今日は、午前中、お葬式の導師を勤め、その足で、午後から津中日文化センターへ向かいました。
今日の「親鸞の生涯とその思想」では、「造悪無碍(ぞうあくむげ)と賢善精進(けんぜんしょうじん)」についてお話ししました。
造悪無碍(ぞうあくむげ)とは、「阿弥陀仏は、悪人を目当てに救うのだから、悪いことをすればするほど救われる」という考えです。言うまでもなく、間違った考え方です。
賢善精進(けんぜんしょうじん)は、「念仏者であっても、やはり善いことをしなくてはいけない。善いことをすればするほど救われる」という考えです。まっとうな考え方にも思われますが、これも親鸞聖人の教えから言えば、間違った考え方です。
実は、これらは、方向こそ反対ですが、どちらも同じ考え方となっています。
造悪無碍:自分が悪いことをすればするほど救われる
賢善精進:自分が善いことをすればするほど救われる
どちらも、自分が何かすることで、救われる、と考えています。
しかし、阿弥陀仏は、私たちが何かするから、救ってくださるのではありません。
阿弥陀仏は、何かをしたから救うのではなく、ただ、あなたを救いたいのです。
最初っから、「ただ、あなたを救いたい」、それだけなのです。
ただ、そのためだけに、阿弥陀仏は永遠に近い時間、修行に修行を重ねられたのです。
そのまんまのあなたを救うために。
だから、「何かをすればするほど救われる」と考えるのは間違いなのです。
でも、そこまで思ってもらっていることに、私たちは、なかなか気づけません。
気づけない私たちであることも、阿弥陀仏はお見通しで、だからこそ、お念仏という声になって、私たちに「あなたを必ず救う。絶対見捨てない」と呼びかけられていらっしゃるのです。
そのことに気づかされたなら、申し訳なくて、悪いことなどしたいとは思わなくなります。でも、それなのに、善いことができなかったり、悪いことをしてしまう自分です。その自分に、阿弥陀仏は「だからこそ、私があなたを救う」とおっしゃるのです。
自分で自分を救うことができる私なら、阿弥陀仏は私を救おうとは思いません。自分で自分を救えない私であるから、阿弥陀仏は、この私をこそ、救いたいと願われるのです。
本当に、申し訳ないことです。南無阿弥陀仏。
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