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ベリーダンススタジオ★☆★ぱわふるマドンナ★☆★ 主宰・坂口せつ子 

ベリーダンスにヨガ、深層美容術、トータルであなたの人生をサポートします。新しい自分を再発見してみませんか。

すてきな命 vol.59

2007-04-14 21:55:10 | すてきな命
 おじいちゃんは、六人の子供達がお見舞いに来ると、痰を取る穴に器具を入れてもらい「原山に帰る」と繰り返し、やっとの思いで言っていた。子供達は、その命の叫びをまともに聞かず、「わかったよ、今、タクシーを呼んだから」などどウソを言って、「じゃあ、また来るよ」と言って帰っていった。

 私が交通事故で首の骨を折り、寝たきりで一ヶ月過ごした時、二人部屋の隣のベッドのおじいちゃんは、家に帰って死にたいとずっと訴えていた。私は隣のおじいちゃんの様子をうかがいながら話しかけた。おじいちゃんは、のどに穴を開けていたので声を出せなかったが、私の問いかけに是か非かを答えていた。手術をしたおなかから毎日コップ一杯の膿が出ていた。ある日、家政婦さんが、おじいちゃんに優しく「おやすみ」と声をかけ、電気を暗くし、付き添い者の簡易ベッドに横になった時、おじいちゃんはウチワで顔をあおいだ後、全身の管を抜いた。

 医者や看護婦がバタバタとしていたが、そのまま帰らぬ人となった。私は、自分の父はこんな死に方は絶対にさせないと心に誓った。私が三十三歳の時のことだ。この二年後に父は逝った。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年5月)

せつ子は「すてきな命が輝くまちづくり」を目指しています。
せっちゃんの明るい「かきくけこ」

すてきな命 vol.58

2007-04-14 21:54:31 | すてきな命
 イラクでたくさんの人が死んだ。Aさん(五十一歳)は「アテルイ」という千二百年前の勇気ある若者のアニメ映画の話をしてくれた。朝廷軍の侵略に、命を賭して闘ったアテルイ率いる蝦夷(えみし)たちの物語。

 このアテルイは、「おたがい失った命の数だけ憎しみが増える。大和の王に会って。俺たちと大和で平和に暮らせる方法を話し合いたい」と投降し、戦さを終わりにすることを決意し、そして、蝦夷の人たちに涙と共に見送られるというストーリーだ。岩手県の人たちが制作した。

 Aさんは、この映画を多くの人たちに観てもらいたいと言っている。千二百年前の歴史から学び、これ以上戦争で人が死んだり、傷ついたりしないように、立場をはっきりしなければならない。

 「蝦夷・アテルイの戦い」の著者・久慈力さんの本は、もう五版増刷されるほど売れているという。Aさんは「すべての武器を楽器に」と歌っている喜納昌吉さんのコンサートや、大地が種を選ぶという砂漠の緑化の粘土団子の福岡正信先生の講演会、長倉洋海さんのアマゾンの写真展などを企画し、公開してきた。これからの時代をどう生きるか、Aさんの祈りは続く。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年4月)

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すてきな命 vol.57

2007-04-14 21:53:56 | すてきな命
 三十四歳の彼女は、素直な心と輝いた目で私と話をする。子ども時代に裕福に育ち、中学校一年の時、父の会社が倒産、家を出て、母は途方にくれながらも、居酒屋を始めた。さみしさと苦労があってか、母は酒に溺れていった。そんな中、出会った男性と結婚をした母と共に、その男性の家で生活することになった彼女は、ある日、階下の物音で、あわてて降りると倒れている母と、威嚇しているその男が立っていた。母は、何度もケガをするような暴力にあいながらも、耐えていた。

 ある時、骨を折るケガをした母を病院に背負っていった彼女は「もう絶対にあの男の元へ母を帰さない」と決めた。「母は私が守る」そう決心した。彼女「Kさん」は、高校時代からアルバイトをした。疲れて学校へはあまり行かなかった。ある日、最も生徒に恐れられている先生に呼び出された。職員室の片隅に座らされた彼女に、先生は「お前は両親にすばらしい環境をもらっている」「強く生きなければならない環境だ。ガンバレ」そう言ってくれた。Kさんは涙が止まらなかった。

 「子供が親を支える」。Kさんがこんなに人間愛に満ちた目をしているのは、こんな先生の存在もあったからだと私は思う。Kさんと私は未来のたくさんの夢を語り合った。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年4月)

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すてきな命 vol.56

2007-04-14 21:52:22 | すてきな命
 十六歳の時から思い続けてきた人に、二十歳の時に花束を送った。家具職人として一人前になる決意をした時だったので、思いを心の奥に秘めたまま、二十三歳で正式にプロポーズして結ばれた。看護士の妻が、三年前にくも膜下出血で五十一歳の若さで、突然逝った。「今までありがとね、お父さんまだ若いんだから、私が死んだらまた結婚してね」と言い残し、次の日、病院で仕事中に倒れたという。

 そんな堀越一美さんは、その後、三年間、仕事以外は家に引きこもってしまったという。最近、私のスタジオに「運動をしたいんです」と通い始めた。二人の娘さんに外に出るようにいつも言われていて、帰りに必ず奥様の話になる。話をしながら涙ぐむ。ある時は「今そちらに向かっているのですが、胸が痛いので運動はどうしようかと思うのですが」と電話が入った。私は「恋の病ですか」というと「そうなんです」という。「ではスタジオに来て私の愛犬でもなでてて下さい」「そうします」。結局堀越さんはエアロビをして帰り、その後電話を下さった。「女房を思いだしてしまって」。

 こんなにも愛し愛される夫婦は、先に死んでも後に死んでも「幸せな」夫婦そのものだ。一人の人と添いとげる人生もスバラシイ。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年3月)

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すてきな命 vol.55

2007-04-14 21:15:32 | すてきな命
 私が十二歳だった。小学校まで四キロの帰り道、私は左側に一年生の女の子と手をつなぎ、右側を行儀良く歩いていた。突然、目の前に小型トラックが向かって来た。車は私の右腕をかすり、倉庫の木壁を削りながら、私たちの後ろにいた小学校四年生の「妙子ちゃん」を巻き込み、引きずり、反対側の川へ落ちた。私の目の前で、妙子ちゃんの頭から血が噴き出し、見える両ももが赤紫に腫れていった。生死をさまよう日が三日間も続いたことを、久々に実家に帰った私は、あの日から三十八年過ぎた昨日、実家の近くに住む妙子ちゃんの口から初めて聞いた。二人でその時のことを涙ながらに話した。

 事故の後、私は遠い病院へ歩いて行き、妙子ちゃんの部屋の外に立ちすくんでいた。私にできることは何も無かった。ある日、妙子ちゃんのお母さんが部屋から出てきた。私を見て泣いた。私は、その涙で、もうここには来てはいけないと思い、それから行くのを止めた。昨日、その涙は、私のことを心配しての涙だったことを知った。運命のいたずらの中で、何かにつかまりながら歩く妙子ちゃんは、和裁を習い、結婚をし、男の子を二人産み、お母さんの助けも借りて育ててきた。「せっちゃん、また来てよ」と穏やかな笑顔で言った。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年3月)

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すてきな命 vol.54

2007-04-14 21:11:25 | すてきな命
 人は、より良い人生を求め、一大決心をし、困難に立ち向かえる時がある。二十代で一人スペインに旅立ち、国立ホテル学校に入るため、二度三度、学校長に直訴に行き、入学を許され、三年間学んだ。帰国後、スペイン料理教室と、一般に向けて料理を提供した。私は知り合いとスペイン料理をいただき、皿にへばり付いたものまでスプーンできれいに取り、食べてしまった。そのことを「とてもうれしいことです。ありがとう」と言ってくれた。十八年前のことだ。

 昨年、私のことを覚えていてくれて、本欄を読んで電話をくださった。おばあちゃんの味のおまんじゅうを三年研究し、実家で実父のお世話をしながら、そのおまんじゅう店を始めたという。私が彼女の料理をいただいた十八年前の後、幸せな結婚をし、夫の許しの上で実家に帰してくれた。おまんじゅう発売に向けて、全国のおまんじゅうを夫婦で食べ歩き、研究旅行をしたという。

 「上州はるなのみさとまんぢう」と名付け、料理の生徒さんの描いてくれた包み紙のおまんじゅうをいただいた。小豆は片品産、小麦粉も無農薬群馬産、生真面目な轟まさ江さん五十四歳のおまんじゅうは、彼女の愛の味がした。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年2月20日)

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すてきな命 vol.53

2007-04-14 21:10:38 | すてきな命
 T・M・ホフマンさん、米国出身。アメリカを離れて三十年になる。世界の音楽を研究し、特に、日本とインドの音楽を愛し、日印音楽交流会を設立した。インドには六年間滞在し、インド古典音楽を学んだ。日本には十八年滞在し尺八や琴を研究している。

 より深く、日本音楽を知るために、中国を通じてインド音楽を研究する楽しさ、奥深さ、ロマンを私たち日本人に伝えることに使命を感じている。ただ、私たち、日本という所で生まれた人間が、それを理解することが意外に難しいことを私なりに知った。ホフマンさんのレポートの中で、「日本語は多様な文字風景が目で楽しめるのに対して、発音は極めて少ない。金田一春彦によると日本語で使われている音節は百十二だけで、北京語は千二百、インディ語は二万余りの音節が発音されている」とのこと。私は知り合いの中国人に「花」を中国語で歌ってもらった。カラオケのカタカナの発音でない音節がいっぱいだ。

 ホフマンさんはインドと日本を拠点に世界中で演奏や講演、CDの制作、出版を続けている。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年2月6日)

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せっちゃん事務所のようす

2007-04-14 21:10:25 | (おまけ)
ちょっと前の スタジオの前の桜です★


スタジオの周りは、今花盛りです♪




坂口せつ子事務所の看板、セキチューでペンキを買って手作りしました


入り口は、せっちゃんの描いたベリーの絵があります


県会議員の橋爪さんに激励をいただきました。
(ここだけ選挙事務所っぽい?)


自転車です。明日から、これで市内を回ります!!


さいごに
せっちゃん事務所のお留守番のバン君です


坂口せつ子事務所は JA片岡店とコーヒー豆の三貴屋さんの間です。
みなさん、よろしくお願いします♪




すてきな命 vol.52

2007-04-14 21:09:29 | すてきな命
 高崎駅で友達ファミリーと待ち合わせをした。大きな荷物が四つ。中には自転車が入っていた。小学校四年生の息子さんと、その両親、そして私はその自転車を持って新幹線に乗った。長野県佐久平まで三十分。駅前に降り立った。そのお父さんは、四台分の自転車を手際よく組み立てていった。お母さんと息子さんが手伝いながら。そして自転車に私達四人は乗り、出発。途中、コンビニエンスストアでおにぎりと飲み物を買った。

 旧道を通って田口峠へ向かった。大きな家、白い塀の家並み、歴史あるその通りは、自転車で走ることが楽しい。美しい空気を思い切り吸える。少しずつ上り坂になっていく。息子さんが一番、お母さん、私、お父さん。離れたり追い越したり、自転車を押して歩いたり、すばらしい運動量だ。峠の上に着いた。雨川ダムがあった。そこで一休み。お父さんが皆のブレーキを整えて、坂道を一気に下った。

 家族や友達にこんな経験をさせてくれた西野宏さん、いつもは奥様と共にお医者さんをやっている。東海道のローカルラインも自転車で走った経験がある。歴史を振り返りながら古い道路を走る楽しさを教えてくれた。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年1月23日)

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すてきな命 vol.51

2007-04-14 21:08:52 | すてきな命
 私はまだ中国に行ったことがない。一三〇億とも、一五〇億とも言われている中国の人口、そして、日本の何十倍も広い大陸。

 「曽令富」さん。心象浪漫水墨画家。日本に留学し、そして日本で仕事をし生活をしている愛娘二人のもと、高崎で、二度目の個展を昨年十二月に開いた。二人の娘が翻訳パンフレットを作り、通訳し、作品の説明をしてくれた。

 中国には五十以上の少数民族がいるという。四千年の歴史上の中国四代美女や「仕女飛天」「唐宮楽技」「歴史人物」「神仏仙人」などなど。私は中国の歴史や文化にひたり、この個展で、いっきに中国に好奇心を持った。曽令富さんの作品には中国の詩や説明が絵といっしょに描かれている。力強いロマンあふれる男たち、美しく健康的な舞う女性、愛あふれる母子、三峡ダムが造られることによって変化してしまう景色。その説明を聞いていると中国語を勉強したくなってしまった。自分の生まれ育った文化を大切にし、他の国の文化や生活習慣を謙虚に学ぶ。世界のリーダーがそうであって欲しいと思う。娘さんに重慶の名物「火鍋の元」を頂いた。とてもからくておいしかった。
(坂口せつ子)

(高崎市民新聞2003年1月9日)

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