芭蕉庵跡地に建つ芭蕉稲荷と記念碑 芭蕉庵跡、記念碑
【1692年(元禄 5年)】
芭蕉が、この句を詠んだ深川の草庵の所在は、隅田川と小名木川が合流する川のほとりである。芭蕉が江戸に下ってしばらく居を構えていた日本橋界隈から見れば、この地は川向こうの新開地といえる。なぜ、突然の転居を選択したのか? 俗世間から逃れたいためだったのか、侘び寂びを求めた故なのか、理由は謎に包まれたままではあるが、幕府の出入りの魚商を営んでいた門人の杉風(さんぷう)が所有していた、生簀の番小屋を庵として提供したものといわれる(参考:編・尾形仂 芭蕉ハンドブック株式会社三省堂)。この草庵は、天和2年(1682年)に駒込方面から出火した江戸大火によって焼失したり、元禄2年には他人に譲渡したり、芭蕉が旅に出ないときには借家住まいも幾たび数えたとのことであるが、結局は、元禄5年に門人の杉風(さんぷう)、枳風(きふう)、岱水(たいすい)等の尽力によって旧庵の近くに、新芭蕉庵が再建されたわけである。そして、この草庵は2年後に江戸を離れるまでの住まいとなり、句会、門人来訪の場となったわけである。元禄5年、秋9月。元禄2年に門人となり、めきめき頭角を現していた膳所の酒堂(しゃどう)が、 俳諧修行の悩みを抱えて芭蕉庵を訪れたのである。その後、この芭蕉庵にしばらく逗留し、芭蕉の教えを受けていた際に、嵐蘭、岱水を加えた4人で詠んだ四吟歌仙の句が、「青くても 有るべきものを 唐辛子」なのである。「秋になってきたこの時期、草庵の庭には、青かった唐辛子が赤く色づいて生えている。唐辛子は青いままでも良いものだし、自然と赤くなっていくものなのだ」(校註:今栄蔵 芭蕉句集 株式会社 新潮社)。酒堂の若さ故の青さを、赤くなる唐辛子に例え、酒堂の焦りを巧みに諭した一句である。何事にも探究心 と好奇心の旺盛であった芭蕉は、赤唐辛子とは趣きを異にする、青唐辛子の辛さと風味を十分に認識しており、この発想が生まれたという逸話を耳にすると、妙に納得してしまうのである。ところで、江戸の唐辛子といえば、まず内藤トウガラシ(八房とうがらし)が思い浮かぶのであるが、芭蕉が深川の草庵の庭で一句詠んだ唐辛子は? 青い唐辛子の持つエネルギーを捉えて、芭蕉がこの句を詠んだのであれば、真っすぐに天に向かって房状に伸びていく内藤トウガラシ(八房とうがらし)? それが、草庵の庭に生えていたということは、この頃には唐辛子は普通に見かける、一般的な存在になっていた? 時は、元禄5年。内藤清牧(きよかず)が、信州高遠藩主(初代)を拝命、内藤トウガラシが栽培されていたとされる内藤家下屋敷(現在の新宿御苑)とは別に、神田・小川町に上屋敷を賜った翌年のことである。
芭蕉稲荷
◎このblogは、内藤トウガラシの歴史等の調査過程でまとめたものです。現在も調査継続中であり、内容の一部に不十分・不明確表現等があります。あらかじめご承知おき願います。To Be Contenue ・・・・・。