忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

琵琶湖疏水を歩く(4)~安朱橋から第3トンネル山科側まで 

2012年04月30日 | 琵琶湖疏水を歩く

                琵琶湖疏水を歩く(4)
             安朱橋から第3トンネル東口(山科側)まで

安朱橋を過ぎると山科運河は南へゆるやかにカーブし、

 

やがて安祥寺川を立体交差で越える。

 

洛東高校を過ぎると流れは南に、そして北にとゆるやかに蛇行を始める。

 

安祥寺、護国寺を過ぎた辺りから運河は大きな弧を描くようにして南へと向かう。

 

やがて今度は北へと流れの向きを変えていく。

 

しばらく歩くと、左手(南)に陵墓独特のコンクリート塀が続き、
前方に朱塗りの橋が見えてくる。
陵墓は天智天皇陵、朱塗りの橋は本圀寺への参道入り口である。
本圀寺、正確には大光山本圀寺。日蓮宗の大本山である。
本圀寺はもと六条堀川(西本願寺の北並び)にあったが、
昭和44年にこの地に移転した。

 
 

本圀寺を過ぎるとやがて前方に11号橋(黒岩橋)が見えてくる。
本邦最初の米蘭(メラン)式コンクリート橋である。
鉄柵による保存工事が施されてはまだそのままでも使用可能な状態である。

 

第2トンネルはすぐ目の前である。
トンネル東口の洞門石額は少し判読しづらくなっている。
四文字の二行だが、右から縦読みに「仁似山悦、智為水歓」書かれているのだそうである。
井上馨の筆になる。
第2トンネルは124メートルと第1疎水のトンネルの中で一番短い。

 

遊歩道で山を越えるとトンネル西口から疎水が再び姿を現す。
第2トンネル西口洞門の石額は、
西郷従道筆の「随山到水源」である。
第2と第3トンネルの間の距離は近い。
トンネルとトンネルに挟まれるようにして
新山科浄水場の取水池がある。

 

取水池を過ぎると第3トンネル東口が待ち受ける。
ここで第1疎水は最後のトンネルの旅に入る。
洞門東口の石額は松方正義の筆になる「過雨看松色」である。

                             

第3トンネルを出ると、そこは(1)で書いた「蹴上げ船溜り」である。

今回、山科運河を歩いて実感したことがある。
琵琶湖疏水の計画が持ち上がった時、山科の住民の一部から強い反対の声が上がったことが資料から窺える。
今回、山科地区の疏水を歩いてみて、住民が反対した理由が、その説明を聞くまでもなく良く分った。
疎水は山科盆地の北の山裾を北に南に小さく大きくうねりながら蹴上げに向かって流れていく。
その水路敷は市街の中心部と較べ約40メートルの標高差があるである。
場所によっては、わずか土手一枚を隔て、民家の屋根を見下ろすようにして疏水は流れている。
「土手が破れれば山科が琵琶湖になる」
住民がそう心配したのを取越苦労と笑って済ますことは出来ない。
現に昭和5年1月には天智天皇陵の付近で堤防の決壊事故が起きている。
京都市水道局は、今も、断続的に疎水堤防の補強工事を行っている。

人間の自然に対する挑戦は、それがもたらす利便と危険とが常に表と裏の関係で相伴い、それは時としてその主従の地位を譲り合いながらも、両者は遂に袂を分かつことががない。


琵琶湖疏水を歩く(3)~第1トンネル藤尾側(西口)から安朱橋まで 

2012年04月27日 | 琵琶湖疏水を歩く

                琵琶湖疏水を歩く(3)
             第1トンネル藤尾側(西口)から安朱橋まで

大津市の長等山の第1トンネルに入った琵琶湖第1疏水は、同市藤尾奥町でトンネルを抜け、
再び地上に姿を現わす。
藤尾運河である。
写真は第1トンネル藤尾側の洞門で、
煉瓦造りの洞門の上部に山縣有朋書の「廓其有容」の石額がある。

 

トンネルを出た疏水はしばらくは真線に流れ下り京都市山科区へ入り、
山科運河となる。

 

藤尾橋をすぎた辺りから疎水はゆっくりと蛇行を始める。

疎水の蛇行は山裾を縫う地形的な関係もあるようだが、そればかりではなさそうだ。
疎水は写真のような狭い水路を上り下りの船が水面を譲り合ってすれ交うのである。
琵琶湖へと向かう船は疏水壁面に張られたロープをたぐったり、水主が犬走り伝いに船をロープで引っ張って進むことになるのだが、琵琶湖から流れ下る船は水の流れに船をゆだねていれば自然と目的まで運ばれていく。
疲れた身体に居眠りはつきものだ。
しかし、一つ間違えば船同士の接触で大事故になりかねない。
疎水の蛇行は地形、舟航の安全、景観のすべてを考慮の上の設計者の苦心の証なのである。

山科区へ入った疎水はその両側のベルト地帯が「東山自然緑地」に指定され、
第3トンネルの入り口までの数キロにわたって遊歩道が整備されている。

 

一燈園を過ぎた辺りから前方に船溜りらしきものが見えてくる。
諸羽トンネルである。

 

諸羽トンネルはJR湖西線の整備の工事で昭和45年に新しく設けられた第1疎水4番目のトンネルである。
トンネルは520メートルと短く、入り口の奥に出口が見えている。
新しいトンネルであるため、煉瓦ではなくコンクリート造りで石額もない。

 

諸羽トンネルが出来るまでは疏水はトンネルではなく山裾を迂回して蛇行していた。
トンネルが完成し、元の疎水路は埋め立てられて自然緑地の一部となった。緑地の中を走る細い排水溝が水路の名残を止めるている。
山際にはアーチ型のコンクリートの構造物が無造作に置かれている。
説明版によると、これは第2疏水の建設工事に従事する作業員のため上部構造の複製を造ってその技術の習得させるのに役立てたものだと書かれている。

 

自然緑地は野良猫の天国らしく、あちこちに猫が遊んだり、昼寝をしたり。
人が近づいても逃げる気配はさらさらない。大きな猫だ。
髭でも引っ張ってからかおうと手を差し出すと「ギョロッ」と怖い目で睨み返す。
びっくりして思わず手を引っ込めてしまう。
ここの猫は怖いのだ。

 

旧疏水跡に沿って山裾を迂回するとやがて諸羽トンネルの出口が現れる。

 

トンネルを抜けると疏水は再び東へ向かって蛇行を始める。

 

やがてその先に安朱橋が見えてくる。

 

ちなみに、「安朱」の地名のおこりは、この地が山科郷の安祥寺村と朱雀村の2村からなっていたのを、後にこれを併合して安朱村と呼ばれるようになったという。
安朱橋を北に上ると有名な毘沙門堂、山科聖天がある。
南に下ると諸羽神社がある。この地の産土神である。
写真は諸羽神社である。

 


琵琶湖疏水を歩く(2)~第1トンネル大津側(東口)まで

2012年04月21日 | 琵琶湖疏水を歩く

                琵琶湖疏水を歩く(2)
             取水口から第1トンネル大津側(東口)まで

第1琵琶湖疏水の取水口は京阪電鉄京津線の浜大津駅から国道161号線を西に約500メートル、大津市三保ヶ崎にある。
取水口への導水溝を渡る新三保ヶ崎橋の欄干には「第一疏水」のプレートがある。
取水口は閘門への導水路と取水口(3つ並んだ海老茶のアーチ)とが別れている。

 
 

第2疏水の取水口は大津市観音寺にある。
第1疏水から約50メートルの所にある尾花川橋が渡るのが導水溝である。
欄干には「第二疏水」のプレートがある。

 
                               

第2疏水は取水口を入るとトンネルに入る。蹴上げまで地下の水路を流れる。
取水口から取り入れられた第1疏水の水は大津運河となって京阪石山坂本線の線路がその上を跨ぐ。
石山坂本線の三井寺駅のすぐ近くである。

 

写真左の前方、右の手前に写るのが鉄橋で、その下を疏水が流れる。
三井寺駅の踏切を渡り、疎水沿いの道を山に向かって少し歩くと第1疏水の閘門がある。
閘門は疏水に出入りする船の水位を調整するために前後2つの鉄扉で区切られた水門である。
閘門の鉄扉は手動で操作されていた(写真下)。
舟運が廃止された今は本来の用途に使われることはない。
取水口から取り入れられた水は閘門を迂回して合流して一本の疏水となる。

 
                                   

閘門を過ぎた水は第1トンネルのある長等山に向かって桜のトンネルを流れ下る。
疎水沿いの道は長等山向かって登り勾配であるが、大津運河は逆に長等山に向かって流れ下る。
大津運河である。

 

やがて第1疎水の水は長等山の第1トンネルへと入る。
 疏水開鑿にあたっては下流の住民から洪水を心配する声が上がり、その対策としてトンネルの入り口には水を遮蔽する鉄扉が設けられた。

 

周辺には観光名所が多い。
長等山園城寺(三井寺)は天台寺門宗の総本山である。
寺歴は古く、天智・弘文・天武天皇の勅願により大友与太王が建立したと伝えられる。
「園城」の名は天武天皇から賜った勅額に由来するという。
西国三十三ヶ所の第14番札所である。
比叡山の延暦寺と同じ天台宗門の寺であるが、智証大師円珍が延暦寺を下りて園城寺の初代長吏となって天台宗門としての寺の礎を築いたが、円珍の死後、延暦寺では円仁派と円珍派が争うようになり、円珍派がすべて山を下りて園城寺に入って以来、山門(延暦寺、円仁派)と寺門(園城寺、円珍派)の間で抗争が起きた。
「山門寺門の抗争」と呼ばれるのがこれで、度重なる抗争はやがて僧兵を誕生させる。

 
  

写真上左が仁王門、上右は金堂である。
鐘楼(下左)の鐘は「三井の晩鐘」で知られ、日本三名鐘の一つである。
三井の晩鐘の鐘は弁慶の引摺り鐘(下右)と同じ形で、重さも同じ(600貫)だという。

唐院(大師堂、潅頂堂、三重塔)のある一画は中心伽藍の一つである。
写真下左は唐院、右は潅頂堂と三重塔。

 

観音堂(下左)は西国14番札所になっている。
境内の展望台からは浜大津港一望(下右)でき、売店では三井寺名物の力餅が買える。

 

この他にも疏水の周辺には、
三尾神社、

 

長等神社などがある。

                                  

かつては疏水の開鑿にともない三井寺の霊泉の水が枯れるという公害問題も生じ、京都市はその対策に追われたという歴史もあったようだが、今では疏水はここ大津でも周囲の環境にしっかりと溶け込み、なくてはならない観光資源の一つにもなっている。

浜大津港からは琵琶湖南湖を周遊する観光船ミシガンが出航する。

 


琵琶湖疏水を歩く(1)~蹴上げ 

2012年04月14日 | 琵琶湖疏水を歩く

                琵琶湖疏水を歩く(1)
                   蹴上げ

京都盆地は三方を山に囲まれ、四方から大小の河川が流れ込む。
豊かな地下水脈もあって水に恵まれ土地である。
千年の都はこの豊富な天然水によって人々の生活が維持されてきたのである。
今も京都は至る所に名水が湧く井戸がある。
しかし、自然の水脈はどうしても天候に左右されやすく、衛生の面からも、維新後の京都が近代都市として発展を遂げるためには、衛生管理の行き届いた上水道の確保が不可欠であった。
加えて、維新によって政治の中心が京都から東京へと移るに従い、政治、経済、文化のあらゆる面での地盤沈下と人口の減少、特に産業の停滞の危機にさらされていた。
こうした現状を打開し、京都の産業の振興と沈滞した民衆の意識を昂めようと計画されたのが琵琶湖そすいの計画であった。
もともと、京都は近江の海、琵琶湖と極めて近い地理的関係にあり、京都の中心部と琵琶湖の水面との間には約40メートルの標高差がある。そのため、東山がなければ琵琶湖の水は自然に京都へと流れ落ちる地勢にある。そのため、琵琶湖から都へ水を引く構想は古くからあった。
しかし、そこに横たわるのは東山の障壁をどうやって抜くかという技術的な問題であった。
この大きな課題を克服し、京都の街へ琵琶湖の水を導く疎水を造ろうと計画したのが、京都府の第3代知事、北垣国道であった。
彼は琵琶湖から京都まで導水路を開鑿し、それを水運や飲料水としても利用すれば、京都の産業の振興に繋がり、雇用の場も広がると考えたのである。
しかし、維新からまだ十数年という土木技術の未熟な時代のことである。それは実現そのものが危ぶまれる程の難しいプロジェクトであったにちがいない。
彼はそのとてつもない難工事を西洋人技師の手を借りることなく、日本人の手で成し遂げようと考えたのである。
勿論、その実現を危ぶむ者も多く、さまざまな見地からこれに反対する意見の少なくなかった。
彼はこうした反対を押し切り、琵琶湖疏水計画の調査を南一郎平(福島県の安積疎水の主任技師)に依頼し、土地測量を島田道生に依頼した。
そして、工事の主任技師として工部大学校(現、東京大学工学部)を卒業して間もない田邊朔郎を雇い入れた。採用当時、田邊はまだ21歳の若さだったという。大きな土木工事は、すべて外国から招聘した外人技師の手で行われていた時代のことである。
さまざまな紆余曲折を経て、第1疏水の工事は明治18年(1885)に着工された。
田邊は大学で学んだ知識とアメリカ視察で得た知見に自らの創意と工夫を加え、当時としては最先端の工法を採用した。
大津の三保ヶ崎の取水口から蹴上げまでには第1~第3の3つのトンネルがあり、中でも2436メートルという当時日本最長の長柄山の第1トンネルは、まず2本の竪坑を掘り、そこから東西の双方向へ同時に掘り進むという日本で初めての工法を採用した。工作機械などほとんどない当時のこと、工事をほとんど人力で進め、使われる資材もダイナマイトとセメント以外は、煉瓦の一枚、一枚まですべて自らの手で焼いてこれを賄い、電気が通じていない真っ暗な坑道の中はカンテラの灯りに頼って手探りに近い状態で工事を進めたという。
こうした疎水工事の苦労を記録した貴重な資料の数々が、今も、南禅寺船溜まりの畔にある琵琶湖疏水記念館には数多く保管され公開されている。
かくて、大津の取水口から鴨川出会いまでと、蹴上げから分線して北上する疎水分線の工事は明治23年(1890)に完成し、通水試験が実施された。長年の夢であった琵琶湖と都とが一つの疏水で結ばれたのである。水運、水利、発電の諸設備も、その後、順次整備され実用化されていった。
さらに第2疏水が明治41年(1908)年に着工され、取水口から蹴上げの合流点まで、第1疏水にほぼ平行し、その全線を掘抜きトンネルとコンクリートの埋め立てトンネルで工事が進められ、明治45年(1912)に完成し、2本の疏水は蹴上で合流した。
琵琶湖疎水は時の経過に伴い改修や変更の手が加えられてきており、その用途も当時と現在とではかなり変わって来てはいるが、平成の現在でもまだ現役で有形、無形の機能を果たし、京都市民だけでなく、京都を訪れるすべての人にさまざまな恵みを与えている。

これまで断片的ににしか歩いたことのない琵琶湖疏水を、私はこれから何回かに分けて歩き、琵琶湖から水が取り入れられるところから、取り入れられた水がその使命を果たし終えるまでを、自らの足で歩き、この目でそれを確かめ、平成の今を生きる者にとっての「琵琶湖疎水とは何か」を考えてみたい。
今回はその旅の第1回で、琵琶湖疏水の要となる「蹴上げ」を歩いた。

大津から3つのトンネルを抜けてきた琵琶湖の水は第3トンネルを抜けると第2疏水の水と合流し、蹴上げ船溜りに導かれる。写真では分からないが第1疏水の出口洞門には三条實美筆の「美哉山河」の石額がはめられている。

 

水路脇の煉瓦造建物は旧九条山浄水場ポンプ室。
現在、蹴上げ船溜りの一部は公園になっていて多くの人の憩の場を提供している。

 

琵琶湖から第1疏水を下ってきた船は、ここで船台に乗せられインクラインで南禅寺船溜りまで下され鴨東運河を伏見へと漕ぎ下っていった。
逆に伏見から漕ぎ上ってきた船は、南禅寺船溜りで船台に乗せられてインクラインで蹴上げ船溜りまで引き上げられて第1疏水で3つのトンネルをくぐり抜けて琵琶湖へと向かう。
インクラインは上下する2つの船台(船を運ぶ台車)を一本の鋼索で繋ぎ、動力を使って同時に上げ下げするという、いうなら船のためのケーブルである。その高低差は36メートルである。
そのための動力にも疎水で発電した電気が使われた。
このインクラインを使った船便は、貨物便、客便ともに、当初は随分利用されたようだが、その後の鉄道や道路輸送の発達に伴って貨物便、客便ともにその利用が激減していき、昭和26年を最後に船便そのものが廃止された。
インクラインの鉄路は今も原状保存されており、両側に植えられた桜はかなりの老木になってきているが、今も春になると開花し、多くの花見客を楽しませ、京都の観光名所の一つになっている。

 

インクラインで使われていた船の台車は、今も、蹴上げ船溜りと南禅寺船溜りで一台つづつ保存展示されている。

  
 
琵琶湖疏水の水は京都市の蹴上、新山科、松ヶ崎、山ノ内の各浄水場で現在も使われている。
下の写真は蹴上げ浄水場で、インクラインと三条通(旧東海道)を隔てた向かいにある。

  

琵琶湖疏水を利用する市営の水力発電は蹴上げ、夷川、伏見にそれぞれ設置されたが、現在も関西電力が現役で使用している。そのうち蹴上げ発電所は三条通と仁王門通が交わる粟田口鳥居町にある。
これらの発電所で発電された電力は京都市内の電力使用に使われたほか京都市電の動力としても使われた。

  

疎水記念館には蹴上げ発電所で4号機として使われていたスタンレー社製の二相交流発電機と、発電機を動かすために使用されていたベルトン式水車1台が展示されている。

 

なお、疏水記念館には田邊朔郎が講演で疎水工事を進めいた頃の貴重な影像がその肉声と共に保存、公開されている。
また蹴上げの疎水公園には田邊朔郎の顕功碑と立派な銅像がある。また工事の立案した京都府の第3代知事北垣国道の銅像は夷川船溜り脇の京都市水道局疎水事務所の敷地に立っている。