忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

琵琶湖疏水を歩く(1)~蹴上げ 

2012年04月14日 | 琵琶湖疏水を歩く

                琵琶湖疏水を歩く(1)
                   蹴上げ

京都盆地は三方を山に囲まれ、四方から大小の河川が流れ込む。
豊かな地下水脈もあって水に恵まれ土地である。
千年の都はこの豊富な天然水によって人々の生活が維持されてきたのである。
今も京都は至る所に名水が湧く井戸がある。
しかし、自然の水脈はどうしても天候に左右されやすく、衛生の面からも、維新後の京都が近代都市として発展を遂げるためには、衛生管理の行き届いた上水道の確保が不可欠であった。
加えて、維新によって政治の中心が京都から東京へと移るに従い、政治、経済、文化のあらゆる面での地盤沈下と人口の減少、特に産業の停滞の危機にさらされていた。
こうした現状を打開し、京都の産業の振興と沈滞した民衆の意識を昂めようと計画されたのが琵琶湖そすいの計画であった。
もともと、京都は近江の海、琵琶湖と極めて近い地理的関係にあり、京都の中心部と琵琶湖の水面との間には約40メートルの標高差がある。そのため、東山がなければ琵琶湖の水は自然に京都へと流れ落ちる地勢にある。そのため、琵琶湖から都へ水を引く構想は古くからあった。
しかし、そこに横たわるのは東山の障壁をどうやって抜くかという技術的な問題であった。
この大きな課題を克服し、京都の街へ琵琶湖の水を導く疎水を造ろうと計画したのが、京都府の第3代知事、北垣国道であった。
彼は琵琶湖から京都まで導水路を開鑿し、それを水運や飲料水としても利用すれば、京都の産業の振興に繋がり、雇用の場も広がると考えたのである。
しかし、維新からまだ十数年という土木技術の未熟な時代のことである。それは実現そのものが危ぶまれる程の難しいプロジェクトであったにちがいない。
彼はそのとてつもない難工事を西洋人技師の手を借りることなく、日本人の手で成し遂げようと考えたのである。
勿論、その実現を危ぶむ者も多く、さまざまな見地からこれに反対する意見の少なくなかった。
彼はこうした反対を押し切り、琵琶湖疏水計画の調査を南一郎平(福島県の安積疎水の主任技師)に依頼し、土地測量を島田道生に依頼した。
そして、工事の主任技師として工部大学校(現、東京大学工学部)を卒業して間もない田邊朔郎を雇い入れた。採用当時、田邊はまだ21歳の若さだったという。大きな土木工事は、すべて外国から招聘した外人技師の手で行われていた時代のことである。
さまざまな紆余曲折を経て、第1疏水の工事は明治18年(1885)に着工された。
田邊は大学で学んだ知識とアメリカ視察で得た知見に自らの創意と工夫を加え、当時としては最先端の工法を採用した。
大津の三保ヶ崎の取水口から蹴上げまでには第1~第3の3つのトンネルがあり、中でも2436メートルという当時日本最長の長柄山の第1トンネルは、まず2本の竪坑を掘り、そこから東西の双方向へ同時に掘り進むという日本で初めての工法を採用した。工作機械などほとんどない当時のこと、工事をほとんど人力で進め、使われる資材もダイナマイトとセメント以外は、煉瓦の一枚、一枚まですべて自らの手で焼いてこれを賄い、電気が通じていない真っ暗な坑道の中はカンテラの灯りに頼って手探りに近い状態で工事を進めたという。
こうした疎水工事の苦労を記録した貴重な資料の数々が、今も、南禅寺船溜まりの畔にある琵琶湖疏水記念館には数多く保管され公開されている。
かくて、大津の取水口から鴨川出会いまでと、蹴上げから分線して北上する疎水分線の工事は明治23年(1890)に完成し、通水試験が実施された。長年の夢であった琵琶湖と都とが一つの疏水で結ばれたのである。水運、水利、発電の諸設備も、その後、順次整備され実用化されていった。
さらに第2疏水が明治41年(1908)年に着工され、取水口から蹴上げの合流点まで、第1疏水にほぼ平行し、その全線を掘抜きトンネルとコンクリートの埋め立てトンネルで工事が進められ、明治45年(1912)に完成し、2本の疏水は蹴上で合流した。
琵琶湖疎水は時の経過に伴い改修や変更の手が加えられてきており、その用途も当時と現在とではかなり変わって来てはいるが、平成の現在でもまだ現役で有形、無形の機能を果たし、京都市民だけでなく、京都を訪れるすべての人にさまざまな恵みを与えている。

これまで断片的ににしか歩いたことのない琵琶湖疏水を、私はこれから何回かに分けて歩き、琵琶湖から水が取り入れられるところから、取り入れられた水がその使命を果たし終えるまでを、自らの足で歩き、この目でそれを確かめ、平成の今を生きる者にとっての「琵琶湖疎水とは何か」を考えてみたい。
今回はその旅の第1回で、琵琶湖疏水の要となる「蹴上げ」を歩いた。

大津から3つのトンネルを抜けてきた琵琶湖の水は第3トンネルを抜けると第2疏水の水と合流し、蹴上げ船溜りに導かれる。写真では分からないが第1疏水の出口洞門には三条實美筆の「美哉山河」の石額がはめられている。

 

水路脇の煉瓦造建物は旧九条山浄水場ポンプ室。
現在、蹴上げ船溜りの一部は公園になっていて多くの人の憩の場を提供している。

 

琵琶湖から第1疏水を下ってきた船は、ここで船台に乗せられインクラインで南禅寺船溜りまで下され鴨東運河を伏見へと漕ぎ下っていった。
逆に伏見から漕ぎ上ってきた船は、南禅寺船溜りで船台に乗せられてインクラインで蹴上げ船溜りまで引き上げられて第1疏水で3つのトンネルをくぐり抜けて琵琶湖へと向かう。
インクラインは上下する2つの船台(船を運ぶ台車)を一本の鋼索で繋ぎ、動力を使って同時に上げ下げするという、いうなら船のためのケーブルである。その高低差は36メートルである。
そのための動力にも疎水で発電した電気が使われた。
このインクラインを使った船便は、貨物便、客便ともに、当初は随分利用されたようだが、その後の鉄道や道路輸送の発達に伴って貨物便、客便ともにその利用が激減していき、昭和26年を最後に船便そのものが廃止された。
インクラインの鉄路は今も原状保存されており、両側に植えられた桜はかなりの老木になってきているが、今も春になると開花し、多くの花見客を楽しませ、京都の観光名所の一つになっている。

 

インクラインで使われていた船の台車は、今も、蹴上げ船溜りと南禅寺船溜りで一台つづつ保存展示されている。

  
 
琵琶湖疏水の水は京都市の蹴上、新山科、松ヶ崎、山ノ内の各浄水場で現在も使われている。
下の写真は蹴上げ浄水場で、インクラインと三条通(旧東海道)を隔てた向かいにある。

  

琵琶湖疏水を利用する市営の水力発電は蹴上げ、夷川、伏見にそれぞれ設置されたが、現在も関西電力が現役で使用している。そのうち蹴上げ発電所は三条通と仁王門通が交わる粟田口鳥居町にある。
これらの発電所で発電された電力は京都市内の電力使用に使われたほか京都市電の動力としても使われた。

  

疎水記念館には蹴上げ発電所で4号機として使われていたスタンレー社製の二相交流発電機と、発電機を動かすために使用されていたベルトン式水車1台が展示されている。

 

なお、疏水記念館には田邊朔郎が講演で疎水工事を進めいた頃の貴重な影像がその肉声と共に保存、公開されている。
また蹴上げの疎水公園には田邊朔郎の顕功碑と立派な銅像がある。また工事の立案した京都府の第3代知事北垣国道の銅像は夷川船溜り脇の京都市水道局疎水事務所の敷地に立っている。

 
    


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