86歳の助産婦、岡部先生。桐生助産院という名前だったと思う。私は、4人目の赤ちゃんの出産で入院したが、先生の手を借りずに、ベッドの横で生まれてしまった。先生は「せめて洗濯でもさせておくれ」と、夜中に一生懸命、手洗いで私の汚れ物を洗ってくれていた。
岡部先生には身体の不自由な妹さんがいた。その日は雨。先生は妹さんのお世話のために家に帰り、そして助産院へ戻る途中での交通事故だった。頭を強く打って、意識が戻らず、うわごとで助産院の赤ちゃんのミルクのことを言いながら、二日後に帰らぬ人となった。私はお産の翌日に退院していたが、その直後のことであった。ご葬儀は私が赤ちゃんを産んでから五日後だった。岡部先生が取り上げた赤ちゃんは1万人以上になるだろう。その先生が最後にへその緒を切り、産湯に入れてくれた赤ちゃんを私はだっこして、先生に最後の別れを告げた。
戦中戦後、激動の時代を生きられた先生。日本中が貧しいとき、お金の無い妊婦さんを何百人となく、心配するなと助けてくれた人。天職を生き抜いた群馬のマザーテレサ岡部先生。あの時の赤ちゃんは、今は18歳の青年になりました。
(坂口せつ子)
(高崎市民新聞 2001年2月15日)
岡部先生には身体の不自由な妹さんがいた。その日は雨。先生は妹さんのお世話のために家に帰り、そして助産院へ戻る途中での交通事故だった。頭を強く打って、意識が戻らず、うわごとで助産院の赤ちゃんのミルクのことを言いながら、二日後に帰らぬ人となった。私はお産の翌日に退院していたが、その直後のことであった。ご葬儀は私が赤ちゃんを産んでから五日後だった。岡部先生が取り上げた赤ちゃんは1万人以上になるだろう。その先生が最後にへその緒を切り、産湯に入れてくれた赤ちゃんを私はだっこして、先生に最後の別れを告げた。
戦中戦後、激動の時代を生きられた先生。日本中が貧しいとき、お金の無い妊婦さんを何百人となく、心配するなと助けてくれた人。天職を生き抜いた群馬のマザーテレサ岡部先生。あの時の赤ちゃんは、今は18歳の青年になりました。
(坂口せつ子)
(高崎市民新聞 2001年2月15日)