忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

悲劇の琴姫~小督の局

2012年04月08日 | 歴史を歩く

       悲劇の琴姫~
    小督の局

平家物語に登場する小督につていは、春を待つ嵯峨野(1)で少し触れた。
小督は「禁中一の美人、雙びなき琴の名手」(平家物語巻第六)であったという。
時の帝、高倉天皇が、寵愛していた葵の前を失い悲しみに伏せているのを見かね、中宮の徳子(後の建礼門院)が自らの侍女の小督を帝の許に差し向けた。
天皇は小督を気に入り寵愛するようになる。
しかし、徳子の父は平清盛である。
自らの娘を高倉天皇の中宮に据え、徳子の生んだ子を帝位に即かせ、その外戚として権勢を思いのままにする野望をいだく清盛にとって、天皇の愛情が小督へ注がれるのを疎ましく思うのは当然である。
かくて、小督は清盛の怒りを憚り、嵯峨野の奥へと身を隠した。
しかし、小督を恋う高倉天皇から小督を連れ戻すよう命じられた弾正大弼源仲國は、小督が隠れ住む嵯峨野をくまなく捜し廻ったあげく、大堰川のほとりで、やっと小督の弾く想夫恋の琴の音で小督の住まいを見つけ、高倉天皇の許に連れ戻した。

 

今回は、その後の小督である。
小督は櫻町中納言藤原成範の娘で、信西の孫にあたる。
信西は周知の如く保元の乱で政治の実権を握り、権勢を欲しいままにしたが、次第に反信西の動きが高まり、やがて平治の乱が起きて、信西は破れて獄門に首を晒される。
子の成範も父の罪に連座して下野へと流されたが、後に許されて中納言に昇進し、
後白河院の近臣に取り立てられる。
しかし、後白河院と清盛が次第に政治的な溝を深めていく中で、櫻町中納言の立場は、院の寵臣であるだけに、その政治的な立場は微妙であったに違いない。
小督が後宮を去って嵯峨野に身を隠したのも、父中納言の清盛への憚りがあったのかもしれない。
高倉天皇の命で局に連れ戻された小督は、やがて天皇の第二皇女範子内親王を産む。
しかし、間もなくその事が清盛の耳に入り、小督を宮中から追い、東山の清閑寺で出家させる。(源平盛衰記巻第二十五)。
皇女を産んだ小督を、清盛は自らの野望を危うくする存在に思えたのであろう。
しかし、小督を失った高倉天皇は悲しみ伏せ、やがて崩御し、その亡骸は遺言によって小督の住む清閑寺山の後清閑寺稜に葬られた。
小督が清閑寺で出家してからの消息ははっきりしない。
出家後すぐに嵯峨野の奥へ隠棲したとの説もある。
しかし、出家後の小督はそのまま清閑寺に一尼として留まり、そこで高倉天皇の菩提を弔って暮らしたのとではなかろうか。

清閑寺は京都東山区清閑寺歌の中山町にある。
清閑寺への道はいくつかあるが、清水寺の境内を抜けていくのが分かりやすい。
境内を子安の塔へと向かい、その近くに南へ抜けるゲートがある。
それを抜けると、「歌の中山」、と呼ばれている小道へと出る。
  
 

その曲がりくねった小道を歩いて行くと、やがて左手に「清閑寺稜、後清閑寺稜参道」と刻まれた石票と「清閑寺」と刻まれた二本の石標が立つ脇道がある。

 

その脇道を上っていくと、やがて目の前の視界が開け、正面に高台に清閑寺が、左手に御陵が見えてくる。

 

御陵は六条天皇の清閑寺稜と高倉天皇の後清閑寺稜で、宮内庁の職員の説明では、目の前に見えているのが高倉天皇陵、その脇の階段を上っていった奥に六条天皇の陵墓があり、上、下に同じような形の二つの陵墓が祀られているとのことである。
下の高倉天皇の陵墓の脇に小督の墓があると伝えられる、残念ながら中へ入ることは許されないので確認のしようがない。
御陵の向かいに清閑寺への石段がある。

 

現在の清閑寺は高台に立つこじんまりとした寺院である。
観光寺院ではないので拝観客の姿も少ない。

 

境内には小督の供養塔が立っている。
谷を隔てたすぐ向かいは阿弥陀ヶ峰、

 

そして境内にある要石から東の谷間に広がる京都の市街が遠望できる。

   

高倉天皇が崩御し、それを追うように清盛も死ぬ。
そして、そのわずか2年後の寿永2年(1183に、東国から攻め上る源氏の大軍に追われ、平氏一門は自らの館に火を放ち、一門こぞって西国へと都落ちをしていく。
その後の平家は、一の谷、屋島、太宰府と、西海を流浪するが、寿永4年(1185)に壇ノ浦の戦いに敗れ、一門ことごとく滅び去る。

黄泉にあって、清盛は、自らの孫の安徳天皇が娘(建礼門院)と妻(二位の尼)に抱かれ壇ノ浦の早鞆瀬戸に身を沈める、一門の栄華の結末をどんな思いで見たであろうか。
片や、墨染めの身の小督は、こうした浮き世の流転の有様を、清閑寺にあって黄泉の清盛とは、また別の思いで見守っていたに違いない。

清閑寺の目の前に聳える阿弥陀ヶ峰は、古代には鳥辺山と呼ばれ、山の東裾野の一帯は鳥辺野と呼ばれる葬送の地であった。
清閑寺の要石の東に見下ろす市街は、他ならぬかつての鳥辺野、そして今や平氏一門の館が甍をならべる治外法権の地、六波羅なのである。
小督が、清盛に追われ、髪を切らされたその頃は、その六波羅の奢りの絶頂期であった。
清閑寺の小督は恐らくは悲しみと諦めの心でその栄華の甍の群れを見下ろしていたに違いない。
しかし、そのわずか7年後、栄華を極めた平家一族が、自ら放った火によって、その館という館がことごとく紅蓮の炎に包まれる光景を、小督はどのような思いで見下ろしたことであろうか。

小督が産んだ高倉天皇との子、範子内親王は、猫間中納言藤原光隆の七条坊門の邸で育てられ、治承2年(1177年)、2歳で斎宮に選ばれて斎院御所(紫野院)に入る。
皇女にとって、斎宮は聞こえの良い島送りである。
しかし、高倉天皇の崩御により斎宮を辞し、その後平氏が滅亡した政治の流れの大きな変化に伴い19歳の時に准三后の宣下を、さらに22歳のとき、土御門天皇の即位に伴い、その准母として准母立后でその皇后となる。
そして30歳で院号の宣下を受けている。世に坊門院と喚ばれるのがその人である。

不運の生を授かった我が娘が、その後の政治の大きなうねりの中で、准母から准母立后へと、思いもしない幸運に恵まれる運命の数奇を、しっかりと自分の目で確かめ、安堵の思いをその胸に小督は再び嵯峨野へと帰って行ったのではなかろうか。
明日は嵯峨野へ、というその夜に、焼け落ちて廃墟となりはてた六波羅の地を見下ろしながら小督がひく琴糸は、さぞかし諸行無常の音を奏でたであろう。

 


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