人格障害の専門家である牛島定信医師は、菅原道真や源義経は人格障害だったといっている。
確かに、学問や軍略に優れていても政治的には下手ばかり打った彼らは、周囲から見れば度し難い困ったちゃんだったかもしれない。
それで私は御霊信仰とも関係があるかもしれないと思った。身もふたもない説明をすれば、非業の死を遂げた「困ったちゃん」は本来は自業自得の面もあるが、困ったちゃんであるがゆえにその自覚がないので、尋常でない恨みを抱き、生者に祟る、それを鎮めるという面が御霊信仰にもあるのではないかと私は思っている。
丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』でも、赤穂浪士の討ち入りが御霊信仰に基づくものであることが記述されているが、たしかに、浅野内匠頭は、癲癇気質で発作で刃傷沙汰を起こしたという説に信憑性があり(この正月の東京テレビの長時間ドラマ『瑤泉院の陰謀』はそういう仮説に基づくもので、多くの忠臣蔵が内匠頭=名君という図式なのに比べ、リアリティのある設定だった。井上ひさし『不忠臣蔵』やつかこうへい『つか版忠臣蔵』もこの点は同様)、だからこそ、祟りが怖かったともいえるのではないか。つまり、彼も困ったちゃん=人格障害だったということだ。
そうすると、三大浄瑠璃の主人公は、時代も立場も全く違うが、みな人格障害の困ったちゃんで、その鎮魂が必要という御霊信仰が三大浄瑠璃の成立にも影響していると考えると面白い。
三大浄瑠璃といえば、先月の仮名手本忠臣蔵の通し狂言に続き、今月は義経千本桜の通し狂言を歌舞伎座で見てきた。
後者は、2003年2月に見て以来、4年ぶりで、前回は、吉右衛門の知盛、団十郎のいがみの権太がいずれもはまり役だったが、今年は幸四郎の知盛、仁左衛門の権太だった。狐忠信が菊五郎なのは共通。
仁左衛門の権太は友達が「線が細くて似合わない」といっていたが、私はなかなか良いと思った。仁左衛門はTVドラマ『わるいやつら』で珍しい悪役と話題になった上川隆也の役を映画版でやったり、1991年の大河『太平記』の後醍醐天皇役など、映画やTVでばかり見ていたが、権太の隈取は写楽の役者絵そのもので花があった。だが、息子片岡孝太郎がお里というのはあまりにひどい。
芸はいいのかもしれないが、可憐さというのが全然伝わらない。
どうして父があんな美男なのに子供が…。娘の片岡京子(『渡鬼』の今小林綾子がやっている役は最初は彼女がやっていた)も、鐘下辰男演出の『サド侯爵夫人』などの舞台は良かったけど、鼻が低すぎで横顔がかわいそうである。
菊五郎の忠信は安定したお家芸だが、4年前に比べるとやはり動きに切れがなかった。
歌舞伎は久しぶりに見たがチケットが高価な割りに、文楽に比べ芸の完成度が人によって違いすぎる。やっぱり贅沢は慎もうと思った。
それと、パルコ劇場やシアターコクーンでは決してないことだが、観客のマナーが悪すぎる。開演中でも私語をしているおばさんたちが必ずいるのが何とかならないのかといつも思う。