琵琶湖疏水を歩く(4)
安朱橋から第3トンネル東口(山科側)まで
安朱橋を過ぎると山科運河は南へゆるやかにカーブし、
やがて安祥寺川を立体交差で越える。
洛東高校を過ぎると流れは南に、そして北にとゆるやかに蛇行を始める。
安祥寺、護国寺を過ぎた辺りから運河は大きな弧を描くようにして南へと向かう。
やがて今度は北へと流れの向きを変えていく。
しばらく歩くと、左手(南)に陵墓独特のコンクリート塀が続き、
前方に朱塗りの橋が見えてくる。
陵墓は天智天皇陵、朱塗りの橋は本圀寺への参道入り口である。
本圀寺、正確には大光山本圀寺。日蓮宗の大本山である。
本圀寺はもと六条堀川(西本願寺の北並び)にあったが、
昭和44年にこの地に移転した。
本圀寺を過ぎるとやがて前方に11号橋(黒岩橋)が見えてくる。
本邦最初の米蘭(メラン)式コンクリート橋である。
鉄柵による保存工事が施されてはまだそのままでも使用可能な状態である。
第2トンネルはすぐ目の前である。
トンネル東口の洞門石額は少し判読しづらくなっている。
四文字の二行だが、右から縦読みに「仁似山悦、智為水歓」書かれているのだそうである。
井上馨の筆になる。
第2トンネルは124メートルと第1疎水のトンネルの中で一番短い。
遊歩道で山を越えるとトンネル西口から疎水が再び姿を現す。
第2トンネル西口洞門の石額は、
西郷従道筆の「随山到水源」である。
第2と第3トンネルの間の距離は近い。
トンネルとトンネルに挟まれるようにして
新山科浄水場の取水池がある。
取水池を過ぎると第3トンネル東口が待ち受ける。
ここで第1疎水は最後のトンネルの旅に入る。
洞門東口の石額は松方正義の筆になる「過雨看松色」である。
第3トンネルを出ると、そこは(1)で書いた「蹴上げ船溜り」である。
今回、山科運河を歩いて実感したことがある。
琵琶湖疏水の計画が持ち上がった時、山科の住民の一部から強い反対の声が上がったことが資料から窺える。
今回、山科地区の疏水を歩いてみて、住民が反対した理由が、その説明を聞くまでもなく良く分った。
疎水は山科盆地の北の山裾を北に南に小さく大きくうねりながら蹴上げに向かって流れていく。
その水路敷は市街の中心部と較べ約40メートルの標高差があるである。
場所によっては、わずか土手一枚を隔て、民家の屋根を見下ろすようにして疏水は流れている。
「土手が破れれば山科が琵琶湖になる」
住民がそう心配したのを取越苦労と笑って済ますことは出来ない。
現に昭和5年1月には天智天皇陵の付近で堤防の決壊事故が起きている。
京都市水道局は、今も、断続的に疎水堤防の補強工事を行っている。
人間の自然に対する挑戦は、それがもたらす利便と危険とが常に表と裏の関係で相伴い、それは時としてその主従の地位を譲り合いながらも、両者は遂に袂を分かつことががない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます