは荷物があるから自転車を使っていたのでその習慣のままであって、家の周りでは、外を歩くことは、駅に行くこと以外はほとんどなかったのだが。手のしびれは、腕よりも手で、指先がひどく、感覚がない。指先を包丁で切ってしまったこともあった。切ってもあまり痛みを感じないほどだ。ものをしっかりつかめないようで、皿を割るまでは至らないが、ものを落とす回数が増えた。口内のあれは一時ひどかったが、このところ悪くなっていない。食欲は、年齢のせいもあり、量は少なくなっているが、食欲がないということはない。

(翌日に続く)
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小説フリージア -乳がん治療日誌― [第1部] (4)

2014-05-10 08:35:52 | 小説乳がん治療日誌
7月の最終の週の月曜日、華絵は第3回目の点滴を受けるために病院に行った。朝7時半に家を出て、採血の後、8時半にHK医師の診察を受けた。骨のX線検査の結果、頚骨と腰骨に異常があるという写真を見せられた。この日から骨に対する薬剤を追加することになった。薬剤名はゾメタといって、抗がん剤ではないが、カルシウムを補填する働きをして脆くなるのをとめるという骨のがんに対する一つの対症療法という。点滴に時間が30分多くかかり、2時間くらいになった。病院を出るときにひどく疲れを感じた。前の2回の点滴の後に比べて、今回の点滴の後の副作用は一段と強くなった。38度の熱が出たので、もらっていた解熱剤を飲んだ。解熱剤を飲んだのはそれが初めてだった。体全体のだるさ、手足のしびれ、眠気、口内のあれがひどくなった。家では2時間ごとに横になるようになった。前の2回では点滴を受けた後の1週間がつらい状態であったが、今度は2週間経っても回復が遅かった。華絵は、骨の薬剤の追加のせいであろうと思った。悠治は、そんなにつらいのなら、次回は骨の分は止めてほしいと頼んだらどうだとアドバイスした。

第4回目の点滴は、3週間後の8月第3週の月曜日で、華絵はこれまでと同じように7時半過ぎに家を出て、8時半からHK医師の診察を受けた。
「前回の薬は強すぎたようで、体に負担が大変でした。吐き気はありませんでしたが、熱が出たのと、口内のあれがひどく、それにふらふらしてしまって寝ている時間の方が多くなってしまったのですよ」
「解熱剤は飲みましたか」
「ええ、解熱剤で熱は少し下がりましたが、体全体がだるい感じでした」
「骨の薬は重要なんです。やっておいた方がよいですよ。最初は辛いかもしれませんが、慣れますよ」
「でも、もう限界に近いですよ。体力が少し回復したらまた始めることにしてもらえませんか」
「じゃあ、そうしましょう。今日は、ゾメタは止めにしましょう」
HK医師は華絵の要請を聞いてくれた。
これで3週間毎の点滴の第1段階が終了する。次回から、3週間に1回か、1週間毎の点滴かの選択になるといわれた。3週間毎の点滴はドセタキセルという名の薬剤で、1週間毎の点滴はパクリタキセルという薬剤である。副作用は両者とも同様だが、パクリタキセルの方が少し弱い、という説明だった。始めてからは変更できないが、始める直前でも変更できるから、今日決めておいて、次回に始めるまでに変更を要求してもよいということだった。華絵は、副作用が心配で、毎週副作用で悩むより、少し強めでも3週間に一度悩む方がましと思って、ドセタキセルを選択した。華絵は看護婦からパンフレットを渡され、副作用をよく承知するように言われた。副作用の項目は、これまで4回行ったECと同じである。家に帰って、悠治が勤めから戻った時、華絵は新しい薬剤の話を悠治にした。悠治はインターネットで二つの薬剤を調べ始めた。元々はパクリタキセルしかなかったが、1週間毎の点滴では通院が大変であるという患者のためにドセタキセルが開発されたという。悠治の意見は、副作用が大変なのだから、副作用が弱い方がよい、3週間に1回の副作用だといっても、今の華絵の様を見ていると点滴から次の点滴までの3週間はほとんどずっと副作用が消えていないのではないか、仕事があるわけではないから1週間毎の通院は可能だ、ということで、パクリタキセルを勧めた。華絵も、そうねえ、と思い返し始めて、1週間経ってから、変更するわ、と言って、病院に電話をして、パクリタキセルに変更してもらった。

副作用が、ひどくなってきた。4回目の今回は、1回目と2回目と同じで骨への点滴剤は使わなかったはずだが、1週間で回復せず、しびれがだらだらと続いた。これがずっと続くと思うと、もう嫌になるが、自分で選択した治療だと、悠治に言われると、華絵は何も言えなくなる。やってみるしかない。頭髪の脱毛が完全になった。眉毛も薄くなった。がんの痛みというものはない。今の問題は副作用だ。

華絵が乳がんになっていることは、悠治はこれまで子供たちに話していなかった。ここにきて、いつまでも言わずにおくのもなんだからと思って、話しておいた。子供たちの反応は、特に命にすぐ関わることにならないことを告げたこともあり、衝撃を受けた様子はなかった。ステージⅡaなら大丈夫だよ、末の息子は華絵に言いかけるくらいだった。華絵は、すでに華絵の母親に告げていて、母親から華絵の兄弟姉妹に伝わっている。母親は、大らかな人だが、さすがに心配しているようであったが、時々の電話で、華絵は大丈夫よと伝えていた。母親は華絵の家から2時間かかるところに一人で住んでいるので、華絵は7月までは月に一度3、4日間連泊で、身の回りの手伝いをしに出かけていたが、8月になってからは、副作用のしびれがひどくなって歩くのが億劫になっていて、中断していた。母親はそれを承知してくれ、今度はかえって華絵の体を心配する側になっていた。華絵は外出どころかベランダで好きな花の手入れをするのさえ億劫で、ベランダではフリージアが枯れたままになっていた。悠治は、花の手入れは全くしないから、ベランダは荒れた様相であった。華絵は、花を見て和む気力もなくなったわけではないが、手入れをできないというもどかしい思いであった。

抗がん剤投与の第2段階
9月の第2週の月曜日に、抗がん剤投与の第2段階が始まる。華絵は、これまでと同様に、朝7時半に家を出て8時半の予約に間に合わせる。採血の後、HK医師の診断があり、抗がん剤の他に骨に対する薬剤であるゾメタを再開し、4週間に一度のペースで加えることになった。点滴は1時間半余かかったが、睡眠剤を服用したので、そのまま4時過ぎまでベッドで眠りに入ってしまった。病院は5時で終了するから看護婦が揺り起こしてくれた。点滴後の1週間は、これまでの状態と同様な感じで、特にひどくはなったことはないが、少しずつ副作用が蓄積されているようで、手足、特に、手の指先と足の先端とふくらはぎのしびれと、口内のあれには困った。

1週間経った第2段階の2回目の抗がん剤の投与は、月曜が休日だったために翌火曜日になった。採血の後、8時半に医師の診断があり、前回と同様に抗がん剤投与が10時ころから始まる。今回は骨のためのゾメタの投与がなく、睡眠剤の量が少なかったようで、眠りの時間が短く2時半に自分で目が覚めた。それでも家に帰り昼食をとると、すぐにまた横になりたくなってしまう。2時間近く寝るともう夕方で、悠治が帰ってくる。悠治のための夕食ができていなく、悠治は自分でなにかを作ってしまう。華絵が作るものは、遅く帰ってくる息子のためだけのものになり、誰のための飯つくりだ、という悠治の半分あきらめが含まれる声を聞くことになる。

第2段階の3回目の抗がん剤投与の日も、前回と同様に、月曜日が祝日だったために火曜日になった。火曜日は、月曜日の人と元々火曜日の人が混ざり、混雑する日であった。華絵は、いつものように8時半の診察のつもりで病院に行って、機械に診察券を通すと11時の予約というメッセージの紙が出てきて、あれっと、われながら不注意を自覚した。待つには時間を持て余すので、一度家に帰って一休みを入れた。病院まで30分で通える地の利が使えた。2回目と同様に骨への薬剤がない週であったので、睡眠薬が少なく、早めに目覚めることができた。始めたのが午後1時と遅かったので、終了は5時になった。
副作用による体調のつらさは、進行することはあっても、我慢が出来る範囲ではあるが、よくなる方向ではない。華絵の食事は、野菜を主体にするように心がけている。安価で手に入りやすいえのきだけとしめじのどちらかを毎日欠かしていない。悠治はレンコンをよく食べるので、一緒になって食べるようにしている。動物性は魚を主にし、肉は極力控えるようにしている。好きで自分で作っていたヨーグルトは、菌を使うのと牛乳を入れるので良くないと薬剤師に言われたので止めにしている。食べる量は多くない。食欲がないというよりも、口内のあれのために食べるのが嫌になるのである。

第2段階の4回目は、また月曜日に戻った。採血と8時半の医師の診断といういつものコースで、ゾメタはなしの週であった。睡眠剤の量が少なく、開始時刻が早かったせいもあり、午後2時半に終了した。
 
華絵が定期的に飲んでいるサプルメント飲料はがんに効用があるとの触れ込みがあったが、華絵の乳がんにとって回復させるというはっきりとした効果が出ていない。効果がある人は飲む量が半端でなく多いと聞いていたので、自分は少ないせいでがんになったのであろうと慰めていた。自分ががんと診断された今、何とか治さなければならないという思いで、7月からサプルメント飲料を飲む量を大幅に増やした。従来は1日1回30ccくらい飲んでいた量を、1回あたり30ccは変わらないが、1日4回、1日の総量は120ccくらいにした。1週間で1瓶がなくなるペースである。少し安く買える伝手をフルに利用しているが、それでも月の消費金額は2万円近くになった。それで効果のほどは、増殖しないということと副作用に対する抵抗には効き目があると華絵はみている。抗がん剤の副作用の脱毛、口内炎、手足のしびれには悩まされるが、多くの患者が言う、食欲不振、倦怠感、便秘・下痢、白血球異常などは出てこない。華絵は、サプルメント飲料のお蔭で体力的に維持されていると考えている。もう一つのサプリメントであるメシマコブ粉末も続けている。値段が高くてもやめるわけにいかない。他のサプリメントとして、悠治はビタミンCを勧めた。悠治はずっと若いころから、断続的ながらビタミンCの粉末を毎日付属の専用匙で1匙飲んでいた。夏みかんよりも酸っぱく、胃を刺激するので、酒を飲む悠治は、胃のあれの時は時々休んでいた。華絵も勧められて、毎日でないにしても気の付いたときに服用し始めた。ビタミンCの大量摂取療法という何年も前に発行された本を悠治が持っていたが、細かい字で紙が古びてしまっているので、華絵は手に取ることをためらった。最近またそのビタミンCが、がん療法の一つとして挙げられているという。悠治は、自分ががんになっていないから効果はあったのかもしれない、華絵のがんが治れば本物だろう、と冗談めかして言う。ビタミンCは大量に摂取しても不要分は体外に出るので安全であるといわれる。

(翌日に続く)
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小説フリージア -乳がん治療日誌― [第1部] (3)

2014-05-09 10:48:44 | 小説乳がん治療日誌
抗がん剤治療
 入院は1日で、抗がん剤投与の第1回目だけは入院にして状況を見るということであった。2回目以降は通院でよいという。1日入院は、来週の月曜の朝から火曜の朝までになった。その前に、明後日にPET検査に行くことになった。
この日のHK医師の診察はここまでで終了した。次いで、薬剤師が抗がん剤の副作用を説明するので、待つように看護婦から告げられた。間もなく、薬剤師が助手を一人連れて、診察室の隣の小部屋に、華絵らを案内して、パンフレットをもとに説明を始めた。悠治は、一時、入院手続きのために1階にある入院事務室に行って手続きを済ませ、そのあと、華絵の横に座って薬剤師の説明をいっしょに聞いた。抗がん剤は6か月間、点滴により投与される。初めの3か月は、3週間毎で4回、次いで薬剤を変えて3か月行うということであった。第1段階の4回の薬剤は、アントラサイクリン系のエピルビシン塩酸塩にシクロホスファミドを組み合わせるEC療法と呼ばれるもの、第2段階の12週間の薬剤は、タキサン系のパクリタキセルまたはドセタキセルの選択で、投与時間はいずれの場合も約2時間という。薬剤師の説明は、30分以上続いた。エピルビシン塩酸塩の副作用には、吐き気・嘔吐、食欲不振などの消化器症状、発熱、しびれ、脱毛、口内炎、それに白血球の減少が投与の後、数日から数週間にわたって順次現れるという。特に、脱毛が起こること、それにより患者の多くはかなりショックを感じること、鬘を早めに用意することを告げ、鬘の製品パンフレットを用意してきていた。

 華絵は、6月第3週の月曜日、朝10時に病院に行き、入院手続きをしたが、前日用意していた書類を袋ごと家に置き忘れてしまった。病院で新たに書けばよいものは書いてなんとか済ませてもらったが、承諾書の印とかその場で用意できないものがあり、慌てて悠治にメールを送って持ってきてくれないかと頼んだ。悠治は勤めを終えても間に合うようなので、夕方に持って行くことにした。華絵は、前日の夜、悠治に一人で大丈夫かと聞かれて、一人で大丈夫よ、明日の午前には戻るのだから、見舞いも要らないわ、と気楽に言っていたが、とんだことで悠治を煩わせることになってしまった。採血の後、少し待って、午後3時過ぎから第1回目の点滴が始まった。点滴は1時間半くらいで、じっとしているだけであった。夕食が出たが、献立は天ぷらであった。がん患者には油っこいものがあまり良くないのでは、と思ったが、入院患者はがん患者ばかりでないので、それなりの献立にしたのだろう。華絵は子供の頃、盲腸の切除で入院したことがあったが、それ以来なかったので、病院食を食べるのはほとんど初めての経験であった。夕食の後、悠治が封筒を持ってきてくれた。華絵の病室は相部屋で、ベッドのお隣さんは、やはり乳がんの患者で、華絵と同じくらいの年齢で、2回目の入院と言っていた。9時半消灯で、薬剤に睡眠薬が入っていたのだろう、すぐに眠ってしまった。華絵は、この後も何度か抗がん剤を点滴してもらったが、その後は必ずといってよいくらい、自然と眠ってしまい、時には、夕方近くなって、病室をもう閉めるので起きて家に帰るように看護婦に起こされることもあった。

翌朝は、華絵は、疲れもなく、10時に退院した。入院費は当初は10万円を超えるかもしれないという予想で、高額療養費の申請が必要かもしれないと入院の際に窓口の人に言われたが、急な入院だったので、その申請はできずにいた。実際の会計で、6万円台で済んだ。それでも6月度は、通院を含めて総計で10万円を超えたので、悠治は高額療養費の事後申請を加入している健康保険にお願いした。華絵は悠治の被扶養者になっている。悠治は医療保険に入るかどうかを考えたとき、医療の高額支払いの場合は、高額医療費制度があり、支払い金額に上限があることを知った。それがわが身で適用されるとは当時は予想しなかったが、現実となって助かる制度であることをつくづく感じたわけである。

 華絵は、サプリメント飲料の会社から出ているパンフレットの一つから、メシマコブというきのこから取ったサプリメントが効果あるという情報を得て、早速購入した。粉末状で、値段がすごく高かったが、治るならつぎ込んでもいいと思った。悠治には何も言わず、お金は自分の貯金から捻出した。原料のきのこは日本で採れるが、韓国で加工をしている。韓国では抗がん剤として認められているという。抗がん剤と併用して問題ないという情報もあったので、抗がん剤投与と併用してみることにした。結果から言うと、メシマコブで治るところまではまだいっていないが、少なくとも広がらない効果が出ていると華絵は思っている。ただし、値段が高いので、続けるのに大変である。

 第1回目の抗がん剤の投与から1週間経った頃、華絵は副作用をそれほど感じなかった。薬剤師が強調していた脱毛は、2週間目くらいから始まった。薬剤師から鬘は早めに用意しておいた方がよいというアドバイスを受けていたが、華絵はまだ大丈夫だろうとのんびりしていた。帽子は用意していたので、しばらくそれで間に合うと高をくくっていた。悠治からは鬘はまだいいのかと心配されていた。華絵は病院からもらったパンフレットをもとに2軒ほど電話で予約が要るのか、サンプルを見ることができるのかなどを尋ねていたが、一度行ってみないことにはと思っていた。第2回目の抗がん剤投与の日が7月の2週目の予定だったが、その前日、日曜日で悠治が休みであったので、華絵は悠治に鬘を求めに行くので、ついて来てくれるように頼んだ。テレビでコマーシャルが出るウィッグ店では、誂え専用で、その方が安心である、ただし、日数が2週間ほどかかることを言われた。安価な簡便なものと誂えのものと二つ揃えておくと便利です、とも言われた。誂えは確かにフィットするだろうが、準備に時間的にちょっときつくなっている。この1週間にはそろえたいというのが、華絵の希望であった。
「もう1軒、デパートに行ってみるわ。もし、いいのがあったら電話するわ。そのとき割引カードを持ってきてよ」
悠治はまさかデパートに行くつもりはなかったので、悠治が株主であるデパートの株主優待カードを持ってきていなかった。
「じゃ、おれは一度家に戻るよ」
悠治が家に戻り一服もしないうちに、携帯電話が鳴った。
「値段が高いんだけれど、いいかしら」
「基本は誂えにするのでなかったのか」
「出来合いでよいのがあったから、無理に誂えにはしなくてもよいのよ。こちらの方がずっと安いし。一つあれば安いのを余分に買うこともないわ」
「あうわけか?」
「あうって?」
「フィットするのかという意味」
「合うわよ。私の好みの髪型になっているのよ」
「そういえば、今日見ていたのには、あんまり好みに合うのがないと言っていたなあ」
悠治は株主優待のカードで1割引になるという華絵の所望の鬘の支払いに、割引カードと途中で銀行に寄っておろした現金を持ってデパートに向かった。行きがけに大雨が降ってきてしばらく雨宿りしたので、デパートへの到着は華絵の電話から小1時間要した。鬘は仕上げを行うのに半日を要するということで、華絵は明日取りに来ることにし、支払いは手付金だけにした。

 翌月曜日、華絵は朝7時に家を出て、8時半の予約に間に合うように病院に行った。採血の後、HK医師の診察があった。3週間前のPET検査の結果が出ていた。骨に異常があるという診断で、翌日X線検査を受けるように言われた。診察の後、第2回目の点滴を受ける。点滴の開始は11時で、1時間半近くかかった。この日は、頭の脱毛がひどく進行し、もう鬘なしでは見苦しい状況になってきた。華絵は病院の帰りにデパートの鬘の店により、鬘をセットしてもらった。悠治が残金を払いに勤めの帰りに鬘の店に立ち寄ると、ちょうど華絵のセットが終わるところであった。鬘の店の店員のおばさんが、昨日よりも急に脱毛が進みましたね、と悠治にこっそり話しかけた。点滴の1回目からちょうど3週間経過で、薬剤師の言う通りであった。華絵が受けた副作用では、このときは、脱毛のほか、眠気と口内のあれがひどくなっていた。吐き気はなく、食欲がないというより口内のあれのために食べたくないという状況であった。朝は元々早い方でなかったが、悠治が家を出る7時半には起きられなくなり、始業時間の遅い息子の朝食の8時にやっと間に合うくらいになった。昼間も眠くなると横になるといつの間にか1、2時間眠ってしまっていた。
華絵は、続いて火曜日も病院に行き、骨のX線撮影を受けた。結果は、3週間後の3回目の点滴の際の診察で教えてくれるとのことであった。

(翌日に続く)
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